story6 忘れられた魔女 2

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 逃げなさい、とあの女の声が聞こえた気がした。
 逃げられるものなら、どこまでも、と。
 日はまさに暮れようとしており、赤い空と紺碧の空とが混在していた。しかし頭上に目をやる余裕などあるはずもなく、レグはひたすらに走った。右手には分厚い本。これしか、持ち出すことはできなかった。ずっと聞こえていたかすかな笛の音は、自分の荒い呼吸によってとっくにかき消されている。しかしだからといって、追っ手がいなくなったわけではない。背後から音のない気配が近づいてきている。消されるのだろうか。それとも連れ戻されるのか。
 どちらもごめんだった。風を受けて逆立った栗色の髪から、汗が垂れる。拭う間すら惜しんで、振り返る勇気もなく、ただ走る。足にからみつく草も、左右から飛び出す木々も、すべてが邪魔だ。町はこれほどに遠かっただろうか。一刻も早く、人がいるところに行かなくては。
「──うわっ」
 足がもつれた。とっさに頭をかばうようにして、肩から地面に激突する。
 瞬時に、ぶわりと風が襲い、人影がレグを囲んだ。
 表情のない数人の影。無表情なのではない、目も、鼻も、口も、ひととしてあるはずのものが、何一つ存在しないのだ。
 一人が手を伸ばす。ぬるりと伸びるような動き。レグは無我夢中で手をはね除け、木々の奥へと身体を滑り込ませる。
 視界が開けた。飛び込んできたのは無数の花。赤い、真っ赤な、花。
 ほんの数分前、屋敷で見た花々が脳裏に蘇る。同時に、女の笑顔。
 胃の奥から何かが突き上げる。レグは口を覆った。
「どうしたの」
 不意に、声がした。
 目を見開くと、赤い花のなかに、ひとりの少女の姿があった。
 作り物のように整った美少女。絶世の、といっていいだろう。
 ただしそれは、どこか近寄りがたい、鋭利な美しさだ。
 追われていることも忘れ、赤く、長い髪が風に揺れる様を、瞬きもできずにレグは見つめる。花の精──本気で、そう思った。
 どさり、と背後で何かが倒れる音がした。我に返り、レグは振り返る。
 あれだけの人影が、いつのまにか、すべて倒れ伏していた。
「どうしたの、と聞いているのよ」
 苛立ちを含んだ少女の声。何か答えなくては、とレグが口を開こうとする。
 しかしそれよりも早く、ひゅっと長い棒が目の前で風を切り、気の抜けた声が真横から聞こえた。
「知らないよ、なに怒ってんの。善良っぽい少年を助けてみただけだろ」
「わ……っ」
 思わず悲鳴を上げ、レグは背中から転倒した。無意識にずっと握りしめていた本が、存在を主張するようにばさりと落ちる。
 これほど近くにいたのに、気配がまったくなかったのだ。少年は──といっても、レグよりは年上だろう──手にした長い棒をくるりと回し、服の裾に両手を突っ込んだ体勢で、いかにも不満そうに木にもたれかかった。茶色の、少しだけ長い髪を後ろで束ねた、身軽そうな姿の少年だ。こちらには目もくれない。
「迂闊だな」
 花畑の向こう側にある木から、冷淡な言葉を吐き捨てるようにして、もう一人、人影が降り立つ。髪も衣服も黒く、影そのものであるかのように見えた。前髪の両サイドが長い。目つきは悪そうだ。
「その少年が関係者ではないという保証もないだろう」
 つかつかと歩み寄り、鋭い視線を投げた。レグはびくりと身を震わせる。
 助けてくれたのは確かだが、味方とも限らない。
「えー。じゃあ、ほっとけばよかったのかよ。そりゃいくらなんでもかわいそうだろ。なあ?」
 問いかけられた。レグは返答に困り、曖昧にうなずく。
 この三人は何なのだろう。カンパニーの所有するこの自然公園は、いまは立ち入り禁止になっているはずだ。なぜこんなところに、当たり前のようにいるのか。いったい何をしているのか。
 しかし、三人の姿はどこか異質で、質問を投げかけることをためらわせた。
「……仕方ないわ。こうなった以上、協力してもらいましょう。あなた、名前は?」
 赤い髪の少女が、すっと目を細め、身を屈めるようにしてレグを見た。レグは空気を飲み込む。
「名前は、レグ。……あの、ありがとう、助けてくれて」
 声が震えている。格好悪いな、と胸中で後悔する。
「私は悠良ゆられんの気まぐれでしたことよ、感謝はいらないわ」
 しかし少女は意にも介さず、にこりともしないでそう答えた。ユラ、レン──聞き慣れない発音だ、とレグはぼんやりと考える。黒髪の青年は莉啓りけいと名乗った。これも、聞いたことがない。
 そういえば、着ているものも、どこか異国らしさを漂わせている。遠い地から来たのだろうか。こんなところに、何をしに。
「あの……ここは、立ち入り禁止になっていたはず。あなたたち、どうやって……」
 やっと質問の一つを投げかけると、怜という名の少年が、おどけたように肩をすくめてみせた。
「や、それがさ、道に迷っちゃって」
「……迷って?」
 どう迷ったら、厳重に柵が張り巡らされた土地に足を踏み入れることになるというのだろう。
「そんなことはどうでもいい。君が誰なのかは知らないが、世の中持ちつ持たれつだ。そこの迂闊な棒使いに、助けられた、という自覚はあるな?」
 棒使いかよ、と棒を手にした少年が吠えている。レグはうなずき、もう一度礼を述べた。
「それで、協力って……?」
 莉啓という名の青年が、生真面目に咳払いをした。
「今夜の宿を」
 ということは、本当に道に迷った旅人なのだろうか。面食らったまま、レグは、それぐらいならなんとか、と承諾した。

 広大な敷地を誇る自然公園を抜けて、外周をぐるりと回って街道に戻り、町に着いたころにはとっくに日は暮れていたが、顔なじみの宿は嫌な顔をしながらも部屋を提供してくれた。三人の旅人たちは、金なら持っているようだった。
 三人を一番値の張る客室に通したあと、レグは宿の主である金髪の女性を捕まえた。
「カタリー、実は、お願いがあるんだ」
 主はあくびをかみ殺し、不機嫌そうにレグを見下ろした。
「なんだい、改まって」
 カタリナはまだ二十歳になったところだが、この宿を任されている若き主だ。ブロンドを一つに束ねた様子は凛々しく、町の男どもが噂するとおり美人ではあるが、とにかく気性が荒い。
 レグとは古い付き合いというわけではないが、レグはカンパニーを通して、何度か宿に手伝いに来ていた。よく働く、この愛想のいい少年を、カタリナは少なからず気に入っていた。いまどき珍しい少年だ。
「ぼくがここにいること、秘密にしてもらいたいんだ……特に、カンパニーには。迷惑は、かからないようにするから」
 カタリナは、形のいい眉を顰めた。
「それは、あの上客と関係あんのかい」
「ないよ、あのひとたちは、むしろ命の恩人さ。そうじゃなくて、個人的なことだよ。お願い」
 必死に訴える。所属していれば少なくとも生活は保障されるはずのカンパニーにいて、なぜそのようなことをいいだすのか。カタリナはレグの顔をのぞき込む。
「まさかあんた、クビにでもなって……」
「とにかくさ、見つかったらやばいんだ。ね、お願いだよ」
 カタリナは押し黙った。レグには、人手が足りないときに助けてもらった恩がある。何より、このまっすぐな少年のことは、嫌いではないのだ。
「わかったよ、一階の端の部屋、好きに使いな」 
「カタリー! さすが!」
 満面の笑みを浮かべ、レグはカタリナの頬にキスをすると、勢いよく部屋に飛び込んでいった。カタリナは苦笑する。
 何か事情があるのだろう。まだ少年とはいえ、ひとりの人間だ。干渉するべきではない。
 思い出したように小さくあくびをもらし、カタリナもまた、カウンターの奥の自室に引っ込んだ。
 静まる店内。二階の柱の影から一部始終を見ていた怜は、長い棒を片手に、ふむ、と鼻を鳴らした。
「これは拾いものだったかな」
 そうして彼も、部屋へと消えた。




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