story5 恋人 2

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 セルウォーエン家の令嬢は、近頃はほとんど出歩かなくなっていた。毎年、春ともなれば、ショッピングに散歩にと、毎日飽きもせず出歩いていたものだったが、今年は教会に出かける以外はずっと部屋にこもっている。
 腰まで伸びる、まっすぐなブロンド。緑色の瞳。その人形のように整った顔立ちも、輝きを失ってしまっている。朝を迎え、教会に出かけ、祈り、帰宅して、ぼんやりと物思いにふける……まったく代わり映えのしない、まるでプログラムでもされているかのような毎日。
 しかし、彼女のそんな毎日に、変化が訪れた。
「ねえ、食事はまだ?」
 メイドに対してもほとんど口をきかなくなっていたカレンが、部屋の掃除をするメイドに、不意に話しかけた。窓辺にもたれかかった体勢で、顔だけこちらに向けている。メイドは驚きのあまりモップを取り落とし、慌てて主に向き直る。
「お食事、でございますか? いつもどおりだと、あと二時間ほどございますが……早めるように、お願いしましょうか? ──珍しいですね、お嬢様が、お食事のことを気になさるなんて」
 最後のフレーズは、会話を保たせようと、むりやり付け加える。
 カレンは、もう一度窓の外へ視線を戻した。
「だって、食べたことのない料理ばかりが出てくるわ。新しいシェフは、異国の者でしょう。お父様にしては、いいシェフを雇ったものよね。そんなお金、もううちにはないのに。見栄を張って」
 窓ガラスをいじりながら、ぼんやりと言葉を返す。主人の言葉に、メイドは顔を輝かせた。
「でも、それは、それは素敵なことです、お嬢様! 最近、なんだか元気のないご様子でしたが、食の楽しみがあるのでしたら、素敵なことです。やっぱり、人間、衣食住が基本ですものね!」
「楽しみ……そう、そうよね」
 カレンは、ひどくゆっくりとつぶやいた。少しだけうつむいて、それきり、黙ってしまう。
「…………」
 泣いているのだろうか──メイドはすぐに思い当たってしまったので、逡巡したのち、やはり静かに部屋を出て行くことにする。
 安っぽい慰めの言葉を、求めるような主ではない。
「……シリエンタのお坊ちゃんと何があったのかしら。このまま破局かしら。やだな」
 優しい、明るい主は、毎日のように恋人の話をしてくれていたのに、最近ではまったくしなくなってしまった。元気のない原因は、そこ以外にはないだろう。
 深いため息をもらしながら、肩を落として廊下を歩く。すると向こう側から、噂の新人料理人がやってきた。
 料理の腕はいいらしい、見た目も申し分ない。いっそのこと、お嬢様のことを慰めてあげてくれないかしら……そんなことを考えながら、ぼんやりと見つめてしまう。
「……失礼」
 形のいい眉を少し上げるようにして、向こうから声をかけてきた。メイド慌てて首を揺る。
「あ、ご、ごめんなさい、あたしは別に何も……!」
「? 少し、聞きたいことがあるのですが」
「はあ? あ、なんなりと」
 メイドは顔を赤らめる。自分だけ、なんだか舞い上がってしまっているみたいだ。
「こちらの、カレンお嬢様が、最近ふさぎ込んでおいでだと、旦那様から伺いました。食事を、ちゃんととられているようならいいのですが……あなたがいちばん、お詳しいかと思いまして」
 メイドは胸を打たれた。いい人だ。これは、冗談ではなく、慰め役にいいかもしれない。
「リケイさんが来る少し前から、急にお元気がなくなったの。ほとんどお食事も口にされなかったわ。でも、あなたの料理は楽しみみたい。いつも、ちゃんと食べてみえるわよ」
「そうですか」
 ふっと目を細める。思わずメイドの胸が高鳴った。
「異国の、めずらしい料理を、特に楽しみになさっているみたいだから……そうだわ、旦那様にお話しして、あなた自ら料理をお運びしたらどう? きっと、お嬢様、お喜びになるから」
「そうですか。では、そのようにお願いしてみます。──お忙しいところ、引き留めてしまって申し訳ない。どうもありがとう」
 機嫌の良さそうな笑顔で、彼は会釈をすると、そのまま歩き去っていった。
 メイドの胸は、まだ高鳴っている。
「……すてき! お嬢様も、元気になられるといいんだけど」
 とはいえ、当の新人料理人の心境は複雑だ。
 料理をほめられることは純粋に嬉しい。悠良のためにみがいた料理の腕が、よもやこのようなところで役に立とうとは。……しかしやはり、自分に潜入操作は向いていないと痛感する。肩がこってしようがない。
 それでもやれるだけのことはやろうと、莉啓は決意も新たに、とりあえず厨房に向かった。
 結局は、動くしかないのだ。
 得られる結果が、何であるとしても。

 春を迎えたとはいえ、吹き抜ける風はまだ冷たさを帯びている。少なくとも、普段の彼女なら、好きこのんで出かけるような季節ではない。薄い茶をベースにしたワンピースの裾を翻し、非難がましい目を怜に向け、しかし相手がにこやかなのを見てとると、悠良はあきらめたように息を吐き出した。
「……どこに行くのよ」
「だから、悠良ちゃんの行きたいところ。情報収集でしょ。たまには仕事しないと」
 長い棒を片手に、怜は悠良のすぐ後ろをついて歩く。悠良が歩調をゆるめようが、早めようが、とにかく同じ間隔を守り、当たり前のようについてくる。
「何をすればいいかわかんない?」
「わかってるわ。落ち着かないだけ」
 それから無言で、歩き続ける。
 町のメインストリート。石畳の両脇に、高級そうな数々の店が並ぶ。個性豊かな看板、道行くのはこぎれいな衣服に身を包んだ紳士、淑女。呼び込みをする声はあまり聞こえない。
 要するに、金を持っていて、なおかつ暇をもてあそぶ人々が集う場なのだろう。
 考えながら歩いていると、突然、後ろから気配が消えた。
 自分にもわかるように、音をたてて歩いていたはずなのに。
「怜?」
 悠良の胸に不安が落ちる。慌てて辺りを見ると、カフェのディスプレイをのぞき込んでいる姿が目に入った。
「……あさましいわ」
「悠良ちゃん、ここ! ここなら入れそう」
 値段の問題だろう。
 確かに、のどは渇いている。手招きする姿に、あきれたように首を左右に振りながら、それでも悠良は怜の要望を聞き入れることにする。
 落ち着いた雰囲気の店内には、木の角テーブルが十分な間隔を保って並んでいた。コーヒーとマフィンを頼み、二人は窓側の席に着く。
「久しぶりだねえ、悠良ちゃんとデート」
 悠良はあからさまに不快そうに目を細めた。
「あなたの頭の中は相変わらず常春ね」
「いいじゃん、得体の知れないおぼっちゃまとデートするぐらいなら、俺としたって。別に、報酬は払わないけど」
「払われても困るわ」
 悠良は苦笑した。デート、ではもちろんないけれど、二人で向かい合ってコーヒーを飲むなどと、いつぶりだろう。
「じゃんけんは、どういう手を使ったの?」
「何の話?」
 怜が唇の端を上げる。問い返してはいるが、肯定の表情だ。やはり何かいかさまを使って勝ったのだろう。
「たまには、いいのかしらね」
 怜は、莉啓のように自分を甘やかせてはくれないが、それが心地良いと思うこともある。
「それにしても、なんなんだろうね」
 マフィンにそのままかぶりつき、少し声のトーンを落として、怜がつぶやいた。
「……何?」
「窓の外、見ちゃだめだよ。気づいてることは知らせない方がいい。偶然の可能性もあったけど、いまここで張ってるってことは、もう確実、だね」
 悠良の身体に静かに緊張が走った。怜は表情一つ変えず、今度はコーヒーカップに手を伸ばす。
「今回のことと関係があるかどうかはわからないけど。……こう見えても、そういうことは啓ちゃんより得意だから、安心して」
「知ってるわ」
 もちろん、安心もしている。
 しかし、理由がわからない。
「とりあえずここから出たらいったん離れよう。悠良ちゃんは、できるだけ人気のない路地に入って」
 悠良は、優雅にコーヒーを飲んだ。
 囮、ということだ。
「いいわ」
 元来、そういうことは嫌いではないのだ。彼女の端正な顔に、滅多に見ることのできない、いたずらっ子のような笑みが浮かんだ。

 カフェを出てすぐ、赤い髪の少女と、長い棒を持った少年が別れたのを見て、男は迷わず少女を追った。
 焦らず、距離を保ちつつ、機会をうかがう。
 やがて、少女が路地へ入った。
 他に人は歩いてない。まだメインストリートからは近いが、チャンスには違いない。
懐から素早くナイフを出し、後ろから少女をとらえる。ナイフを首筋に当て、低い、低い声でいった。
「そのままだ、……悲鳴なんか上げるなよ」
 少女は黙っている。恐ろしくて声も出ないのだろう。
 男はさらに路地を奥へと曲がり、少女を壁に押しつけるようにして、正面からナイフを突きつけた。
 美少女だ。物怖じしていないかのような、鋭い目。
「殺そうってんじゃない。ただ、忠告させてもらう」
 そんなことはわかっている──悠良は、静かに男をにらみつけた。もし殺意があるなら、怜が傍観しているはずもない。
「あんたがシリエンタのお坊といるのを、よく思わないってやつがいるんだ。あの男のことは忘れな」
 悠良は眉を上げる。
「誰の命令?」
 男は笑った。
「見た目どおり、気が強いな。……勘違いするなよ、あんたはイエスというしかないんだ。いうことを聞かせる方法はいくらでもある」
「たとえば?」
 後ろから声がした。
「──っ」
 身を翻すまもなく、両手をひねり上げられる。棒のようなもので腹を突かれ、げえ、と男はうめいた。
「……楽しんでたでしょう。出るタイミング、遅いと思うわ」
 悠良がさらりと救世主を非難した。
「悠良ちゃんも、きゃー、とかいえば助け甲斐があるのにさ。つまんないよ」
 腕を組み、悠良はため息をもらす。いつもながら、この男の危機感のなさは、怒ることすらばからしくさせる。
「……くそっ」
 片手で軽々とひねり上げられた両腕は、どれだけ力を入れようとも、ふりほどけそうにない。この、一見華奢な少年のどこにこんな力があるのかと、男が怜をにらみつける。
「やだね、その目。無駄だよ、逃げようなんて。あ、自害もやめてね……って、しないか。金で雇われてるクチだろ、あんた。それにしても、やり方がなってねえな」
 少し、声質が変わる。この少年に逆らってはいけないと、男の本能が悟った。
「誰に雇われた?」
「…………女だ」
 屈辱で歯をかみしめ、男が答える。怜は手に力を込め、棒の先で男のあごを押し上げた。
「利口になったほうが、得だと思うけど」
「シリエンタの息子の……、オンナだ、できてるらしい。名前は知らねえ。あんたのいったとおり、金で雇われただけだ」
「…………」
 静かに、目で、先を促す。男は舌打ちした。
「夜、教会のウラの酒場で……竜胆の看板がある店で、落ち合うことになってる……」
「オーケー」
 手を離す。ほんの一瞬、男が安堵の表情を浮かべる。しかし次の瞬間には、横からなぎ倒され、数メートル先でバウンドし、そのまま気絶した。
「……容赦ないわね」
「そう? 軽くやったよ」
手を払い、悠良の顔をのぞきこむ。それから頭をぽんぽん、となぜた。
「怖かったろ」
「誰にいっているの。あんな三流、怖いわけがないわ」
「あそ」
 手を引いて、明るいストリートに出る。それから、来た道をさっさと戻り始めた。
「……怜?」
「デルフ=シリエンタのところへ戻ろう。情報収集はもう十分」
 確かに、情報は向こうから転がり込んできた。
 しかし悠良には、どうしても釈然としないものがある。
「カレン=セルウォーエンじゃ、ないと思うわ」
 悠良のまぶたの裏に焼き付いている、衝撃を受けたカレンの顔。とてもではないが、すぐに復讐がどうのと、そんな手段に出るとは思えない。
「じゃ、他の誰かか……面倒だな」
 悠良は考えていた。
 もしかすると、そもそもの原因と深いつながりがあるのではないかと、彼女の勘がそうささやいていた。

「襲われた……?」
 話があると呼び出され、客室へと急いだデルフ=シリエンタは、扉を開けると同時に棒を突きつけられた。
「そ。……心当たりがないとかいうなよ、これ以上仕事する気をなくさせんな。悠良ちゃんが危険な目に遭う可能性を告げてなかったのは、明らかにそっちの落ち度だ」
 低い、抑えた声で、怜が告げる。デルフの頬を汗が伝った。両手を挙げた状態で、震えながら言葉を返す。
「す、すみませんでした……、しかし、まさか、こんなことになるとは……」
 顔面は蒼白だ。その様子を見て、怜はゆっくりと、彼を解放した。それから、悠良の隣に腰を下ろす。
「ま、座ってよ。わかってること全部、教えてくれればいいからさ」
 汗をぬぐいながら、一気に冷え切った身体をもう一度震わせ、デルフもまた向かい側に腰を下ろした。その様子を、少し気の毒そうに、悠良が目で追う。
「……もしかして、怒っているの?」
 隣の男に問いかける。まさか、と彼は答えた。俺は啓ちゃんとは違うよ、と、理由なのか何なのかわからない返事。
「……ユラさんを、襲った……」
 つばを飲み込み、デルフが口から声がもれた。思わず声になってしまったという程度の、とても小さなつぶやきだ。
 しかしそのまま、後が続かず、彼は沈痛な面持ちで頭を抱えてしまった。
「いえ、心当たりが、ないわけではないんです……ただ……ただ、少し任せていただけないでしょうか。ユラさんには、護衛をお付けします。危険のないよう、細心の注意を払いますので……」
 まっすぐな目で、二人を見た。そっぽを向くふりをして、ちらりと、怜はデルフの様子をうかがう。心当たりどころか、犯人がわかっている反応だ。個人的には、もちろん好ましい展開ではない。
 しかし、彼女がどうするかはわかっていた。
「……いいわ」
 きっぱりと、威厳のある声で、悠良は承諾の言葉を口にした。
「ただし、護衛は不要よ。あなたは……あなたのしたいようにしてくれればいいわ」
 わざと、感情のこもらないいい方を選ぶ。わかっているからこそ、相手に委ねる。
 デルフはうつむき、爪が食い込むほどに、拳を握りしめた。





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