story8 私の世界 8

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 だいじょうぶ。
 心配しないで。
 私はいる、ここにいる。
 だからだいじょうぶ。
 ね、泣かないで。
 泣かないで。

 何かあたたかいものが、リィナを満たしていた。どんなときでも、リィナを癒してくれる優しい光。生きていく糧をくれる、大切な光。
 立ち止まるわけにはいかない。
 気づいてはいけない。
 歩き続けなければ。
「あら、気づいたわね」
 見下ろしていたのは、赤い髪の少女だった。莉啓の主だという、悠良という名の高貴な少女。何が起こったのか、どういう状況なのか判断がつかず、リィナは眉根を寄せる。まだはっきりとしない視界に入る景色に、安堵した。自分の部屋だ。いつの間に寝てしまったのか、どうして悠良が見守っているのか。
 手を持ち上げようとして、気づく。悠良がリィナの手を握っていた。
「……なに?」
 不快そうに目を細める。悠良は特に表情を変えず、手を離した。
「そうね、そろそろ安定してきたみたいだから、離してもいいわ。あなた、どうして自分がこうして寝ているのか、わかる? 思い出してみなさい、順番に、ひとつずつ」
「…………」
 リィナは答えられなかった。それでも、悠良が回答を口にする様子はなかったので、そのまま考える。彼女はさっさと手を離し、リィナからはもう興味をなくしたとでもいうように、視線をはずしてしまっていた。
 順番に、ひとつずつ……──自室の天井を眺めながら、いわれたとおりに、リィナは記憶をさかのぼった。
 外に、出たはずだった。濃い闇の中、仕事のために。それともあれは夢だったのだろうか。だれかに会ったような気がする。けれど、気のせいかもしれない。
 空はもう明るい。窓の外が白いという事実に、漠然とした不安を覚えた。どっちが現実?
「失礼」
 ノックの音に、びくりとした。数秒の間の後、扉が開かれる。
 莉啓が銀のトレイを手に、部屋に入ってくる。目覚めたリィナをちらりと見るものの、そこに感情は生まれなかった。淡々と、ベッド脇のテーブルにカップを並べる。二つ。両方にホットミルクを注いだ。
 リィナは、あたりまえのように無言でカップを手にする悠良と、無表情で隣に控える莉啓に、小さな違和感を覚えた。もう一人、足りない気がする。そうだ、最初に会ったときには、三人だったはずだ。
「呪われていると」
 莉啓が口を開いた。リィナは現実に引き戻されたような思いで、数度まばたきをした。聞こえた声に、身体を起こす。もう眠くはないのだ。身体が重いが、そんな状況ではない。
「……いっていましたね、リィナさん。それは、なぜ?」
 莉啓はまっすぐに、リィナを見ていた。
 リィナは全身の細胞が萎縮するのを感じた。まるで、すべてを見透かされているようだ。
 いつのまにか、悠良もリィナを見ている。
 とっさに、リィナは答えた。
「冗談よ。呪われてなんて、いないわ」
 すべるように、言葉が出る。莉啓も悠良も、表情を変える気配はない。
「あなたと親密だった男性が、ひとりは亡くなり、もうひとりは襲われた……彼が死ななかったのは、翠華が動いたからだけど、そうでなかったら死んでいたわ。あなたの愛した人が、他にもたくさん、大変な目に遭ってるわね。いったい何人の方が亡くなったのかしら」
「愛した人?」
 その一言がひどく癪に障り、リィナは鼻を鳴らした。愛した人、などと、笑いを通り越して、ただただ不快だ。
「バカいわないでよ。あたしが誰を愛したっていうの。愛してなんていないわ、仕事の相手でしょう」
「そう、だからこそ、彼らは襲われた」
 淡々と、莉啓が告げる。
 リィナは目を見開いた。
 彼女自身、何かに気づこうとしていた。けれどそれは、決して気づいてはいけないことだ。思い当たってはいけないことだ。
「……襲った犯人に、心当たりは?」
「あたしがやったのよ、せんぶ!」
 とっさに答えた。
 考えるよりも早く、言葉が出ていた。
 もし、知らないなどといったら。自分はやっていないといったら。
 思考が追いつかない。それでも、避けなければならない。危険からはできるだけ遠ざからなければ。やったのは自分だ、自分がやった、あいつを襲った、あの男を殺した、あいつらの命を奪った──
 それでいい。
 それでいいはずだ。
 間違ってなどいない。
「そう、ならあなたは犯罪者ね。いまからでも出頭なさい」
 世間話のようにさらりと、悠良がいう。
 リィナは目眩がした。
 それではいけない。自分は選択を誤ったのだろうか。
 自分が罪人として裁かれたのでは、本末転倒だ。
 せめて、せめて、あと少し。
 ──身体の内部に、熱いものが生まれた。
 それは、憎しみに似た感情だった。
 じゃまだ。
 こいつらは、じゃまだ。
 いじめるんだ。
 こいつらは、イラナイ……!
「で、都合が悪くなったら、僕らみんな排除するって? それはどうかなあ。この四人相手じゃ、君が返り討ちだよ。ま、それでも僕はかまわないんだけどね」
「────っ?」
 いつの間にか、翡翠色の衣服に身を包んだ青年が、部屋の壁によりかかって、リィナを見ていた。手には、小さな笛。笛の音が蘇った。その笛の音を、リィナは知っていた。
「やってみる? いいけど、俺もがんばっちゃうよ」
 その隣には、長い棒を持った、怜という名の少年もいた。
 リィナの鼓動が、煩いほどに早くなっていく。このままではいけないと、危険を知らせる。
 けれど動けない。
 どうすればいいのか、わからない。
「ついでに、ロキアさん──ああ、警護団のおじさんね──から、伝言。この屋敷の所有権はある人物に移って、新しい持ち主があなたの滞在を許可しているので、出て行く必要はないですよ、とかなんとか、そういう趣旨」
 軽い口調で、怜が言葉を投げてくる。
 リィナは頭を抱え、彼の言葉を脳内で繰り返した。何度も何度も。意味を理解するには、気が遠くなるほどの反芻を要した。脳がうまく働かない。考えられない。
 屋敷の所有権が移った、ということは、だれかがこの屋敷を買ったということだ。
 いったい誰が。リィナにはまったく覚えがない。だれもリィナの元に交渉に来ていないし、第一、それに見合う金銭だって受け取った覚えがない。
「私が買ったのよ、リィナ=エヴァンスさん。エヴァンスの正式な後継からね」
 悠良の言葉。心が震えた。正式な後継……それが誰なのか、リィナは知っている。自分ではない。けれど、自分だ。だからここにいる。泥棒などではない。あの人の意志に従ったまでだ。間違ってなどいない。
「どうしてよ。ここはあたしの家よ。あたしとあの人の家よ。だれから買うっていうの、どうしてあたしの許可もなく、あんたがこの家を買ったなんて……!」
「あなたの家じゃないわ。まだわからないの」
 悠良の目が、まっすぐにリィナを射抜いた。彼女は怒っているようだった。
「エヴァンスさんの遺言は、こうよね──『エヴァンスの財産は、生まれゆく我が子に与える』……そうでしょう、リィナさん。でもそれは実現しなかった。宙に浮いたエヴァンスの財産は、とっくに親戚の皆さんの手に渡っていたわよ。あなた、不法滞在だったの。正真正銘のね」
 体内で、何かが揺れた。
 でもそれは実現しなかった──悠良の言葉が、脳裏で繰り返される。
 宙に浮いたエヴァンスの財産。
 実現しなかった遺言。
 生まれゆく我が子に。
 我が子に。
 我が子に。
「返して……」
 リィナは悠良の両肩をつかんだ。静かな怒りをたたえる悠良の瞳に、懇願した。
「返して、この家を返して。住むところがなかったら、この子はどうやって生きていくの。お金だって、もっともっと、たくさん必要なのに。生きていくには、お金がいるのに。家までなかったら、どうしようもないじゃない! 返して! この子の生きていく場所を、奪わないでよ!」
 しかし、悠良は答えなかった。
 その場にいる全員が、黙っていた。まるで静かに、リィナを促すかのように。
 リィナは首を振った。
 それは、気づいてはいけない。
 たったひとつの、大切な大切な願い。 
 どうか、元気に生まれて、幸せになって欲しいと。
 それだけだ。
 たった、それだけのことだ。

 それは、そんなに大それた願いだったのだろうか。






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