第四章 ロイツノーツ 3







 スノウは憤っていた。
 この国の人間の、なんと勝手なことだろう。
「ありがとうございました、トリナンさん」
 負の感情が隠しきれず、トリナンの家へ乱暴に踏み込むと、不機嫌な声でいい放って使った食器を突き返す。直後に大人げなさに気づいたが、謝罪するよりも早く、トリナンは笑ってそれを受け取った。
「案内人がそっちにいっただろう。なにか、不満だったかね」
 スノウの気など知るはずもないだろうが、神経を逆なでされているようで、スノウはますます気分が悪くなる。
「傲慢な女王が来ましたよ」
 八つ当たりだとわかっていながら、やめることができなかった。
「エスメリアに対して、身勝手な願いを口にしていました。まったく、許しがたい。どういうつもりなんでしょう」
 それこそ、聞いても無駄だ。トリナンは目にしわを寄せ、弱々しく笑んだ。
「彼女は、必死なんだよ。この国をどうにかして救おうと、懸命だ。私がこの町にいることに、彼女だけが気づいた。この町が消滅してしまってから、国王自ら、何度も訪れていたんだ」
「だから、なんだっていうんです。この国の王は加害者だ。私はどうしても、許せません」
「加害者?」
 聞き返され、はっとする。今日会ったばかりの老人を相手に、なにを熱くなっているのだろうかと、スノウは素直に反省した。咳払いをし、丁寧に頭を下げる。
「食事の用意を、ありがとうございました。すみません……どうやら、取り乱していたようです」
「まあそれは、見ればわかるがね」
 トリナンが苦笑する。スノウは急に恥ずかしくなって、背筋を伸ばした。
「あなたのしていることには、心から敬服します。自らの力で生き抜こうとすること、それこそがひとのあるべき姿です。あなたは、素晴らしいかただ」
 嘘偽りのない、心からの思いだった。エスメリアに案内されるままに王都からルートを通り、この町にやってきて、スノウは心底感動したのだ。
 この町は、死んでしまったのだと思っていた。
 しかし、人がいる。
 このまま終わりにはしまいと、先に進もうとしている。
「頼らないんじゃない、頼れなくなったんだ」
 瞳を伏せて、トリナンはいった。 
「ユイファミーア様が、いっていたよ。この町の消滅は、あってはならないことだったが──しかし、前進だと。そうでなければならない。ここから学び、進んでいかなければ。この国は、きっと、変わる」
「…………ええ」
 前進。スノウは複雑な思いでその言葉を聞き、うなずいた。
 エスメリアに、そういいたかった。誰かが、たとえばトリナンがいってくれないものだろうかと、ほんの一瞬甘えた考えがよぎる。
 しかしそれは、スノウが、告げなければならない。エスメリアはきっと、わかっているのだ。わかっているからこそ、この町を訪れたのだろう。
「あのお嬢ちゃんは、危うい」
 まるでスノウの心の動きが見えているかのように、トリナンがつぶやいた。
「なぜこの町に来たのかと聞いたら、なんと答えたと思うかね。この町が滅んでいることを、確認するため──そういっていたよ」
「確認……」
 スノウには、その意味がわかるような気がした。
 言葉の通り、エスメリアは確認したかったのだろう。
 彼女にとっては、この町が十三年前のあの日と同じ姿でなければならないのだ。
 この町の前進は、あってはならないことのはずだった。そして、ニナの存在も。
「……そうですか」
 まだ、そんなことを──十三年前のエスメリアを思い、スノウは強く悔いる。
 己の無力さを、痛感せずにはいられなかった。
 十三年もの間、隣にいたのに。彼女の決意を、変えることができないでいる。
「ありがとうございます、トリナンさん。あなたに会えて、良かった」
 トリナンを真っ直ぐに見つめ、思いを告げる。しかし、高い鈴の音が、声を遮った。
 窓を閉め切った家の中で、まるで風に揺らぐようにちりちりと、優しく鳴った。スノウは思わず目を閉じる。
「なんと素敵な音でしょう。鈴とは珍しいですね」
「ああ、いまのは」
 トリナンは腰を上げると、天井から吊された鈴に触れた。腰をさすりながら、黄金色のそれをスノウへ向ける。これといった装飾のない、小さな鈴だ。
「ライティングでね、ルートが使用されると反応して、鳴るようになってるんだ。いい音だろう」
「いいですね。正直なところ、ライティングはあまり好きではないのですが、こういうものなら……──ルート?」
 スノウはまばたきをした。鈴を見上げ、首を傾げる。そのまま下げ、床を見た。この下が、ルートに続いているはずだ。
「というと……なんのルートでしょう?」
 トリナンは眉をひそめ、それから肩を揺らした。
「あんただって、お嬢ちゃんと一緒に通って来たじゃないか。王都に通じるルートだよ」
「いえ、でも……ルートの入り口は、ここですよね?」
「本当の入り口は、十三年前に一度埋まったよ。見つけたのは、町の外れだった場所だ。まあ、ここから行けると便利だから、繋げたがね」
 スノウは一瞬、静止した。
 そして、事態を知る。一気に血の気が引き、家を飛び出した。
「エスメリア!」
 うしろでトリナンが待ちなさいと叫んだが、待っていられるはずがなかった。
 ここがルートの入り口なのだから問題ないだろうと、油断していた。エスメリアはまた、自分だけで行ってしまったのだ。
「どうして……」
 自分が情けなくて、涙が出そうだ。こうして置いて行かれるのは、何度目になるだろう。
 ほんの少し前までは薄暗かった空は、霧の濃さも手伝って、まるで黒く塗りつぶされたかのようだった。月も星も、見えない。嫌悪感に口を押さえ、そして気づく。
 目的地は一つなのだ。トリナンの家を出たのでは、遠ざかるだけだ。
「ルートを、使わせていただきたい!」
 再びドアを開け、きっぱりと宣言する。トリナンはすでに文字の書かれた板を手に、待ち構えていた。
「だから、待ちなさいといったのに。あんた、あのお嬢ちゃんに捨てられたのかね。苦労するなあ」
「いえ、とんでもない」
 スノウは偽りなく否定し、そして板を押し返す。文字は覚えていた。持って行く必要はない。
 トリナンに深く頭を下げると、絨毯をめくった。入り口を開け、梯子を下りる。貯蔵庫の向こうが、ルートの起点に繋がっているはずだった。エスメリアと共に通って来た道だ。
 食料が保管されている貯蔵庫はほんの一角で、すぐに洞穴へ繋がり、細い道が続く。ルートの起点は、それほど広くはない空洞だ。床と天井とに、文字の描かれた円陣が待ち構えているはずだった。
 しかし、なにかがおかしい。
 かすかな物音に、スノウは足を止める。
 人の気配。
 ルートが使われたということは、エスメリアたちはすでに王都へ行ったはずだ。では誰が、この地下にいるというのだろう。
「う……」
 呻き声が聞こえ、スノウは駆けだした。まさかエスメリアがと、最悪の状況を思い浮かべる。
 しかし、違った。
 ルートの起点となる円陣の手前で、ユイファミーアと護衛の二人が、手足を縛り上げられ、転がっていた。
 気を失ってはいないようだった。しかし、三人とも猿轡を咬まされ、声が出ないようだ。スノウは一瞬ためらったが、ユイファミーアの拘束を解く。
「やられた」
 咳込み、忌々しげにユイファミーアが声を絞り出す。
「彼女を思うのなら、すぐに行って欲しい。私もあとを追う。ネストキィレターさえ読むことができれば、たどり着けるはずだ。それを聞いて、彼女は行ってしまった」
 疑いようがなかった。ユイファミーアと護衛とを縛っているのは、エスメリアが常に携帯している縄だ。布は、彼女の服を引き裂いたものだろう。それほどなりふり構わずに、先を行ったのだ。
「……エスメリアは」
 スノウは口を開き、そして奥歯をかみしめる。なにをいおうというのだろうか。彼女は悪くない、なにか考えがあるはずだ──そんな言葉を口にしたところで、意味がないことはわかっていた。
「鍵は、なんですか」
 短く、問う。ユイファミーアは、カイミーア語で鍵となる言葉を口にする。
 それだけで、充分だった。スノウは円陣の上に立つと、指先を噛み、流れた血を押しつける。
 そうして、ネストキィレターを、描いていく。
「まさか……あなたは」
 ユイファミーアが、目を見開く。スノウは、ルートを起動させた。
 彼女の口が動いたが、声は聞かなかった。