第五章 ネストキィレター 4






「十三年分の時を……戻す、ということか」
 ユイファミーアが、信じられないというように、つぶやく。
 それを、ひどく冷静な気持ちで、スノウは聞いていた。
 十三年前にエスメリアが口にした、決意。その決意は、形を変えることなく、ずっと彼女の胸に存在し続けていた。
 そのためだけに費やされた彼女の日々は、皮肉なことに、それが実際に可能なのだと彼女に教えるばかりだった。スノウには彼女を止めることができず、また、彼女の心を変えることもできなかった。
 文字人もじびとの魂は、何度も、スノウに語りかけてきた。
 彼女を止めろと、命じていた。
 ネストキィレターの解放自体は、文字人もじびとの悲願だ。しかしその先に、すべてをゼロに帰すようなことがあるならば、それは阻止しなくてはならないことだった。
 そのために、なにがあろうと彼女についていけと、魂はスノウに命じた。
 しかしスノウは、それに応えたことはない。
 スノウは、彼女を止めるのが目的だなどと、思ったことはない。
 スノウにとっては、エスメリアがすべてだった。
 それ以上のものなど、存在しなかった。
 見つめる先で、エスメリアが、ネストキィレターを読み上げる。古代からずっとこの土地を守ってきた文字人もじびとの魂を、自らの身体に移そうと、歌うように静かに、読んでいく。
 赤く光り輝くその姿は、あまりにも、美しかった。
「おい、スー」
 隣で、ジキリが怒鳴りつけてくる。邪魔をするなと、スノウは思った。
 聞こえないではないか。これが聞けるのは、もしかしたら、最後かもしれないのに。
「止めないのかよ、スノウ! あんたとエスの絆とか、なんかそんなもんあるとも思えねえけど……築き上げてきたものぜんぶ、なくなるんだろ! なんとかしろ、阿呆!」
 ずいぶんと失礼な物言いだ。
 スノウは、エスメリアを止めたくはなかった。
 スノウは見てきたのだ。幼い日から、エスメリアがどれだけ悔やみ、苦しみ、そして努力してきたのか。
 スノウには、彼女を否定することなど、できなかった。
「決めるのはあくまで、エスメリアだ」
 それは、彼女になにもかもを委ね、投げ出しているというのとは、少し違っていた。
 ロイツノーツで生まれた、新しい命。あの日からの前進。変わろうと足掻く、この国。
 きっと、エスメリアはわかっている。
 スノウがいうまでもない。
 他ならぬ彼女が、誰よりも一番、わかっている。
「そうじゃねえだろ!」
 しかし、ジキリは下がらなかった。己の筋肉で、血の縛めを解こうと力を込めていく。目に見えない束縛にも関わらず、皮膚が裂け、悲鳴をあげているのがわかる。
 とうとうジキリは、自力で拘束から抜け出した。右手を振り上げて、その勢いのまま、スノウを殴りつける。
「──っ! 貴様!」
「女ってのは、わかってても形で欲しい生き物なんだよ! おれが唯一知ってる女心だ、覚えとけ!」
 スノウは、呆然と、殴られた頬を押さえた。
 激昂するジキリのいる場所が、自分とは違う世界のように感じられた。
 己の胸に、触れる。
 形にすることが、できるだろうか。
 いまからでも、遅くはないだろうか。
 エスメリアの手による拘束など、本当はスノウには効力を示していなかった。顔を上げ、エスメリアの後ろ姿を見つめる。
 読み上げられたネストキィレターが、石碑から浮き上がるように、膨張していった。暗いだけだった空間に、赤が広がっていく。数え切れない魂の、血の色だ。空間を染め上げ、視界のすべてを、彩っていく。
「許しを乞うのではない」
 光の中で、もう姿は見えなかったが、そう声を発したのはユイファミーアだ。
 彼女の声ははっきりとしていた。自らの強い意志で、続ける。
「すまなかった」
 エスメリアは、振り返らない。
 光り輝く文字が、彼女の肢体を赤に染めていく。拠り所を移そうと、歌い踊るように、空間を渡っていく。
 スノウは、床を蹴った。
 光の中、エスメリアの姿だけは、はっきりと見えた。
 彼女の元へ行き着くと、十三年前のあの日のように、膝をつく。
 あの日の幼いエスメリアは、なにもかもがなくなった場所で、ただ一人、立ち尽くしていた。
 強く思った。
 彼女のそばに、いたいと。
 あの日からまったく変わらない心と──それよりもずっと大きく育った心で、真摯に、頭を垂れる。
 意を決して、顔を上げた。こちらを見もしないエスメリアの、その長い黒髪を、それでも見つめた。
「私は、あなたと離れたくありません」
 それは十三年間伝え続けた、偽りのない思いだった。
 しかし、それだけが、すべてではない。
 言葉にならない。積み上げてきた月日のなかで、感じたこと、育ったもの、そんなものはいまここで、伝えきれるものではない。
「あなと決して、離れません。だから、エスメリア──あなたの好きなように、してください。なにをしてもかまわない。十三年の時を戻してもいい、この国そのものを滅ぼすことだってなんだって、あなたが本当に望むのならば、そうすればいい」
 光は、収まることはなかった。空間そのものの許容量を超えるのではないかというほどに、ふくれあがり、輝きを増していく。
 光の音だろうか。ひどく遠くで、同時に頭の中で、音が鳴り響く。悲鳴のような高い音。あまりにも哀しい音。
 視覚も聴覚も、なにもかもが限界を迎えようとしているのが、わかった。
 広大な王都を守り続けてきた魂が、縛めを解かれ、放たれたのだ。
 それでもエスメリアは、揺らぐことなく、そこにいた。
 スノウの目には、はっきりと見えていた。
 そのうしろ姿が、ゆっくりと、振り返る。
 きつく結んだ唇が、本当は泣きそうになっていることを、スノウは知っている。
「私はあなたを、守ります」
 スノウは嘘などいっていなかった。この場をどうにかするために、出任せをいっているのでもなかった。
 伝えなければならないのは、一つだけだ。
 立ち上がり、エスメリアを抱きしめた。自分と比べてしまえばあまりにも小さな彼女を、胸の中に押し込める。
「あなたがどんな決断をしようとも、ついていきます。過去だろうと未来だろうと、どこにでも。必ず、絶対に」
 強く強く、力を込める。
「あなたを一人には、しません」
 腕の中で、ほんの少しだけ、エスメリアが動いた。
 小さく、まるで力が抜けたように。
 そっとスノウの身体を離し、顔を上げる。見つめた瞳が、泣き笑いように複雑に、諦めに似た色を帯びて、ほんの少しだけ細くなる。
「知ってるわ」
 光が、止まった。
 ネストキィレターのすべてが、エスメリアの身体へと、移った瞬間だった。
 まるで世界そのものが静止したかのような一瞬、それを境にして、じわりじわりと、しかし確実に、空気が重みを増していく。
 いままでは入り込むことのなかった霧が、もうこの瞬間から、王都を浸食していこうとするのがわかる。
 エスメリアは、指を噛んだ。皮膚を引きちぎるかのように、強く。
 流れた血で、宙に文字を描き出す。
「我が名は、エスメリア──」
 そうして、世界に、命令を下した。