story8 私の世界 3

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「うわあ」
 部屋の外まで漏れていた香りに、期待とそれ以上の嫌な予感を抱いてはいたが、現実ははるかに怜の予想を超えていた。
 宿の従業員にいってわざわざ借りたのだろう、客室にはまず置いていない類の巨大なダイニングテーブル。部屋の出入り口よりもよほど大きいので、部品として運び込んで室内で組み立てたに違いない。
 その上に並べられた、大小様々な色とりどりの皿。当然、どの皿にも視覚にまでこだわり尽くした料理が乗っている。
「おまえこれ、どれだけ金使ったんだ……」
 肩を落とし、怜は力無くつぶやいた。この世の終わりからは若干浮上したらしい莉啓が、白いエプロンをはずしながら淡々と返す。
「たいしたことはない」
「いやいやいや……」
 他にいないので、しかたなく財政管理の役割を担っている怜は、本当なら怒鳴り散らしたいところだったが、あまりの徹底ぶりに意気消沈してしまった。一行の──正確には悠良の、ということになるのだが──快適な旅を保証するため、莉啓の調理技術は磨かれる一方だ。ひと目を忍んで、夜中に修行することもあるらしい。
「憂さ晴らし、ということじゃないかしら。しばらく悶々としていたから」
 すでにひとりだけ食事中の悠良が、さらりと核心を突く。莉啓はこれといって反論しない。恐らく怜がいえば十倍返しではすまなかっただろうが、彼にとって悠良とは絶対だ。彼女が赤いというのなら、昼間の空だって赤い。
「まあいいけどさ、今日ぐらい。とーぜんこれ、俺も食べていいんだろ」
「なにを馬鹿な」
 莉啓は嘲笑した。いつもより若干性格が悪い。
 悠良のための茶を用意すると、自分も席につく。そして黙々と、食べ始めた。
「え、なにこれ、どういうイジメ?」
 怜は呆然と立ちつくした。今日も一日、ひとり頑張って情報収集をしてきて、宿に帰り着いたかと思えばこの仕打ち。いつものことすぎて今更ではあるが、それにしてもひどい。
「冗談よ、ねえ莉啓。怜の分もあるんでしょう?」
「もちろんだ、悠良。冗談に決まっている。──そういうわけだ。心して食え」
「…………うわーい」
 いいたいことを飲み込んで、気が変わらないうちにイスを引いた。肌身離さず持っていた長い棒を、イスの脇に立てかける。
「リィナ=エヴァンスは、どうだったの?」
 悠良は早々に食事を終えたようだった。ベストなタイミングで用意されていた茶を飲み、今日の成果を問う。目の前の食事たちが逃げないことはわかっているのだが、ついつい全力で口のなかにかき込んでしまった怜は、すぐに言葉が出てこない。咳き込んで、莉啓に冷ややかに一瞥されながらも、くじけずに記憶の引き出しを開けた。
「新情報といえば、啓ちゃんは遊ばれてるってことぐらいかな。そこらじゅう、結婚しようとかなんとか声かけまくってるらしい」
「あらそうなの」
 怜と悠良は、平静を装って食事を続ける莉啓を見た。これといって反応はない。顔色ひとつ変わらない。
「かわいそうな莉啓」
「残念だったね、啓ちゃん」
「──他には」
 怜は肩をすくめた。悠良はどうやら、笑いをこらえているようだ。いつもの落ち着いた表情だが、少しだけ口元が震えている。怜にしてみれば、悠良にかわいそうとまでいわれた莉啓の複雑な心境を思えば、さすがに笑い飛ばすのはためらわれたが。
「あとは換金屋。あんなでっかい屋敷に住んでるのに、金にはそうとう困ってるね。換金屋から出てきたときに、彼女、客だっていってたろ。身の回りのもの持ち込んで、ぜんぶ金にしてくれってことだったらしい。たいした額にはならなかったみたいだけど」
「なるほど」
 莉啓は優雅に口を拭った。声をかけられた状況を思い出す。そういうことならば、なぜ自分が狙われたのかは明白だった。
「つまり、換金の現場を見て、俺のことを金持ちだと判断したというわけか」
「たぶんね。金目当て、金目当て。俺には見向きもしないからおかしいと思ったけどさー」
「ふ」
 思わず、といった様子で、悠良の口から一音が漏れた。なに食わぬ顔で再びカップを手にする。
「いま、笑っ……」
「となると、話は簡単ね。莉啓、あなたがリィナ=エヴァンスにつけばいいわ。今回は少し厄介なケースだから、怜は引き続き、慎重に情報を。あとはフォローにまわって」
「……厄介なケース?」
 怜は眉をひそめた。いつもとは状況が異なる、というのは聞いていたが、厄介という形容はしていなかったはずだ。
「お母様から連絡があったのよ。ちょっと厄介なことになるから、助っ人を用意した、って」
「助っ人」
「助っ人?」
 嫌な予感しかせず、怜と莉啓は二人揃って、苦い顔をした。
 
   *

 月が町を照らしていた。
 学術都市ミラージェのほぼ中央、小高い丘に、町のどこにいても見えるよう、空まで届くかと思われるような時計塔がそびえている。それこそが、町の象徴ともなるアカデミーの時計塔だった。頼りない月明かりでは判然としないが、二本の針は深夜の時刻を示している。
 アカデミーの規律自体は、そう厳しいものではない。各地にある王立学校のように、紳士、淑女の育成を目的にしているわけではなく、あくまで学問の追究を軸としているからだ。建ち並ぶ寮には、深夜といえど、灯りの漏れる部屋も多い。
 生徒の年齢層もさまざまだ。試験にパスし、入学金さえ払えば、小さな子どもであろうと老人であろうと、入学が許可された。学業に関すること以外なら、生活スタイルもなにもかも、各々に委ねられた。
 自由、という一言がまさに的を射ているといえるだろう。ただし、アカデミーを目指して地方の村々で一心不乱に学業に励んできた若者が、入学することで得た開放感から、道を誤る例も少なくない。
「……どういうこと?」
 その部屋は几帳面なほどにカーテンが閉めきられていた。灯りを閉じこめるためというよりも、まるでなにかを執拗に覆い隠すかのように。
 机とベッドが並ぶだけの簡素な部屋に、小柄な少女の姿。リィナ=エヴァンスだ。大きな瞳が、彼女を実年齢よりも幼く見せていたが、薄い肌着がぴたりと張りついた身体のラインは、すでに成熟した女性のものだった。
「君は頭のいい女性だから、わかるだろう」
「説明が聞きたいっていってんのよ」
 衣類を身につけながら、背を向けたままで答える青年を、リィナは睨みつけた。ベッドの上に身を起こし、無造作に置かれた布の袋を開く。金色の貨幣が、ぎっしりと詰まっていた。リィナは鼻を鳴らした。
「安く見られたもんね」
「充分だろう」
 綿の上着を羽織って、青年はイスに座った。デスクの上の眼鏡をかける。
「手切れ金、といういい方をするなら、そういうことだ。オレはまだここで学びたいことがある。結婚なんて考えていないし──ましてや、父親になる気もない」
「女なんてあたしだけじゃなかったでしょう。知ってるわよ」
「それはオレのセリフだ」
 リィナは笑った。落胆よりも、笑い飛ばしてやりたい気持ちの方が勝った。お互い、愛なんてなかった。そんなことは知っていたのだから。
 部屋の灯りに、まだ紅潮している素肌が晒されるのも厭わず、リィナは立ち上がる。青年の足の間に膝を割り込ませ、首に手を回した。頬に唇をあて、甘えるように囁く。
「ね、だめよ。足りないわ。こんなものじゃ、あなたのいない気持ち、埋まらない。あたし寂しくて、アカデミーじゅうであなたの名前を呼んでしまうかも」
 青年は眉を上げた。そっと、リィナの身体を引き離す。
「そうやって脅してくるたちの悪い女がいると、アカデミー内で噂になっててね。その女は、世の中を知らなさそうなお坊ちゃんをつかまえては誘惑、結婚したいとか子どもができたとか、適当なことをいって金をむしり取るんだそうだ──しかもそのうちのひとりが、奇妙な死に方をした。つい最近ね」
「あら、怖い世の中ね」
 あっさりと手をふりほどき、リィナは肩をすくめた。床に散らばった衣類を拾い上げ、さっさと着込む。最後に厚手のコートを羽織ると、貨幣の詰まった布袋をポケットに突っ込んだ。
「じゃ、バイバイでいいわ。でもそういうことは、やることやる前にいうもんよ。なんだか損した気分」
「君のことが好きなのは、本当だからね」
「あら、そうだったの。もっと気が合うかと思ってたわ。ザンネン」
 リィナは、もう青年の姿を見なかった。ファーストネームすら知らなかった相手だ。名残惜しい気持ちなど、ほんの少しもない。そのまま振り返らず、扉を開けて出て行った。
 廊下はひんやりとしていて、灯りひとつすらない。深夜の客を拒むわけでもないが、歓迎するわけでもない──ここは、そういう場所だ。リィナは慣れた足取りで、頼りない月明かりのなか、廊下をまっすぐに進んでいく。
 ぎくりとして、立ち止まった。
 窓辺に、恐ろしく美しい男がいた。
 もしかしたら、女性かもしれなかった。生きてすらいないかのような、透き通った美。
 東方の衣類に身を包み、開けた窓から流れる風に、長い髪をなびかせている。その髪も、衣類も、なにもかもが翡翠色だ。
 その翠色の目が、リィナを見た。リィナは初めて、自分が不躾に見つめてしまっていたことに気づいた。
「ねえ、君さ」
 作り物のような端正な顔が、言葉を紡いだ。リィナは、そこに人がいて、自分に話しかけていることが信じられなかった。幾度となく訪れたこの学生寮で、夜中にだれかとすれ違ったことなどない。ましてや、現実離れした美しい男性など。
 リィナは返事をしなかったが、男はそれでもかまわないようだった。けだるそうに首をかしげる。
「有名だよね、リィナ嬢っていうんでしょ。そうやってお金稼いでさ、なんに使うの」
「…………!」
 完成された美を湛えながらも、男の口から紡がれる言葉はひどく幼く響いた。リィナは、この世のものではないなにかに遭遇してしまったような気持ちで、一歩後ずさる。あまり、関わりたくないという本能が働いていた。
「……あなたには、関係ないわ」
「関係ないけどさ。明日にはニュースになると思うよ。君に自覚があってもなくても、君がやっていることは犯罪だからね」
 リィナは答えなかった。ただ、小さく唇を噛んだ。
 これ以上関わらないとばかりに男を一瞥し、気丈に歩き出す。
 そのうしろ姿を見送って、彼はため息を吐き出した。
「面倒なこと、キライなんだけどね。どうして僕がこんなこと」
 唇を尖らせて、小さく呟いた。






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