story4 加害 3
ぱちぱち、ぱちぱちと、薪が爆ぜている。
テーブルの上に、三組のティーカップと、焼き菓子が置かれている。
静かな時間。
膝掛の下で足を組み、悠良はそっと目を瞬かせた。
「……おかしな話ね」
感想を述べる。見ると、莉啓も、何かを考え込んでいるようで、無言で腕を組んでいる。
怜はおやつと称して買ってきた焼き菓子をあっという間にたいらげて、でしょ、と笑った。
「俺からの報告は以上でーっす。どういうことなんだろうねえ、これは。不思議不思議」
「だって、おかしいわ、そんなの。レアード=ディリキスが、事故を起こした側だなんて。ならどうして、ここに、残っているのよ。死にたいとは思っても……執着するなんて、おかしいじゃない」
赤い髪をさっとかきあげて、怒ったように悠良がいう。猫舌の怜は紅茶を冷ますことに専念しながら、肩をすくめてみせた。
「そんなこと、いわれてもなあ。でも、エイリさんをひとり残すのはやだってのは、あると思うよ。もちろん、それだけじゃないと思うけど」
「……一ヵ月ほど、前だったな、確か」
唐突に、それまで黙っていた莉啓が口を開いた。それがどうかしたの、と悠良が冷淡に先を促す。
莉啓は、テーブルの端に束ねてあった資料を手にし、視線を落とした。
「事故の資料のなかに、興味深いものがあった。ちょうど一ヵ月ほど前……同じ時期に、ホーグル車の事故が起きたらしいという痕跡が見つかっている。しかし、痕跡しか、見つかっていない」
「……ふーん」
怜が、実におもしろそうに、片眉を上げた。悠良は眉をひそめ、莉啓を見ている。
「……どういうこと?」
「中心通の、広場近くで、事故の痕跡が見つかっているんだ。破損した器物、それに、血の跡。しかし、被害者も、加害者も、名乗り出てきていない」
「じゃ、たぶんそれで、間違いないね」
怜が、やっと征服したらしい紅茶の、空になったカップをかちゃりと置く。悠良は、まだ釈然としない面持ちのままで、つぶやいた。
「……でも、それでも、どうして。過ちを犯したら、ふつうひとは、消えてしまいたいと思うものだわ」
うなずいて、莉啓が賛同の意を示す。
「だが、残っている。執着している。それは、きっと……」
「エイリさん、だね」
悠良は、悔しそうに瞳を伏せた。
「やるせないわ」
*
ジリスはとっくに帰ったというのに、日が暮れても、レアードはソファに座ったまま、固まったように動かなかった。どうしようかとしばらく逡巡し、ソファのカバーをかけるという口実をみつけ、エイリは遠慮がちにリヴィングの戸を開ける。
暖炉の薪はとっくになくなって、室内は嘘のように寒くなっていた。
「何やってるの! 風邪、ひいちゃうでしょ!」
ばたばたと走って、エイリはあわてて薪をくべる。それでもレアードは、明かりも灯さず、じっと座っていた。
「……エイリ」
低い、めったに聞くことのないような重い声に呼ばれ、エイリはびくりとした。恐る恐る振り返る。
いつも元気で、豪快な父親は、小さくなって座っている。
「おまえは、母さんを轢いたやつを、憎んでいるか?」
突拍子もない質問だった。母親が、ホーグル車の事故で死んだのが十二年前。犯人は、結局、名乗り出てはこなかった。
「当たり前よ。憎んでるわ。いまだって……もし、みつけたら、あたし、そいつに何をするか、わからない」
「そうか……」
ふたたび、沈黙がおとずれる。エイリは、レアードの隣に座り、うつむいたままのその顔をうかがった。
「……どうしたの? どうして、そんなことを、聞くの?」
「オレも、最初は、憎んでいた……でも、いまは、憎んでいないよ」
エイリが、見ている。その視線が痛い。
それでも、レアードは続けた。
「罪を犯すということは……悪い、ことだ。それは、あたりまえだ。だが、仕方のないこともある」
「……何がいいたいの? わからないわ、お父さん」
「仕方のないこともあるんだ。やり直せることもあるんだ。だから、絶望だけは、しちゃあいけないんだ」
「……お父さん?」
レアードが、泣いているのがわかった。雫が、ぼたぼたと、床に落ちる。
彼は、やっと顔を上げ、エイリを見た。
「わかってくれ……罪を犯したことが、すべてではない。ひとは、やり直せる。ちゃんと償えば、また、やり直せるんだよ」
レアードは、深く呼吸をし、震える声を落ち着かせた。
「……一ヵ月、半ぐらい、前だ」
エイリは、目をそらすことができずに、真っすぐこちらを見てくる父親を見つめた。レアードは、一度息を吸い込み、そして搾り出すような小さな声で、告げた。
「オレは、ひとを轢いてしまった」
エイリは目を見開いた。
長い、長い沈黙のあと、彼女は静かに立ち上がり、階段をかけ上って、力一杯自室のドアを閉めた。
愚かなことを
本当に、愚かなことをした
逃げ出した自分を恥じ
消えてしまいたいと願った
死んでしまえたらと願い
しかし自ら死ぬ勇気もなく
日常にすがりつき
そうすることで、忘れようとして
なんと愚かで
なんと勝手な
「……帰ったんじゃ、なかったのか?」
深夜になっても、レアードはソファに座っていた。
ときの流れを感じない。
いつ間にか、目の前に長い棒を持った少年が立っていても、彼は不思議に思わなかった。
あるいは最初から、わかっていたのかもしれない。
怜は、すっとしゃがみ、レアードと同じ高さで、彼を見た。
「後悔してる?」
「……おまえには、わからないだろう」
「どうだろうね」
レアードは、自分のなかにある感情の正体がわからないままに、瞳を伏せる。それは悲しみなのか、憤りなのか、あるいはそれらすべてなのか。
「わからないだろう。罪を犯したものの気持ち……この、このとても説明できない、気持ちを……わかるか? 苦しいんだ。どうしようもなく、苦しいんだ」
大きく首を左右に振る。
「違うんだ、わかってるんだ……苦しいとか、いう資格は、ないんだ……悪いのはオレだ……だがこれは、あまりにも、重すぎる」
彼は、胸を、つぶれるほどにつかんだ。
長く、震える息を吐き出した。
「……眠れないと思ったんだ。あんなことをして、家に帰ってきて、震えがとまらなかった」
怜は、黙って聞いている。
「だが……なあ、わかるか。眠くなるんだよ。腹も減るんだ。疲れるし、いろんなことを思うし、生きたいと……感じるんだ。勝手なものだ。愚かで、勝手だ」
しっかりとした声で、彼は続ける。
「オレは、奪ったのに。オレは、手に入れたいと願うんだ。……被害者は、加害者に恨みをぶつければいい……だが、加害者は、どうすればいいんだ? どうすれば、救われるんだ? こんな思いは、させてはいけない……あの子に、させては、いけないんだ……罪をおかしたものは、この思いを、どこに、どうやれば……」
「救われるよ。自分で、許すことが、できればね」
怜が口を開く。
「勝手だろうが、なんだろうが、そういうもんなんだ。だから、あなたも、こうしてここにいる。だから……大丈夫だと、思うしかない。エイリさんも」
レアードは、急速にすべてを悟った。
顔を上げると、怜のうしろにもう一人、黒い姿の青年が立っていた。
「事故は、事故だ。そしてそれは、起こってしまった。あなたが、ここに執着して、虚構を作り上げたところで……それは何も、生み出さない」
「……めてくれ……」
レアードは、大きく首を振った。
「やめてくれ……待ってくれ……お願いだ! たしかにオレは、加害者になるぐらいなら被害者になりたいと、身勝手なことを望んだ! だがそれは、こんな形で……!」
レアードは必死に、すがりつく。しかし、感覚が確実に遠くなっていることに気づいた。
手が、足が、身体が薄れている。
「エイリは、エイリはどうなるんだ! あの子は悪くないんだ! お願いだ、オレをこのまま、ここに……!」
「もう遅い」
莉啓の口から流れた残酷な言葉に、レアードは悲鳴をあげる。
「あなたの魂が、認めてしまった。もう、ここには……いられない」
ずっと、ずっと、涙がとまらない。
一生懸命とめても、また何度も、流れてくる。
「何を泣いているの?」
すぐ近くで声がした。エイリは子どものようにしゃくり上げながら、声のするほうを見た。
赤い髪の少女が立っている。
「あなた、どこから……」
赤い髪の少女は、人差し指を上に向けた。
「そら……?」
少女はこたえない。
その代わり、もう一度、問いを口にした。
「何を泣いているの?」
エイリは涙を手の甲で拭う。
「なんでも、ないわ」
「親の罪を嘆いているの? 自分の罪を嘆いているの?」
少女が問う。
エイリは、わからなくなって、また涙があふれだす。
「ひとを、轢いただなんて……ひとを、殺してしまっただなんて……」
「それは、誰の罪?」
少女が問う。
エイリは、耳を塞いだ。
それでも声は、聞こえてきた。
「思い出しなさい」
冷たい言葉。
頭のなかに、響いてくる。
「思い出しなさい……あなたのお父さんは、本当に何も、変わらない?」
エイリは、震える足で、ゆっくりと階段を降りた。
リヴィングの戸を開けると、そこには誰もいなかった。
いつから、誰もいなかったのだろう。
いつから、ひとりぼっちになったのだろう。
「……お父さん?」
呼びかける。
もうずっと、長い間、逢っていないような。
大好きな父親の顔を最後に見たのは、いつだっただろう。
ああ、そうかと、エイリは知った。
殺してしまった。
殺したのは、自分だ。
「一ヵ月前の、あの日ね……夜、お父さんの帰りが遅かったから、あたし、心配になって、それで、ホーグルに乗って、探しにいったの」
エイリは、たしかにレアードが座っていたはずのソファに、そっと片手を乗せた。
「月が、出ていなくて……暗くて……急に、何かにぶつかって……ひとを轢いてしまったとわかって……どうすればいいかわからなくて……」
覚えている。
地面に倒れた父親は、ただ笑って、おまえは悪くないと、そういった。
おどけた笑顔で、実は父さんも人を轢いてしまったんだと、それでとても苦しんだけれど、やり直していこうと思っていると、いった。
乗り越えていこうと、自分も乗り越えるから、一緒に乗り越えていこうと、いった。
覚えている。
そのまま、動かなくなった。
そのまま、冷たくなった。
あの声も、感触も、覚えている。
「……ねえ、お父さん……あたし、どうすればいい? どうすれば、いい?」
涙がこぼれてきて、誰も座らなくなったソファに、崩れ落ちた。
その声にはもう、誰も、こたえない。
大きな大きな黒い固まりが、行き先もわからず、エイリのなかで渦を巻く。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
さらさらと、風が吹いた。
夕方に降り始めた雪は、いつのまにか積もり、真っ白の世界が出来上がっていた。
既然とした瞳を真っすぐ前に向け、悠良が先頭を歩く。
歩幅を広げてその後ろ姿に追いつくと、左に並び、怜は自分の帽子を悠良の頭にかぶせた。
「お疲れさまでした」
莉啓が、右側に並び、ぽんっと悠良の頭に手を乗せる。
「こういうことも、ある」
「…………」
悠良は黙って、だぶだぶの帽子をきゅっと前にひっぱった。
天から降り立った三人の聖者──その役割は、魂の回収。
死してなお、生にしがみつく魂を導く役目は、決して、救いではない。
救いなどと、おごってはいけない。
悠良は背筋をぴんと伸ばし、さらに足を速めた。
「私を誰だと思っているの? 余計な心配は無用よ」
いつもの声でいい放った天女に、二人は顔を見合わせて、小さく、優しく、ほほえんだ。
そうして、聖者は、歩き続ける。
彷徨える魂を、導くために。
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2002年執筆。
読んでいただき、ありがとうございました。