story4 加害 1
愚かなことを
本当に、愚かなことを、した
こんな思いを
あの子にだけは
「寒いわ」
暖炉の前の特等席に悠然と腰をかけ、赤い髪の美少女は静かにいい放った。訪れた沈黙を埋めるように、ぱちぱちと、薪の爆ぜる音が響く。
暖色系の絨毯に、ソファ、カーテン。ここキーリィの町で、もっとも高級とうたわれる宿の、もっとも値の張る部屋にいても、なお不十分なほど、美少女は高貴なかおりを漂わせている。
かわいい、というのとは、違う。少し冷たい印象を受ける、美しい少女だ。
その少女の向かい側のソファで、黒い髪に黒い服という青年が、黒い瞳を持ち上げた。
「じきに、暖かくなるよ、
悠良」
やわらかく、優しくいう。もう十分暖かいという真実を、口にするような男ではない。悠良が寒いと思っているという、そのことだけが、この青年にとっての事実だ。
悠良はすっと目を細め、小さな唇を尖らせるような表情をした。
「私、寒いのは嫌い。
莉啓はいつもどおりの格好だけれど、寒くはないの?」
「こう見えても、結構、着込んでいるよ。あまりかさばるのは、好きではないからね」
青年、莉啓は、その端整な顔に苦笑を浮かべた。そうは見えないわ、と悠良がそっぽを向く。
窓の外は、どこかどんよりとしていた。
「
怜なんて、馬鹿みたいにいっぱい着ていったわよ。鍛えているくせに、そういうところ、楽なほうにいくのよね」
寒空の下を駆けずり回っているであろう少年を思いだす。その名前に、莉啓はあからさまに不快そうな顔をした。
「いっそ帰ってきても、この部屋に入れないほうがいいな。厳しい環境に慣れたほうが、奴のためだ」
少し、悠良が笑う。本当は仲がいいのか、本当に悪いのか、よくわからなくておもしろい。
「それにしても、こんな寒い町……仕事じゃなかったら、絶対に来たくないわね」
「ああ……そうだな」
莉啓は、先程から目を通していた資料に、もう一度視線を向けた。
「レアード=ディリキス。五十歳。……五十歳か。うまくいかないものだな」
「…………」
ターゲットの名を読み上げ、莉啓は押し黙る。悠良も少し唇を噛むようにして、視線を落とした。
「そんなの、いまに始まったことじゃないわ」
だからこそ、こうして旅をしている。
救うためなどといっては、おごりになるだろうか。
ぱちぱちと、薪が爆ぜた。
空はずいぶん低いところにあるようだった。
しかしそれを見上げる余裕はなく、サイズの大きな薄茶色のコートを、首の一番上まできっちり閉めて、毛糸の帽子までかぶった少年は、ぶるぶると震えていた。
「やばいってこれ、ほんとに、寒いにも程があるっていうか……あーー、だめ、ほんとだめ、帰りてーっ」
何度か折られた裾からもうしわけ程度に手をのぞかせているが、動きはきわめて鈍い。
右脇に何やら長い棒を携えており、ただでさえ高くはない背が、一層低く見える。
今朝からずっと寒空の下で働いて、少年はいいかげん挫けそうだった。
「ほら、動きとまってるぞ、レン坊! 寒いと思うから寒いんだ、しゃきっとしろ!」
「そんなこといったって……」
怜は、げんなりと声の方向を見た。どう見ても薄着で、しかし寒そうな気配も見せずに働いているのは、レアード=ディリキス。五十歳という歳にしては若々しい、背の高い男性だ。
「立派なホーグル乗りになりたいんだろう? そんなことじゃあ、いつまでたってもなれないぞ!」
白い歯を見せて、レアードは笑う。頑張ります、と言葉を返しながらも、怜はうんざりした気分で真っ赤になった両手を見た。
「なんで、俺ばっかり、こんなこと……」
素手で氷を触り続けているのだ。自分の手が、可哀相でならない。ぶつぶつともらしながらも、背負った大きな篭に、少しずつエレ草という赤い草を入れていく。
この町で重要な移動手段となる、ホーグル車。それを引いて走るのは、ホーグルという大きな動物、そしてその操り手をホーグル乗りという。いまは、そのホーグルの餌の採取の真っ最中だ。
「レンさんったら! まだ、ほとんど採れてないじゃない!」
怜の篭を覗き込み、レアードの娘のエイリがおかしそうに笑った。赤茶色の髪を三編みにした、目の大きな可愛らしい少女だ。
「うわ、エイリさんはさすがに早いね……やっぱ親子二代でホーグル乗りともなると、違うよなぁ」
「あたしは小さいころから、当たり前のようにやってきたんだもん、これぐらい、できなくちゃ」
父親と似た表情で、白い歯を見せてにっこり笑う。
慣れとはいえ、なかなかできるものでもないだろう。怜は、自分が立っている場所を見下ろし、大きく息をついた。
足の下に広がるのは、凍った湖。目を凝らさなければ見えない、氷のなかのエレ草を発見し、その部分だけ氷を割り、草を採取する……気の遠くなる作業だ。
「けど、レン坊、あんたは筋がいい。スピードは遅いが、初めてでよくもまあ器用に採るもんだ。素質あるぞ」
そういわれても、あまり嬉しくない。そもそも、本気になるつもりなど微塵もなく、怜は適当なスピードで採取を続けた。
「ホーグルはさ、こんな冷たいもん食べて、お腹壊さないの?」
それ自体が氷のような冷たさをもつ赤い草を日に透かし、怜は他愛のないことを口にした。くすくすと笑い声が、疑問に答える。
「それ、あたしたちだって、食べれるんですよ。そのままサラダでもいいし、炒めてもおいしいし。よかったら、今夜、食べていきます?」
「え、そうなの? やー、でも、サラダは勘弁……絶対冷たい……」
加えて、おいしい気もしない。外からきたひとは、そうかもねと、エイリは笑う。
「まったく、旅をしてたにしちゃあ、軟弱だなあ、レン坊。おまえ、どっから来たんだったか?」
割れていない氷の上を、気を遣う様子もなくどしどし歩いてきて、レアードが豪快にいう。怜は寒そうに顔をしかめながら、空を見上げて指差した。
「あのあたりかな?」
「なんだ、そりゃあ。ま、今日は、これぐらいでいいだろう。家に戻って、ホーグルに餌をやるぞ。ついでにオレらも、腹ごしらえしないとな!」
怜の表情は一気に明るくなり、手にした長い棒をくるりと回すと、背筋を伸ばして敬礼をした。
「了解、ししょう!」
まったく単純なやつだと、レアードに小突かれた。
要するに、馬の仲間なのだろうと、怜は思う。すらりとした体躯は、クリーム色のなめらかな毛で覆われている。重量感あふれるという印象とは程遠く、賢そうな目、鼻、口だ。つんと尖った口は、生意気そうにも見える。馬と決定的に違うのは、長い首のさらに下までだらりとのびる、大きな耳だろう。
この地方にしか生息しないといわれる、ホーグル。力持ち、俊足、頭がいいということで、大変愛されている動物だ。
「おまえ、よく食ったなー」
あっという間に空になった篭を呆れたように見て、怜は自分の頭と同じ高さにあるホーグルの頭をそっと撫でた。ディリキス家の隣に建つホーグル小屋には、同じぐらいの大きさのホーグルが三頭。その三頭ともが、休む間もなくリア草に食らいつき、怜は自分も食べられるのではないかと思ったほどだ。
怜の記憶にある馬小屋よりはいくぶんすっきりした、それでも動物独特の匂いの漂う、小さな小屋だ。毎朝掃除をしているのだろうと、怜は感心したように小屋を見渡す。小屋の端には、手綱や車などが、整然と置かれていた。
「ご苦労さま、レンさん! お家の方で、お茶の用意できましたから……よかったら、飲んでいって!」
そんなことをいいながら、エプロン姿のエイリがひょっこり顔を出した。今年二十歳だというこの娘は、自由奔放という表現のよく合う、活発な女性だ。
「ああ、ありがとうございます」
振り返って、怜は笑顔を返した。
「ね、エイリさん。あれが、ここのホーグル車?」
視線で示す。その先にある車を見て、エイリはええとうなずいた。
「大きな方がお父さんので、小さいのはいまはあたしのなんです。この、車輪の横の……」
エイリは、とてとて歩いていって、御者台の前の出っ張っている部分を示した。
「ここ、ここにね、ホーグルをつなぐんです。普通、二頭なんだけど、あたしのはまだ初心者用に、一頭だけ」
「へぇー、なるほど。構造とかは、馬車と同じだね。あ、馬車、知ってる?」
「あたしは、見たことはないけど。でも、知ってますよ」
エイリは、昔父親から聞いたことがあるのだといった。
「馬には、この寒さは厳しいみたいなんです。この地方なら、ホーグルがいちばん! 馬より力持ちだし、足も速いんですよ!」
誇らしげに胸を張る。それはそうだろうと、怜は納得した。ただし、逆にいえば、ホーグルにとっては他の地方で生き抜くのが厳しいということになる。
「でも、ホーグル車って、結構いっぱいあるんでしょ、特にこの町は大きいから。事故とかも、結構あるんでしょうね」
できるだけ何気なく発した言葉だったが、エイリは眉根を寄せて動きをとめてしまった。
「事故なんて、あっちゃいけないんです。事故を起こすようなら、ホーグル乗りになんて、なっちゃいけないんです、ほんとは」
事故というものを、嫌悪する様子だ。怜は、そうですねとうなずいた。
「あの子が、そんなことを?」
お茶をもらって帰りぎわ出た話題に、レアードは少し淋しそうに苦笑した。
「何か、あったんですか?」
長い棒は持ったままで、だぶだぶのコートを器用に着込みながら、怜がいう。レアードは、エイリが引っ込んでしまった二階に目をやり、小さく声を発した。
「妻がね……もちろん、あの子にとっての母親だが……まだあの子が小さいころ、ホーグル車に轢かれる事故があって、それで死んでしまったから……」
「ああ、それで……」
まあ、そんなところだろうとは思ったが、と怜は心のなかでつぶやく。
「でも、エイリさんも、ホーグル乗りなんですね? 普通、そんなことがあったら……」
「あんなことがあったからさ。事故なんて絶対起こさない、立派なホーグル乗りになる、ってな。レン坊、おまえさんもホーグル乗りをめざすなら、安全第一だ。たとえ事故でも、ひとを殺しちゃあいけない」
「…………」
怜は、冷静に、レアードの表情を読む。
「だが、まあ……本当は、事故なんて、ある程度は仕方ないんだ。起こすほうも、好きで起こすんじゃないんだ。事故を起こして、不幸になるのは、起こしちまったほうも、起こされちまったほうも、おんなじだ」
「……?」
何か、含むものがあるような気がしたが、レアードはそれっきり口を閉ざしてしまった。
怜も、それ以上突っ込むのは避け、暗くならないうちにと、ディリキス家をあとにした。
お帰りなさいませという挨拶に軽く返事を返し、階段を駆け上る。三階にある、豪華な装飾の扉を開けようとしたが、なぜか鍵がかかっている。しかし、特に意に介することもなく、ポケットから針金を取り出すと、当然のように鍵を開けた。
扉を開けると、思ったとおり、そこは天国だった。
「たっだいま、帰りましたぁー」
あまり覇気のない声で告げ、怜は長い棒をトンと右足に任せると、素早くコートを脱ぎ捨てた。棒の先で帽子を持ち上げ、そのまま帽子かけらしい木のラックに引っかける。
目の前には、貴族の部屋と見間違えるほどの、豪華なリヴィングルーム。部屋の左奥のソファで、悠良が億劫そうに顔を向けた。
「お帰りなさい。早かったわね」
淡々としたその言葉に、怜は大げさに肩を落とし、ソファの背もたれを飛び越えて、莉啓の隣の悠良側にどすんと腰かけた。
「もうちょっと、大変だったねー、みたいなねぎらいが欲しいのに。外は寒いんだよ。この部屋からじゃ想像できないぐらい」
「大変だったな」
隣で、さらりと莉啓がいう。その、あまりにも心のこもらない様子に、怜はため息をついた。
「これからはさぁ、くじ引きとかにしない? 俺ばっかり働いてるケースが圧倒的に多いと思うわけ。なんで、二人は、こうやって、一級宿のロイヤルスイートなんかでぬくぬくしてんの。おかしいじゃんか」
「おかしい? おかしいのは貴様の脳だ、愚か者」
怜のほうを見もせずに、莉啓がいい放った。
「外は寒いといったな。貴様は、悠良に風邪でもひかせる気か?」
風邪なんかそう簡単にひくかよ、という言葉は一応飲み込んで、怜はコホンと咳払いをする。
「よしわかった。まあ、風邪はおいといて、悠良ちゃんにはあんまり大変な思いをさせたくない。それは当然。でも、そのおまえの過保護すぎがいけないって何度いえばわかるかな。……いや、違う違う、いまいいたいのはそれでもなくて」
「要点を整理してから発言してはどうなの? 聞き苦しいわ」
悠良の言葉も冷淡だ。しかし、怜は負けなかった。
「啓ちゃんは、何してるわけ? おまえももっと働きなよ。ホーグルに餌でもやったら?新鮮だよー、きっと」
「ふん……」
莉啓は、悠然と鼻をならした。足を組み替え、腕を組み、馬鹿にしたように怜を一瞥する。
「悠良をひとりにさせておくわけがないだろう。悠良が残るということは、俺も残るということだ」
「……ああ、そう。そうだね」
なんだかどっと疲れた。
もう少し傍観しているのも良かったが、どうしても気になり、悠良が口を挟む。
「ホーグルって、この町でよく見かける動物よね? 餌をやったの?」
「そうそう!」
これ幸いとばかりに、怜がくるりと完全に悠良に向き直る。身を乗り出し、莉啓をシャットアウトする形だ。
「ホーグルの世話ってのを、一日やったわけ。頭良さそうだし、目とかくりくりしてて、かわいいよー」
「そういうことを聞きたいのではなくて。情報を、聞きたいのだけど」
あ、そう、とつまらなそうに、怜は背もたれに身体を委ねた。
「レアード=ディリキス、五十歳。職業はホーグル乗り。娘、エイリ=ディリキス、二十歳。これまたホーグル乗り。奥さんは、昔ホーグルに轢かれるって事故で亡くなったそうで。まじめーに働いてる感じの、親子でした、よっと」
暗記してきたレポートのように、すらすら述べる。莉啓が片眉を上げた。
「それだけか?」
「いえーす」
「少ないわね」
「……勘弁してよ」
どうして自分だけ、こんなにも立場が低いのか、本気でわからない。
「まだ一日目で、そんな、なんでもかんでもわかるわけないだろー。結構ハードな仕事して、俺、大変だったんだから」
「レアード=ディリキスは、わかっているのか?」
莉啓の問いに、怜は一瞬黙った。何を、と聞くようなことはしない。それはもう、わかりきっている。
「……どうだろうね。まだ、なんとも。でも、少なくとも、俺のことには気づいてないと思う」
そうか、と莉啓は口をつむぐ。悠良は少しだけ疲れたように、息を吐いた。
「焦ることはないわ。ゆっくり、やりましょう」
赤い髪をそっとかきあげる。
「それに、そうね……確かに、怜にばかり動いてもらうのは、忍びないわね。私も、明日は少し、頑張ってみようかしら」
「さっすがは、悠良ちゃん! そうこなくっちゃ!」
無邪気に喜ぶ怜を、莉啓がにらみつけるが、気づかないふりをする。
悠良は、莉啓を見つめ、すっと目を細めた。
「莉啓」
「なんだ?」
当然のようにすかさず対応する莉啓。悠良は視線を移動させた。その先には、黒い包みが置かれている。
「お腹がすいたわ」
「わかった」
莉啓は、厳かにうなずいた。そして、悠良の舌を満足させるために、いつのまにか極めてしまった料理の腕を披露すべく、マイ調理セットの入った包みを手に、颯爽と立ち上がった。
レアード=ディリキスの朝は早い。太陽が町を照らしだすよりも早く置き、ホーグル小屋の掃除を行なう。それから、三頭のホーグルの状態をチェックし、一頭ずつ家の周りから裏の森まで散歩をさせる。三頭の散歩が終わり、昨夜のうちに準備しておいた餌を与えるころには、娘のエイリが朝食ができたと呼びにくる。
いつもなら、そうだ。しかし今日は、少し具合が違っていた。
「おっはようございます!」
長い棒を持ち、見た目には昨日よりもたくさんの衣服を着込んだ怜が、すでに小屋の掃除を終わらせて待っていた。
レアードは驚いて、昨日弟子入りしてきた少年をまじまじと見た。昨日はよほど疲れている様子だったので、来るのは昼からでいいといってあったのだが。
「どうしたんだ、レン坊? こんな早くから」
驚かせたことが満足なのか、怜は満面の笑みで答える。
「そりゃ、俺だって早く一人前のホーグル乗りになりたいし。というわけで、よろしくお願いします!」
本当は、夜明け前に莉啓に叩き起こされて宿の窓から投げ捨てられたのだが。
レアードは、初めての弟子の、ひた向きな態度に感動し、怜の帽子がとれるのもかまわず、頭をわしわしと撫でまわした。
「偉い! 偉いなぁ、レン坊! その根性があれば、すぐになれるさ!」
「がんばり、ます……」
豪快な力加減に、顔をしかめながらも、なんとか言葉を返す。
「で、レアードさん。いまからは、何をするんですか?」
「掃除はしてくれたみたいだな……じゃあ、ホーグルの散歩だ。散歩といっても、身体をならす程度だな。まだ、お前に手綱を引かせるわけにはいかないが……」
「もちろん! ついていくだけでいいです。お世話になりますっ」
とんと棒を真っすぐ立て、怜は姿勢よく一礼した。
レアードと怜が一頭のホーグルを連れて歩き去っていくのを確認してから、莉啓はそっとホーグル小屋に足を踏み入れた。
あの調子では、それほど時間もかからずに戻ってくるだろう。ぐずぐずしているわけにはいかない。
「間近で見ると、大きいな……」
思わず、声に出してつぶやく。突然現われた客にも、特に驚いた様子はなく、二頭のホーグルは実におとなしくしていた。その真摯な目は、莉啓の方に向いている。
賢い動物なのだろう、と莉啓は思った。むやみに騒ぐわけでも、怯えた目をするわけでもない。そのたたずまいからは、威厳のようなものも感じられた。
莉啓は、静かに右手をかざした。瞳を閉じて、右手に全意識を集中させる。
「失礼」
それから、そっとつぶやいて、大きな方のホーグルの、額の部分に触れた。
「君は、何か、知っているか?」
問いかける。もちろん、返事は返ってこない。
返ってくるのは、少しの混乱と、深い悲しみの意識。怯えたような、記憶の片鱗。
「……そうか」
莉啓は、ホーグルの額を優しく撫で、身を翻した。
「何か、わかったの?」
小屋を出ると、真っ白なコートを着た悠良が立っていた。燃えるような髪の赤と、上着の白とが、お互いに主張し合うこともなく、みごとに調和している。
莉啓は、驚いたように眉を上げた。
「あら……気づいているかと思ったわ。目が覚めたから、ついてきたの。いけなかったかしら?」
台詞とは裏腹に、悠然とほほ笑みをたたえる。莉啓は苦笑した。
「いや。だが、ここはまずい。少し離れよう」
「私、まだホーグルに触れていないわ」
本気なのか、冗談なのか、いつもと変わらない様子で悠良がいう。莉啓は首を左右に振り、悠良の前に立って歩き始めた。
「悠良は、触れないほうがいい」
やわらかな声音でそう告げる。
「どうして?」
「あのホーグルは、何かを見ているよ。そして、混乱している」
「……混乱?」
足を早め、莉啓の隣に並ぶと、悠良は赤い髪をふわりと揺らし、その横顔を見上げた。
「どういうことなの?」
莉啓は、そっと瞳を伏せる。そこまでは、わからない。
悠良も口を閉ざした。
なぜ。いつもその理由という壁にぶつかる。なぜ、ということ。
生きてきた、その事実が、理由などいくつでも作り出すということは、わかっているつもりだが。
一度歩みを止め、悠良は振り返った。木造の、あまり大きくはない家屋。その隣にひっそりと並んで建つ小屋。
まわりには他に民家は見られず、森と畑、そしてでこぼこ道がつづく。
「ねえ、莉啓」
莉啓には背を向けたまま、悠良は従者を呼び止めた。
「私たちは、死神かしら?」
「違うよ」
ためらいのない言葉が返ってきて、悠良はもう一度前を向き、歩きだした。
*
目を覚まし、エイリ=ディリキスはじっと天井を見つめていた。
いつ、目が覚めたのか。何かを考えていた気がするのだが、思い出せない。
何か、何かとても、大事な夢を見ていたような。
「……朝?」
意識が、ぼんやりとしていた。朝食の準備をしなくてはと、習慣になっている意識が働くが、身体が動かない。
いつもならばたばたと動き出す時間だ。見慣れたはずの白い天井が、ひどく異質なものに思えて、エイリは不思議な気持ちで、目をそらせないでいた。
「起きなくちゃ」
自分の声が遠くに聞こえる。
何かがおかしい。
何かを忘れている気がする。
しかし、思い出しては、いけない気がする。
エイリは、もう一度目を閉じた。
次に目を開いたときには、何かもやもやしたもののことなどすっかり忘れて、エイリは元気に飛び起きると、慌ただしく朝食の準備に取りかかった。