story6 忘れられた魔女 18
悠良は夢を見ていた。
ひどく悲しい夢。
少女がひとり、立っている。黒い髪、黒い瞳の、美しい少女。
少女はただ立ちつくしていた。
まわりの景色だけが、ゆっくりと過ぎていった。
少女はいった。行かないで。
しかし誰もそれに気づかず、彼女を振り返らず、通り過ぎていった。
少女はくり返した。
わたしを見てと、懇願した。
それでも景色は流れていく。
それでもときは過ぎていく。
少女の足だけ、動かない。
ひとりにしないでと、少女は叫んだ。
そのときにはもう、まわりには何もない。
悠良は目を開けた。
みしり、と扉がきしんだ。
それはもう、ほとんどが開いていた。
「──!」
何かを叫ぼうとするが言葉が声にならない。身体を起こす。ひどい目眩。全身が重く、どれだけのときが過ぎたのかもわからない。
だが気を失う訳にはいかない。このままでは扉が、開いてしまう。
「……くっ……」
脱力感と苦痛に顔を歪め、扉へ手を伸ばそうとする。
ふと、影が落ちた。
見慣れた、黒い影だ。
「おはよう、悠良」
まるでいつもと変わらない朝のように、自分にだけ優しいその声は、そう告げた。手のひらが青白く光っている。光が、悠良の身体を覆うのがわかった。
「莉啓──」
自然と声が出ていた。見ると、身体に施された文様が消えている。身体もさきほどよりは、幾分楽になっている。
「扉が……開くわ」
「とりあえずこれを飲んで、悠良。だいぶ衰弱しているはずだ」
用意してきたのだろうか、丁寧にトレイに乗ったコップに、ジュースのようなものが入っている。渡され、いわれるままに流し込むが、正直それどころではない。
「扉が──」
「もう手遅れだ」
静かに、悠良を落ち着けるように、莉啓はいった。
「もう、開けるしかない。一度ここで食い止める」
「無理よ」
悠良が反論すると、莉啓は少し笑ったように見えた。知っている、といっているかのようだ。
「半分抑えられれば──上出来だわ。あとは、流れ出す」
「そのための手も打ってある。悠良は少し休むんだ。このあとで大仕事が、待っているからね」
莉啓は両手を上げ、祈るような姿をした。よく見ると、空間に浮いた扉の周辺には、赤い陣が描かれている。難解な文字が書き巡らされたものだ。そこまで準備をして術を使おうとする莉啓を、少なくとも悠良は見たことがない。
莉啓は口のなかで何かをつぶやいている。
悠良が見守るなか、重く鈍い音とともに、扉が開いた。
「──っ!」
悲鳴は声にならなかった。
ただ光が一斉に扉からあふれ出すのが、かすかに見えた。莉啓の両手からのぼる青い光が、それを押さえつけようとしているのが視界の端に映る。しかし隙間から、小さな光が次々に飛び出していく。
「莉啓、無理だわ! あなたが──!」
しかし声は届かず、部屋中が光に包まれた。
屋敷が揺れた。
パーティーを楽しんでいた人々が、何ごとがあったのかと動揺し始める。揺れはすぐにおさまったものの、気のせいで片づけられるような、そんな規模ではなかった。
笑い声は消え、不安そうな空気がホールに満ちる。
堪えきれないといったように、笑い声が響き渡った。
セリーヌだ。
セリーヌは段の上に立ち、両手を掲げ、恍惚とした表情を見せた。
「みなさん──どうか、今日という日を覚えていてください。今日は、わたしにとって、みなさんにとって、記念すべき日になると、約束します──」
普段の落ち着いた声からは想像できない、甲高い声。客たちはセリーヌを見る。いったい何ごとがあったのか。ホール内はかすかにざわつき、嫌な空気が満ちている。
「流れ星」
無邪気にも、子どもがそうつぶやいた。
あまり大きな声でなかったにもかかわらず、それは多くのひとの耳に届いた。
頭上を見上げる──光り輝く、直径十センチほどの球体が、無数に浮かんでいる。
「なにあれ……」
演出か、という声もあった。しかし誰かが悲鳴を上げたのを皮切りに、ホール内に混乱が訪れた。
光の球が、人々をめがけて降り注いできたのだ。
セリーヌは声を限りに笑った。
「素敵──! こんなにたくさんのひとが、わたしとともに生きるのね……! やっと満たされる! やっと……!」
歓喜に打ち震える。
眼下では、逃げまどう人々。交錯する悲鳴。我先にと、出口に向かう姿。
そのすべてが美しく見えた。
望むものを手に入れる、序曲なのだ。
「……?」
しかしやがて、異変に気づいた。
光の球は、ひとのなかに入るどころか、跳ね返されている。
「どういうこと……?」
「小細工したってことだね」
いつのまにか背後には、長い棒を持った少年が立っていた。またこの男──セリーヌは忌々しげに、眉を顰める。
「何をしたの」
怜はおどけて、肩をすくめてみせる。
「見て分かるでしょう」
セリーヌは鋭く舌打ちした。町の人間がぶら下げているペンダントから、かすかな光が発せられている。魂を跳ね返しているのか。
「……邪魔をしないで。あなたにそんな権利があるの」
「権利? 必要ないね」
セリーヌは身をひるがえし、開け放たれた窓に駆け寄った。外にも光の球が見える。この敷地がだめでも、敷地の外ならば。
「確かに、お守り渡したのはパーティー出席者だけだけど。それだけじゃないんだな」
背後から、静かな声。セリーヌは拳を握りしめた。自然公園の向こう側に、やはり青白い膜のようなものが見える。
「まさか……敷地全体を覆っているの」
「大変だったよ、俺じゃないけど」
忌々しい──セリーヌは怜を睨みつけた。行き場のない光の球が、無数に浮遊している。これだけの魂があるのに。何一つ自分のものにならないなんて。
どこからか、笛の音が聞こえた。懐かしい音色。音はだんだん大きくなり、窓からふわりと、薄緑色の衣装をなびかせた翠華が降り立つ。
「敷地を囲ったのは僕だよ、僕。おいしいところ持ってかないでよ、怜」
少し怒ったように、そんなことをいう。彼が笛を口から離したときには、いつのまにか、会場に集まっていた人々は皆、倒れ伏していた。
広範囲の人物を術にかけるのは、翠華の得意とするところだ。
カンパニーで働く少年たちだけが、眠ることなく、戸惑ったようにこちらを見ている。
「そうやって……邪魔をするの。わたしのたったひとつの望みすら、叶えさせてはくれないのね……」
くっと小さく、セリーヌは笑んだ。
馬鹿馬鹿しい。
ここまできて、やっと手に入れたと思っても、やはり何も手に入れることなどできないのだ。
それならばなぜ、自分には、これだけの時間が与えられてしまったのか。
「貴方は……たとえばこれを手に入れたとして、それで満足なのですか」
もうひとつ、別の声がした。
怜の向こう側に、莉啓が立っていた。
「…………」
セリーヌは黙って、彼を見る。彼の隣には、うつろな目をした少女がひとり、だらりと莉啓にもたれかかるように、立ちすくんでいる。ペンダントをしていない。そもそも受け取らなかったか、または落としたかしたのだろう。
「やはり数人、魂に入られた者がいた。この少女はそのうちのひとりだ。このまま魂が入っていれば、永遠に死ぬことはないだろう。だが──」
生きることもない。
後半はいうまでもなかった。少女の目には光がなく、肢体はだらりと力が抜けてしまっている。
転生前の魂が入るというのは、そういうことだ。莉啓は呪詛を唱え、少女から光の球を引き出した。どさりと、少女は倒れ伏す。
「満足なのですか」
もう一度くり返した。
セリーヌは黙っている。口を開けば、望みは決して叶わないのだと、認めてしまいそうだ。
「──戻りなさい」
静かな、しかし力のこもった声。夢を見ているような気分で、セリーヌは声の主を見やる。
ホールの中央で、悠良が手を掲げていた。光の球が、ゆっくりと彼女の手の中に集束されていく。
やがて光は、すべて消えた。
赤い髪の少女が、決して曇らない真っ直ぐな瞳で、セリーヌを見上げる。
「これで振り出しね……望みは、叶ったかしら?」
セリーヌは黙っている。
悠良と、翠華と、怜と、莉啓と──そしてカンパニーで働く少年たちと、レグとを、見る。
不公平だ。
望んだのは、こんなものではない。
「花羅──あなたはなぜ、三百年近くも、さまよい続けているのか」
莉啓が、静かに告げた。
セリーヌは身を震わせた。
花羅……もう忘れた名前だ。
その名前で、呼ばないで。