story3 とてもとても長い夢 3
未来が見える──
ああ、たいへん、きょうはおきゃくさまがたくさんいらっしゃるわ
未来が見える──
おかあさんがとてもつかれてる ばんごはんのしたくをしとかなくちゃ
未来が見える──
きょうはとてもさむいみたい うわぎをよういしておこう
未来が見える──
もうすぐたいへんなことがおこるわ
未来が見える──
とてもたいへんなことがおこるわ
未来が見える──
未来が見える──
未来が見える──
それはとても素敵なことね
そんなことない
未来が見えるなんて、素敵なことね
そんなことない
未来が見えたら、怖いものなんてないのにね
そんなこと
「あるわけないじゃない」
ティアラは、自分がつぶやきをもらしたことに気づかなかった。
今日はバレッタの一存で、菓子屋は休みだった。理由を尋ねても、とにかく今日は休みだというばかりで埒があかなかったが、無理をいって開けるつもりもない。久しぶりに何もすることのない、怠惰な時間。
ティアラは、ただ、椅子に座っていた。
座ったまま、どれほどの時間が経っただろう。
後悔とやるせなさに似た感情が、胸の奥底で渦巻いている。
母親は、今日も朝早くに出かけていった。いま座っている場所が店のカウンターではないというだけで、いつもと変わらない、退屈な日常だ。
「…………」
彼女は、ため息を吐き出した。
しかし、それすら気づかなかった。
莉啓は、ルルグの町への道を歩いていた。
明け方、悠良を起こすのはためらわれたので、怜をたたき起こし、注意事項だけを述べてさっさと空き家をあとにしたのだ。
家並みを抜けると小さな林があり、それも抜けたところで、彼はなるほどと納得した。
空間と空間の境目に行き当たったのだ。
「これは……来るときに気づかなかったとしても仕方がないな。ずいぶんとささやかな……」
つぶやいて、莉啓は眉をひそめる。
この空間の歪みは、想像していたものとは種類が異なっているのだ。
人を寄せ付けないための結界が張ってあるのだと、思っていたが。
「……人を拒むことを目的としたものでは、ない……のか?」
そっと歪みに手をあて、莉啓はしばらく考え込んだ。人を拒むためのものでないとするならば、一体なんのために。空間の種類が異なっているということは、何か目的があるはずだ。
莉啓は、手に少しだけ力を込めた。あっさりと歪みを突破し、すぐに振り返ってみる。予想通り、そこにはたったいま自分が通ってきた道があるのみだ。
「…………」
莉啓は嘆息した。歪みがあるというだけでは、その空間の種類まで特定するのは困難だ。
とりあえずルルグの町まで行ってみようと、歩き出す。
林を抜けたあとの道は、決して良いとはいえなかった。地面は、泥が流れたかのようになっており、右手にある山も今にも崩れてきそうだ。
来るときもこのような状況だっただろうかと記憶をめぐらせるが、暗かった上に疲労していたので、思い出せない。そうであったような気がしないでもないが。
そうして、数分も行かないうちに、川にさしかかった。
莉啓は、足を止めた。
「……橋が、ない」
それほど大きいというわけではないが、普通の人間が橋なしで渡ることはまず不可能であろう川には、橋の姿がなかった。
明らかに増水しており、流れも速い。
まるで、こちら側の空間が隔離されているかのようだ。
「……そういえば、橋のない川を渡ったな」
暗かったので、これほど流れが速かったかどうかは覚えていないが、確かに渡った。
この程度ならかるく飛び越えられる怜が悠良を抱えて渡り、莉啓は自らの身体を浮遊させることで突破したのだ。
すっかり忘れていた。疲れのせいで、思考が麻痺していたのだろう。怪しむこともなければ、とくに苦労もしなかったので印象に残ることもなかったが──
莉啓は、他のルートを探索しようとした。しかしどうやら、町と町をつなぐ道は、ここだけだ。
「結局、ムリに急いで港まで行ったのが間違いだったわけか……」
深く嘆息しつつも、魔術を用い、川を渡る。
ここまで来れば、ルルグの町はもうすぐそこだ。莉啓は、相変わらず状態の悪い道を、注意深く進んだ。
「パンでいい? いいよね? もう買って来ちゃったから、いまさら嫌なんていわれても困るんだけどさ。はい、今日の朝ごはん」
ずいぶんと勝手なことをいって、怜は、パンの入った袋を悠良へ投げ渡した。
怜にしてはできすぎた気配りだ。自分がまだ寝ている間に買ってきたのだろうかと思いつつ、悠良は小さくあくびをもらす。
「莉啓は、もう行ったの? 行動が早いわね」
「おかげでたたき起こされたよ。よく聞いてなかったけど、なんかいろいろいわれたしさ。啓ちゃんって、頭の中で時間配分とか完璧にされてそうで怖い」
「されてるでしょうね」
さらりと肯定し、悠良は紙袋からパンを取り出した。それから、ゆっくりと怜を見る。
「皿は棚の中。ティーカップも棚の中。紅茶は鞄の中。啓ちゃんいないんだから、できるだけ自分でやろうね」
「…………」
そういうことに関して、怜は意外に厳しい。莉啓が過保護すぎるということもあるのだが。
悠良は渋々と立ち上がり、紅茶の準備を始める。朝食がパンだけというのも寂しいが、莉啓がいないのだから贅沢はいってられない。自分で何かをつくるぐらいなら、我慢した方がましだ。
そんなことを考えていると、階下から扉をノックする音が聞こえてきた。
「……?」
二人は、顔を見合わせる。ここは空き家のはずだ。
「出るべきかしら」
「出ないべきだろうね。ちょっと待って、たぶん窓から見えるから」
そういって、怜が窓から身を乗り出す。見下ろすと、玄関の前には、一人の女性がたたずんでいた。手には、なにやら鍋のようなものを持っている。
「バレッタ=リサルトだ」
「バレッタさん? どうして……」
もう一度、扉がノックされた。
「ここにいるってこと、ばれてるんだろうね。店の正面だしなあ……無理があったのかも。まあ、この町には宿屋なんて気の利いたものはないから、仕方ないっていえば仕方ないけどさ」
「仕方ないわね」
毅然とした態度でいいきり、悠良は階段を下り始めた。怜が慌てて後を追う。
「ちょっとちょっと、どうすんの?」
「どうせばれているなら、堂々と出て行って謝るわ。何があるかわからないから、怜は中にいてちょうだい」
「いや、でもさ」
「何か文句が?」
怜は肩をすくめた。
文句があろうとなかろうと、こうなったらもう彼女には逆らえない。
悠良は、玄関の扉を開けた。
「おはよう、ユラちゃん」
バレッタは、悠良にいつもの柔らかい笑みを向けた。
「おはよう……ございます、バレッタさん」
警戒心を隠しきることができず、悠良の対応はどこかぎこちないものになる。
バレッタは、小さく首をかしげるようにして微笑んだ。
「不思議そうな顔をしてるわね。あなたたちがここに住んでるって、この町の人はみんな知ってるわよ。でも、気にすることないわ。どうせ空き家なんだから、自由に使っても大丈夫よ。この町には、宿がないものね」
悠良はあいまいな笑顔を返す。何か気の利いたことでもいいたいところだが、なかなか怜のようには簡単に口がまわらないものだ。
「今日は、一人なの?」
「え、ええ」
思わずうなずいてしまう。バレッタの口ぶりからすると、どうやらこの家に三人が寝泊まりしていることは完全に知られているようだった。
「スープをね、作ったのよ。朝食はこれから? ぜひ食べてちょうだい。お鍋は、明日お店に来てくれたときでいいから」
「……いいんですか? ありがとうございます」
悠良は、やっと笑顔を作ることに成功し、鍋を受け取ると、頭を下げた。バレッタの方も、用件はそれだけだったらしく、それじゃあねといい残し、家へと帰っていく。
「…………」
悠良は、いまいち釈然としない面持ちで、扉を閉めた。
「いいひとだねえ」
ひょいと鍋を受け取り、怜がそう感想を述べる。悠良は階段を上りながら、理解できないというように首を左右に振った。
「本当、いいひとね。どうしてこんなによくしてくれるのかしら」
「悠良ちゃんのことが気に入ったんじゃないの?」
そういって鍋のふたを開け、早くも一口味見する。
「……ん?」
怜は、渋い顔をした。
「なあに、おいしくないの?」
彼はすぐには答えなかった。
棚から皿を一枚取りだし、少しだけスープをよそうと、今度はじっくりと味わう。
「……ちょっと、特製スパイスがきいてるかな」
「……?」
悠良は、眉をひそめた。
ルルグの町は、活気にあふれていた。
陽もまだ高くはなっていなかったが、たくさんの人々が道を行き来し、大通りには多くの店が並んでいる。
莉啓は、港町とのあまりの違いにいささか気後れしながらも、情報を集めようと、手近な店の主人をつかまえた。
「港? にいちゃん、港の方から来たのかい?」
人の良さそうなその男は、大げさに驚いた。
「それはそれは……今日はこの町で、ゆっくり休むといい。あの町は、なんにもないだろう?」
「ああ……」
莉啓はうなずいた。
「そうだな、何もない」
あらゆる店と活気は、すべてこの町に吸収されてしまっているかのようだ。港もいい町ではあるが、活気という言葉とはほど遠い。
「あの町は、あっという間に何もなくなっちまったからなあ。あの町を見てからここにくると、驚くだろう? 世界が違うからな」
ということは、昔はもっと大きな町だったのだろうか。尋ねようとすると、莉啓より前に、男の方が口を開いた。
「ティアラちゃんもな、かわいそうになあ……」
予想もしなかった言葉に、莉啓は何をいわれたのかを理解するのに少々の時間を要した。
ティアラとは、やはりあのティアラ=リサルトのことだろうか。
「ティアラ=リサルトが、何か?」
「おや、にいちゃん、ティアラちゃんの知り合いかい?」
莉啓はうなずいておくことにする。男は、悲しげな顔をして、首を左右に振った。
「そうか、ティアラちゃんの……」
「何かあったんですか?」
「ここから南に十分ほど歩くと、教会の裏側に白い家がある」
男はそういって、南へとのびる道を示した。
「行ってみるといい」
ソファでは、悠良がぐっすりと寝入っていた。怜は、棚の上の天井に張りついてその光景を見下ろしながら、息を殺して、もう三十分も待っていた。
「……そろそろだと思うんだけどな。早くしてくれないと、疲れたんだけど」
あまりにも静かな空間に耐えかねて、思わず一人呟く。
ソファの前のテーブルには、スープと鍋と、皿がひとり分だけ置いてある。まだ食事の途中だといわんばかりに、皿にはほとんど中身が残っていた。
カタン、と玄関の方で音がした。
「おいでなすった」
小さく呟き、怜は神経を集中させる。気配が、だんだんと近づいてくる。
予想通りだ。
中の様子を注意深くうかがいながら入ってきたのは、バレッタ=リサルトだった。
「…………」
悠良がどうやら眠っているらしいことを確認すると、バレッタはゆっくりと彼女に近づき、身体を揺らす。起きる気配はない。
それからバレッタは、他の部屋に誰もいないことを確かめ、今度は足音を気にすることなく、階段を下りていった。
怜の存在には、気づかなかったようだ。
怜は、それでも気を抜かず、やはり息を殺して待ち続ける。今度はバレッタと共に大きな男が現れた。
男は、まっすぐ悠良のもとへ行くと、彼女の身体を軽々と持ち上げた。こちらも怜には気づく様子もなく、バレッタと共に部屋を後にする。
「──さてと」
怜は、すとんと床に降り立ち、大きくのびをした。薬入りのスープを飲ませて悠良をさらうなどと、穏やかではない。
「こんなやり方、ばれたら殺されるな」
肩を鳴らすと、気配を消してバレッタを追った。