story6 忘れられた魔女 15

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 ぴたり、と莉啓は手を止めた。
 デスクはすでに、目を通し終わった分厚い書物で埋め尽くされている。椅子の横には、まだ見ていない書物が積んであったが、もうそちらは、必要ないかのように思われた。
「……二百七十四年……」
 ぽつり、とつぶやく。色あせた書物には、はっきりと、セリーヌ=エリアントの名。
 気の遠くなる年月だ。
 それだけの年月を、過ごしてきたというのか。
 白い扉がノックと同時に開かれた。そちらを見やると、白い衣装の裾を引きずり、現れた天女と目があった。
「弥良様……! こんなところへ……」
 慌てて立ち上がり、深々と頭を下げる。天女は、悠良とよく似た髪を揺らし、不満そうに唇をとがらせた。
「固い。莉啓ちゃん、そんなんじゃ苦労するわよ」
 何度いったかわからない台詞を口にして、デスクに歩み寄る。高く積まれた書物に、感心するような声を出した。
「仕事早いわね。こっちで職に就いてもらおうかしら、いまからでも」
 莉啓は狼狽した。
「いえ、私は、悠良様の警護を……」
 その様子に、こらえきれずに天女は笑い出す。冗談よ、といいながら、莉啓が開いたままにしていたページを覗いた。
「……あったのね。そう……つまり彼女は、こちら側の不手際が生み出してしまった魔女、ってことね」
 他人事のようにつぶやく。答えられず、莉啓は押し黙った。
 もちろんそれだけではないのだろうが、天女のいうことは正しい。三百年近く放っておかれるようなことがなければ、もう少し、事態は違っていたのだろう。
「悪いお知らせよ、すぐに下に戻ってもらいたいの。目的が果たされているのなら、よかったわ」
 天女は真剣な瞳を見せた。
「何者かによって、天界と下界をつなぐ扉が、むりやり開かれようとしているわ。おかげで、転生を待つ魂たちが、ざわつき始めている」
 莉啓は息を飲む。むりやり開くなどと、果たしてそのようなことが可能なのか。
「やっかいなことに、力の波動は悠良ちゃんのものなの。でも、明らかに彼女の意志ではない──わかるわね、どういうことか」
「──! 悠良が……!」
 莉啓はすぐにでも飛び出そうとする。デスクと壁の間をすり抜けようとしたところを、天女は阻んだ。がん、と壁を蹴るように、右足を出したのだ。ささやかなスリットから、白い足が露出される。
「慌てないで……ね?」
 にこりと微笑む。かつて下界で大暴れしたという逸話を思い出し、莉啓はおとなしく止まった。
「場所を割り出したら、やっぱり、ちょうどあなたたちが絡んでいる地域に間違いないわね。莉啓ちゃん、あなたには責任を果たすだけの能力が、あるはずよね」
「誓って、必ず」
「なら安心」
 天女は足を壁から離し、片手を上げた。静かな動きと同時に、澄んだ鈴の音が莉啓の耳に届く。
「莉啓ちゃん、ファイト!」
 明るい声に背中を押され、莉啓は下界へと向かった。
悠良に危害が及んでいるというのなら、一秒であっても、立ち止まっているわけにはいかない。

 注意深く気配を読みとりながら、幾つもの部屋に足を踏み入れたが、怜は未だ悠良を見つけ出せないでいた。
 どう考えても、無駄なほどに、広い。
「……絶対部屋とか余ってるよな」
 どうでもいいことをつぶやきつつ、探索を続ける。地下と一階はすべて調べた。残されているのは、あと二階の半分ほどだ。
 いきなり扉を開け放つようなことは、無論しない。戸の前でなかの様子をうかがい、それから確かめていくのだ。これだけまわっても、ひとの気配があったのは、地下の翠華がいた部屋と、一階の子どもたちがいるであろう三部屋だけだった。十以上部屋をめぐり、いいかげん飽きてくる。
 しかし、もちろん、集中力を途切れさせるような真似はせず、怜は次の部屋の戸の前で、耳をそばだてた。
 伝わる、かすかな息づかい。誰かいることは確かだ。
 怜はそっと棒を持ち上げ、わざと扉の前で壁を軽く叩き、音をたてた。そのまま身を隠し、ときを待つ。
 誰も出てこない。
 少なくとも、部屋のなかにいるのは、セリーヌではないだろう。
 戸を開けようと、手をかける。鍵がかかっていることに、怜は手応えを感じた。
「よくやった、俺」
 つぶやいて、懐から金具を取り出した。鍵穴に入れ、数秒、いじる。
 戸が開いた。
 少しだけ開けた状態で、念のため身を隠す。そうして、素早く部屋のなかをうかがい、息を飲んだ。
「悪趣味っ」
 思わず声に出す。赤い天井と床。壁一面に飾られた赤い花。正気の沙汰ではない。
 しかし、部屋のベッドに横たわる人物が、一層怜を驚愕させた。
「悠良──」
 すぐに駆け寄り、呼吸を確かめる。弱々しいが、確かに息をしていることに、とりあえず胸をなで下ろした。眠っているのだろう。しかし、その頬や首もと、手足──見えないが恐らく身体中に、黒い文様が描かれている。かき消そうと頬に触れたが、物理的な力では消えそうもない。
 怜は鋭く舌打ちした。彼女を抱きかかえようとするが、持ち上がらない。強い力でベッドに引っ張られているかのようだ。
 術を解除する術はないかと、室内を見わたす。考えられるのは、赤い花。だが、壁に近づくと、見えないものに阻まれ、跳ね返された。加えて、目眩が怜を襲う。
「厄介……! これは啓ちゃんの管轄か」
 ふと、ベッドの前の空間に、扉があるのが目に入った。先ほどはすり抜けてしまったようだ。実態のない、半透明の扉。数センチだけ、開かれている。
「見たことあるな……天界の扉?」
 触れようとするが、触れることさえできない。怜は思考を巡らせた。
 少なくともここにとどまるのは得策ではない。再び術中に落ちることは目に見えている。とはいえ、悠良は意識を失っており、連れ出すことも出来そうにない。
「……もうちょい我慢しろよ」
 怜は悠良の赤い髪を撫で、さっと部屋を抜け出した。

 レグはひとり、部屋にこもっていた。カンパニーで働いている少年たちには、四人に一部屋があてがわれている。ひとりになりたいと告げ、部屋に入ったのだ。
 ベッドが四つと簡易テーブル、クローゼット、鏡と水桶の置かれた、質素な部屋だ。それでも構造そのものが良いので、町の安宿よりはしっかりしている。
 自分のベッドに座り込み、レグはぼんやりと思いをめぐらせていた。考えがまとまらない。やはりこのような状態で、ここに戻ってきてはいけなかったのか。
 頭が混乱している。
 何をすべきなのか、わからないでいた。
戸がノックされた。誰が入ってくるのか、ノックの音で察し、レグは身を固くして、静かに戸を見守った。
 戸が開かれ、入ってきたのは、やはりセリーヌ=エリアントだ。
「戻ってきたのね、お帰りなさい」
 柔らかく微笑み、戸を閉める。レグに歩み寄り、しゃがむと、抱きかかえるように彼の頭を撫でた。
「気は済んだの?」
 優しい声だが、とげのあるいい方だ。レグはセリーヌの優しい顔を見つめた。
「セリーヌ……ぼくは、どうすればいいのかわからないんだ」
 なぜか素直に、そんな言葉を口走っていた。セリーヌは目を細める。
「馬鹿な子。ずっと、ここに……わたしのそばにいればよかったのに。わたしから離れていくんでしょう」
「セリーヌ……」
「いいのよ、離れたいんでしょう?」
 残酷な笑み。レグは目を見開く。
「そんなこと」
 そんなことをいわないで──いい終わるよりも早く、セリーヌの首もとに長い棒があてられた。かすかに顎を持ち上げる。
「レンさん──!」
 戸が開く気配すらわからなかった。怜は彼女の背後に、音もなく立っていた。
「あんまりいじめないでよ、見てる方の胸が痛む」
 軽い声が投げられる。セリーヌは振り返ることも出来なかったが、おもしろがるようにちらりと視線を動かす。
「また来たの。つくづく暇な男」
「これでもいろいろ忙しいんだけどな。こっちには、そちらさんほど時間はないんでね」
 セリーヌの眉が、かすかに、不快そうに動く。
「……失礼な男ね」
「それはどうも」
 いちいち癪に障るいい方だ。
「こんなところにわざわざ来るほど馬鹿ではないでしょう、あなたは。なんの用?」
怜の声音は変わらない。
「それがわからないセリーヌさまではないでしょう」
「……無駄よ」
 掛け合いを諦め、セリーヌは吐き捨てた。戸惑うレグの表情を楽しみながら、背後に声を投げる。
「悠良さんはあそこから出られないわ──扉が開くまでね。そういう術よ。無理に解除すれば、あの子の身の安全は保障できないわね」
 一瞬、怜は黙った。
「……信じろと?」
「別に信じる必要はないわ。大事な姫が息絶えるのを見て、後悔なさい」
「…………」
 そうきたか──怜は素早く思考を巡らせる。しかし、これでは、動きようがない。
 くすくすと、彼女は笑った。
「二日よ──あと、二日。二日後には、解放するわ。悠良さんに恨みがあるわけではないもの」
「じゃ、いったん引こうか」
 怜は棒を彼女の首にあてたままで、レグを見た。レグはセリーヌと怜とを、困惑したように見ている。
「レグはどうすんの。残る?」
 急に振られ、え、と声を出す。
 少し考えて、レグはうなずいた。
「ぼくは残るよ」
 このままでは、ここを離れられない。
 まだ何のけじめもつけていないのだ。
「あ、そう。じゃあ俺は、ひとり寂しく出直そうかな」
 怜は棒はつかんだままで、空いている片手を伸ばした。誰もいないベッドに転がっている枕をつかむ。
 それを放り投げ、棒をくるりと回し、素早く突いた。破裂した枕から羽根が飛び散り、一瞬、二人の目が奪われる。
 ひらひらと、羽根が床に落ちるときには、怜は姿を消していた。
「おもしろいわね」
 小さくつぶやき、セリーヌは妖艶に笑んだ。




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