story6 忘れられた魔女 4
寒くはなかったが、用意されたので膝掛けをまとい、悠良はソファに深く身をしずめていた。朝食後、することといえば、仕事内容の確認ぐらいだ。
いつもより薄い紙の束に目を通す。あっという間に読み終えてしまい、眉根を寄せて息をついた。
「……やっかいだわ」
独り言がもれる。ちょうどノックと共に、ティーセットを手にした莉啓が現れた。湯気の立ち上る紅茶の香りが、すぐに広がる。
「ここはいい宿だな。何でも好きに扱っていいということだ。部屋も落ち着けるし、設備もいい」
そんな評価をしながら、悠良の前にカップとジャムを置く。
自分の分も用意し、悠良の向かい側のソファに腰をかけ、ふと資料に目をとめた。
「確認を?」
「ええ、何もわからないけれど」
おもしろくもなさそうに、悠良が返す。少しジャムをカップに加え、音を立てずにかき混ぜた。
「ターゲットすら、はっきりとはわかっていないしな……」
莉啓もまた、資料を手に取った。几帳面な字でつづられた情報の最後に、走り書きされたメモが一枚。複数の人物の名が記されている。
「この町の周辺の──周辺だけではないが──『行方不明者』はすべて絡んでいると見るべきだろうな。カンパニー内部にいるとみるのが自然だろう。だが、レグ、といったか、あの少年の名はないが」
「『行方不明者』? ……おもしろいいい方ね」
沈黙が落ちる。資料には複数の人物の名。意図的に集められている、と考えるべきだろう。
だとすれば、大元が無自覚だとは思えない。周りを固めるよりも、元凶を突くべきだ。
「カンパニー創設者、セリーヌ=エリアントか」
資料の文字を目で追いながら、莉啓がつぶやく。その名は、走り書きのメモのなかにあった。怜の字で乱暴に書き殴られ、最後に「?」が加えられている。
「でも彼女の名は資料にないわ。お母様に調べてもらったけれど、ずいぶん過去までさかのぼってもリストから見つけることはできない……偽名だとしたら、お手上げね。まさか本名を尋ねるわけにもいかないもの」
「あるいは、その側近か。とにかく、なかに入ってみないことにはわからないな……。怜は?」
「行ったわ、カンパニーに」
ぶつくさ文句をいっていたけれど。そう付け加えようとして、思いとどまる。仲がいいのか悪いのか、おそらく限りなく悪いに近い二人の従者に、新たな火種を与えることもないだろう。
「……仕方ないな」
ティーカップにスプーンを入れ、莉啓はつぶやいた。
「わかっていてこの町まで来た。今回ばかりは、長期戦だな」
「そうね」
うなずく。自分も何か動くべきかと、あまり実行に移す気もなかったが、悠良は形ばかり立ち上がろうとする。
ふと、彼女の顔色が変わった。
「悠良?」
いぶかしげにこちらをうかがう莉啓にはかまわず、座り直し、悠良は目を閉じた。何かが、ひっかかるのだ。
鳥肌が立つような感覚。
「領域を侵されたわ……」
「この宿に?」
すかさず莉啓が身構えた。周囲をうかがうように、感覚を研ぎ澄ます。滞在する場所には、悠良は常に特殊なマーキングを施しているのだ。それが侵されたということは、この時代に存在するのはきわめて稀な高位の術者か、あるいは明確な敵意を持った者の出現を意味する。
「莉啓、違う、ここに敵意は向いていないわ……これは、一階? 一階の端の部屋──レグ!」
「悠良はここに!」
素早くいい残し、ソファを飛び越え、莉啓は部屋を飛び出した。昨夜、レグは襲われていたではないか。マークしていなかったわけではないが、明らかに油断があった。
人がいてもいいはずの二階部分に人影はなく、見下ろせる一階の食堂では、どうやら眠っているらしい数人の影。どんよりとした重い空気が宿内を覆っている。
ちっとするどく舌打ちし、階段まで回る時間を惜しみ、莉啓は手すりから飛び降りた。黒装束が風になびき、音もなく着地する。
こんなときに怜がいないとは、などと勝手なことを思いながら、空気のよどみが集まっている一室の戸を蹴り開けた。
「──なんだ、はずれか」
部屋には、緑色の影があった。澄んだハスキーボイスで、いかにも残念といった調子で感想を口にする。右手には横笛。長く透き通る薄緑色の髪、人を惹きつけてやまないであろう、緑の瞳。
莉啓は息をのんだ。
「久しぶり。相変わらずトロイね、宮廷魔術師」
微笑んで、外見からは想像しがたい幼いものいいをする。ベッドに倒れ伏しているレグが、寝息を立てているのを確認して、莉啓は笑いもせずに翠華を見据えた。ひとを小馬鹿にしたような目。嫌悪感が走る。
「……久しぶりだな、笛使い」
「あ、やだね、仕返し? 笛使いってやめてほしいな。懐かしいけどさ。それいうの莉啓ぐらいだ」
「俺はおまえが嫌いだ」
率直な意思表示。翠華は眉をつり上げた。
「ムカつくな、カッチーンとしたよいまの。こっちだって君なんか大っ嫌いだね、陰険術士」
幼稚な悪口のあと、勝ち誇ったような顔を見せる。このペースは、まったく似ていないようでやはりどこか似ているのだ。ただし、あちらよりも確実にたちが悪い。
「どうしてこんなところにいるんだ。その少年をどうする気だ」
「少年? ああ、この子。どうもしないよ、君たちをおびき寄せる、エサだよ、エサ。僕はさ、久しぶりに相棒に会いたかったんだ。笛吹いて騒動起こせば、怜が飛んでくると思ったのに。それがはずれだもんな」
莉啓は、静かに、しかし素早く思考を巡らせた。自分と同じところに所属しながら、この男は決して味方ではない。奔放にこちらの世界を飛び回っているだけだ。それがこのような辺境の町で遭遇などと、ただの偶然なのだろうか。
「怜ならいないわ、翠華。しつこいと嫌われるわよ」
腕を組み、ワンピースの裾をひるがえして、悠良が莉啓の背後に現れた。ここにいろ、といわれて、おとなしくいるような人物ではなかったことを、改めて莉啓は認識しつつ、かばうようにそっと身体をずらす。
「うわ、悠良嬢。はずれ二人目」
「失礼極まりないわね。お母様にいって、向こう百年謹慎処分にしてもいいのよ」
無表情のなかにかすかな怒りを見せ、悠良が翠華を見据える。翠華はちぇっと舌を鳴らした。
「僕だって遊んでるわけじゃない。天女との契約は『自由にしてていいけど見つけたら仕事しろ』だもん。見つけちゃったからさ、いまは仕事中だよ、一応」
肩をすくめて見せる。警戒しつつ、莉啓は問うた。
「それは、セリーヌ=エリアントのことか」
「なんで教えると思う、僕が君たちに」
人をばかにするように、首を左右に振って肩をすくめてみせる。だから嫌いなんだ、と莉啓は心中で強く思う。
「ヒントならあげよう。……そうだね、二つ」
しゅるりと裾を床に遊ばせながら、翠華は窓を開けた。縁に腰かけるようにして、二人に向き直る。
「一つめ、セリーヌだけじゃない。君たちの考える以上に事態はやっかいだ。二つめ……うん、これはだいぶサービスだよ。この少年の日記を見せてもらいなよ、おもしろいからさ」
ぐん、とのけぞるようにして、窓から姿を消す。
最後に、声だけが残った。
「今回、一番分が悪いのはたぶん怜だよ。忠告もあって来たんだ。もう、遅いかもしれないけど」
気配が消える。かすかに届く、短い笛の音。
奇妙な沈黙。複数の気配が、一階のフロア部分で一度に動き始めた。術が解けたのだろう。
目の前で、レグも目を覚ます。
「ユラさん、リケイさん……?」
その場から離れるタイミングを失い、二人は立ちつくしたまま、顔を見合わせた。
──やあ、少年、また会ったね。
そんなことをいいながら、薄緑色の青年が部屋に入って来た。
レグは驚き、身構えたが、いつのまにかほんの数センチ前まで顔が近づいてきていて、何も出来なくなった。
──抵抗? やめておきなよ、別に君を連れ戻す気はない。
目を細め、そんなことをいう。信じられるもんかと反抗すると、青年はさもおかしそうに笑った。
──セリーヌがね、放っておけって。どうせ戻ってくるからって。彼女とは理由が違うけど、僕もそう思うから、何もしない。簡単なことだよ。
どうしてそんなことがいえるのと、精一杯の反論。青年は笑った。
──君は見捨てられないだろう、仲間を。
おもしろがるような目に見据えられて、レグは戦慄した。
──「狂ってる」……あれはよかったね。思わず笑うとこだった。でもそんな女のところへ、君は仲間を置いて逃げてきた。非難するつもりはないよ、ひととして当然。当たり前だね。
レグは黙る。反論のしようがない。仲間を、あの女のところへ残したまま、自分だけ逃げた。どうしようもない現実だ。それどころか、遠くへ逃げるだけの度胸もなく、こんなところでくすぶっている。
──旅人に助けを求めなよ。彼らはね、本当はそのために来たんだ。君が目を覚ましたら、ここにいるはずだから。ま、信じなくてもいいけどね。
青年の張り付いたような笑み。続く笛の音。レグの意識は遠のいた。
目を開けると、目の前には旅人の姿。
これが偶然だとは、とても思えない。
「ぼくを助けて」
考えるよりも先に、そう口走っていた。立ちつくしていた二人は──悠良と莉啓は──もう一度顔を見合わせて、口を閉じる。この少年に対しての自分たちの立ち位置を考えあぐねている。
「ぼくには、やりたいことがある。だから、協力して。……あなたたちは、そのために来たって聞いた」
つかつかと部屋を進み、奥の小さなチェアに腰を下ろすと、悠良は悠然と赤い髪をかき上げた。
「気に入らないわ。やりたいことがあるなら、ひとりでやりなさい」
辛辣な言葉を投げる。そっと、黙ったまま、莉啓は彼女の隣に控える。
「違うんだ……ひとりじゃ、だめなんだ。努力したとか、やってみたとか、それだけで終わったら意味がないんだ」
悠良は黙って聞いている。話しぶりから考えて、翠華に何かを吹き込まれたことは確実だ。ここですんなり承諾しては、手のひらで踊ることになる。仕事の効率は上がるかも知れないが……非常に、癪に触る。
「詳しく聞こう」
冷静に、莉啓は促した。
「昨日、君は屋敷から逃げてきているようだった。何があった?」
「……あの女は、狂ってるんだ」
レグは頭を垂れ、ぽつりぽつりと、話し始めた。