第四章 ロイツノーツ 2







 ロイツノーツでの研究は、カイミーア内よりも、むしろ国外での方が有名だ。
 文字信仰の国が踏み出した、近代化への第一歩──大陸のブルーアスをはじめとする近隣諸国は、その事実を歓迎した。ネストキィレターに特別な力が秘められているのは当時からわかっていたし、力の謎が解明されることは、カイミーアのみならず、諸外国にとってもプラスに働くだろうと思われたからだ。奇しくも、ライティングでの技術の限界が叫ばれていたころだった。生活の向上には、新たな技術の導入が不可欠だったのだ。
 研究は極秘のうちに進められ、他国への情報開示はなかったとされている。当時からネストキィレターの解明に躍起になっていたプース・オングルが、何らかの形で研究に関わっていたかどうかは定かではない。どちらにせよ、世界中から期待された研究は、ただ一つの事実を残し、唐突に幕を閉じることになる。
 町そのものの、消滅。
 その事実は、驚きを持って世界中に報じられた。そして、ネストキィレターに対する敷居は以前よりもずっと高くなった。すなわち、それまでにもあったカイミーアという国に対する警戒が、より強まったのだ。ネストキィレターの謎に触れようとすると、なにが起こるかわからない──赤い魔女の存在は、その正体がつかめないこともあり、他国にとっても驚異であった。
 それでも、プース・オングルは言語研究期間として、ネストキィレターの研究を続けた。
 そうして、ひとつの仮定が生まれた。
「文字そのものの研究だけでは、限界がある──」
 シェリアン・ビースピースは、忌々しげにつぶやいた。高い踵を鳴らしながら、腕を組んで部屋の中を動き回る。
 研究を進めるためには、ネストキィレターをこの国の人々の手に広めることが不可欠と思われた。だからこそ王子に近づき、文字の使用を促したのだ。
 しかし、その王子が、まさか牢に入れられるとは思わなかった。ひたすらに低姿勢で耐えてきたというのに、これでは先に進めない。
「あの馬鹿王子、どこにいるのかしら……あっちの女の方が、まだ使えそうだったわ」
 処刑場から見事に消えてみせた、黒髪の女を思い出す。思えば、教会の地下で会ったときから、なにかを知っている様子だった。
 もしかしたら、この国の重大な秘密を握っているのかもしれない。処刑場で拘束を自ら解いたあの力、あれはライティングに由来するものではないはずだ。ネストキィレターの力を操っているということも、考えられる。
 あの女が現れた後、教会はネストキィレターの加護を失ったのだという。それはつまり、文字そのものが消えたということを意味する。果たして、偶然だろうか。こうなると、なにもかもが疑わしく思えてくる。
 禁忌に触れるのなら、この国の誰もが赤い魔女になりうる──彼女の言葉は、どういう意味だったのだろう。赤い魔女など存在しないといったのに。本当にネストキィレターの力を使えるのだとして、それを独占するつもりなのだろうか。それともただ、邪魔をしたかったのだろうか。
「あの女をもう一度……いえ、でもどこにいるのかわからないんじゃ……やっぱり、王子を探すしか」
 シェリアンは、自分が声を出しているという自覚はなかった。尖った爪を、強く噛む。
「シェリー、ちょっと落ち着けよ」
 場違いな軽々しい声が、投げられる。シェリアンは思い切り音をたてて、足を止めた。
「黙ってて、ジキリ。あなたを助けたのは慈善事業じゃないのよ」
「なんだよ、おれに再会して愛が燃えさかっちゃったんじゃねえの。つまんねえなあ」
 ジキリは無精髭を撫でながら、冗談とも思えないことをいった。シェリアンは図体ばかりでかい男をじっと観察する。シェリアンのベッドをまるで自分のもののように占領し、のんきに寝そべっている。
 王子が捕まったのち、どうにか助け出すことができないかと地下の牢獄に忍び込んだシェリアンは、王子ではなくこの男を見つけてしまったのだった。以前、短期間だがプース・オングルに所属していた男だ。いわゆる男女の関係になった過去もある。それこそなかったことにしたいぐらいの、短期間の話だったが。
 意外な場所での再会が、そうさせてしまったのかもしれない。助けてくれといわれるままに、ジキリを救出してしまっていた。いま思えば、気の迷いだった。このままでは本当に慈善事業だ。
「あなた、そうやって時間を無駄に過ごす以外に、なにかできることはないのかしらねえ。こう見えて私、忙しいのよ。うちの研究が進むか進まないかっていう、大事な時期なの」
「お、興味あるね。金の臭いがぷんぷんする」
 そうはいいながらも、たいして興味がなさそうに、ジキリが大口を開けてあくびをする。そういう男だったと苦々しく思い出しながら、それでも懐かしさもあり、シェリアンはベッドに寄った。
「手伝いたい? 報酬なら払うわよ。ついでにあなたの大好きな、ロマンもあるかも」
「ロマンじゃ食えねえよ」
 ジキリは即答した。身体を起こし、シェリアンの短い髪にゆっくりと指を通す。
「金だけじゃ、生きていけねえけどな。さてここで問題──あんたがいなくて、おれは生きていけるでしょうか?」
「この城の中じゃ、無理でしょうねえ」
 求めた答えはそれではないと知りながら、シェリアンは笑んでみせる。しかしジキリは、歯を見せて笑った。
「正解! さすがだな、賢いなー」
 シェリアンは鼻で笑った。まったく、つかめない男だ。
「もう一度レッドウォーカーに突き出すこともできるけど、手伝いたいっていうなら、考えてあげるわ」
 そういうと、ジキリは両手を上げた。
「ぜひ手伝いたいね!」
 芝居がかった仕草で、大げさにいう。多少気に障ったが、シェリアンは嘆息して、受け入れることにした。
「王都のどこか──たぶん、地下に眠っているネストキィレターを、探し出してちょうだい」
 こうなってしまっては、少しでも可能性が増えるのならば、どんなことでもしようという気になっていた。とはいえ、藁にもすがる思いというわけではない。ジキリ・ナスタというこの男の、トレジャーハンターとしての腕は買っている。
「文字! おれはそこにロマンを感じられねえ人間なんだよな。あの文字さっぱりわかんねえし」
「あら、私がいないと生きていけないんでしょう?」
 そういってやると、ジキリは肩をすくめた。諦めたようにうなずいて、首を回す。
「まあ、選択肢はないわな。よしわかった、探そうじゃねえの、神の文字」
 あっさりと承諾されてしまうと、それはそれで多少の不安が残る。もともと、やる気があるのかないのかわからない男だが、久しぶりに会ったからか、まったく中身が見えてこない。
 シェリアンは眼鏡を外した。視力は良い方ではなかったが、いまは見えなくて困るものもない。
「聞いてもはぐらかされるのかしらね。あなた、どうしてこんなところにいたの?」
 背の高い丸テーブルから水差しを手に取り、グラスに注ぐ。ここはルーガルドに用意させた部屋だった。彼が捕らえられたことで、自分にまで火の粉が飛ぶのではないかと心配したものだが、どうやら杞憂だったようだ。
 ジキリは当然のように手を伸ばし、シェリアンからグラスを受け取る。
「人探しだな。見つからねえし、見つかる気もしねえけど。おれはリアリストだからね」
 それはまるで、自分と誰かとを比較しているようだった。人探しというフレーズに覚えがあるような気がして、シェリアンは記憶を探る。それから、思わず笑みを漏らした。
「もしかして、赤い魔女を捜してるの?」
 教会で出会い、公開処刑の場では赤い魔女に扮したあの女が、そういっていた。冗談のつもりだったのだが、ジキリは神妙な顔をする。
「ああ……そうなのかもなあ」
「なあに、それ。あなた、いつの間にか文字信仰に染まっちゃったのよ」
 シェリアンは呆れた。わざと大きくため息をつくと、ジキリの手からグラスを取り、今度は自らが水を飲む。
「最近になってわかったことだけど。いないわよ、赤い魔女なんて。ついでに、神の文字も存在しない。あるのは、この土地の古代人──文字人もじびとが作り出した、人の文字」
 やっと興味を持ったのか、顔を上げたジキリの目がかすかに光を帯びる。彼がなにも知らないことに優越感を覚えながら、シェリアンは語った。
「オングルで実験が行われたわ。ライティングの技術で霧を防ぐ実験。そうね……ちょうどあなたのいるベッドと同じぐらいの狭い範囲だけど、どうすればもっとも効率的に、もっとも長い間、霧を防ぐことができるのか。何年もかけた、壮大なプロジェクトだったわ」
「そりゃ、聞いたことあるな。ライティングでやりたいことっつったら、真っ先にそれだ。ネストキィレターの真似事をしようにも、ライティングじゃたいした成果は得られなかったって話だと思ったが」
 気になるところなのだろう、ジキリが食いついてくる。しかしシェリアンは、自分が話をしているときに割り込まれるのは嫌いだった。不機嫌な顔を隠そうともせず、そうよ、と冷たく肯定する。
「結果は散々。霧を弾くライティングと、霧を吸収するライティング、中和もしようとしたけれどこれは完全に失敗。結局のところ、半分を弾いて半分を吸収する、というのがもっとも効率が良いことがわかったわ。そうはいっても、一番長くて、十年間。十年の間に吸収された霧は、飽和状態になり、暴発。オングルの研究施設が吹き飛んだの。長年研究してきて、しかもそれほどの小さな空間で、その始末よ」
 ジキリのすわるベッドを顎で指す。研究と実験を繰り返し、得られた成果がこれだ。それは確かな前進という意味では誇らしいことなのかもしれなかったが、カイミーアという国がある以上、研究者たちは落胆を隠せなかった。二つの技術にはこれほどまでに差があるのだと、見せつけられる思いだったのだ。
「それでも、研究は続いた。わかったのは、カイミーアの町の仕組みも、結局は同じだということ。この国は、町を出てしまえば昼夜問わず濃い霧に襲われるでしょう──ライティングによる実験でも、同じ結果になったのよ。どういうことかわかる?」
「ああ?」
 突然話を振られたことが不満だったようで、ジキリがやる気なく聞き返す。シェリアンが睨みつけると、顎を触りながら考え始めた。自分が話しているときには割り込まれたくないが、質問をしたときには迅速な答えが欲しい。苛立ちながらも、シェリアンは待つ。
「ああ……わかった、なるほどな」
 思ったより早く、ジキリはうなずいた。
「だから、赤い魔女は存在しない、か」
 どうやら納得したようだ。シェリアンの目線に気づき、つまりこういうことだろ、とジェスチャーを交えて続ける。
「この国の町は、ネストキィレターの力で霧を防いでる。それこそ、大昔からずっとだ。そんでそれはいつか、もうこれ以上は防げないってなって、タイムリミットを迎える。そうなると、一気にバアンッ──で、町が消える、と」
 はじけるように、両手を広げる。シェリアンは微笑んだ。
「そう。それが、赤い魔女の正体」
 想像よりははるかに優秀だった。機嫌が良くなり、踵を鳴らす。
「でも、王子の話では、町の消滅は暴発によるものだけではなさそうね。そのあたり、まだ詳しいことはわかっていないのよね。ただ、いえることは──いつ消えてしまうかわからないのだから、この国にあるネストキィレターを少しでも多く書き写しておく必要がある、ということよ。ネストキィレターの力を手に入れたい私たちにとっても、タイムリミットがあるということがわかってしまったわけ。放っておけば、この国、たぶん滅びるわ」
 シェリアンにとって、この国の未来はどうでも良いことだった。ただ、神の文字とまで呼ばれる巨大な力を秘めたネストキィレターが次々と消えていってしまうのであれば、それは大きな損失だ。文字列と力との関係性が解明できていない以上、存在する文字はすべて、研究のために残しておきたいぐらいだった。とはいえ、ネストキィレター自体がなかなかたどり着けない深部に隠されているため、容易なことではない。
「そこで、あなたの出番よ」
 ここまでいえば、もうわかったのだろう。一度は引き受けたジキリだったが、嫌そうな顔をした。
「いつバアンってなるかわかんねえのに、ここでネストキィレターを探せってことだな」
「イエス。普通の町ならけっこう見つかるんだけど、どういうわけかここのは見つからないのよね。あなた、そういうの、鼻がきくでしょう? これだけ大きい町なんだもの、重要なネストキィレターがあるんだと思うのよねえ。私は王子探しで忙しいのよ」
 すでに牢はすべて探したのだが、見落としているかもしれない。シェリアンは眼鏡をかけ直した。子守は趣味ではないが、それでも諦めるわけにはいかない。
「王子って、文字信仰に逆らって自分の姉ちゃんに怒られたっていう、馬鹿王子だろ。そんなの、もう使えないんじゃねえの」
 丁寧に説明してやったつもりだったが、ジキリの中では「怒られた」程度の認識のようだ。シェリアンは呆れつつも、笑みを隠せなかった。それは、触れられたい部分だったからだ。なにも知らない男にこちらの知識を示すのは、なかなかに気持ちがいい。
「ネストキィレターの回収もだけど、力の解明も急がなくちゃねえ。プース・オングルは、ある事実に着目したわ。わかる? それは、母語の重要性よ」
「母語?」
 思った通り、ジキリはわけがわからないというように目を丸くした。シェリアンはますます楽しくなって、彼の阿呆面を見下ろす。
「たとえば、『愛する』という言葉──あなた、得意でしょう? いくつの言語でいえるかしら? ブルーアス語、カイミーア語……他にもたくさんでしょうねえ。でもね、言語が違えば、同じ意味のようでも、そこに含まれる意味合いは異なる。厳密にいえば、ひとつの言語で表された言葉を、まったく同じ意味で他の言語に変換することは不可能よ。言語は文化と密接している。そこにイコールは、存在しないの」
「お勉強なら、勘弁しろよ」
「いいから黙って聞きなさい」
 厳しく叱咤して、シェリアンは続けた。
「私たちは、そこに注目した。文字だけを相手にしていても、だめなのよ。生きた言葉と接しないとね。ネストキィレターは、この国の言語を書き表したものであるはずよ。ネストキィレターの研究は、この国の人間がやるからこそ、成果が現れる。いち早くロイツノーツが消滅したことも、ひょっとしたら無関係ではないかもしれない。だって、文字で世界そのものと対話するのよ? 正確に意味を理解していないと、いけないはずだわ。ルートのように、すでに作り出されたものを借用するのではなく、真理に迫ろうとするならね」
 ジキリが眉をひそめる。どうやら、まだ理解していないようだ。
 しかしそれは、かえってシェリアンの自尊心を満足させた。
「だから、国民にネストキィレターを使わせなさいって、馬鹿王子にいったのよ。あの高飛車な姉がシグヌムを導入しようとしていることもあって、すぐに飛びついてきたわ。この国の文字を守らなくちゃ! そんな言葉に、目を輝かせてね。かわいいったらもう」
 シグヌムの導入を進めたのも、シェリアンが所属するプース・オングルが仕掛けたことだ。一応の意思疎通はあったものの、基本的には動く部隊が異なるので、シェリアンにも詳しいことはわからない。ただ、上層部としては、ネストキィレターの解明がすぐには叶わないとしても、シグヌムの導入からジャスティの使用へと導き、国自体が蹂躙できるのであれば、それで良いという方針のようだった。
 しかし、シェリアンにいわせれば、そんなものはくそ食らえだ。
 シェリアンは研究者だ。あくまでネストキィレターの解明が第一にあるべきだと思っていた。
「王子が馬鹿王子じゃあ、そりゃ無理そうだな」
 ジキリが核心を突いてくる。それはもっともだったが、シェリアンは高圧的に微笑んだ。それでも、あの王子には、まだ利用価値があるのだ。
「モルモット、というわけじゃないけど」
 ルーガルドと過ごした日々を思い出す。新しいことを覚えようとするとき、重要なのは意欲だ。彼は、意欲に満ちていた。
「物覚えの良い生徒よ。教え甲斐があったわ」
 だからこそ、助け出さなければならない。カイミーア語を母語とする者がネストキィレターを操るとどうなるのか──シェリアンの実験は、まだ本当の意味では始まってすらいないのだ。