story6 忘れられた魔女 14
吹き抜ける風は冷たく、曇り空は光をとおさず、レグは無意識に上着の首もとを握った。やはり持って来てしまった右手の日記にちらりと目をやり、それから前を見る。
数歩先を、長い棒を持った人物が歩いている。足取りは速く、宿を出てから、ひとこともしゃべらないでいる。
レグにはまだ、わからないでいた。
こんな気持ちのまま、カンパニーにたどり着くことは、ひどくいけないことのように思われた。
「……レンさん」
呼び止める。その声に、怜は半分だけ振り返り、それからスピードを落として、レグの隣に並んだ。
「暗い顔」
ただ並び、彼の顔を見るわけでもなく、そんな言葉をよこす。レグは唇を噛んだ。
「……迷ったことは、ない?」
そして、漠然とした疑問を口にした。
怜は少し考えるようにして、黙ったまま街道を進む。舗装されていない、でこぼこの道。少し離れた両側には、整えられた木々。
まだカンパニーの門は小さく見えるだけだ。
「あるよ。いまでも別に、正しいかどうかなんて知らない」
レグは立ち止まった。数歩先で足を止め、怜は振り返る。
「別に、こっちは神様でもなんでもない。お仕事をね、しているだけ」
少し辛辣ないい方だ。レグはうつむいている。その両手に、力がこもっているのが見て取れる。
「生きていることと、死んでいることは、何が違うの」
レグの声は震えていた。
「どうして、ここにいては、いけないの」
怜は、いまにも泣き出しそうな少年のもとへ戻り、しゃがみこむと、彼の両肩をつかんだ。
レグが顔を上げる。怜は見たことのない、怖いぐらいの真剣な目をしていた。
「レグは何がしたい?」
単純な問いだ。しかし、答えることが出来ない。
「世の中の法則とか、こうすべきだとか、何が正しいとか、くだらない」
聞いたことのない、偽らない声だ。レグは目が離せないでいた。
「どうしてここにいちゃいけないかって、そんなもの、天界のルールでいえば、いくらでも説明できる。でも知りたいのはそんな決まりごとじゃないだろ。そんな大事なものを、他人に託すな」
「……でもぼくは」
どうすればいいかわからないんだ──続く言葉は口にしてはいけない気がして、飲み込んだ。怜のいっていることが、理解できないわけではない。しかし、理屈と、心とが、うまくかみ合わない。
「俺は──俺たちは──利害が一致するなら、レグに協力する。それだけ。もっと単純に考えて、好きなようにすればいいんじゃないの」
最後は優しく、レグの頭を撫でた。
レグはうなずく。
おかしいと感じたこと、間違っていると感じたこと、そしていまの迷いもすべて、自分の確かな気持ちだ。まだ答えは出ないけれど、少なくとも、立ち止まっているわけにはいかない。
「ごめん、行こう」
仲間を助けたいという願いは変わらないのだ。
レグは顔を上げた。
屋敷に到着したレグは、もちろん何の問題もなく、屋敷のなかに入っていった。怜は、今度は正面から入るようなことはせず、扉を開けに出てきたエイン=リーダの隙を見て、こっそりと忍び込んだ。もう、失態は許されない。
足を踏み入れるのはこれで二度目になるが、やはりセンスがよくわからない。そもそも赤絨毯を敷き詰める感覚が謎だ。そんなことを思いながらも、ひとに見つからないように細心の注意を払い、怜は歩を進めた。
屋敷のどこかに、悠良や翠華がいるはずだ。セリーヌはもう、侵入者の存在など気づいているかも知れなかったが、彼女に出くわす前に二人に会わなければ。
正面から気配を感じ、怜は素早く廊下を曲がった。天井に張りついて、息を殺す。
歩いてきたのは、黒髪の魔女。セリーヌ=エリアントだ。
少しだけ考えて、彼女のあとを追う。セリーヌは数回角を曲がり、階段を下って地下に入ると、奥の戸を開けた。
戸が閉められたのを確認し、ぎりぎりまで近づく。耳をそばだてると、声が漏れてきた。
「……こんなことをしてもムダだよ、セリーヌ」
聞こえてきた声は、翠華のものだった。
目を覚ますと、翠華は両腕を縛り上げられ、壁から吊されていた。色彩のない質素な部屋は、もともと牢獄として使うためのものなのか、石の壁が張り巡らされ、部屋の中央は鉄格子で仕切られている。
部屋のなかに現れたセリーヌは、鉄格子の前で薄く笑った。
「なら逃げて良いのよ」
何でもないことであるかのように、優しく声をかける。
「それにしても綺麗ね、森の妖精を捕まえた気分。あなたのその緑色の髪も、瞳も……そう、その少し警戒した顔も、素敵だわ」
「警戒? うぬぼれないで欲しいね、君になにができるの。ここから逃げ出すことなんて、それこそ造作もないよ」
自由を奪われた状態であっても、翠華は不敵にいい放ってみせる。セリーヌはまったく意に介さない様子で、かまわないわ、と答えた。
「あなたはわたしの、邪魔はしないでしょう? わかるのよ。あなたは、わたしと、同じだわ」
確信しているいい方だ。
「おもしろいね。こっちとしては、一緒にされたくはないんだけど」
「虚勢も張るのね、かわいらしいわ」
くすくすと、彼女は笑う。話にならない──セリーヌの様子に、そう翠華は判断する。真っ向からはなしをしたとして、通じる気がしない。
翠華は口を開くのをやめ、セリーヌを見つめた。黒い髪、黒い衣装、そして赤い爪。ずっと望みを追い求めてきた、魔女の姿を。
「見届けてちょうだい、翠華。わたしが、望みを叶えるところを」
歌うように、彼女はつぶやいた。
「もうすぐ叶うの。悠良さんが、協力してくれるのよ」
翠華の顔に、初めて動揺の色が浮かんだ。
「なにする気?」
「あら、そのつもりでここに来たんでしょう?」
セリーヌは、少女のように笑った。
「楽しみだわ」
そうしてついと踵を返し、戸を開けようと手をかける。少しだけ振り返り、吊された翠華を、もう一度見た。
「わたしは幸せになるわ。あなたはそれを、見ていてね」
戸が開かれた。足音が少しずつ、遠ざかる。
残された翠華は、大きくため息を吐き出した。うっすらと頬ににじむ、冷や汗。
「……やばいかな、ちょっと」
「うっわ、だっせー」
不意に声がした。驚いて顔を上げると、戸を開けて怜が身を滑り込ませるところだった。
「怜!」
「助けに来たわけじゃないよ、悪いけど」
相変わらずの飄々とした口調でいって、拘束された翠華をまじまじと見る。おもしろそうに唇の端を上げた。
「貴重な光景だね。おまえがつかまるなんてよっぽどだ」
「怜が操られてたのも、おもしろかったよ……そういう相手だってことじゃないの、あの女は」
明らかに身動きの取れない状態であるにもかかわらず、翠華もまた軽口をたたく。怜は、床に座り込んだ。
「ま、その魔女を相手にするために、いろいろ聞いておかなきゃな。とりあえず、さっきの会話からすると、悠良ちゃんは捕まってると考えても?」
痛いところを突かれ、翠華は急にしおらしく、瞳を伏せる。
「……ごめん。それについては、いいわけのしようもない」
「あそ。ま、反省はあとでひとりでして。──どういうことなのか、説明が先だな」
口調はあまり変わらないが、伝わってくる雰囲気が、怜の静かな怒りを如実に物語っていた。翠華はおとなしく、口を開く。
「魂を、提供しようと思ったんだ、セリーヌに。悠良嬢の力を借りて」
少しだけ眉を動かし、怜は黙っている。無言の促し。
「セリーヌの気の済むようにやらせようと、思った。もちろん最悪の事態にはならないよう、こっちでコントロールするつもりだったけど。やらせて、それでも望みは叶わないんだと思い知らせて……それで、彼女の魂に、認めさせようと。ここにいることの無意味さをね」
「乱暴だね。嫌いじゃないけど」
感想を述べる。少なくとも、莉啓ならば絶対にしない選択だ。何より、悠良に危害の及ぶ可能性が高いのだから。
「で、要するに失敗して、この状態なわけね」
「……うん」
怜は立ち上がった。鉄格子の隙間から棒を差し入れ、翠華の両手を拘束している金具に触れる。
仕掛けなどされていない、ただの拘束具のようだ。
「この程度なら自力でなんとかなるな。そんじゃ、俺はこれで」
そのまま、助けるわけでもなく、部屋をあとにする。
「……そうとう怒ってるな……」
縛られた手をぎしりと動かし、何の手助けもなかったことに、翠華はぽつりとつぶやいた。
とはいえ自分の失態だ。自分で何とかしなくてはならない。
セリーヌの自信に満ちた笑顔が脳裏に蘇る。
「見届けようか、セリーヌ」
ぐきりと、翠華は自ら腕の関節をはずした。
「お帰り、レグ! なかなか戻らないから、心配してたんだ。休暇だったんでしょ?」
満面の笑みで迎えられ、とまどいを隠しきれず、レグは返答に詰まった。エイン=リーダは、いつもの気の弱そうな様子とはうってかわって、喜びを全面に押し出している。
「今日はね、半分ぐらいは町に仕事に行っているけど、あとはみんなここにいるよ。ねえ、話を聞かせてよ。町の方にいたの? いいな、ぼくも休暇をもらおうかな」
いつもより多くしゃべり、レグたちの憩いの場としてあてがわれている、広いリビングの戸を開ける。なかでは、何人かの少年少女たちがくつろいでいた。
「レグだ! どこ行ってたんだよ」
「お帰りなさい、レグ」
口々に声をかけられる。
レグは困惑した。
共に暮らして来た仲間たち──大好きな、仲間たちだ。
彼らが死んでいる?
頭では理解しているのに、赤い花のなかでそう告げたセリーヌの笑顔が思い出せるのに、どうしても受け入れられない。
だって、ここにこうしている。
こうして笑っている。
いったい何が違うというのか。
「……レグ? 元気ない?」
心配そうに、エインが顔をのぞき込んできた。びくりと身を震わせて、レグはエインの顔を見つめ返す。
決意が揺らぎそうだ。このあたたかい、愛すべき場所のすべてを、自分は壊そうとしているのだ。
「ねえ……みんなはさ、いつから、ここで働いているんだっけ」
きっかけを得ようと、あるいは自分に時間を与えようと、レグはそんな問いを発した。彼らは皆、顔を見合わせる。
「いつから? そんなの、レグがいちばん古いんだから、知ってるでしょう」
なかのひとりがそう答える。そのとおりだ。
レグは別の問いかけをした。
「みんな、どこの出身なんだっけ?」
「いろいろだよな。オレはトリコだろ。エインはリーゲだった?」
口々に返される、町の名前。
違うのだ。
そんなことが知りたいのではないのだ。
「──じゃあ、みんなは、なんでここにいるの?」
知らず、大きな声を出していた。
盛り上がりを見せていた室内は、一挙にしんと静まりかえる。
誰もが、レグを見つめていた。息が詰まる思いで、しかしレグは、仲間の顔を見ることができなかった。
自分は何をいおうとしているのだろう。
もしかしたらそれは、ひどく残酷なことではないのだろうか。
「……ねえ、みんなは……ぼくらは、本当は……」
泣きそうになる。でもそれが事実なのだ。
告げようとしたレグの肩をつかみ、エインは人差し指を口元に当て、寂しそうな顔で首を左右に振った。
レグは気づいた。
ひとりひとりの顔を、ゆっくりと、見た。
「……知っているの?」
様々な思い出が、レグの脳裏に蘇る。
最初から、仲間たちはまわりにたくさんいた。
しかし彼らはいつのまにか姿を変え、消えていった。
いつからか、新しく入る仲間たちは、姿を変えなくなった。
自分と同じになった。
繰り返される日常。幸せな日常。
自分は知っていたのではないか。
何も知らないふりをして、本当は、自分がいちばん、理解していたのではないか。
ひどい頭痛がレグを襲った。しかし、痛みに思考を止めるわけにはいかなかった。
知っていたのだ。
セリーヌの言葉に衝撃を受けるふりをして、何も知らない顔をして、本当は知っていたのだ。
彼らが死んでいるということを。
それでも、仲間が欲しかった。
自分はセリーヌと、何一つ変わらない。
「ぼくは──」
頭が割れそうになる。
仲間たちが心配そうにこちらを見ている。
ずるさに吐き気がした。
でも、もう、どうしようもない。
「……ぼくは……」
どうすればいいのか。
いくら考えても、答えは出ない。