story8 私の世界 9
あなたは光。
あなたは愛。
──その声に、リィナは気づいていた。
とっくに、知っていた。
けれど、鈍感なふりをしていた。認めなかった。
認めてしまったら、立ち止まってしまう。
生きていくことなど、できなくなってしまう。
あなたは夢。
あなたは世界。
泣きたくなるぐらい優しい声が、いつだってリィナを包んでいた。
だから幸せでいて、とささやく声。笑っていて、と慈しむ声。
あなたは、私の世界。
あなたが、私の世界。
けれどそれは、リィナにとっても同じだった。
存在を知ったときから、それこそがリィナのすべてだった。
あの人も喜んでくれた。それからすぐに亡くなってしまったけど、生まれゆく、まだ見ぬ我が子を、全力で愛してくれていた。
あの人の分まで、と思った。
愛し方など知らないけれど。
それでも、愛せると思った。
愛しい愛しい、大切な、子。
どうか、泣かないで。
悲しまないで。
笑っていて。
生きて。
生きて。
生きて。
「そうやってあなたが認めないことが、その子をここに縛り付けた」
莉啓が、リィナを見下ろしている。
だれもが、リィナを見ている。
まるで光をまとっているかのような、ひどく美しい彼らを、リィナは順に、ゆっくりと見た。どこか現実離れした姿。最初に惹かれたのも、心のどこかで、わかっていたからなのかもしれない。
この子と同じなのだと。
同じ世界を生きているのだと。
リィナの頬を、涙が伝った。
もう逃げられないのだと、悟った。
これ以上、この子を、とどめておくことはできないのだ。
「呪われてるなんて、嘘」
リィナはつぶやいて、腹部に手をあてた。
そこにはもう、何もない。
そこにいたはずの命は、とっくに、消えてしまっていた。
「守ってくれてたのよね。あたしが、辛い思いをしていると、思ったのよね」
けれどもう、応える声は聞こえなかった。
あたたかいぬくもりも、どこかに行ってしまっていた。
リィナの瞳から、涙があふれ出す。それはとどまることを知らず、後から後から流れ出て、リィナは両の手で乱暴に滴をぬぐった。まるで泣くことは許されていないとばかりに、歯を食いしばり、力一杯自らの頬を叩いた。
沈黙が落ちる。
リィナは瞳を伏せた。
泣く代わりに、言葉をこぼした。
「ごめんなさい」
静かに、一言。
まだ生まれていない命に依存して、すべてをゆだねて、罪まで犯させて。
ひとりで踏ん張っているふりをして、その実、どこまでもすがって、すがって、すがって。
なんて愚かだったのだろう。
母親になる資格などない。
母親になどなれない。
そんなことは、知っていたはずなのに。
「……ごめんね。もう、バイバイしなきゃね。あなたが、ちゃんと眠れるように。さようならを、しよう、ね」
誓うように、力を込めて、告げる。
声は聞こえない。
存在も見えはしない。
ぬくもりだって、もう、感じない。
リィナは、悠良と、莉啓と、怜と翠華とを、見た。
だれも、目をそらしていなかった。
まっすぐにリィナを見ていて、リィナはどこか情けないような気持ちになった。
「あなたたち、天使だったのね」
ほほえんだ瞳から、もう一度涙が流れる。
莉啓は悔しそうに、唇を噛んだ。悠良は睨むように、それでも決して揺るがない瞳で、リィナを見ていた。
彼らには、見えていた。
母親の胸に顔をうずめ、離れまいとする、小さな命だったもの。
それは、いやいやをするように懸命に首を振り、リィナにすがりついていた。決して離れまいとばかりに足に力を込めて、持てる力すべてで、母親に抱きついていた。
離れたくない。
離れたくない。
その声も、悠良たちには聞こえていた。
泣き叫ぶ、魂の願い。
ここにいる、これからも守ってあげる。
ずっと一緒にいる。
ずっと、ここにいる。
さようならなんて、いわないで──
怜がそっと身を起こし、小さなそれを手に取った。リィナからほんの少し離すだけで、それは消えた。まるで、最初から何もなかったように、ひどくあっけなく。
空気を揺らすこともなかった。
生まれなかった、微弱な命。
「幸せになりなさい」
最後に、悠良が告げた。
リィナの瞳の、その奥を見て。
「あなたには、その義務があるわ」
リィナはほほえんだ。
こみ上げた感情は口にせず、そうね、と小さく、つぶやいた。
*
エヴァンス邸のその後を、彼らは見なかった。
魂の回収という任務を終え、翠華はすぐに姿を消し、悠良と莉啓、怜の三人も、次の町へと移っていく。
生きていく糧を失って、リィナ=エヴァンスがどうなるのか、彼らにはわからない。
たとえ、絶望の中で命を絶とうとも、その命を救うことなどできない。
それは、彼らのすべきことではない。
生きている命は、その命自身に、すべて委ねられているのだから。
「天使……ね」
悠良は自嘲した。口にすると、想像よりもひどく可笑しい響きだった。
幾度、死神と呼ばれただろう。
けれど、天使と呼ばれることの方が、よほど、重い。
「さ、仕事仕事。次はどこかなー。その前にどっかの大会で優勝しとく? 金いるだろ、屋敷なんて買っちゃってさ。ないかなー、料理選手権」
「貴様、笛使いと共に行ったのではなかったのか。邪魔だ。二、三ヶ月、どこかで稼いでこい」
「う、いつ上がるんだろう、俺の地位」
悠良のすぐ近くで、いつもの二人が、いつのもやりとりをしている。
悠良は、立ち止まった。すぐに気づき、二人も足を止める。
「どうしたの」
「どうした」
同時にかけられる、言葉。
悠良は苦笑した。
思っているだけで、いったことのなかった言葉を、初めて舌に乗せる。
「ありがとう」
自然な笑顔になっていることに、彼女自身は気がつかなかった。二人はそろって、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、それから顔を見合わせる。悠良の頭を、一つの手が優しく撫で、もう一つの手が少し乱暴になで回した。
彼らは旅立つ。
彷徨える魂の元へ──
────────────────
2008年執筆。
読んでいただき、ありがとうございました。
またふと思い出したら書くかもしれません。感想等いただけるととっても嬉しいです。