story3 とてもとても長い夢 2
「気づかれたわ」
喫茶店の扉を開け、中に入るなり、彼女は小さくそう告げた。驚いたことに、決して大きくはない店内は、人で溢れていた。テーブルはすべて埋まり、それでも足らず、壁によりかかっているものも多い。
それでも、店内は異様に静かだった。囁くような声であったにもかかわらず、誰もが彼女に注目した。
「そんなことだろうと思った。だいたい、この町にはよそものは入れないはずだろう。バレッタ、おまえの店で働いているのは、よそものじゃあないのか」
公園で菓子を売っているはずのバレッタは、もうずっとそこにいたかのように、中央のテーブルで、考え込むように両肘をついていた。いらだちを多分に含んだその声には応えず、ただ黙って、視線だけを送る。
「そうじゃないでしょ、どうしてバレッタを責めるの。事実、入ってきてしまっているんだから、仕方ないわ。働きたいといっているのを追い返すのもおかしいし──ねえ、バレッタ」
最初の女性がそう助け船を出す。バレッタは、今度はそちらに視線を移し、曖昧に首を動かした。
「……考えが、甘かったかしらね。この町にいる限り、めったなことでは気づかれないと思ったのだけど」
「バレッタ! あなたが弱気にならないで。自分の娘のことでしょう?」
叱咤の声に、沈黙が落ちる。バレッタを見守るもの、視線を落とすもの、唇を噛み締めるもの。声を発するものはいなかったが、考えていることは、皆同じであった。
このままではいけない──それは、誰もがわかっていることだ。
しかし、もうこれ以上、どうすればいいのかわからない。
彼らは完全に、壁にぶつかってしまっていた。
「……もう、ずいぶんと、経ったわ。でも、あの子は変わらない」
ひどく疲れた様子で、バレッタがそう吐き出した。
「焦ってはだめだ。あいつらを……あの三人を、なんとかするのが先決だろう」
「ねえ、でも、どうするの? きちんと話せばわかってもらえるんじゃないかしら」
彼女のまわりで、口々に意見が交わされていく。
「話す? 何を話すって? そんな甘い連中じゃない。今日だって、長い棒を持った男の子が色々嗅ぎ回ってたわ」
「そうだ、彼らはそのために、この町へやってきたのだから」
「──なら、邪魔されないようにするしかないな」
カウンターでコーヒーを煎れていたマスターが、落ち着いた声音で、しかしはっきりといった。
一気に視線が集中する。バレッタは数秒遅れて、身体ごと彼を見た。
「……そうね」
そして、呟いた。
「そうするしか、ないかしらね」
「お疲れ様、ユラさん」
夕方にさしかかったころ、奥からティアラが現れ、店番をしていた悠良にそう告げた。
「今日はもう、お客さんは来ないから、終わりにしましょうか。ごめんなさいね、一日中店番で、疲れたでしょ」
ほほえみを返し、悠良はおとなしく帰ろうかと立ち上がる。今日も収穫がなかったので、頭が痛い。ターゲットは、本当にこの少女なのだろうか。
「今日はいつもよりも早くお店を閉めるのね。明日は、またいつもの時間に来ればいいかしら?」
「そうね、じゃあ、いつも通りに……」
いいかけて、ティアラの視線は、なにもないところで止まった。おそらく、なにかを見つめているわけではないのだろうが、放心したような顔で、身じろぎしない。
時間にすれば、ほんの数秒だろう。それからティアラは、悠良を見た。
「やっぱり、明日はいいわ。お店、やらないみたいだから」
「やらない?」
悠良は、訝しげに声をあげる。やらないみたい、というのは、ずいぶんとおかしないい方だ。
「どういうこと?」
「お母さんがね……ちょっと、調子が悪いのかな、よくわからないけど、とにかくお母さんが、明日はやらないっていうみたいなの」
「いっていることが、よくわからないのだけど」
苦笑混じりにいうティアラに、ついついいつもの調子になって、やや冷たくいってしまう。
ティアラは、ばつの悪そうな顔をした。
棚に並べてあるビンが乱れているのを直しながら、悠良とは目を合わせずに、いいにくそうに肩をすくめる。
「……信じて、もらえるかしら。こんなこと、人に話したことないんだけどね。わたし、ちょっとだけ、未来が見えることがあるの」
「……?」
嘘をいっている様子ではない。そもそも、自分のような他人にこんな嘘をついたところで、何のメリットもないはずだと、悠良は注意深く耳を傾ける。
「雨が降ってるところが見えたりとか、お客さんがたくさん来てるところが見えたりとか。そうするとね、わたしは、洗濯物を早めに取り込んだり、たくさんお菓子を用意したりするの」
突拍子もない話だ。
「……いつごろから、そうなったの?」
「信じるの?」
声をあげて、それからティアラは自嘲するように笑った。
「そうね、物心ついたときにはもう、見えてたかな」
「…………」
悠良は、表面上は驚いたような顔をしながらも、内心ではめまぐるしく考えをめぐらせていた。それは、果たして今回のことに関係あるのだろうか。関係あるのだとすれば、一体何が。
「すごいわね。洗濯物が雨に濡れてしまうことも、お菓子が足りなくて忙しい思いをすることも、ないのでしょう? そういうの、羨ましいわ」
「そうね」
ティアラの笑顔は寂しげだった。
「でもね、いいことばかりじゃないわ。近い未来なのか、遠い未来なのかははっきりしたことはわからないときもあるし。それに……」
少しだけ、目を伏せる。
「それにね、知らなくていいことも、見えてしまう。嫌な未来が見えたとき、知ってもどうしようもない未来が見えてしまったとき、自分の弱さがよくわかるの。泣きたくなるの。わたしは、そうやって、取り返しのつかないことを……」
ほんの一瞬、ティアラから表情が消えた。
それから、何ごともなかったように、悠良に笑いかけた。
「本当に、今日はお疲れ様。じゃあ、また、明後日にお願いするわね」
「……?」
ごまかしているにしては、自然な笑顔だ。たったいまティアラと話していたことが、まるで夢であるように思えてしまうほどの。
「どうかしたの?」
「いえ……お疲れ様でした」
──ティアラお姉ちゃんはね、病気なの──
小さく頭を下げながら、悠良は昼間会った少女の言葉を思い出していた。
窓を閉め切った空き家の中には、不似合いなほどにこうばしい香りが充満していた。
今日の夕食は、莉啓特製のビーフシチューと、肉の香草焼きだ。
「お帰り、悠良。ちょうど夕食の準備ができたところだ」
相変わらず、怜に対するときとは対照的なやわらかい笑顔で、莉啓が帰宅した悠良を出迎える。そのうしろで、いつものことながら何だかやってられない気持ちで、怜は肉の切れ端をつまみ食いした。
「明日は、ティアラの店は休みらしいわ。そういう未来が見えたんですって」
なげやりにいって、椅子に腰かける。空き家といえども、簡単な家具ならそろっているところがありがたい。
「未来が見えた……って、何それ? ティアラちゃんて、そういう子なの?」
「みたいね」
その声はいつもどおり淡々としていたが、どうやら苛立っているようだった。差し出された紅茶を一口飲むと、小さく息をもらす。
「結局、ターゲットはあの子なのかしら。こんなこと、初めてだわ。あの子だけ特別だと思ったのは確かだけど、もしかしたら、未来が見えるという能力のせいかもしれないじゃない」
「ターゲットが確定できない理由についてなんだが……」
莉啓は、悠良の向かい側にすわった。
「この町には、天界に似た空気が流れていると思わないか? おそらく、そのせいで悠良の感覚も鈍っているんだろう」
「天界……? そうね、いわれてみれば、似ているかもしれない」
うなずき、悠良は唇を噛む。どうして、気づかなかったのだろう。
「つまり、こういうことね。この町には、何者かによって、私たちを惑わすような仕掛けが施されている──」
「どうやらそういうことなんじゃないかってことでさ。明日辺り、啓ちゃんが町から出てみて、この町を外から観察してみようってはなしになったんだけど」
「そうね、それがいいわ」
悠良は、ため息をもらした。どうやら、面倒なことになりそうだ。
「ティアラ=リサルトは、未来が見えることを快く思っていないようだったわ。過去に、何か嫌なことがあったみたいね。それが、今回のことに、関係あるのかどうかはわからないけど」
「いっただっきまーす」
「……聞いてるの?」
「聞いてる、聞いてる! 啓ちゃん、これおいしいよほんと」
呆れたように怜をみやり、それから悠良も食事を始めることにした。夕食を目の前にして、あれこれ考えるというのは得策ではない。
「怜、おまえのほうは、なにかわかったのか? 町の人間に話を聞いたんだろう」
莉啓もまた、肉の香草焼きにナイフを入れながら、そう尋ねる。怜は、肉の半分を一度に口に放り込むと、ふん、と気の抜けた声を返した。
「情報なし。まったくなし。たぶん、町の人たちは、みんなでなんか隠してるね。だれに聞いても、この町は平和だ、だれかが病気、怪我をしたってことはない、の一点張り」
「町ぐるみで隠し事か……穏やかじゃないな
「だろ? なにを隠してるのかまでは、わかんなかったけど。とにかくなんか怪しいね」
話ながらも一皿たいらげ、怜は颯爽とビーフシチューに取りかかる。
「あのとき……この町に来るとき、急いで夜中にやってきたのは、逆効果だったということかしら。おとなしく、ルルグの町で一泊してから来ていれば、このまちの仕掛けにも気づいたかもしれないわね」
「急がば回れとはよくいったもんだよねー」
「反省の色がないようだけど」
「……はいはい、ごめんなさい、俺が悪かったよ」
冷たい悠良の言葉と、それ以上に冷たい莉啓の視線に、怜はおとなしく謝罪した。たしかに、自分に非があるので、いいわけはできない。
「まあ、すぎてしまったことはしようがない。俺は明日の早朝に町を出て、調査してみる。それから、ルルグまで行って情報を集めるとしよう。本来なら怜にやらせたいんだが……おまえでは、仕掛けがわからないだろうからな」
「おうよ。魔力のことは、俺にはさっぱり」
怜は、あっさりと肯定する。莉啓は術使いだが、怜は体術専門だ。
「じゃ、俺と悠良ちゃんはとりあえず啓ちゃん待ちだね。これ以上、この町で情報仕入れられそうにないし。一応、ティアラ=リサルトについては目を光らせておく、ということで」
「そうね」
ふむ、とうなずき、怜はいそいそと三杯目のビーフシチューを皿に盛りつける。
「で、今後の方針会議はもう終わり?」
「そうだな、とりあえずの方針は、それでいこう」
啓の言葉を聞き、怜は待ってましたといわんばかりにがつがつと食べ始めた。一応遠慮していたらしい。明日のことも考えて、多めに作られていたはずのビーフシチューが、あっという間に底をつく。
「……不安だわ」
悠良は、ため息混じりにつぶやいた。
「お帰りなさい、お母さん」
扉を開けて、ティアラはにこやかに母を出迎えた。
「ただいま、ティアラ。あら、いいにおい。夕食を作っておいてくれたの?」
「うん、いつものポテトサラダと、スープだけど。たったいまできたところだから、早く食べましょ」
「そうね」
ティアラの母、バレッタは、そう微笑んで扉を閉める。それから、大きなため息とともに、カウンターに荷物をおろした。公園で子どもたちに菓子を売ったあと、隣町まで菓子の材料を仕入れに行くのがバレッタの日課なのだ。
「ああ、今日も疲れたわ。毎日行こうと思うと、ルルグもけっこう遠いのよね。たまには休みたいものだわ」
この言葉も、もはや日課となっている。ティアラの見る限り、バレッタは、まるで他のだれよりも疲れているようだった。自分がいちばん苦労しているとでもいっているかのようだ。
ただ、ティアラにだってわかっている。実際、疲れているのだろう。愚痴でもこぼさなければやっていけないほど疲れているのなら、それで少しでも軽くなるのなら、いくらでもそうすればいい。
それが、ティアラの、精一杯好意的な解釈だった。
「ティアラも、もう十七歳でしょう? たまには、あなたが仕入れに行ってもいいのよ。お母さん、身体が強くないんだから、大変なの、わかるでしょう? いわれなくても、そういうこと、気がつくようになってくれれば良いんだけどねえ」
「……。そうね、これからはわたしが仕入れに行くから、店番はお母さんがするっていうふうにしましょうか。お母さん、いつも大変だものね」
そういって、ティアラは、いつもの笑みを浮かべた。
いつもの、いつもの笑顔だ。
心にわき上がった嫌な感情は、いつもこうやってかき消してきた。
「……夕食に、しましょうか。いつもありがとう、ティアラ。大好きよ」
「…………」
笑顔を返し、ティアラはテーブルに皿を並べていく。父親は、物心ついたときには家を出て行ってしまっていたので、食事はいつだって二人きりだ。
「ねえ、ティアラ」
準備が終わり、テーブルについたところで、妙に優しい声でバレッタがそう呼びかけた。
「なあに?」
「毎日が、楽しい?」
「楽しいわ」
笑顔。
迷いのない娘の言葉に、バレッタは寂しそうに目を細める。
「お母さんはね、楽しくないときに楽しくないということは、決して悪いことだとは思わないわ。嫌なことを嫌だというのは、とても勇気のいることだと思うわ」
「そうね」
笑顔。
バレッタは、まっすぐに娘の目を見た。
「大切なのはね、自分の気持ちをぜんぶ正直に受け止めたうえで、それに負けないことだと思うの。ごまかさないで、ありのままを、認めることだと思うのよ」
「そうね」
「…………」
バレッタは、小さく首を左右に振った。このままではいけない。
このままでは、この娘は、なにも変わらない。
彼女は、娘を諭すように、言葉を続けた。
「ねえ、ティアラ。あなたは、悪くないわ。悪くないのよ」