story8 私の世界 7
「……年齢は?」
尋ねられ、正直に十六歳だと答えた。より若い方が、商品になると思ったのだ。それならば、偽る必要はない。
彼からは欲は感じられなかった。雑多な歓楽街にあって、ただひとり、身にまとっているものが違っていた。色に例えるならば、深い青。淀んだ色を背負う連中とは、どこか異なっていた。
豊かな髭を蓄えたその老人は、他の偽善的な大人たちのように、哀れむような目はしなかった。また、色を好む下品な笑みとも無縁だった。
「名は?」
質問を重ねてくる。買う気がないなら余所へ行って、商売の邪魔だから──そう告げると、老人の目が険しくなった。怒りの目。身をすくませて、答える。リィナと。
「死ぬ前に一度、と思って訪れたが──良い拾いものだ。君の未来を買おう。ここで稼ぐより、良い生活を与えよう。私が生きていられる間、その未来を」
金持ちの道楽だったのだろうと思う。
いまだって、彼の真意などわかりはしない。
突然、エヴァンスの名を与えられ、老人の妻として迎えられてからも、リィナと彼は会話などほとんどしなかった。屋敷には亡くなった前妻を思わせるものばかりが飾り立てられ、彼が欲しているのは心などではないことぐらい、明白だった。
彼が病に伏せってしまってから、やっと、聞いた。なぜ娼婦の未来など買ったのかと。
彼は笑った。
空気ばかりが抜けていく喉を震わせて、欲望だ、と答えた。
「君の目に、強い光が見えた。とうに忘れてしまった、生への執着だ。死ぬまでそばに置きたいと思った。それだけだ」
そうして、死んでしまった。
なんて脆い命。
後悔などしていない。
愛してなどいなかったのだから。
愛なんて知らない。
与えられたことがないのだから。
生きる意味なんて知らない。
考えたこともない。
けれど、それでも、どうしても譲れないものがある。
たったひとつの、目的がある。
そのためなら、なんだってする。
生きてみせる。
*
ひどい汗で、目が覚めた。
眠ってしまったようだ。
こんなに早い時間に眠るなんて、いつぶりだろう。身体の疲労とは無縁の睡眠など、随分長い間とっていなかったように思う。
ふとベッドの脇を見ると、ティーポットが目に入った。莉啓がどこからか持ってきた簡易テーブルの上に、ひっそりと置かれている。燭台と蝋燭、マッチまで。
寝苦しいといけないからと、就寝の前に彼が置いていったのだ。そのきめ細やかさが、彼が従者として生きてきた人間なのだということを表しているようで、リィナは毒気を抜かれたような気分だった。馬鹿がつくほどの生真面目さ。
「金持ちの、道楽」
思わず、つぶやいた。
悠良という女性から、充分すぎるほどの金銭を与えられた。しばらく置いて欲しい、理由はいえない、と。理由など必要なかった。金が得られるのならば、それでいい。
上流階級の世界のことなど、リィナにはまったくわからないが、彼女が本当に身分ある女性なら、エヴァンスの人間も出て行けなどと簡単にいえなくなるだろう。金に執着する人間は、金のある人間に弱いのだ。そういうものだ。
窓の外を見る。深い闇。まだ、朝は遠い。
身体を起こし、コートを羽織った。
甘んじているわけにはいかない。稼げるときに、稼いでおかなければ。
アカデミーにはもう、近づかない方がいいだろう。警護団が目を光らせているかもしれない。とはいえ、あの場所に戻れなかった。突然良家の婦人となったリィナは、当時の仲間からは目の敵にされていた。
それでも、このまま安穏と朝を迎えるわけにはいかないのだ。
「行かなくちゃ」
リィナは腹部に手を当て、祈るように目を閉じる。それから、客人に気づかれないよう、静かに屋敷を出た。
月の照らすミラージェの町は、いつものそれとはまるで違う景色で、リィナはどこかおかしな空間に迷い込んでしまったのではないかと錯覚した。
生きていくこと、それ自体に、現実味を感じなくなったのはいつからだろう。
たった一つの目的のため、ひたすらに、進んで、進んで、進んで。
その意味など、考えもせず。
行き着く先が幸福なのだとは思っていない。考えたこともない。けれどリィナは、歩き続けなければならなかった。
義務ではない。
あるのはただ、使命感にも似た、強い願い。
「こんな夜更けに、どこに行くんですか」
その声が自分にかけられたものだと気づくのに、数秒を要した。
月明かりの下、長い棒を持った少年が立っていた。リィナは彼に見覚えがあった。けれど、思い出せない。
少年の隣には、鎧を着た大きな男。認識できるほどの明るさはなかったが、鎧を身につけているという事実だけで充分だった。
ミラージェ警護団の人間だ。
リィナは舌打ちした。
「罪のない一般人を呼び止めて、どうしたいの。暇ね、警護団って」
苛立ちをそのまま舌に乗せる。少年が肩をすくめ、鎧の男は咳払いをした。
「リィナ=エヴァンス、君について多くの目撃情報が寄せられている」
「犯罪者だっていいたいんでしょ。証拠は?」
腕を組み、足を鳴らしながら、不機嫌であることを強調するかのように、リィナは問うた。こんなところで、時間をとられている場合ではないのだ。もっともっと、金が必要なのに。
「証拠なんてないよ。だからこそ、出歩くべきじゃないんじゃないの、リィナさん。俺がロキアさんに頼んだんだ。リィナさんの無実を、証明してってね」
少年の言葉に、眉をひそめる。どうやら、彼は味方なのだといいたいらしい。
リィナはやっと、気づいた。莉啓や悠良と共にいた人物だ。ということは彼も、あの高圧的な少女の従者ということなのだろうか。だから味方だと。
「彼のいうとおりだ。貴女が無実であるというのなら、疑われるような行動を控えていただきたい。……別件なのでね、夜中に貴女が何をしているのかについては、いまは問わない。事件が解決するまでは、夜中に出歩くのはやめておいた方が懸命だ」
鎧の男が、諭すように、まるでそれが正しいことであるかのように、淡々と告げる。
リィナの足下が揺らいだ。目眩がした。
しっかりと捉えているはずの鎧の男が、次第に膨れあがり、二人、三人と、数を増やしていく。
棒の少年が笑っている。ひどく高い位置から、リィナを見下ろしている。
揺らぎが次第に大きくなっていく。景色が波打つ。それが錯覚だということはすぐにわかったが、それでも立っていられないほどだった。世界が揺れているのか、己が揺れているのか、わからなくなる。
何も知らないくせに──喉の奥から、声が漏れた。
何も知らないくせに。正しいことばかりいって、それがすべての規範であるみたいに。小さな存在になんて、目も向けない。だれかが必死で頑張っている姿は、どうせ他人事で、だれかが死ぬことだって、どうせ痛くもかゆくもなくて。誰だってそう、そうだ、みんなそうだ、それでいい、間違っていない、けれど正義を振りかざす──何も知らないくせに、何も知らないくせに、何も、
「知らないくせに!」
普段のリィナよりもずっと甲高い声が、叫びとなって飛び出した。
まるで声そのものを衝撃として受けたかのように、鎧の男が目を見開く。そのまま実にあっけなく、彼は倒れた。棒の少年が、肩をすくめるのが見える。
「あーあ、やっちゃった」
しかしリィナには、どうでも良いことだった。男がひとり倒れたということよりも、もうひとりがまだ立っている事実の方が問題だった。リィナの身体が、燃えるほどに熱くなる。神経が研ぎ澄まされていくのに、同時に遠のいていく感覚。感情ばかりが先だって、理性がなくなっていく。
それは、本能的な欲求。
生きたい、生きたい、生きたい。
生かしたい、生かしたい、生かしたい。
邪魔しないで。
止めないで。
殺さないで。
「──────!」
リィナのなかで、何かが吠えた。
音にならない叫びが、そのまま力となって、飛び出していく。
「おっと。もうだいぶ、出てきちゃってんじゃないの。よろしくないね」
棒の少年がつぶやく。リィナには意味がわからない。わからないが、ひどく不快な気持ちになった。何もかも見透かしたような物いいが、癪に障る。
「いじめるなら、やっつけてやる……──!」
腹の奥から、吠える。少年が薄く笑った。
「いじめられたのは、誰?」
「…………っ!」
触れられてはいけない部分に触れられて、リィナは慟哭した。
自分が、何かが、その両方が、ひどく動揺していることがわかった。けれどそれは、知ってはいけない。気づいてはいけない。
その扉は、決して、開いてはいけないのだ。
「う、うるさい、うるさい、うるさいうるさい!」
動揺が、怒りが、力が、膨れあがっていく。
風船のようにどこまでも膨らんで、破裂しようとした刹那、ふと、空気が凪いだ。
風の代わりに流れてきたのは、笛の音だった。
恐ろしいほどに澄んだ音色。美しくも、哀しくもある、どこか懐かしい音。
質量が抜けていくような、感覚。
「また……この、音……」
リィナは、意識を手放した。