story3 とてもとても長い夢 4

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 悠良は、目を覚ました。
「…………」
 ゆっくりと辺りを見渡し、状況を把握しようとする。
 小さな部屋だ。どうやら地下室らしく、窓一つない。片づけられてはいたが、置いてあるものを見る限りでは、倉庫のようだ。使い古されたロッキングチェアや、薄汚れた箱などが置かれている。
「埃っぽいわね」
 不快げに眉を寄せ、悠良は毒づいた。スープが罠であるということはわかりきっていたが、怜にいわれ、あえて飲んだのだ。そうすることで相手のもくろみがわかると踏んだのだが。
 悠良は、口元に手をあてると、小さくあくびをもらした。
 まだ怜が迎えに来る気配はない。
 もう少し眠ろうと、部屋の端に移動し、積まれた箱にもたれかかる。
 自力で脱出しようなどという考えは、微塵もない。
「人が寝る環境じゃないわね」
 散々けなしながらも、ただ待っているのもつまらないので、悠良は再び眠り始めた。


「どうぞ、いらっしゃい。どうされました?」
 ノックをして扉を開けたとたん、背の高い男性にそう尋ねられ、莉啓は少々面食らった。
 ティアラのことを聞こうと思い、教会の裏の白い家にやってきたのだが、こうも友好的に迎えられるとは思っていなかったのだ。
「ああ、初めての方ですね? そんな、緊張なさらないで。私がロイドです」
 男性はロイドと名乗り、莉啓を中へと招き入れる。扉を閉めてからやっと、様子がおかしいことに気づいたようだった。
「患者さん……じゃ、ないんですか?」
「患者?」
 莉啓は納得した。一見普通の民家だが、どうやらここは診療所のようだ。
「患者ではありません。実は、ティアラ=リサルトのことで……」
「ティアラちゃんの……」
 ロイドおn顔に影が落ち、彼は目を伏せた。
「ティアラちゃんの、お知り合いの方でしたか。残念ながら、彼女はまだ……。どうぞ、声をかけてあげてください」
「……?」
 ロイドは歩き出した。廊下の突き当たりの扉を開け、振り返る。
「どうなさいました? ティアラちゃんに、会いにいらっしゃったんでしょう?」
「会いに? ここに、いるのですか?」
 昨日のうち、もしくは今日の早朝にでも、彼女はこの町へとやってきたのだろうか。そうだとすれば、あの橋のない川をいったいどうやって渡ったというのだろう。
 莉啓は困惑しながらも、導かれるままに部屋に入る。
 そして、言葉を失った。
「もう、一ヶ月ですかね……この子は、まったく目を覚まさない。薬では限界があります。このままでは、衰弱死の恐れがある」
「…………」
 莉啓は、返事をすることも忘れ、ゆっくりとベッドに歩み寄った。
 ティアラ=リサルトだ。
 彼女は、白いベッドに、まるで死んだように横たわっていた。
「一ヶ月……一ヶ月、ですか?」
「事情を、ご存じなんじゃないんですか?」
 驚いたように、逆にロイドが尋ねてくる。
 莉啓は、なんとか頭の中を整理しようと、考えをめぐらせた。
 一ヶ月前から彼女がここにいるのだとすれば、港にいるあのティアラ=リサルトは何者なのだろう。少なくとも、彼女はターゲットであるという可能性は消えたわけだ。
 なぜなら彼女は、ここに生きている。
 港町ではなく、ルルグの町に。
「……彼女は、いったい、どうしたんです?」
「本当に、何も知らないんですか? 一ヶ月前の出来事も、何も?」
「ええ」
「てっきり、彼女のことを知って、それで心配していらっしゃったのかと……」
 ロイドは、悲痛な面持ちで、ゆっくりと話し始めた。


 たいして大きくもない喫茶店の中には、大勢の大人たちが集まってきていた。重苦しい雰囲気の中で、だれもが口を閉ざし、聞こえてくるのは氷と氷がこすれ合う音ぐらいだ。
「もう、限界ね」
 自嘲気味に、バレッタは呟いた。他の面々は、その言葉に反論することができず、さらに沈黙が深まる。
 しばらく、そのままときが過ぎた。次に口を開いたのも、やはりバレッタだった。
「……ごめんなさい。みんなに協力してもらったけど、だめかもしれないわ。このままじゃあの子、何も変わらないもの……」
「諦めちゃだめよ、バレッタ。あたしはいやよ、絶対にいや。あたしたちだって、ティアラちゃんのこと、大好きだもの。このままなんて、そんなの……」
「でも、結局はあの子次第なのよ。もう、一ヶ月になるわ。あの子が認めない限り、何も変わらないでしょう?」
「何を認めなくちゃいけないのか、そこんとこ詳しく教えていただきたいんですけど」
 突然、聞き慣れない声が乱入し、バレッタたちは驚いて入り口を見た。
「教えてもらって、よろしいですか?」
 そこには、長い棒を持った少年が、挑戦的な目をして立っていた。
「あなた……」
「うちの悠良ちゃんを返してもらいに来たんだけどさ。なんか興味深いお話ししてるみたいだから、思わず聞き入っちゃったよ」
「…………」
 立ち上がったバレッタが、何かをいおうと口を開く。しかし、それよりも早く、悠良を抱えてさらっていった大きな男が、怜の前に立ちふさがった。
「悪いことはいわん、この町のことには関わらんでもらおうか。約束するというのなら、あのお嬢ちゃんもおとなしく返そう。引き下がらないようなら……」
 男は怜を見下ろし、指を鳴らした。なかなかの迫力だ。
「引き下がらないようなら力ずくって? 悪いこといわないからさ、やめときなよ。別にこっちだって、危害を加えようってんじゃないんだからさ」
「嘘ばっかり! あんたたち、天界から来たんでしょう? 知ってるんだから、あんたたちなんて、死神じゃないの!」
 奥の方から、甲高い女の声がする。怜は一瞬目を見張り、それから肩をすくめた。
「なんでそのへんの事情知ってんの? ひょっとして、みんなしてなんか隠しごと? この町にされた細工も、あんまり嬉しいもんじゃないんだけどな」  
「邪魔はしないでもらおうか!」
 叫ぶと、男は大きく拳を振りかぶった。すさまじい速さで、怜に向かって振り下ろされる。
「なんていうかさ」
 その拳を、片手で軽々と受け止め、怜は面倒臭そうに眉を上げた。
「できるだけ、話し合いで解決しようよ」
 とん、と男の身体を押し、それから手にした棒を軽く突き出す。たったそれだけで、男の身体は見事に宙を飛び、激しい音をたてて床に倒れ込んだ。
 一瞬のことだった。店内は静まり返り、敵意と怯えの入り交じった目が怜に向けられる。
「あれ、なに、この空気?」
「わかったわ」
 その中で、バレッタは一人、落ち着いた足取りで怜に向かい合った。
「あなたに力で勝とうとしても無駄みたいね。ぜんぶ話すわ。でも、約束して……すべてが終わるまで、待って。お願い」
「……了解。話してくれるなら、それでいいよ。どっちにしろ、こっちだってむりやりでできる仕事じゃないからね」
 でもその前にさ、と怜は店の奥をのぞき込んだ。
「うちの悠良ちゃん、返してくれる?」


 もう昼時は過ぎていたが、ティアラは朝とまったく同じ状態で椅子に座っていた。起きてすぐに煎れたコーヒーは、一口も飲まれることなく、ひっそりとテーブルに置かれている。
 退屈だった。
 しかし、何をする気にもならなかった。
 押し寄せてくる日常に、つぶれてしまいそうだ。
「……いつからかしら」
 コーヒーカップを見つめ、彼女は呟いていた。
「いつから、こうなってしまったのかしら」
 表面上の自分を作ることを覚えてから、日常が苦痛になった。
 笑いもすれば、怒りもする。もちろん、悲しむこともある。
 しかしいつからか、感情が素直に表現できなくなっていた。
 本当の自分は内側にしまいこんで、表面で笑っている方が、生きているのが楽だった。
 そう思っていた。
 だがこの苦しみは、なんなのだろう。
「……わたしだって、疲れているのよ」
 とても力のないつぶやき。
 ティアラは、全身を襲う虚脱感に抗おうとすらしなかった。
「……わたしだって、怒るのよ……わたしだって泣くのよ……わたしだって、わたしだって……」
「ならそういえばいいわ」
 テーブルの向こうには、いつのまにか、悠良が立っていた。そのうしろに、あと二人、見たことのない青年の姿がある。
「自分を作ってどうするの? いいたいことは、いわなくちゃ伝わらないのよ。そんなこと、小さな子どもでも知ってるわ」
 ティアラはこたえない。
 彼女は光のない目で、悠良を見つめていた。
「あなた、なにがいいたいの? いいたいことはたくさんあるでしょう? 後悔したくないんでしょう? いいなさいよ、そうしなくちゃいけないって、あなたわかっているから、ここにいるんでしょう」
「……伝えたいことは、口に出していわなくてはいけない」
 莉啓が、一歩前に進み出て、重々しく口を開いた。
「認めなくちゃいけない。自分のしたことすべて。そうしないと伝わらない……ありがとうも、ごめんなさいも」
 ティアラはこたえない。
 悠良のいうことも、この青年のいうこともわかる。それが正しいこともわかっている。
 しかし、いままで作り上げてきたものは、そう簡単には突き破ることができなかった。
「いいんじゃないの?」
 頭のうしろで腕を組んだ、長い棒を持った少年が、そういってティアラを見る。
「そろそろ、自分を許してあげてもさ」

 ティアラはこたえない。

 
 だって見えてしまった。
 だって逃げてしまった。
 自分はどうしようもなく弱くて、皆はどうしようもなく優しい。
 これは現実だ。
 夢であろうとも………………現実なのだ。


「ねえ、ティアラ」
 気がつくと、目の前にあったはずのテーブルがなくなっていて、代わりにバレッタがいた。自分がいたはずの家もなく、町の人々が、こちらを見ていた。
「あなたは、悪くないのよ」
「……そうやって……」
 ティアラは、震える声をしぼり出した。
「そうやって、お母さんはいつだって全部わかってるような顔をして、いつだって自分がいちばん大変みたいな顔をして、いつだってわたしは強い子だって、わたしは大丈夫だって、わたしのこと信じてる……。わたし、強くないわ。わたし、偉くないわ。わたしはすごく卑怯で、すごく嫌な子なのよ。お母さんのことだって、ずっと、ずっと、大嫌いだったのよ……!」
 バレッタは、何もいわなかった。
 ただ少しだけ寂しそうに微笑んで、ティアラを見ていた。
「……なんで……なんで怒らないの……なんでそんな顔してるの……みんな、この町の人みんな、わたし、見殺しにしたのに……あの日、わたしだけ、逃げたのに……」
「──何があったの?」
 優しく、悠良がそう問いかけた。
 あの日。
 思い出したくもない、あの日。
「『なにがあった』……?」
「認めなくちゃいけないわ。このまま現実から逃げていたら、あなたは、本当にずるい人間になる。あなたのお母さんや、この町の人たちに、ちゃんと伝えなくちゃいけないでしょう?」
「……あの日……」
 ティアラは、呆然と悠良を見た。考えもしなかった。あの日何があったのか、認めようとしない自分がいるなどと。
 本当は知っているのに、ずっと、知らないふりをしていたのだ。
「ルルグの町の……ロイド先生のところに、お母さんの薬を貰いに行ったの……。とても天気の良い日で、わたしは、久しぶりにルルグに行くものだから、何だか嬉しくて、大きく手を振って歩いたわ……」
 彼女は目を閉じた。
 覚えている。
 ちょうど、橋を渡ろうとしたときだった。
 その光景は、ひどく鮮明に、彼女の脳裏に映し出された。
「見えたの……大嵐と、大きな大きな津波……みんな死んじゃうって、この町は波にのみこまれちゃうって、ぜんぶ見えたの……」
 身体が震えだし、ティアラは、自らを抱きしめた。
 いまでも蘇る。恐ろしい光景、言葉にならない恐怖。
 しかし何よりも恐ろしかったのは、それから自分が起こした行動だった。
「今日か、明日か、明後日か、明々後日か、みんな死んじゃうってわかったわ。みんないなくなっちゃうってわかったわ。すぐに町に戻って、しらせればよかったのよ。そうすれば、だれも死ななかったのに。でもわたしは……ひょっとしたら、いま津波が来るかもしれない、戻ったらすぐに来るかもしれない、こうしている間にも、わたしは、死んでしまうかもしれないって……」
 ぼろぼろと涙が流れ落ちた。
 自分はみんなを捨てたのだ。
 気がつくと、ルルグへ向かって力一杯走っていた。
 ルルグなら安全だということもわかっていた。
「ルルグの町についてからもずっと……ずっと、いまならまだ間に合うかもしれない、いますぐ行けばみんな助かるかもしれないって思いながら、わたし、動かなかった……。いま嵐がくればいいのに、いまきてしまえば手遅れになって、安心できるのにって、心のどっかでずっとそう思って……」
 吐き気がする。
 どうして自分はこんなにも、ずるい人間なのだろう。
「あなたは悪くないわ」
 バレッタは、微笑んでいた。
 それはとても優しくて、ティアラは、胸が締めつけられるのを感じた。
「嘘よ……だってわたし、みんなを捨てたんだもの……」
「君は、嵐の日、皆を助けるため、この町へ来ようとした。それで、充分だ」
 莉啓は、淡々と事実を告げた。
 この町へ来ようとして、あまりの強風に橋が落ち、川に流されたのだ。ルルグの町へと運ばれ、そうして目を覚まさなくなった。
 心だけがさまよい、母親たちの魂がその心を助けようと、仮想の現実を作りあげた。
 この町が天界に似ているのは当然だ。生きた人間など、始めからいなかったのだから。
「あなたは、強い子ね。とても弱いけど……とても、強い子」
「強くなんてないっていってるじゃない! わたし、強くなんか……!」
「ぜんぶ認めることができたわね。お母さんは、あなたを誇りに思うわ。あなたはもう、一人でも、大丈夫ね」
その言葉が何を示すのかを、ティアラは悟った。
「強くなんてないわ! 一人でなんて生きられない! お願い、だからお願いよ、おいていかないで、お母さん!」
「大丈夫よ」
 バレッタは、やさしく、ティアラを抱きしめた。
「あなたなら、大丈夫」
「……っ」
 涙があふれ出た。
 何度も嗚咽をもらしながら、ティアラもまた、力一杯母親を抱きしめる。
 認めたくなかった。
 抱きしめられ、抱きしめているはずのいとおしい存在が、いまにも消えそうなほどに透き通っているなどと。
「嫌いなんて、嘘よ、ぜんぶ嘘よ……大好きよ、愛しているわ……行かないで、一人にしないで、わたし、変わるから、いい子になるから、だから……」
 バレッタは、そっとティアラの口に指をあて、小首をかしげるようにして微笑んだ。
「あなたはもう、大丈夫。自信を、持ちなさい」
「お母さ……」
 ──静寂が、訪れた。
 母親の姿も、たくさんいたはずの町の人々の姿もかき消え、町そのものが、淡い輝きを放っていた。
 タイムリミットだ。
「目を覚ましても大丈夫」
 母親と似た笑顔で、悠良がそういって、ティアラの頭を撫でた。
「あなたは……大丈夫よ」

 光が、ティアラの視界に満ちた。
 なつかしい、なつかしい光だ。
 町が、愛しかった日常が、消えていく──








 ティアラは、ゆっくりと、目を開けた。
 窓からは光が差し込んできていて、彼女の頬を伝わった涙を、優しく拭うかのようだ。
「ティアラちゃん──!」
 扉の向こうから、泣き笑いのような顔で、ロイドが駆けてきた。彼は、ティアラの身体を抱きしめ、そのまましばらく動かなくなった。
「……ロイド先生……泣いているの?」
「もう、だめかと思ったんだ……よくがんばったね。もう大丈夫、大丈夫だよ」
 ティアラは、寂しそうに微笑んだ。
 自分はもう、大丈夫だ。
「夢を、見ていたの……」
「夢?」
「とてもとても、長い夢。とても退屈で、とても悲しくて、そしてとても幸せだったわ」
 彼女は、何かに吹っ切れたようだった。
 窓の外を見つめ、大きく息を吸い込む。
「ロイド先生」
 その声は大きくで、ロイドは思わずびくりとした。一ヶ月間眠っていた少女の声ではない。
 ティアラは、力一杯微笑むと、誓うようにいった。
「わたし、幸せになるわ。弱いわたしも、強いわたしもぜんぶひっくるめて、わたしを大好きになる」
 晴れ晴れしい笑顔だった。
 彼女のその表情は光を浴びて、まるで生まれたての赤ん坊のようだった。
「わたしはわたしを、とても誇りに思うの」
  

 

 

 

 



 

 

 

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1998年執筆。
読んでいただき、ありがとうございました。
ここまでが前期三部。次の『加害』執筆まで5年のブランクがあるので、多少雰囲気が変わるかもしれません。

 

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