story8 私の世界 2

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 手に入れたばかりの路銀をふんだんに使って借りた、高級宿のリビングルーム。
 知識がなくともそうとわかる、値の張る調度品の数々が部屋を飾り立てていた。宿が揺れようものなら、重さに耐えきれずに落ちてくるのではと思わせるシャンデリアは、淀んだ空気を静かに照らしている。
 深緑のソファに腰を下ろすのは、悠良と莉啓。
 会話はない。
 時折、悠良がソーサーにカップを置く小さな音だけが、空気の動かない部屋にかすかに響いた。
「この世の終わりみたいな顔をしているわよ」
 見かねて、悠良がそう話しかけた。向かい側に座る黒髪の青年は、まさに世界が終わったようなオーラを背負っていた。
 もともと、表情が豊かなタイプではない。どちらかといえば、無口、無表情──要するに、明るい雰囲気を醸し出すような人種ではない。
 とはいえ、いまの莉啓は、過去のどの彼よりもどんよりと沈んでいた。
「俺は……」
 やっと口を開き、莉啓はなにごとかをいわんとした。
 しかし、続きが声にならない。
 宿につくなり、いつものように悠良に紅茶と焼き菓子を用意するまでは完璧だったのだが、その後ソファにすわったかと思えば、ずっとこの調子だ。
 悠良はため息を吐き出した。
 見事な赤い髪をそっと払い、少しだけ身を乗り出す。
「地方の風習にもよるでしょうけど。頬に口づけなんて、挨拶みたいなものでしょう。なにをいつまでも落ち込んでいるの」
「────!」
 悠良にしてみれば完全にフォローのつもりだったのだが、莉啓はさらに衝撃を受けたようだった。よろめいて、まとう空気をいっそう重くする。
 実際のところ、莉啓自身、なににどうショックを受けているのか、厳密なところはよくわかっていない。まだ脳内がうまく整理できていないのだ。しかも、そこへ他でもない悠良からの追い打ち。もう考えることすら放棄してしまいたい気分だ。
「向こうから接触してきてくれるなんて、良かったじゃない。これで仕事がやりやすくなるもの。上手に利用して、頑張ってね、莉啓」
 どうやらなにをいっても無駄らしいと悟り、悠良は淡々とエールを送ることでこの話題を締めくくった。あとは黙って、カップを口に運んだ。


 長い棒を携えて、怜は足軽にリィナ=エヴァンスのあとを追っていた。衝撃のプロポーズのあと、莉啓に自身の家の地図を押しつけ、じゃあまたね、とあっさり手を振ったのだ。もちろん、そのまま別れるわけにもいかない。
 学術都市とその名をとどろかせるミラージェは、地方からの若者を取り入れるためか、市街は特に近代的な造りが徹底されていた。アカデミーのある地区はもちろん、商店の並ぶストリートも、民家ばかりに切り替わる住宅街も、あらゆる地面が石畳で覆われている。
 そういう町は、尾行に気づかれやすい。足音がよく響く上に、振動が吸収されずに伝わってしまうからだ。
 もちろん、そのような危惧は怜には不要だった。道を行くショートカットの少女になどまったく注意を払っていない様子で、距離を保ちつつ、確実にリィナのあとを追う。
 少女は中心街へと歩みを進めていった。やがて、石造りの屋敷にたどり着くと、柵を押し開けて、重い扉の向こうに消えた。
 屋敷の門が見える位置にとどまり、怜はそのまま、少しの間、動かずに待つ。
 リィナが出てこないことを確認すると、身を翻した。ほどよく離れたところで、買い物かごを片手に歩いていた女性を呼び止める。
「ちょっとおうかがいしたいことが」
 身なりの良いその女性は、少しだけ驚いた顔をしたが、嫌がる素振りもなく立ち止まった。怜のことを新しい学生だとでも思ったのだろうか、にこやかに返す。
「なにかしら。私にわかることでしたら、なんでも」
「ちょっと、聞きづらいことなんですが。道の先のお屋敷に住んでいるリィナさんというのは、どういう方なのか、うかがってもよろしいですか。実は、旅の連れが……求婚、されまして。出会い頭のことだったので、連れ共々戸惑ってるんです」
「あら」
 女性は表情を曇らせた。他に通行人などいなかったが、ひと目を気にするように周囲を見て、道の端に寄った。声をひそめる。
「親しいわけではないから、あまりいえないけれど……やめておいた方がいいわ。エヴァンスさんの奥さんでしょう。最近ご主人がなくなって、新しい相手を探してるらしいって、このへんじゃ噂になってるわ。お子さんのこともあるのに、いつも足を出して町を歩いて。エヴァンスさんだって、もうご高齢で長くないっていわれていたのに、どうしてあんな……若い奥さんをもらったのかしら」
 いいにくそうな様子だったわりには、すらすらと情報が流れ出た。有閑婦人というのはこういうものかと内心舌を巻きつつ、怜は熱心にうなずいてみせる。
 若い奥さん、と言葉を濁してはいたが、そこにあらゆる意味が込められているように思われた。どうやら、リィナ=エヴァンスの評判は決して良くはないらしい。
「その連れの方に、やめた方がいいわよっていってあげて。私、この近所に住んでるんだけど。つい先日も、やっぱり同じようなことを聞かれたわ。あの人、いろんな人に手当たり次第……あら、言葉が悪いかしら。とにかく、あなたの連れだけじゃないみたいだから」
「え、そうなんですか」
 怜は急いで記憶を掘り起こした。リィナ=エヴァンスについて情報を聞き出したのは今回が初めてではない。同じ人間に二度声をかけてしまったのかと、ほんの一瞬、あってはならない可能性が脳をよぎったのだ。
 しかし、もしそうであったなら、目の前の女性が不審に思わないわけがない。それにどう考えても、そんな初歩的なミスをするはずもない。
 ということはやはり、手当たり次第、ということになるのだろう。あの莉啓にロマンスが、と少々期待していただけに、怜はつまらない気分になった。
「ごめんなさい、なんだか余計なことまでいってしまったかしら。お買い物があるの、失礼するわね」
「とんでもない、連れにしっかり伝えときます。大感謝!」
 怜は長い棒をくるりとまわし、直立不動の体勢で敬礼した。その芝居がかった仕草がおかしかったのだろう、女性は楽しそうにほほえんで、会釈をして歩き出す。
 怜も、反対方向に向かって歩き出した。しばらく進み、角を二度曲がったところで立ち止まる。
 手に入れた情報を、慎重に整理した。まだ、肝心なところはわかっていない。しばらくそのまま思考していたが、もう一つ用件を思いつき、来た道を戻り始めた。

   *

 リィナ=エヴァンスは、ソファ一つない床にごろりと寝転がった。
 照らすもののない天井を、ぼんやりと見上げる。ふと思い出して、ポケットに突っ込んでいた布袋を放り投げた。中身はほとんど空だ。期待していただけに、憤りが尽きない。
「それでもあたしは」
 去来した様々な思いを、飲む込む。
 口にしたところで、どうなるというのだろう。
 聞くものなどいないのに。だれ一人として、彼女の隣にいないのに。
 涙は流れなかった。
 悲しくはないのだ。
 彼女には希望があった。だから、立ち上がることができた。だから、生きていこうと思った。
 ただ一つ、それだけのために。
 最後のろうそくは、とっくに溶けて消えてしまった。日が暮れようとする窓の向こうを見やり、リィナは自嘲する。せめて月が出なければいい。暗闇になって、なにも見えなくなって、自分の行いもなにもかも、覆い隠してしまえばいいのに。
 リィナは目を閉じた。夜が訪れるまで、彼女にはもう、することがなかった。起きていても、腹が空くばかりだ。ならば、寝てしまったほうがよほどましに思われた。
 真の闇が訪れたら、仕事に出かけなければならない。
 彼女にはそれしか、方法が思いつかなかった。 






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