story8 私の世界 5

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 ノックの音に扉を開けると、生真面目な顔の青年が立っていた。
 黒い髪、黒い服。
 リィナ=エヴァンスは目を細めた。
「あら、リケイさん……だった? 来てくれたのね、嬉しい」
 開いた扉にもたれかかるようにして、けだるそうに莉啓を見上げる。莉啓は真一文字に結んだ口元をゆるめようと努力はしたものの、結局固い顔のまま、厳かに用件を告げた。
「換金屋から、預かりものが」
「そうなの? どうぞ、上がって」
 ここまでは怜のシナリオだ。あとは莉啓自ら、どうにかしなければならない。
 あとからついてくるということを疑いもせず、リィナは正面の階段をさっさと登っていった。残されてしまった莉啓は、幾分ためらったものの、扉を閉め、エヴァンス邸に足を踏み入れる。妙な緊張感。どんなときも、彼はまっすぐ、己の信じるままに生きてきた。嘘偽りというものからほど遠いところにいたのだ。しかし今回は、そういうわけにもいかない。
 玄関ホールに入ってすぐに、違和感を覚えた。
 怜から話は聞いていた。しかし、話を聞くのと実際に目にするのとでは、まったく違っていた。
「……なにも、ない」
 思わず、つぶやく。
 そこにはまさに、なにもなかった。絵画や調度品の類はもちろん、棚など収納関係の家具も一切ない。それが余計に、屋敷の規模を大きく見せていた。使用人の姿もなく、ずっと使われていない家に足を踏み入れたときのような、埃臭ささえ感じた。
「どうしたの? こっちよ、早く上がってきて」
 他の部屋の状態も気になったが、いわれるままに階段を登る。廊下の突き当たり、一つだけ開いた扉から、リィナの白い手が見えた。
 莉啓は眉をひそめた。嫌な予感。リィナの手が、幼子を促すようにおいでおいでと手招きしている。
 しかし、引き返すという選択肢はないのだ。意を決して、一歩ずつ足を動かす。
 扉の向こうを目にして、絶句した。
 床に無造作に放り出された、先ほどまでリィナの着ていたはずの衣類。ベッドの上では、薄手の毛布に身を包んだリィナが、にこやかに待っていた。
「いらっしゃい」
 なんでもないことのように、そういって莉啓を誘う。
 莉啓は脳が揺さぶられるのを感じた。莉啓が刻んできた歴史の中には、存在しなかったアクシデントだ。
「これは……」
「なあに、そのつもりだったんじゃないの?」
 リィナは、大きな目を丸くして、心底不思議そうに首をかしげた。莉啓の胸に、複雑な感情がわき起こる。戸惑いと、怒りと、悲しみのような何か。
「どうして、こんなことを」
 心をうまく言葉にできず、声を絞り出す。リィナはスラリと長い足をベッドから出すと、見せつけるように床に下ろした。衣擦れの音をたて、彼女の太股が露わになる。
「換金屋から預かりものなんて、あるわけがないもの。あたしを買いに来たんでしょう、リケイさん。あなた好みだから、喜んでお相手するけど?」
「…………!」
 そのまま、時間が固まってしまったかのようだった。
 莉啓は答えない。微動だにせず、両の手を握りしめている。
 反応を待っているのか、リィナから動くこともない。
 長い長い膠着。あらゆる音が消え去る。
 やがて、ひどくゆっくりと、莉啓が口を開いた。
「…………二十秒」
 感情を押し殺した、小さなつぶやき。リィナが眉をひそめる。
「え?」
「二十秒で、服を」
 有無をいわせない、強い口調。怒気をむりやり閉じこめている分、余計に凄味がある。
 返事を待たず、莉啓は廊下に出た。扉を閉め、腕を組み、きっかり二十秒数える。
 さらに数秒待ってから、扉を開けた。
 どうにかすべての服を身につけたらしいリィナが、肩で息をして立っていた。
「お、思わず着ちゃったわ。なんなの、あなた」
 自分で自分が信じられないという顔だ。眉一つ動かさず彼女の様子を見て、莉啓はひとこと、部下に告げるような口調で告げる。
「そこに座って」
 リィナはあからさまに眉根を寄せ、唇を曲げた。
「説教する気?」
「襟が曲がっている。みっともない」
「…………」
 リィナは舌打ちした。緩慢な動作で襟をシャツの襟を直すと、唇を尖らせてベッドに座った。不機嫌丸出しの表情で、莉啓を睨みつける。
 莉啓は自分が座る気はないようだった。腕を組み、眉間に皺を寄せて、リィナを見下ろしていた。
「……なんなの、あたしに用なんてないでしょう。忙しいんだから、さっさと帰って」
「そうしたいが、そういうわけにはいかない」
「ケンカ売ってんの?」
「そのつもりはない」
 莉啓には冗談をいう気などない。それはリィナにも充分に伝わってきた。リィナはそのまま体重をベッドに預けて、いっそ眠ってしまいたかったが、そうしてしまえばもっとややこしいことになりそうで、堪える。
 目線を変えて、改めて莉啓を観察した。
 旅人であることは間違いない。異国の──おそらくは東方の──衣服。鋭い目、整った顔立ち。冗談の通じなさそうな、面白みのない表情。
 ふと、ある可能性に思い当たった。リィナは鼻を鳴らした。
「なんだ、そういうこと。エヴァンスのだれかに雇われたんでしょ、あたしを殺せって」
 今度は莉啓が眉をひそめる番だった。
「雇われた覚えはないが……──なぜ、身内から命を狙われる必要が?」
「違うの?」
 リィナはいささか驚いたようだったが、どうでもいいといわんばかりに肩をすくめた。座ったら、と莉啓を促す。
 莉啓は動かなかった。リィナは苦笑し、天井を仰いだ。
「エヴァンスの品格を落とすからじゃないの。それとも、未だにあの人の遺産を狙ってるとでも思ってるのかしら。馬鹿馬鹿しい、あたしには一銭だって与えなかったくせに」
「なるほど」
 厳かに、莉啓がうなずく。
「確かに、品格を落としそうだ。承知の上での行いでは?」
「生きていくためには仕方がないでしょう。見てわかるだろうけど、お金がないの。お金が必要なの。それだけよ」
 リィナの瞳には強い意志が宿っていた。莉啓は口を開こうとしたが、結局はそのままつぐんでしまう。生きていくためには必要──それはもっともだ。間違ったことはいっていない、のだが。
 莉啓には、どうしても釈然としないものがあった。
 それは憤りに似ていた。
 思えば莉啓自身には、生きていくことが困難と感じられたような経験はない。ずっと昔から、巨大な何かに仕えてきた。怜や、そのかつての相棒のいい方に倣うのならば、常に長いものに巻かれてきた、ということになる。いまでさえ、それは変わらない。
 だがそのことに、莉啓は誇りを持っていた。
 恥じるような行いなどしたことがない。
 それは果たして、己の功績なのか──莉啓は拳を握った。傲ったことなど、一度だって無かったけれど。
「──エヴァンスさん、リィナ=エヴァンスさん、ご在宅ですか」
 不意に、低く通る声が響いた。ほとんど間を空けず、ノックの音が続く。
 思考の波を漂い、いうべき言葉を見つけられずにいた莉啓が、はっと我に返る。リィナは立ち上がった。カーテンの隙間から、下をのぞき見る。
「警護団の制服だわ。なんの用かしら」
 莉啓をそっと一瞥し、すぐに視線を逸らすと、リィナは扉を開けて出て行った。部屋にひとり残され、数秒の後、莉啓は震えるような息を吐き出す。
 いったい、何をしに来たのだろう──頭を抱えるようにして、自問した。
 少しも核心に触れない。もっと、遠回りでもなんでも、情報を得ていかなければならないのに。願わくば、他でもない彼女自身が、自ら真実に辿り着くことができるように。
 自嘲するように首を左右に振り、ぼんやりと部屋を観察する。言葉にならない感情に、気分が悪くなった。
 あるのはただ、カーテンと、ベッド。絨毯は敷かれておらず、灯りすらない。備え付けのクローゼットがあるが、その向こう側もきっと寂しいものなのだろう。
 金が必要なのだといっていた。
 生きるため──その言葉に、間違いはないのだろうが。
「どういうこと! それが警護団の仕事なのっ?」
 階下から、金切り声が聞こえてきた。いやにせっぱ詰まった声だ。莉啓も扉を開け、階段を下りる。
 玄関ホールでは、鎧を身につけた二人の男とリィナとで、口論になっていた。
「そういう要請があったのは事実です。こちらとしても……」
「あたしを追い出すしかない? そう! なら私も要請するわよ、ここの家と土地を売り払おうとしてるヤツら、全員捕まえてよ!」
 リィナは金切り声で叫んでいた。短い髪を振り乱し、小さな身体で大男二人を睨んでいる。近づこうとしたものの、所詮は部外者だと莉啓は思いとどまった。距離を置いたまま、傍観を決め込む。
 黒と紺の、形ばかりの鎧。通りで見かける、ミラージェ警護団の団員なのは間違いないようだった。彼らも職務ということでしかたなく来ているのか、あまり乗り気ではないようだ。貧乏くじを引かされてしまったというような、渋い顔をしている。
「調査をしないわけにはいかない、といっているのです」
 いいわけをするように、しどろもどろくり返す。だがその一言は、余計にリィナを憤慨させた。
「あたしが泥棒だって? この町の人間なら、噂ぐらい知ってるでしょう! そのとおりよ、年老いたあの人と好きでもないのに結婚したのはお金目当て! でもそんなこと、向こうだって知ってたわ! それの何がいけないの! こっちには結局一銭も入ってないの、泥棒だなんて笑えるわ!」
 ぴしゃりといいはなつ。男たちがすぐに口を開かないのを見て、リィナは更にたたみかけようと息を吸い込んだ。
 しかし、声は言葉にならなかった。
 瞳を伏せ、鎧の男が重々しく口を開いたのだ。
「──アカデミーの学生が、昨夜のうちに、何者かに襲われたのはご存じですか」
 莉啓は眉を跳ね上げた。詳しい事情は知らないが、怜から事実の一端だけなら聞いている。素早くリィナの様子をうかがうと、彼女は蒼白で、何をいっているのかわからないとばかりに、ゆっくりとつぶやいた。
「……アカデミーの学生が……襲われた?」
 ごまかしている、という様子ではない。だが、なにひとつ心当たりがないというわけでもないようだ。
 莉啓は動いた。
「昨夜の事件のことなら知っています。彼女によくない噂があるのも」
 突然の声に、視線が集中する。莉啓は落ち着き払って、わざとゆっくり距離を詰めると、リィナと男二人の脇に立った。
「あなたは?」
「リィナの婚約者です。昨夜は彼女と共にいました。この町の警護団は、証拠もないのに、噂だけで動くのですか」
 リィナが目を見開いた。莉啓を見上げるその目は震え、唇もわなないている。まるで、何かを恐れているかのように。
 動揺を悟られないよう、莉啓はリィナの前に出た。
「こちらに非はないのですから、あなた方への協力を惜しむつもりはありません。それなりの理由と、相応の礼儀があれば、ですが」
 莉啓は警護団の男から目を離さなかった。柔らかい物腰で、しかし力強く告げる。そのまま、返答を得るまで、身じろぎせずに待つ。
 警護団のひとりが、ため息を吐き出した。
 もうひとりに目配せをして、小さく会釈する。
「ではまた──出直しましょう。失礼」
 そのまま、重い扉を開けると、屋敷を出て行った。
 沈黙が落ちる。
 どう声をかけたものかと、幾分緊張しつつ、莉啓がそっとリィナを見る。彼女はいまにも消えそうな顔色をしていた。大きな瞳から、滴が落ちる。
「あたし……」
 リィナは莉啓を見た。
 ひどくつらそうな顔で、声を絞り出す。
「あたし、呪われてるんだわ」





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