story8 私の世界 4
「……つまり、その女に?」
「やられたんだ。そうに違いない」
慎重に問いかけたのだが、答えはためらいなくまっすぐに返ってきた。怜は肩をすくめると、礼をいって青年を解放する。アカデミーの学生だ。アカデミー前でわめいていたので声をかけ、詳しい事情を尋ねた。
「本当なの?」
「さあねえ」
白い外套をはおり、人垣に紛れていた悠良が問う。答えようもなく、怜は曖昧に言葉を濁した。
ミラージェの町、特にアカデミー地区は、朝から騒然としていた。アカデミーの学生が何者かに襲われたらしい。一命はとりとめたものの、意識はなく、ひどい怪我を負っているとのことだった。本日の講義はすべて取りやめになり、警護団がつめかけ、大規模な調査を行っていた。噂を聞きつけた野次馬で、アカデミー地区へ続く門の前に人だかりができている。
「彼女が複数の学生と親密にしてたってのは本当みたいだけどね。先日亡くなった学生は事故ってことだったけど──今回は『襲われた』のが明白らしいから、ついでに前回のもそうだったんじゃないかってさ」
「その二人ともが、同じ女性と懇意にしていれば、疑われるのは当然ね──そういう話は、なかなか出てこないとはいえ」
後半の言葉を、悠良は飲み込んだ。あえて口にすることではない。
怜も黙っている。未然に防げたかもしれない──もちろん、それは可能性にすぎないが、その思いが拭えないことも確かだ。
今回怪我を負った学生の友人の話では、彼は名も知らぬ若い女と関係があったということだ。女については以前から悪い噂があり、その友人が縁を切ることを勧めたのだという。その夜に、この事件。
本人から聞いたのだという外見の特徴から、怜はそれがリィナ=エヴァンスだろうと確信していた。もちろん、根拠はそれだけではない。昨夜、様子を見に彼女の屋敷に行ったときには、すでに不在だったのだ。家具もなにもない部屋に、彼女の姿はなかった。
「滅入るな、どうも」
あまり感情のこもらない声で、怜がつぶやく。声音とは裏腹に、彼の中にさまざまな感情が去来しているのが見えたような気がして、悠良は怜を見上げた。いつもの表情、だが。
「死んでいないのだから、大丈夫よ」
その横顔に声を投げる。すぐに笑顔が振り向いた。
「悠良ちゃんのそういうフォロー、ざっくりさっぱりしててすげえ好き」
「追い打ちをかけてもいいのよ。愚かさを思い知りたい?」
「勘弁」
怜は苦笑した。
「まあ、彼女の方は啓ちゃんに任せるとして。俺はとりあえず、こっちだな。悠良ちゃんはどうする?」
「そうね……」
悠良はゆっくりと瞳を伏せた。状況を整理し、得ている情報を巡らせる。どちらにつくのも、得策とは思えなかった。怜は自分がいては足手まといになるだろうし、莉啓に付いて彼女の反感を買ったのでは元も子もない。件の助っ人は考えるまでもなく。
「──君たち、ちょっといいかね」
不意に声をかけられ、悠良は顔を上げた。学術都市には似つかわしくない、鎧をつけた大きな男が、目の前にいた。怜がさりげなく、悠良の前に出る。
「なんでしょう?」
「ミラージェ警護団のものだ。少し聞きたいことが……いや、場所を変えようか」
野次馬の視線が集中していることに気づき、男が促す。悠良と怜は顔を見合わせたが、無論断る理由もない。おとなしく従った。
悠良と怜は、アカデミーの敷地内に通された。門をくぐってすぐの、小さな小屋。警護団と書かれた、さして大きくもない札がぶら下がっている。
内部は実に質素な造りだった。入ってすぐに木製の長机があり、机にも壁にもメモ書きが無数に貼りつけられている。机の向こう側に扉があるが、いまは開け放たれていた。簡素なベッドが見える。寝泊まりぐらいならできるようになっているらしい。
「そこに座って。──ああ、失礼、座っていただけるかな」
ロキアと名乗った鎧の男は、慌てていい直した。丁寧な口調をわざわざ心がけるということは、少なくとも疑われているわけではないらしい。悠良と怜は、いわれるままにイスを引き、腰を下ろす。
「少し聞きたいことがあるんだ。足を運んでもらうほどのことでもないのだが──まあ、あの場所ではちょっとな」
「いいですよ、根無し草とはいえ、警護に協力するのは義務ですから」
飄々と、怜が似合わないことを口にする。悠良は思わず目を細め、胡散臭そうに隣を見た。空気を読んで、そのまま目線を戻す。
「実はちょっと人を捜していてね。お嬢さんはともかく、君のその格好は……東方の民族衣装を模しているのかな。君たちは、東方から?」
「出身は、一応」
怜が身につけている、布を余らせた衣装や腰布は、確かに東方のものだ。東方を統治していた大陸はずいぶん昔に沈んでしまったが、それでも国々は多少残っている。
「旅は何人で?」
「俺たちと、もう一人──これ、どういう意図の質問?」
不機嫌さを露わにして、怜が腕を組む。悠良はもう興味をなくしたとばかりに、壁のメモ書きをぼんやりと眺めていた。
ロキアは苦笑した。ちょっとこのまま、といいのこし、奥に姿を消すと、湯気を立てたマグカップ二つを手に戻ってくる。動くたびに、大層な鎧が重い音をたてた。どうやっても落ち着かない。
「茶も出さず、悪かった。君たちを疑っているわけじゃないんだ。もし君たちに後ろめたいことがあるなら、あんなところで野次馬をしていないだろうし、こっちが声をかけたときにもう少し警戒するだろうしね」
「それは甘いんじゃないの。世の中悪人なんていっぱいいるよ、おっさん」
「──怜」
短く悠良がたしなめる。怜は肩をすくめた。出されたコーヒーを口に運ぶ。安い豆だな、と思ってしまった自分を少しだけ呪った。莉啓のおかげで、高級志向が身に付いてしまったらしい。
「では単刀直入に聞こう。翡翠色の、占い師のような服を着た人物に心当たりは? 昨夜、事件前に敷地内で目撃されていてね。学生の話では、木に座って笛を吹いていた、というのだが」
「知りません」
微塵の間も挟まずに、ぴしりと悠良がいった。威厳さえ感じさせる声だ。
ロキアは面食らったように悠良を見たが、無礼な対応が不快にさせたと捉えたのだろう、罰が悪そうに頭を下げる。
「申し訳ない。もし君たちの連れなら、話を聞きたいと思ったのだが」
「ってことは──」
悠良の一言に内心では腹をよじらせながらも、どうにか堪えて、怜は聞かなくてはならないことを口にした。
「その翡翠色が犯人ってわけじゃ?」
「まだわからないが、犯人と疑っているわけではない。──まあ、疑っているかどうかというのも程度の問題だが」
「ふうん」
おそらく、アカデミーの前で学生が騒いでいたとおり、警護団も彼女を犯人と疑っているということなのだろう。確かに、明らかに怪しい人物が他にいるのならば、突然目撃された笛吹きを疑うこともない。
「旅の連れのもう一人っていうのは、いっつも黒い服来てる陰鬱な料理人。その翡翠色とは別人だし、心当たりもないですよ、悪いけど」
「そうか、わかった」
最初からそれほど期待しているわけではなかったのか、ロキアはあっさりと納得した。もし何かわかったら教えてくれ、とだけ付け加える。
「そういえば」
帰ろうと扉を前にして、最後に怜が振り返った。
「連れが、リィナ=エヴァンス嬢に求婚されたんですけど。この町では、初対面の相手にいきなり求婚する風習でも?」
ロキアは黙り込んだ。
渋い顔をして、怜を睨みつける。
「──この町でも話題のお嬢さんだ。断って、それ以上関わらないことだな」
短く、答えた。