story5 恋人 3

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「……おいしい」
 カレン=セルウォーエンは、新しいシェフの手によるディナーを口に運び、思わず感嘆の声をもらした。広い部屋の中央に、ぽつんと一つ、大きな食卓。カレン一人のために並べられた料理の数々──少し離れたところでは、清潔な白い衣類に着替えさせられた莉啓が、慇懃に控えている。 
 少し寂しい、と莉啓は思う。両親や、兄弟だっているはずだ。なぜこの広い部屋で、一人で食事させるのだろう。
「リケイ、これは?」
「小龍包でございます」
「……ショーロ……?」
 繰り返そうとするが、どうも発音がわからない。
「初めて食べるわ。おいしい。あなたの故郷には、すてきな食文化があるのね」
そんなことをいわれるとは思っていなかったので、莉啓は少し驚いてから、懐かしそうに目を細める。
「ええ……長い、歴史が、ありましたから」
「……そう」
 カレンはナイフを置き、ぼんやりと、遠くを見るような目をした。
 正面には、向こう側の見えない窓、飾られている、枯れることのないドライフラワー。
「ここの歴史は、もうおしまいね」
 ぽつりと、彼女はいった。莉啓はそっと、その横顔に視線を移す。他に人間はいない。かといって、自分に話しかけているというふうでもない。
「お父様が心配してくださったのね。わたしが塞ぎ込んでいたから、最後に、あなたを雇ってくれた。おかげで……少しでも、楽しいと、感じることができたわ」
 言葉を返していいものかどうか、莉啓はためらう。最後、というのは、どういうことなのか。
「ねえ、せっかくだから、話し相手になって。……そうだわ、食事、まだでしょう? すわって。一緒に食べましょう」
 やっぱりこんなには食べきれないから、と静かに笑って、カレンは莉啓に席を勧める。莉啓は数秒間躊躇したが、席を一つ離した隣に、腰かけた。
「わたし、いくつに見える?」
 唐突に投げかけられた言葉に、莉啓は彼女の方を見ることもできず、一瞬固まる。どう答えるのが正解なのか。だからこれは自分の役回りではなかったんだと激しく後悔しながら、そのまま黙ってしまう。
「やだ、困らないで」
 カレンは笑った。
「二十三歳──もう、いい大人だわ」
 やはり、どういった言葉を返せばいいのか、見当もつかない。莉啓は、ちらりと彼女を見た。こちらを見ていないことに少し安心する。話し相手、といっていたが、実は独り言なのかもしれない。
「失礼ですが……最近、気分が優れないようだと、聞きました。いまも、そのように見えます。何か……」
 あったのかと、結局ストレートな質問になってしまう。そこまでいって黙ってしまい、結果、奇妙な沈黙が落ちた。カレンは思い出したようにサラダに手を伸ばし、フォークでかき混ぜながら、ぽつりとつぶやく。
「捨てられたのよ」
 わざと、被害者になれるいい方を選んだ。
「かけおちしようって、約束したの。セルウォーエンがだめになって、とてもではないけど、当たり前に結婚はできなかったから。──でも、彼は来なかった。きれいな、若い女の子といるのを見たわ……それからわたしは、からっぽよ」
 カレンは無表情で、そこには何の感情もこもっていないかのようだった。
「わたし、もっと大丈夫だと思ってた。こんな気持ちになるなんて、思ってなかった。あの人を失う可能性だって、考えたことがないわけじゃない──でも、わかってなかった」
 彼女の渇いた瞳が、静かに揺れた。
「ねえ、全部嘘だったと思う? そんなはずないの、ないけど答えて。私は、夢を見ていたんだと思う? 夢なんかじゃないわ。でも答えて。否定の言葉をちょうだい。ううん、それじゃ意味がないの。わかってるけど、でも、私は」
「それは……私には、わかりません」
 莉啓は低く、つぶやいた。
 カレンは目を見開き、それからくすりと、自嘲気味な笑みをもらす。
「わたしは、何を期待したのかしら」
 感情に反比例するかのように、静かにフォークを置き、莉啓を見据えた。
「あなたも、正しいことをいうのね」
 哀れむような目。莉啓を、自分を、それともここにはいないデルフをだろうか。
「こんなにあいしているのに」
 彼女の、あらゆる感情を抑えた表情が、かすかにゆがんだ。
 
 日が暮れる前から見張りを始めて、数時間。暗くなってからも、ずいぶん時間がたった。
 もうすぐ閉店の時間になる。竜胆の看板を見上げながら、怜は店内に足を踏み入れた。
 ランプのほとんど置かれていない、暗く狭い店。客ももう、一人しかいない。カウンターの向こう側では、黒いドレスを着た女が一人、煙草を吹かしている。
「ガキの来るとこじゃないよ」
 怜を一瞥し、かすれた声で女が告げた。端の丸テーブルに座る男は、無関心にグラスを傾けている。どちらも無関係だと、怜は素早く判断した。
「そ。じゃ、問題ないな」
 怜は唇の端を上げ、長い棒を脇に立てかけると、女の目の前に座る。女は方眉を跳ね上げたが、煙草の煙をふっと吐き出し、立ち上がった。
「何にするんだい」
「きついやつ。なんかちょうだい」
「ナマイキなガキだ」
 女は瓶を二つとグラスを一つ取り出すと、それを同時に注ぎ込み、カラカラとかき混ぜる。雑なようで慣れた手つきだ。
 薄いブラウンに染まったグラスを受け取ると、怜は一息に口の中へ注ぎ込んだ。
「……ぶったおれても放っておくよ」
「おかわり」
 女は吹き出した。
「あきれたガキだ!」
 二杯目を受け取り、今度はゆっくりとやりながら、怜は店内に注意を払う。とはいえ、もう今夜は来ないだろうと、彼の経験が告げていた。
 事前に、昼の男と落ち合ったのか。どうにかして、情報を得たのか。それとも、何か他のアクシデントでもあったのか。
「ここ、女の人も来るの」
 グラスを揺らしながら、女に問いかけた。
「マセガキが。ここはそういう店じゃないんだ」
「客のはなし」
「知らないね。客なんていちいち見てないさ」
 ふうん、と鼻を鳴らす。空にしたグラスをよけ、手つきで三杯目を注文する。女は肩をすくめた。
「……金持ち風の女なら来たよ、最近ね。このへんじゃ有名なゴロツキと会ってたね。有名っていっても、三流で有名だ。カモにされてんだなって、それだけは覚えてる。……満足かい」
「特徴は?」
「……ナマイキだね」
「そうかな」
 女は軽く眉を動かして、その特徴を告げた。
「……なるほどね」
 怜は、通常の倍の料金とをカウンターに置いた。すっと立ち上がり、棒をくるりと回すと、何事もなかったように出口へ向かう。
「ごちそーさま」
「またおいで」
 女は座り込むと、再び煙草に火をつけた。

 夜も遅いということもあり、怜は気を利かせて正面から入ることはしなかった。棒を使って高く跳躍し、塀を乗り越える。そのまま木の枝を利用し、開けておいた客間の窓からするりと侵入した。
 油断していたわけではない。
 しかし、まさか包丁が飛んでくるとは思わなかった。
「ええと……?」
 正面には、殺気を隠そうともしない相棒の姿。柔らかい灯りの下で、悠良は「我関せず」と顔に書き、優雅に本などを読んでいる。
「なんで俺殺されそうなの?」
 両手を挙げて質問してみる。答えず、莉啓は二本目の包丁を構えた。
「まさか、悠良ちゃん……」
「嘘はいってないわよ」
 もう片方の手にも包丁を持ち、莉啓は怒りの炎を隠そうともしない。
「……なんていったの」
「怜がついていながら悪漢に襲われた、と。私は囮になったの、と」
 さらりとこちらを見もせずに答える悠良は、無表情に見えるが、おもしろがっているに違いない。
「脚色しろよ!」
「死ね!」
 実に端的に意見を述べ、莉啓はありったけの包丁をすさまじい早さで怜に投げつけた。

「……こっちの成果は、そんなとこ」
 一通り落ち着いて、怜は疲れ切った様子でソファにうつぶせに寝そべり、言葉少なに説明を終えた。
「──そう、ご苦労様」
 何の感情もこもらない声で、悠良が形だけ返事をする。手には本を持ったままだ。屋敷にあったものを借りたらしい。
「莉啓は?」
 顔も上げずに、こちらもやや疲れた様子の莉啓に問う。莉啓は一度深く息をついた。
「動きはないな。デルフ=シリエンタとの接触もない。わかったことは、セルウォーエン家が財政的に非常に厳しい状況であるらしいということぐらいだ」
「そうなの?」
 怜がのそりと顔を持ち上げる。
「らしい。カレン=セルウォーエンが、ここの歴史も終わる、というようなことをいっていた。気になったので探りを入れたんだが……これは、まだ屋敷の内部でも一部の人間しか知らないことのようだ。事業に失敗し、借金を抱えているらしい」
「えー。大変だね、金持ちも」
 ぱたん、と悠良が本を閉じた。少し考えて、首を左右に振る。
「……だから、別れたい? それも、おかしな話だわ」  
「おかしな話だな」
 デルフ=シリエンタは、そんな人間なのだろうか。そもそも、それではつじつまが合わない。
「複雑かあ、実は。簡単に終わると思ってたんだけど」
 怜は身体を起こし、座り直して天井をあおいだ。
 悠良は、しばらく何もない空中を見つめ、何か考えているようだったが、やがて瞳を伏せる。
「……そうじゃないわ」
 二人の従者が、彼女を見つめる。
 悠良は少しだけ、辛そうにいった。
「だぶん、もっと単純なのよ」 
 


 ──こんなにも、愛している。
 カレン=セルウォーエンは、窓の外を眺めていた。 
 決して、言葉にはできない。言葉にしたとたん、小さなものに変わってしまう気がしてまう。それほどまでに愛している。彼がいない世の中など、どう息をすればいいかもわからない。
「そんなこと」
 カレンは自嘲した。
 そんなことは、ないと、わかっている。
 わかりかけているという事実が、重く胸にうずくまっている。
不意にノックの音が聞こえ、カレンは窓の外に目をやったまま、遠いところで返事をした。
「失礼します」
 莉啓が、トレイを手に立っている。紅茶と菓子のようだ。
 一瞥し、いらない、と短く答えた。
「昨日は、いやな思いをさせて悪かったわ。でも、もう出て行って。あなたといるのは、……気分が悪いから」
「では──」
 莉啓はトレイを壁際の丸テーブルに置き、ついでに花瓶の花を整え、素早く部屋を後にする。
 残された沈黙。
 カレンは、また、終わりのない思考の波を漂い始める。
 愛している。
 ──なんて陳腐な言葉。
 あなたがいないと生きていけない。
 ──なんてくだらない台詞。
「でも」
 それでも彼女にとっては、それがすべてだった。
 彼女はゆらりと立ち上がった。
「行かなきゃ」

 デルフ=シリエンタは、ゆっくりとした歩調で、石畳を歩いていた。時折、気遣うように、隣を歩く悠良に目をやる。悠良は、つんとすまして──むしろ、どこか不機嫌そうに、それでもおとなしく歩いている。
「今度は、どこへ?」
 デルフをちらりと見て、悠良が問う。彼女が声を発したことに安心したのか、少しほっとした様子で、デルフは苦笑いをこぼした。
「本当に、申し訳ありません、こんなことをお願いして。今日は、教会を見て、それから広場を回って……彼女の屋敷の前を、通って帰りましょう。彼女に会えたら、今度は、ちゃんといおうと思います」
 悠良は彼から視線をはずし、そう、とつぶやく。
「くだらないわね」
 そして、容赦ない一言を加えた。
 少しだけ驚いて、デルフが眉を上げる。悠良は歩調を早めた。
「……ユラさん?」
「最初から。──くだらないわ。くだらないお芝居ね」
 ゆっくりと目をまたたいて、それから慌てて追いつく。彼女の隣に並び、待って、と呼び止めた。
 燃えるような赤い髪をなびかせて、彼女は振り返る。
 唇をかむようにしてこちらを見ている姿は、怒っているようにも、泣きそうなようにも見える。
「──ごめんなさい」
 ふっと表情を和らげて、デルフは思わず謝罪の言葉を口にした。
「でも、ぼくには、これしか思いつかない」
「あなた、気づいているでしょう?」 
 悠良はまっすぐにデルフの目を見つめたまま、そう問うた。
 デルフは、しばらくそのまま動きを止めた。彼女の言葉を、繰り返す。その意味を、考える。
 そうして、そうか、と声をもらした。
「だから……悠良さん、だから、あなただったんですね」
「考えたわ。最初のあなたと、カレンさんが、どうしても気になって。でも、考えたって、何もわからないの。だって──」
 射抜くような目で、悠良は彼を見た。
「──それでも、愛しているでしょう?」
 デルフは微笑んだ。
 その表情がすべてを物語っていて、悠良は目をそらす。そして、再び、歩き始める。
 本当に、それでいいのだろうか。
 本当にそれが、いいのだろうか。
「くだらないわ」
 もう一度、そう、繰り返した。

 にぎわいを見せる大通りから、一本裏通りへと入れば、景色は一変する。出歩く人間などほとんどおらず、連なる民家はほぼ例外なく窓が閉められている。この地方の町では、珍しくもない。
 石の敷かれた狭い道は薄暗く、数多くある酒場も営業しているのかどうかわからない。
 長い棒を背負うようにしながら、怜は本日四件目の酒場に足を踏み入れた。
 カララン、と乾いた音が響く。店内に客は五人。
 そのうちの一人を確認し、唇の端を上げると、素早く男の背後に回った。
「こないだはどうも」
 おもしろがるような声でいう。後ろを見ずとも声でわかったのか、男の顔からさっと血の気が引いた。
「お、まえ……」
「舐めたまねしてくれたね。竜胆の看板の店、行ったけど、あんたの雇い主は来なかったよ」
 真後ろで、何でもないことをいうように、そう告げる。男は向きを変えず、両手をゆっくり持ち上げ、抵抗する気がないことを示した。
「知るかよ、本当にそういう話だったんだ……オレは、ちゃんと約束は守ってるぜ」
 声が若干、浮ついている。とんだ小物だ。嘘をついている様子ではない。
「ま、それはいいや。そうじゃなくて、いっこお願いがあるんだよね。──一緒に来てくれる?」
 語尾を上げ、疑問の形にする。
 男はおそるおそる振り返り、怜の笑みを確認すると、せめてもの報復か、むりやり笑って見せた。
「お願いかよ……よくいうぜ」



 教会に、彼女は立っていた。
 なるべく人に見つからないように、影になる場所を選んで、目を閉じて、静かに待っていた。
 毎日、毎日繰り返されている儀式。
 約束をしたから。
 二人だけで生きていこうと。二人であればなんでもできると。
 でも、まだ、彼は来ない。
「失礼」
 気配もなく、隣に、莉啓が現れた。
 ──この男は、誰なのだろう。どうでもいい疑問と、漠然とした不快感。
「……なに?」
 形ばかりに問う。莉啓の深い、漆黒の瞳が、彼女を見つめた。
「なぜ毎日、教会に?」
 彼女の視界がかすかに揺らいだ。
「約束をしているからよ」
「誰と」
「あのひとと」
「わかっているのに?」
 ぐらぐらと、見えているはずのものが、揺らいでいく。しっかり、この地に立っている感触を、かすかに汗ばむ感触を、忘れずにいなければ。
 彼女は焦り始めていた。しかし、その意味はわからない。
 教会の扉が開いた。
 長い棒を持った少年と、見たことのある人相の悪い男。
「あの女だ」
 人相の悪い方が、彼女を指さした。
 カレンにはやはり、何をいわれているのかわからない。

 覚えているのだ。
 鮮明に、頭の中によみがえる。
 胸を焦がす衝動。隣にいるだけで、空も、木々も、髪を撫でる風も、すべてが自分を祝福しているように感じた。
 これ以上近づくことはできないのに、それ以上になることを望んだ。
 欲しいものは、もう手に入っていたのに、足りなかった。
 ──ただ一度、彼は、正しいことをいった。
 それからのことは、思い出せないでいる。 
「私は捨てられたのね」
 カレンはつぶやいた。
 からっぽになってしまった。悲しみとか、怒りとか、そんな簡単なものではない。怒りや悲しみは動いている人間の感情だ。この心は、動くことすらやめてしまった。
 隣にたたずんでいた莉啓も、どこかへ姿を消した。長い棒を持った少年も、人相の悪い男も、教会から出て行った。
 いつもどおり、ひとりぼっちの教会。
 きっとこのまま時を過ごしても、彼は来ない。
 やっと、そのことに気づき始めたとき、教会の扉を開けて、赤い髪の美少女と──彼が、現れた。
 何て皮肉だろう。理性が自分を押さえつけている。それでも、心が勝手に期待する。
「カレン……」
 デルフ=シリエンタは、カレン=セルウォーエンの目の前まで来て、ほんの少し彼女の目を見ると、すぐに視線を落とした。
「ごめん。ぼくは、君とは一緒にいられない」
 彼女の心が、少しだけ揺らめいた。
「……そう」
 一言、返す。
 デルフは、長い沈黙の後、彼女の瞳を、もう一度見つめた。
「君を好きだったのは本当だ。でもいまはもう、君を好きとは、思えない」
「…………」
 カレンはくるりときびすを返し、赤い髪の女の横をすり抜けて、教会を後にした。
 音もなく、扉が閉まる。
「なに、それ」
 悠良の、静かな憤りを込めた声に、デルフは自分が涙を流していることに気づいた。
 彼はゆっくりと扉に向き直り、静かな、静かな声で告げた。
「──『あなたを、愛しています』」
 それは、誓いの言葉。背後で木製のクロスが、見守っている。
「ずっと、あなただけを、愛しています」
 彼の手足が薄れた。
すべてが終わり、役目を果たした肉体が、色彩を失っていく。
 心だけは守ろうとするかのように、彼は胸を強くつかんだ。
「そうやって、いえば良かったんだわ」
 感情を取り除いた声で、悠良がいい放つ。
 デルフは、柔らかく、ふわりと微笑んだ。
「でも、この方法しか、思いつかなかったんだ」
 愛しているから。
 自分の死が、彼女の咎になることだけは、どうしても、許せなかった。
「ぼくに捨てられたと、恨みだけが残ればいい。これで彼女は……思い出さない」
 とっくに朽ちたはずの肉体は、最後にかすかなぬくもりを残し、小さな光を灯して、消えた。
 彼はわかっていたはずだ。
 わかっていて、どうしてもやらなくてはならなかったのだ。
 悠良は、教会を飛び出した。

 カレン=セルウォーエンは、教会を出て少しのところで、座り込んでいた。
 膝を抱え、両腕に顔を埋めて、周りをひとがすぎていくこともかまわず、しゃくりあげて泣いていた。
 悠良は、その腕をつかんだ。むりやり立ち上がらせ、その頬を思い切り叩いた。
「自分がかわいそうだと思っているの?」
 低く、そう言葉を投げつける。カレンは目をまたたかせ、それでも涙が止まらずに、首を懸命に左右に振る。
「あなたが、病んで、何をしようと、勝手だわ。でも、……そうやって泣くのは、許せない」
 最愛の男を手に入れたいあまり、殺してしまったという事実を、自分の中に確かに存在する狂気を、思い出せとはいわない。それは、デルフ=シリエンタの意志に反することだ。
 それでも──
「私は、あなたを、許せない」
 悠良はくちびるをかみ締めた。
 そうしてそのまま、その場を後にした。
 残されたカレンは、ただ立ちつくす。
「だって……」
 彼女は両手で、頭をまるごと抱え込むようにして、自分をかばった。
「彼は、やっぱりかけおちなんかできないって、それでは私が幸せになれないからって、そういったのよ……」
 それはたぶん、正しかったのだ。
 しかし彼女にとっては、それは恐怖だった。
 一緒にいられないということだ。
 これ以上近くにはなれないということだ。
「どうして……」
 冷静に自分を振り返ることなど、できるはずもなかった。
 彼は自分を捨てた。
 おそらくこの町を出て行くのだろう。
 さっきの少女と幸せになるのだろう。
 自分は捨てられた。
 彼のことは忘れて生きていくしかない。
 あんなひどい男のことは、忘れるしかない。
 ──自己暗示のようにいい聞かせた。
 それが彼の望みであると、心のどこかで、理解していた。
 
 春の風が、彼女の髪をなぜる。
 風はだんだん、やわらかく、あたたかくなっていく。
 否応なく、ときは過ぎていく。






 死した魂を導くということは、決して救いではなく、決して幸せをもたらすものではい。
 残された者には、死神と、罵られることもある。
 それでもときが経てば、傷を塞ぎ、忘れ、生きていくのだろう。ときに思い出しても、鮮明さは、あのはっきりとした色彩は失われ、ただ小さな針となって、胸の奥深くを浅く刺すだけ──生きているというのは、そういうことだ。
 だとしたら、彼のやったことは、何だったのだろう。
「くだらないわ」
 天女はぽつりとつぶやいた。
 すぐ後ろに、いつの間にか二人の従者がついてきていることには気づいていたが、気づかないふりをした。




 






 

 

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2005年執筆。
読んでいただき、ありがとうございました。

 

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