第五章 ネストキィレター 3
文字に触れた喜びを、覚えている。 エスメリアはそれを、昨日のことのように思い出すことができる。 神の文字。国を、町を、人を守る、文字。 それを見ることができるのは、教会の中、祈りを捧げるそのときだけだった。 それ以外では一切禁じられ、もちろん生活の中で用いることもなく、そうしたいと思うこともなかった。 しかし、研究という名目で選ばれた数人の子どもたちは、文字に触れることを許された。 海を越えた遠くの国から来たのだという学者が、文字を教えてくれた。自分はこの国の生まれだが、よその国で学んでしまったため、もう他の文字を最初に覚えてしまったのだと、きっとそれでは意味がないのだと、そういっていた。 だから君たちは特別なんだよ──その言葉に、疑問など持たなかった。 ただ誇らしく、期待と希望に満ちていた。 文字を覚え始めたころ、白い影を見るようになった。密かにスノウと名付けた、美しい人の影だ。それは自分のように、ネストキィレターを理解し始めた子どもには、皆見えるようだった。 あるとき、スノウを探し求めるうちに、町の地下に迷い込んだ。そこはまるで秘密基地のようで、幼いエスメリアの胸が高鳴った。そうして、探検するうちに、赤い壁を見つけた。 そこには、ネストキィレターが記されていた。 学ぶ前ならば、どう感じたのだろう。神々しさに感動し、いつまでも見入っていたのだろうか。あるいは恐れ多くて、すぐに大人に知らせたのだろうか。 すべての文字を読めるようになっていたエスメリアは、そのどちらでもなかった。 偶然とは思えなかった。いまの自分ならば、これを読むことができる──教本にあるような文字の羅列ではなく、神が書き残した文字を、読み上げることができる。 好奇心だった。 探求心だった。 興味、関心、意欲──知ろうとする姿勢は、讃えられるべきものだと、エスメリアは思っていた。そしていまこうして、ネストキィレターのもとに導かれたことは、偶然などではないと感じた。 無邪気、という言葉が、的確だったろう。 エスメリアは、それを、読み上げた。 「かみの もじにより このちは まもられる ふれては ならない もじは かみの かごであり ひとの きんきである」 読めたという感動と、それだけかというかすかな落胆。 この国の人間が、呪文のように唱えていることだ。 でも、もう、触れてしまったの──むずむずして、笑みをこぼす。こうして神の文字を実際に読んだのは、自分が初めてなのではないだろうか。 しかし、異変はすぐに起こった。 文字が、赤く光り輝いた。それは溶け出すように形を変え、まるで生きているかのように、壁の上で動き出す。 エスメリアは、身動きすることができなかった。目を離すことすら、できなかった。気味が悪いとは思わない。逃げ出したいようなものでは、決してなかった。 赤い文字が、新たな文字を描き出そうとしているのが、わかった。その文字の美しさに、魅入られる。 先ほどよりもずっと多くの文字が、壁に刻まれていく。 赤い、赤い文字。 「このちを まもる もじびとの たましい ここに ねむる」 吸い込まれるように、エスメリアは読み上げていた。 「あくまの いぶき いまわしき きりを ふせぐため このちを まもるため ここに ねむる いくひゃくの たましい そのうえに われらは いきる」 幾百の、魂──エスメリアは、首を傾げた。 我らという言葉に、眉をひそめる。 ここに眠る……眠る? 「その上に、生きる?」 気づいてしまいそうになっている自分がいた。 しかし、知ってはならないのだと直感する。 これは、神の文字のはずだ。 ここは、神に守られた地のはずだ。 気づいてはいけない。 おそらくこれは、読んではいけないものだったのだ。 「文字は……人の、禁忌」 ──なぜ? なにを隠している? 読んではいけないのは、なぜ? 読んでしまうと、なにが、起こる? 「…………!」 文字が、溢れ出す。光がふくれあがり、エスメリアを飲み込み、広がっていく。それはどこまでもどこまでも、町をそのものまでもを覆い尽くしていく。 * 「やめなさい」 もう一度、エスメリアはいった。 赤い壁の前に立つルーガルドがなにをしようとしているのか、手に取るようにわかった。 それは、かつての自分と同じ姿だ。 吐き気がするほどに、彼は自分と似ていた。 「中途半端な知識で読み上げると、王都がまるごとなくなるわよ」 挑発ではない。冷静に、忠告する。 しかしルーガルドは、恍惚とした表情で、静かに笑んでいた。 「赤い魔女になる……ですか?」 そう問い返されることは意外ではあったが、理解しているという意味では、救いがあった。エスメリアはうなずく。 「そう。わかっているのなら、やめなさい。解放の過程で霧を防ぐ力が弱まって、一気に飽和状態になる。あっという間に、はち切れるわ」 「中途半端な知識なら、でしょう。僕は違います、エスメリアさん」 ルーガルドは、自分こそが特別だと信じているようだった。 「あなたもそうでしょう? だから、ここに来たのでしょう? ネストキィレターは、ただ解放するだけではなく、自分自身の身体に移すことができる。そうやって、そこに封じられた力をも、自分のものにできるんですよね?」 違うといえば、ルーガルドは止まるのだろうか──考えるまでもなく、答えは否だった。 おそらく彼は、知っているのだ。 彼の表情は、いままでに見たどの姿よりも、自信に満ちあふれていた。 「僕は、なにもかもを、理解しました。以前は読めなかったが──それでも僕は、見ていたんだ。ネストキィレターで記された書物を、何度も、何度も。そこにはすべて書いてありました。僕は、この力を完璧に使いこなすことができます。僕なら、この国を、守り抜くことができるんです」 「……書物」 エスメリアは舌打ちした。もしかしたらあるのではと思っていたが、やはり王族は、歴史と知識を所有し、独占していたのだ。王位継承者は、母語をカイミーア語にすることなく育てられ、第二言語としてカイミーア語を習得し、その後ネストキィレターを学んだのだろう。そうして、代々の王にだけ、歴史の真実が引き継がれてきた。 「ギャラリーがいること、忘れんなよ。 場にそぐわない飄々とした声で、ジキリがいった。エスメリアはぎくりとして、振り返る。 スノウとジキリが、すぐうしろに立っていた。追ってきたことは知っていたはずだったが、意識の中になかったのだ。 「エスメリア、だいじょうぶですか?」 この期に及んで、スノウは心底心配そうな顔をしていた。だいじょうぶもなにもないだろうと、エスメリアは呆れる。 なにをするために、ユイファミーアやスノウを出し抜いてまで先に来たのか、わかっているはずだった。他の何でもない、ただ自分の目的のためだけに、ここに来たのだ。 本当に──踏んでも踏んでも、潰れない。 エスメリアは、複雑な思いに囚われた。心のどこか、かすかに安堵してしまっている自分を叱咤する。 「あんただろ、賢い王子さまってのは。事態の飲み込めない一般人に、ぜひご教授願いたいんですけどね」 ジキリがそっと目配せをしてくる。つまり、気を逸らしてやるからなんとかしろ、ということなのだろう。 この男はどこまで知っているのだろうかと、エスメリアはふと考えた。スノウが話すとも思えない。きっと、なにも知らないのだ。 それなのに、こうして、ここにいる。 スノウもジキリも、エスメリアの理解の範疇を超えていた。まったくわからなかった。 なぜ、そこまでするのだろう。なんのために。 「どうして僕が、そんなことをしなくてはならないのですか」 しかし、ルーガルドはあっさりと突っぱねた。まったくもっともな返答だったが、ジキリは引き下がらない。 「興味があるだろうがよ、王子さま。おれがこの地下にいる間に、いきなり壁が全部なくなったんだ。残ってるのは、あんたの目の前にあるそれだけだ。それとも……残ったんじゃなくて、出てきたのかね」 「なるほど、巻き込んでしまったのですね」 ルーガルドは眉を下げた。どこまで本気なのか、慇懃無礼な仕草で頭を下げる。 「それは、申し訳ありませんでした。お怪我がなくてなによりです。壁は、僕がネストキィレターの力を使ったことで、消えてしまいました。ここまでするつもりではなかったのですが……まだ、この素晴らしい力を、使いこなせないのです」 「壁を、消した?」 エスメリアは聞き返した。 ユイファミーアが、ネストキィレターを読むことができれば文字のもとへたどり着けるといっていた。これがそういうことなのだろうと思っていたが、どうやらそうではないようだ。 ネストキィレターを理解したルーガルドが、自らの力で消し去ったのだという。 この広大な地下の、すべての壁を。 だがそれは、あまりにも危険なことだった。 この小さな王子は、わかっていないのだろうか。 「ネストキィレターの使用は、命を削る」 エスメリアのいおうとした言葉は、背後から聞こえた。 ユイファミーアだった。いつの間にか、追いついてきたのだろう。護衛の姿がないところを見ると、一人で追ってきたのだろうか。 「もう二度と、文字の力を使うな、ルーガルド。そんなことをしていては、すぐに命が尽きる」 「ユイファミーア様」 わざとらしく、ルーガルドが声をあげた。顔を輝かせ、歓迎するように両手を広げる。 「こんなところまで来てくださったのですね。良かった、ちょうど、お話ししたいことがあったのです」 「姉と呼べといっているだろう、ルーガルド。話したいことがあるのは、私も同じだ」 ユイファミーアは一歩も引かなかった。真っ直ぐ弟に向かって歩を進め、ジキリとスノウと、エスメリアの前に出る。 「では、先に聞きましょう、ユイファミーア様」 ルーガルドは余裕を持って、微笑んでる。エスメリアはユイファミーアに譲るように数歩下がると、そっと指先に歯を立てた。身体のうしろで、文字を描き始める。 ユイファミーアは、大きく息を吸い込んだ。 「おまえは、私の弟だ。だがこの国の王になることは、永遠にない。恥を知れ、愚か者」 声は、地下に響き渡った。 ルーガルドの顔が、みるみるうちに赤く染まる。 「──僕は! あなたを、越えた! 文字の力さえ得られないあなたに、そんなことをいわれる筋合いはありません!」 「いいわね、お姉さん。いまのはちょっと、格好良かったわ」 エスメリアは笑んだ。血で描いた文字に、力を注ぎ込む。 「見習ったらどう、王子さま?」 文字は一筋の光となって、ルーガルドへと伸びる。ルーガルドが身構えるが、彼の身体を突き抜けて、巨大な石碑を包んだ。赤い光はすぐに白い膜となり、文字を覆い隠す。 「くだらないことを!」 「それはどうかな」 光に紛れるようにして、ジキリが躍り出ていた。うっすらと赤く色づいた透明の縄を手に、ルーガルドに飛びかかる。 「──っ?」 ルーガルドが目を閉じる。所詮は子どもだ。戦い慣れているわけでも、ネストキィレターの力を使いこなしているわけでもない。 一瞬にして、ルーガルドの小さな身体は、光の縄に縛り上げられた。鋭い目で、ジキリとエスメリアを睨みあげる。 「こんなもの……」 縄をほどこうというのだろう。身体と一緒に縛られた手で、文字を描こうと身をよじる。しかし、縄はより深く食い込んでいくばかりだ。 「その縛めが解けると思うな。貴様のような付け焼き刃では、本物の文字の力を越えることはできない」 ひどく冷たく、スノウがいった。 「私は、 ルーガルドが、目を見開く。その目で、スノウを映す。 ルーガルドにはわかったのだろう。文字を理解しているのならば、エスメリアのように、 急に熱が冷めたかのように、ルーガルドはうなだれた。 首を左右に振って、そして、動かなくなる。 「もう、いいだろう、ルーガルド」 感情のない、おそらくはあえて取り去った静かな声で、ユイファミーアがいった。 「終わりにしよう」 終わり。 その言葉に、エスメリアはユイファミーアを見た。 終わりにするとは、どういうことなのだろうか。 なにをいっているのだろうか。 こうして、この国の王たちは、すべてから目を逸らし続けてきたのだろうか。 エスメリアは、 スノウや、 しかし、彼らの生き方に吐き気を覚えるのは、同じだ。他人事ではない。なによりも、自分自身に対して。 どうしても、許すことができないのだ。 「……るさい」 震える声で、ルーガルドが呻いた。 もしかしたら、泣いているのかもしれなかった。うつむいた顔は見えなかったが、声が湿っていた。 「うるさい……」 今度ははっきりと、いう。 ジキリが胡散臭げに、ルーガルドの顔をのぞき込む。 「うるさい、うるさい……うるさい……」 繰り返す。何度も何度も、繰り返す。それは、この場の誰かに対しての言葉ではないようだった。ルーガルドは顔を上げ、ユイファミーアを見た。 「姉さんには、聞こえますか。姉さんには、見えますか。これが、 声は震えていたが、涙は流れていなかった。ただその表情は、涙で濡らすよりもずっと、確かに泣いていた。目が、眉が、口が、奇妙なほどくしゃくしゃに、歪んでいた。 「ネストキィレターを理解してから、ずっと。ずっと、僕を追ってくるんです。声は聞こえない、でも叫んでる。僕にはわかる。これは魂だ…… エスメリアは、瞳を伏せた。 彼らは、霧を防ぐための手段として、その命のままに、封じられた。 ネストキィレターの使用は、命を削る。 文字の赤は、彼らの血。 強大な力は、命そのものだ。 「なにが、神の文字……」 ルーガルドの声は、悔しさに満ちていた。 「なにが、神の加護だ。つまり僕たちは、侵略者なのでしょう? この土地を乗っ取って、 ぼろりと、涙がこぼれ落ちた。 「……きっと、恨んでいる。こんな国は滅んでしまえばいいと、きっと、思っている……」 ルーガルドが、嗚咽をあげる。 エスメリアは小さな王子を、冷たく見据えた。 暴走したかと思えば、こうして泣きじゃくる。 愚かにも、ほどがある。 被害者のつもりなのだろうか。 自分がやろうとしたことを、棚に上げて。 「恨んでいるでしょうね」 エスメリアはルーガルドから、スノウへと視線を移した。 そんなものは、あまりにもあたりまえだ。 「ねえ、スノウ」 十三年前、一生あなたについていくとかしずいた、スノウの姿を思い出していた。 私を解放してくださったこと、心から感謝します──スノウは、そういった。 代償のように身体に刻まれた、消えることのない赤い文字。こうして姿形をとどめることができたのはスノウだけで、それは偶然以外のなにものでもなく、他の魂はすべてエスメリアの身体に宿ったのだと、彼は説明した。 それはあなたを、苦しめることになるでしょう── 遠いあの日、泣きじゃくるエスメリアに、スノウは膝をついた。涙で濡れた小さな手に、口づけをした。 私は、あなたを、守ります。いつか消えてしまうその日まで、一生、ついていきます。きっとそのために、私だけがこうして、命を得たのです── 違う、とエスメリアは思った。 そうではない。 助けたのではない。 滅ぼしたのだ。 ただの好奇心で、町を、そこに住まうすべてを、なにもかもを、消し去ってしまったのだ。 彼は一生ついてくるのだろう。 そうして自分を、責め続けるのだろう。 エスメリアにはそれが、わかっていた。 だからこそあの日、決意を口にした。 この町と同じように、文字の力がこの国のいたる所に眠っているというのなら、その力すべてを、何年かかっても必ず、自分のものにしてみせると。 そして、いつか、必ず── 「王子さま。あなたの気持ちはわからないではないけど……でもそれをしたのは、あなたではない。もう、終わったことだわ。 エスメリアは優しく、しかし突き放すように、ルーガルドにいった。 スノウが、なにかをいおうとするのがわかる。しかしそれを遮るようにして、エスメリアは続けた。 「あなたたちの事情は、どうでもいいわ。せっかく見つけたんだもの、わたしはネストキィレターを、この場から解放して、自分のものにする。それが王の望みでもあるのよね?」 一歩一歩、悠然と、エスメリアは歩を進めた。強く噛んだ指先からは、依然として血がしたたり落ちていた。彼女の血は石の床を伝い、スノウとジキリと、ユイファミーアを縛り付けていた。エスメリアの血が、空間に命令を下したのだ。ただの一歩でさえ、動くことなどできない。 「赤い魔女よ」 それでも、ユイファミーアが口を開く。 「教えて欲しい。なぜ貴女は、この国の被害者でありながら、国を救ってくれるのだ。ロイツノーツ以降……間に合わなかった町を除いては、あなたがすべて、ネストキィレターを解放したのであろう。まるで人を守るように、数日をかけて、──十年前のカルツ、七年前のチュリアル、三年前のタリアソルフ。少なくともこの三つの町のネストキィレターを、町への危害を最小限に抑えながら解放してくれたのは、貴女なのだろう? ロイツノーツのように一瞬で解放することもできたのに、そうはしなかったのは、何故だ?」 エスメリアは答えなかった。ただ、どうしてそんなことまで知っているのかと、かすかな疑問が生まれた。 そして、納得する。 ロイツノーツに住まうトリナンも、事情を知っている様子だった。ではこの王の口から、聞いたのだろうか。 「 続く言葉に、思わず笑った。 感謝。 それほどそぐわない言葉は、ないように思われた。 「違うわ。私は自分の目的のために、そうしているだけ。ネストキィレターの力を、自分の身に移して、やりたいことが、あるだけ。ぜんぶを集めなくちゃ足りないと思っていたけど、これだけの文字があるなら、きっとここで足りるわね。今日で、終わるわ」 エスメリアは、服の裾を破った。この場で唯一、力を扱うことのできるルーガルドの口を、きつく塞ぐ。 スノウは、実体ではない。残留思念の塊、幻のようなものだ。文字を読み上げても、それを身体に移すことはできない。 「ちょっと待て、エス」 力ずくで血の拘束を解こうというのだろう、全身に力を込めながら、ジキリが呼びかけた。 「命を、削るっていったよな。おまえの身体に移したところで、おまえが力を使えば、同じことだろ。そんなことしたら、おまえ……」 「命なんていらないのよ」 それは、虚勢ではなかった。 心からの言葉だった。 数え切れない命を終わらせてまで、生き抜きたいと思ったことはなかった。 ここまで生きてきたのは、目的のためだ。 そのためだけに、歩んできた。 「では、なにをするつもりだ」 この状況でも威厳を失わず、ユイファミーアが問う。 それは賞賛に値した。エスメリアは素直に、この女性を尊敬した。自分しか知り得ない罪を抱え、彼女の心中は揺れ動いていたはずだ。こうして対面して、わかる。彼女は傲慢で愚かな王では、決してない。だからこそ、シグヌムを導入すると、決定したのだろう。 しかし、それももう、どうでもよくなる。 「ネストキィレターは、世界そのものに干渉するわ。それなら、『時』に命令文を下したら、どうなるのかしら? ねえ、プース・オングルでは、そんな研究もしていたわね。ライティングではほんの数秒だけど、時を戻すことができるのは、立証済みでしょう?」 エスメリアは、石碑の向こう側、ずっと離れた位置からこちらを見ていたシェリアンに、話しかけた。 この地下空間では、身を隠す場所などなかった。彼女も地下に下りていたのだろう。シェリアンは眼鏡をかけ直し、わざとそうしているかのように踵を鳴らしながら、肩をすくめて近寄ってくる。 「状況は……、まあ、把握しづらいわねえ。そこの馬鹿王子がどうしようもない馬鹿王子だってことが、わかったぐらいかしら。質問の答えは、イエスよ、お嬢ちゃん。ライティングでは、膨大な文字列を構築した挙げ句に、一呼吸分。まったく実用的ではないけれど、できるわ。時間を、戻すことが」 「──それがわたしの、目的よ」 エスメリアは微笑んだ。右手を払うことで赤い血が床を伸び、シェリアンの身体も拘束する。あまりにも簡単なことで、意識すらする必要がない。 エスメリアは、石碑を覆い隠していたネストキィレターの力を、取り去った。赤い文字が露わになり、まるでエスメリアの身体に眠る魂と呼応するかのように、うっすらと輝く。 「──!」 声にならない声で、ルーガルドが何事かを叫ぶ。布を咬まされ、いうことができないのだ。 エスメリアはそっと、愚かな王子を見下ろした。 「あなたには、いったはずよ」 スノウがじっと、こちらを見ていた。しかしエスメリアは、その目を決して見なかった。見てはなにかが、揺らいでしまいそうだ。 「わたし、悪人なの。この国の未来なんて、どうでもいい。ただ、十三年前のあの日を……最初の、あの日を」 エスメリアは、石碑に向かい合った。 睨みつけるように、赤い文字と対峙する。 「なかったことに、したいのよ」 |