story4 加害 2

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 愚かなことをしたと、わかっている。
 しかしあれは、仕方のないことだ。
 仕方のないこと? 
 仕方のないこと……

 たとえ、そうだとしても、愚かなことをしたという事実は変わらない。
 いっそ自分が、愚かなことを愚かなことだと知ることのできないほどの、愚か者であったなら。

 それでも、愚かなことをしたということは、変わらないけれど。

 まただ。
 また、堂々巡りだ。

 巡り巡って、結論は出ずに、結局は、

 愚かなことをしたと

 巡るだけ。



 ただ、わかっている。

 自分だけで十分だ。

 こんな思いは、させては、いけない。


 こんな、ただ自分を憎むだけの、


「ぼーっとしてません? どうかしたんですか、レアードさん?」
 ひどく近くで声がして、レアードは我に返った。
 目の前に、長い棒を持った少年が立っている。誰だっただろう。一瞬考えて、それからすぐに思い出し、レアードは大きく目を瞬かせた。
「レン坊……どうしたんだ?」
 違うところから聞こえてくるような声を出す。
「どうしたんだって……急に黙って動かなくなっちゃったのは、そっちでしょ。調子、悪いんですか? 顔色、悪いかも」
 そういわれて、思い出す。朝食をすませ、ホーグルを車に繋ぎ、荷物を積んでいるところだった。倉庫から荷物を出すという単純作業を繰り返しているうちに、ぼんやりしてしまったのだ。疲れているのかもしれない。
「悪い、悪い。もう、歳かなあ」
 照れたように笑いながら、適当なことをいう。
「これ、昼までに運ぶんですよね? どういう仕事なんです? 俺、ホーグル乗りって、具体的に何をやるのかよく知らなくて」
「なんだ、お前、それなのにホーグル乗りになりたいとかいってたのか?」
 レアードは目を見開くと、呆れたように豪快に笑った。すぐにいつものペースを取り戻した手は、かなりのスピードで荷台に荷物を乗せている。
「まあ、一口にホーグル乗りっつっても、いろいろだからなぁ。実際はホーグルにまたがるだけでもホーグル乗りだしな。仕事ととして成り立つのは、人を運ぶホーグル乗りと、荷物を運ぶホーグル乗りだ。オレは、その両方をやってる」
「へー。人を運ぶってことになると、責任重大ですね」
「まあなあ。だから、エイリみたいな半人前は、人を運ぶほうの仕事はやっちゃいけないことになってる。一応、許可証っていうのがあってな」
 そういうと、レアードは革の紐で首からぶら下げたプレートのようなものを、服の下から引き出した。
 荷物を抱えながら、まじまじと見て、怜はなるほどと納得する。ホーグル乗りという職業に就くのは、思ったより大変なようだ。もちろん、本気でなるつもりなど毛頭ないが。
 レアードは、木製の荷台に荷物をすべて乗せると、空になった倉庫を覗き、扉を閉めた。ぱんぱんと手を払う。
「よし、これで全部だな。この荷物は、定期的に町外れの花屋に届けることになってる、土の類なんだ。そこの花屋とうちは契約していて、オレは土を業者から預かり、一時保管して、決まった日に花屋に届けることになってる」
「土かぁ……重いはずだ」         
 怜は、積み終わったいくつもの紙の包みをぽんぽんとたたく。
「もちろん、花屋以外にも、そうだなあ……食材を運ぶ契約とか、決まってるのも他にいくつかあるぞ。決まってるのと、決まっているわけじゃなく、依頼を受けて物や人を運ぶのとで、収入は半々だな。ま、ホーグル乗りそれぞれによって、違うだろうけどな」
 そういって、レアードは御者台に上った。まだ荷台のうしろにいる怜を振り返る。
「何やってんだ、ついてこないのか?」
「え、ついてっていいのっ? いきます、いきます!」
 怜は、ぱあっと顔を輝かせ嬉々として御者台に飛び乗る。純粋に、こういう乗り物に乗るのは好きなので、任務のことなど忘れてしまいそうだ。
「じゃ、オレのホーグルさばきをしっかり見とけよ、レン坊! いくぞ!」
 レアードのホーグル車は、勢い良く走りだした。

 莉啓と悠良は、店の立ち並ぶ中心通を歩いていた。この町の道は、ホーグルが通るためだろうが、大体が広く作られている。この中心通も、もちろん例外ではなく、色とりどりの看板を掲げたたくさんの店が並ぶその中央には、幅の広い道が通っていた。
「大きな町ね。それに、ちゃんとしているわ」
 悠良は、自分が歩いている道を見下ろし、感想をもらす。石の敷き詰められた、整った道だ。観光地というわけでもないようだが、ずいぶんと人を意識した造りになっている。
「だが、差が大きいな。一部の民家通をのぞけば、舗装されていない道に、畑や森ばかりだ。ちゃんとしているのは、店などの集まっているこの辺りや、高級地だけだろうな」
 莉啓が、もっともなことをいう。たしかに、レアード=ディリキスの家などは、畑のなかにあった。悠良は、中途半端ね、と冷たくつぶやく。
「これから、どうするの?」
 莉啓は、肩をすくめた。
「情報を集めるつもりだったが……そういうことは、得意ではないからな」
「そうね……。こう寒いと、観光する気にもならないし」
 やっぱり宿に帰ろうか、と話がまとまりかける。怜が聞いたら大いに不平をもらしそうな結論だ。
「ちょっと、ちょっと、旅の人!」
 突然、店のなかから声をかけられた。雑貨屋のようだ。
「なんだ?」
 ひどく冷たい目つきで、莉啓が応じる。店の主人らしい中年の女性は、開け放たれた扉からあわてたように出てきた。
「余計なお世話かもしれないけどね、あんまり道の真ん中を歩くもんじゃないよ。旅の人は、この町のことがあんまりわかってないから、よく事故に合うんだよ」
「事故?」
 悠良が興味深そうに、顔を出す。その姿を見て、これは綺麗なお嬢さんだこと、と店の主人は目を見張った。
「ホーグルの事故さ、ホーグル。見たことあるだろう? ほら、来たよ、あれさ」
 くるくるとまるまった髪を、慌ただしく左右に揺らして、主人は二人の手をつかむと、店側に引き寄せた。何を、と莉啓が顔をしかめるが、後方より聞こえてきた音の方に注意が向く。
 それは、ホーグル車の走る音だった。見た目から想像するよりも軽い音を立てて、ホーグル車が駆けてくる。広い道とはいえ、ホーグル車の幅もかなりのもので、人々があわてて左右に避けている。ホーグル車は特にスピードを落とすこともなく、道を駆け抜けていった。
 ホーグル車が通り過ぎると、皆慣れたもので、何事もなかったように道に戻る。悠良と莉啓は、顔を見合わせた。
「結構、早いわね……」
「危ないじゃないか、あれじゃあ」
 店の主人は二人から手を離した。
「なあに、初めて見たの。早いだろう、ホーグル車。この町の住民は慣れてるからいいけどね、旅の人は、本当によく事故に合うんだよ。この間なんて、うちの店の目の前で、事故があってね……。まあ、そんなわけだから、老婆心ながら注意させてもらったってわけさ。いきなり、悪かったねぇ」
 店の主人は、ぺらぺらとまくしたてる。どうやら、本当に親切心からの行動だったようだ。
 しかし、あのスピードで走っては、事故があって当然だ。莉啓は顔をしかめた。
「この町には自警団があると聞いたが。ああいう危険なホーグル車は、放っておくのか?」
「仕方ないさ。自警団も、お手上げだよ」
 両手を上げてみせて、主人は大仰にため息を吐く。本当は、舗装されている道は、ホーグルには歩かせるのが原則だが、誰も守らないらしい。
「だから、まぁ、実際は……夜なんかはね、旅の人じゃなくても、事故にあったりするんだよ。お兄さんたちも、本当、気をつけるんだよ。そうだ、お守りなんかも売ってるけど、見ていくかい?」
 最後の誘いは断って、二人は丁寧に礼を述べた。
 のどかな町に思えたが、危険はあるものだ。怜が本当にホーグルを運転し始めたら、事故を起こしかねないなと、二人はそろって同じ心配をする。
 ふと、あることに思いつき、悠良は莉啓を見た。
「事故……?」
 莉啓も、同じことに思い当ったのだろう。腕を組んで、考えている。
「事故か……それは、あり得るな。しかしそれでもまだ、理由がわからないが」
「理由……そうね。それに、事故が原因というケースは、稀だわ」
 二人はそのまま、黙ってしまう。
 やがて莉啓が、ひとつの提案をした。
「とりあえず、自警団に行って聞いてみるとしよう。何か、わかるかもしれない」
 そうね、と悠良はうなずいた。

「風が、冷てーっ」
 レアードがホーグルを走らせ始めて、まだあまり時間は経っていなかったが、怜はすでに音を上げていた。
 ホーグル車の御者台には、覆があるわけではない。この地特有の冷たい風が吹きつけ、目を開けているのもやっとだ。
 ホーグル車は、店や家屋が並ぶ町のなかの通りは避け、いまは舗装されていない道を、かなりのスピードで走っていた。
「レアードさん、これ、ちょっと、早すぎない? ちょっと、もうちょっと、ゆっくりいきません?」
「度胸のないやつだなあ! すぐに慣れるさ、我慢しろ!」
 怜の必死の意見も、豪快な一言に片づけられてしまう。怜は御者台の端っこにしがみついて、なんとか耐えた。
「でも、これって、遠回りなんじゃ? 花屋って、どこでしたっけ?」
「花屋は、中心通だ。たしかに、町のなかを走ったほうが早いが、町は好きじゃない。人が多いからな」
「人が多いから? ああ、スピードが、出せないってこと?」
「ばかいうなよ。町のなかだからって、馬鹿正直にホーグルに歩かせてたら、商売になんてなんないさ」
 少し押さえたトーンで言葉を返す。そして急に、まだでこぼこ道を走っている途中だというのに、ぐんとスピードが落ちた。
 突然のことに、怜がバランスを崩して前につんのめる。何事かと隣を見ると、レアードが、思い詰めたような目で、じっと前を見ていた。
「なあ、レン坊」
 いつもの豪快な様子からは想像できない、かたい声だ。
「お前、子ども、いるか?」
「……いるわけ、ないでしょう」
 何を聞くかと思ったら。拍子抜けしてしまう。
「嫁さんは? いないのか?」
「いないって。俺まだ若いし。人生これからだし」
「そうか。そうだよなあ……」
 あれだけのスピードで走っていたホーグルも、いまではとことこと歩いている。いいたいことがわからずに、怜はおとなしく、次の言葉を待った。
「お前さんも、子どもを持てばわかるだろうが……子どもってのは、かわいいもんだ。ほかの何にも変えがたい、大事なもんだ」
 エイリのことをいっているのだろう。怜は、レアードの真剣な表情を見た。
「子どもには、幸せでいて欲しいんだ。そういうもんなんだよ。だから、オレは……」
 それっきり、糸が切れたように、レアードは黙ってしまった。
 怜も、ただ黙って、言葉の意味を考える。
 それはおそらく、理由の確信に迫る言葉だったに違いないと、思いながら。

「事故についての、調査?」
『自警団』という看板がかけられた、あまり大きくはない小屋で、団長と呼ばれた男が、胡散臭そうに顔を上げた。
 町の規模にしては、小さな詰所だ。物でごった返した内部には、机、壁、カーテンにまで、書類の類だろう、たくさんの紙が張りつけられている。
 悠良を置いてきて正解だったと、想像どおりの男臭さに、莉啓は心から思う。
「ええ。国の統治下で起こったすべての事故の調査をし、地域ごとにまとめて、統計をとっている最中です。一年ほど前の資料から、あとはできるだけ最近のものまで。ご協力、お願いします」
 莉啓は、慇懃無礼に告げると、国の使いの証明であるペンダントを見せた。とはいえ、国の紋章を彫って、それらしく見せかけただけの偽物だが、一介の自警団長にはわかるはずもない。
 団長は、あっさりと信用したようだ。部下をよびつけ、資料を集めさせる。
「国も、途方も無いことを始めるもんだな。まあ、もちろん、協力はおしみませんよ。ただ、ご存じかも知れませんが……この町は事故が多いんでね。資料を集めるのに、少し時間がかかります」
「やはり、ホーグル車の事故ですか?」
 団長は、深い、深いため息をついた。途方に暮れているといった様子だ。
「ホーグル車は便利ですが……事故が、本当に多い。道の幅を広くしたり、スピードの規制をしたりと、いろいろやってるんですがね。どれも、思うようにはいきません」
 便利な分だけ、リスクも高いということだ。それに、と団長は続けた。
「たとえば物をにぶつかって壊したり、ひどい場合は人を轢いて怪我を負わせたり……あるいは、死なせてしまったり。そういうことをしても、名乗り出ない犯人というのも、ときどきいるんですわ。まったく……」
 資料が集まるまでの間、団長は愚痴のようなものをぶつぶつと繰り返す。想像以上に、ホーグル車の事故は多そうだと、莉啓は不快な気分で眉根を寄せた。ということは、資料を手に入れても、あまり参考にはならないだろう。無駄足だっただろうか。
「ああ、やっと、集まりました。どうぞ」
 部下から受け取った書類の束を、ばさりと渡す。ぱらぱらと見てみると、いつどこでどういう事故があったのかという内容が、簡潔に記されたものだった。
「一応、控えはあるんですが、できるだけ早い返却をお願いしますよ」
「ご協力、感謝します」
 莉啓は一礼し、さっさと詰所をあとにした。

   *

 ホーグル乗りとはいえ、エイリ=ディリキスには、仕事はまだほとんどない。定期的に請け負っている仕事もひとつだけで、依頼などを持ち込まれることもごく稀であったので、エイリの仕事といえば家事とホーグルの世話ぐらいだ。
「これで、よし!」
 しばらく放ってあったソファのカバーをすべて外し、洗濯し終えたエイリは、満足気に伸びをした。最近は、自分でも感心するぐらい、頑張っている気がする。家事をしたり、ホーグルの世話をしたり。毎日が充実していて、晴れ渡った空に負けないぐらい、明るい気分だ。
 庭から、表の玄関にまわり、ついでに草むしりでもしてしまおうかと考える。すると、畑の向こう側から、こちらに向かって男が歩いてくるのが見えた。
「ジリス伯父さまだわ」
 エイリは、大きく手を振った。民家通に住む、レアードの兄のジリスだ。レアード一家とは仲が良く、お互いによく家を訪ね合っている。
「こんにちは、ジリス伯父さま」
 いつもなら、その大きな手でくしゃくしゃと頭を撫でてくれるジリスは、少し思い詰めたような顔で、ささやかにほほえんだ。黒い帽子を脱ぎ、ひょろりとした長身を少し屈める。白髪の方が多くなった、灰色の頭が、エイリの目にとまった。疲れた顔をしている。
「エイリちゃん、レアードは、いるかい?」
 エイリは、首を左右に振った。
「仕事に出ているわ。……どうしたの、ジリス伯父さま? なんか、へん」
「いや、いや。どうもしないさ。そうか……じゃあ、待たせてもらっても、いいかな?」
 先程よりはやわらかい笑みで、ジリスがいう。エイリの胸のなかがざわざわと不安になったが、どうもしないというのでそれ以上は追求せず、家のなかへ招き入れた。
「すぐ、紅茶をいれるわ」
 コートと帽子を受け取り、玄関のラックにかけると、エイリはぱたぱたと台所に消える。質素ながらも、暖かいつくりのリヴィングで、ジリスはカバーのないソファに座った。
 エイリは、紅茶とクッキーをトレイに乗せて、すぐに現れた。そして、たったいまソファのカバーを洗濯してしまったことを後悔して、失礼を謝る。
 ジリスは、紅茶を受け取りながらも、ひどく思い詰めた様子で、いつもからは想像できないほど、口数が少なくなっていた。
「なあ、エイリちゃん」
 かたい声だ。エイリは、目で返事をする。
「最近、レアードのやつ、なにか変わったところはないか?」
「お父さん……?」
 エイリは、少し考えて、首を振った。
「いつもと、同じだと思うけど……。どうして?」
「いや……」
 それっきり、黙ってしまった。
 空気に押しつぶされそうで、エイリは家事があるからといい残し、席を立つ。
 何があったのだろう。
 お父さんに、何か、あったのだろうか。
 不安が、ぐるぐると渦をまいた。それから、先程の自分の言葉を思い出した。
 いつもと同じと、自分は、いま、そういった。
 本当に?
 あたしは、何か、忘れていない?
 本当に、何も、変わらない?
「…………」
 胸を、わしづかみにされたような感覚になり、エイリはきゅっと唇をかみしめた。

 舗装された中心通を抜けるのが近道なのだが、行きと同じくぐるりと遠回りをして、レアードのホーグル車は軽快に走っていた。怜に配慮してのことなのか、単にそういう気分なのか、スピードはずいぶん落としている。
 やがて、遠くのほうに、ぽつりとディリキス家が見えてきた。
「あれ? もう、戻るんですか?」
 てっきりこのまま仕事を続けると思っていた怜が、帽子を片手で押さえながらレアードを見上げる。レアードは、何をいまさら、と苦笑した。
「そりゃあ、そうだろう。さすがにレン坊乗っけたまま、人を乗せる仕事はしないさ。昼飯食って、そのあとまた仕事にでる。悪いが、そんときは留守番だ。もう、物を運ぶ依頼はいまんとこないからな」
「ええー。もっと乗ってたいのに」
「馴染みの客ならともかく、そういうわけにもいかんだろう」
 怜は不満そうに顔を歪めた。離れてしまっては、監視がしづらいではないか。
 茶色の、古びた家屋の前まできて、ホーグル車はゆっくりととまった。慣れた手つきで、レアードが二頭のホーグルを小屋に入れる。
「お帰りなさい」
 音を聞きつけたのだろう、玄関先までやってきていたエイリが、やや重い表情でそう口にし、むりやりのように笑った。
「お父さん、ジリス伯父さまが来てるわ」
「兄さんが? この間会ったばかりなのに、めずらしいな」
 軽く目を見開いて、上着を脱ぐ。おじゃまします、と入りかけた怜だったが、エイリの様子がおかしいのが気にかかった。
「……お客さん? 俺、帰ったほうがいいかな?」
「いやいや、レン坊、オレの兄さんだ、気にするこたあないさ。腹減ってるだろう?」
 しかし、エイリは戸惑ったような表情をしている。うーむ、と考えてから、怜はぴっと敬礼した。
「ま、今日は、俺けっこう疲れたし、このまま帰ります。また明日、ご指導お願いいたしますっ」
 深々と頭を下げて、扉を閉める。どうせレアードと行動を共にできないのなら、ここは身を引いたほうが得策だ。
「あ、おい、レン坊! ……ったく、気を遣うこたあないのに……」
 嘆息する。特別な来客ならともかく、親しいつきあいをしている兄弟だ。何も、帰ることはないのに。
「でもね、お父さん……ジリス伯父さま、なんか、様子が変なの。なにか、あったんじゃないかしら……」
 エイリは、不安そうにレアードを見ている。レアードは、どうせたいしたことではないと思いながら、ずかずかとリヴィングに向かった。
「いらっしゃい、兄さん。今日はいったい……」
 軽く右手を挙げて、挨拶をする。しかし、ソファで神妙な顔つきをしているジリスを見て、さすがに何かあったと、察した。
「……どうか、したのか?」
 向かい側に座る。ジリスは、ためらうような長い沈黙のあと、テーブルの上に小さな木片を静かに置いた。
 さっと、レアードの顔色が変わった。
「……お父さん?」
 紅茶の用意をすることも忘れて、エイリが見ている。レアードはエイリに背を向けたまま、できるだけ落ち着かせた声でいい放った。
「エイリ、おまえは二階に行ってろ」
「でも……」
「いいから!」
 びくりと肩を震わせて、エイリはリヴィングをあとにする。ぱたりと、戸を閉める音が聞こえた。
 腕を組み、真っすぐレアードの目を見つめて、ジリスは重い口を開いた。
「……ずいぶん、悩んだんだ、レアード」
 レアードは額に手を当てて、下を向く。そして静かに、うなずく。
「どういうことか、わかるな? これは、私の気のせいや、勘違いではないな?」
「…………」
 レアードは、テーブルに置かれた木片に視線を移し、ぎゅっと噛み締める歯に力をこめた。
 ホーグル車についていたものだ。昔、ジリスからもらった、手作りのプレートの一部。
「何度、いいかけたかわからない。冗談のように切り出せば、それで終わるかとも思ったが……やはり、普段と変わらないおまえを見て、思ったよ。このままでは、いけない。おまえも、苦しんでいるんだろう?」
 レアードはこたえない。ただ、うつむいたままで、言葉を探すような沈黙がつづく。
「教会に行こう、レアード」
 はじかれたように、レアードは顔を上げた。
「だめだ、兄さん……それは、だめだ」
「おまえ、本気でそんなこと……!」
 ジリスが身を乗り出す。レアードは、泣きそうな顔で、首を左右に振った。
「だめなんだ……エイリは、まだ、何も、知らないんだ……。待ってくれ、ちゃんと説明して、それから自分で、行くから……」
「…………」
 ぐっと、自分を抑え、ジリスは深くソファに座る。エイリちゃんか、と沈痛な面持ちでつぶやいた。
「……わかった。私は、レアード、おまえを信じている。わざとじゃないことも、わかっている。ちゃんと、説明したら……教会に行くんだ。そして、償わなければならない。わかってるな?」
 レアードは、深く、一度だけ、うなずいた。それだけ確認すると、ジリスは無言で席を立つ。
 彼はそのまま、それ以上言葉を紡ぐことはなく、ディリキス家から出ていった。
 残されたレアードは、下を向いた態勢のまま、額に当てた手に力を込める。爪が食い込み、血が滲んだが、痛さなどどうでもよかった。
「……でも、オレはもう、だめなんだ……」
 このままではいけないことはわかっている。
 しかし、償うこともできない。それも、わかっている。
「……愚かなことを」
 愚かなことをして、救われたいと望んだ。
 しかし勇気はなく、日常にすがりつき、救われた気になった。
 救われたいと、思うこと自体が、
「……なんと、愚かな……」
 レアードの目から、涙のようなものが、音もなく落ちた。

 ディリキス家を出て、通りに出ると、目の前に長い棒を持った少年が立っていた。
「……君は?」
 ジリスが問うと、少年は長い棒を器用に回し、ぺこりと一礼する。
「実は、俺も、見たんです」
 ジリスは顔色を変えた。
「あの事故を、見ていたのか……?」
「はい」
 彼は諦めたように押し黙り、それから少年の両肩をつかんだ。
「頼む……あいつは、弟は、後悔しているんだ。ちゃんと、自分で罪を償うといっているんだ。もう少し、そっとしといてやってくれないか……」
「もちろん。告げ口するような真似はしませんよ。ご安心を」
 ほっと胸を撫で下ろし、目を閉じて息をつく。お礼をいおうと顔を上げると、そこにはもう、少年の姿はなかった。
「……?」
 あわててあたりを見る。人通りの少ない、田舎道。畑と、木々。
 ジリスは、夢を見たような気分で、ぼうっとした頭を強く降ると、また重い足を動かし始めた。

「話の展開から、まさかと思ったけど……なるほどねー。しっかし、そうなると、わっかんないよなー」
 木の上から、歩き去っていくジリスを見て、それからディリキス家に視線を移すと、怜は棒を背中にまわして、疲れたようにつぶやいた。



 






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