第四章 ロイツノーツ 1
暗闇の中、白い影が、揺らいでいる。 きっと人間ではないのだと、少女は思った。人間だとするには、あまりにも美しかった。 「あなたって、雪みたい」 最初にいったのは、そんな言葉だ。 白い影は、驚いたようだった。まさか自分の姿が誰かの目に留まるなどと、思いもしなかったようだった。 しかし、声までは聞こえてこない。 少女はふと、閃いた。 「あなた、きっと、神様ね」 白い影が、慌てるのがわかる。そんなはずがないではないかと、懸命に首を振って、否定している。 その様子がおかしくて、少女は笑った。 「神様よ。この町を、守ってくれているんでしょう? いつもありがとう」 そういうと、今度はぴたりと動きを止めた。影は、少しだけ悲しそうな、どこか辛そうな、複雑な顔をした。少女の頭を、そっと撫でる仕草をする。触れることはなかったが、少女は確かに、ぬくもりを感じた。 「わたしね、特別なの。一生懸命、勉強しているの。神様の文字をよ! だからきっと、あなたの文字ね。みんなの中でも一番覚えがいいって、先生に褒められたわ。きっとすぐに、読めるようになるんだから」 少女はただ単純に、誇らしかった。 神の文字を目にすることができるだけでも、この上ない喜びだったのに、それを学ぶことができるというのだ。 自分たちのように、選ばれた子どもだけに許された、特権だった。 少女には、身寄りがない。両親の顔を知らない。 研究所に集められたのは、全員がそういう子どもだ。 「ぜんぶ読めるようになったら、あなたともお話ができるかしら」 無邪気に笑う。彼女にとっては、未来のすべてが、希望に満ちていた。 わくわくしていた。 こんなに楽しいことはない。 「そうだわ、名前を決めましょう」 白い影に、そう提案する。 少女は、ほとんど悩まなかった。 「スノウ! スノウがいいわ。だって雪みたいに、こんなに綺麗なんだもの」 * 目を開けてすぐに、後悔した。 それは、もう二度と見たくはない夢だった。 「だいじょうぶ……かよ。うなされてたけど」 遠慮がちに、声をかけられる。見ると、窓のすぐそばで、ニナがこちらをちらちらと気にしていた。同じ部屋のなかではあるが、エスメリアのいるベッドからは一番遠い場所だ。 「あら、心配してくれたのね。ありがとう」 彼女の複雑な心情を知った上で、あえてそんないい方をする。ニナは顔を赤くして、それからすぐにそっぽを向いてしまった。 ニナにしてみれば、店に訪れた町渡りとこういった形で再会するなどと思いもしなかったことだろう。本を所持していたことが原因で罰せられるかと思えば、赤い魔女の身代わりにされそうになり──そしてその両方を助けようとし、実際に助けたのが、同じ人物だったのだ。 もっともそれは、エスメリアも同じだった。まさか名前も忘れかけていた少女と、こうしてもう一度会うなどとは思ってもいなかった。 それだけではない。 彼女は、エスメリアにとって、特別な存在だ。 「……あんたは、その……」 ニナが、もごもごと口を動かしている。いつもならばはっきりいえと一蹴するところだが、エスメリアはおとなしく待ってやることにした。といっても、髪を整え、ブーツを履くまでの間だが。 長い黒髪を手櫛でとかしながら、部屋をぐるりと見る。厚いカーテンの向こうが明るいのか暗いのかはわからないが、それほど長時間は寝ていないはずだ。スノウの姿がないのが不思議といえば不思議だが、特に問題はない。 「わ、わざわざ、来たの?」 ずいぶん長い時間をかけて、ニナがいう。エスメリアは一瞬なにをいわれたのかわからなかった。少しの間考えて、それからなんとなく察する。 「わざわざって?」 それでも、聞き返す。だから、とニナは声を大きくした。 「うちの店にレッドウォーカーが来たときも、助けてくれようとしただろう。それから、なんか変なことに巻き込まれてさ……また、助けてくれた。わざわざ、あたしを助けに来てくれたのかなって」 「そうよ、どうしてもあなたを助けたかったの」 にっこり笑ってそういうと、ニナは鼻にしわを寄せた。明らかに信用していない。 「なんだ、わかってるんじゃない。偶然よ、偶然。最初に本を持ち込んだのをわたしだっていったのも、鎖につながれてるあなたと入れ替わったのも、どっちも自分のため。結果、あなたが助かったかもしれないけど、それは目的ではないわ。だから、お礼はいらない」 「じゃあ、お礼はいわない」 まるで見栄を張るように、早口でニナがいう。しかしいい終わってすぐに、さらに早口で、「ありがとう」といった。 エスメリアは苦笑する。まったく素直じゃない。 「だいじょうぶよ、ちゃんと家まで送るわ。あなたのお父さん、心配してるだろうし」 「心配……してるかな」 もちろん心配しているはずだ──そういいかけて、エスメリアはためらった。ニナの表情は真剣で、通り一遍の言葉など求めていないように思われた。 食堂での二人の様子は、仲の良い父娘そのものだった。店を切り盛りする父親と、父親の尻を叩きながらせっせと働く娘と。 「ここがどこなのか、知ってる?」 いわなくても良いことだということはわかっていたが、エスメリアはそう尋ねていた。 公開処刑の後、エスメリアとスノウは王都にとどまるわけにもいかず、ニナを連れてルートを戻ってきたのだった。エスメリアが鍵を持ち、使えるルートはこれだけだ。スノウの知るルートは警戒されている可能性があると彼がいうので、選択肢はない。 最初に消えた町、ロイツノーツ。 ここに住まうただ一人の老人の言葉が正しいのなら、ニナの故郷ということになる。 「知ってる。あんたが寝てる間に、おじいさんに会ったよ。あたしはあの人、覚えてなかったけどさ。ここがロイツノーツだって聞いたし、ちゃんと、見てきた」 ニナは淡々と答えた。感情をあえて押し殺しているというよりも、たいした感慨がないようだった。 「町渡りをしてたあたしの両親が出会って、あたしを生んで……捨てた場所だ」 ほんの少しの憎しみと、言葉にならない複雑な感情が見え隠れする。エスメリアはどこかほっとして、肩をすくめた。 「その辺の事情、知らないのかと思ってたわ。知ってたの。それで、嘘つきゴロツキ町渡り、ね」 「根に持ってんの?」 「それほど暇じゃないわ」 ニナはおもしろくなさそうな顔をした。根に持っていた、とでもいわれたかったのだろうか。 エスメリアたちは、王都の地下からルートでロイツノーツに戻り、老人には家を借りるとだけ告げて、無人の家を借用していた。あの老人がこまめに掃除をしている姿はあまり想像がつかなかったが、家の中はエスメリアの想像よりずっと綺麗だった。若干の埃が溜まっていたが、それだけだ。 「ああ、でも待って、確かに、心配していないかもしれないわ。あなたのお父さん」 ふと思いついて、エスメリアは考えを巡らせる。 色々なことがあって感覚が狂いそうだったが、冷静にカウントした。あの食堂での出来事から、まだ二晩しか過ごしていない。 「あなた、教会で三日間の反省だったはずよね。なら、セーフよ。まだ三日目だわ」 「そっか」 ニナは顔をほころばせた。それは単純に、親に心配をかけたくないという、子どもの顔だった。 「あ、でも、三日目? ここ、遠いんだろ。それじゃやっぱり、間に合わないんじゃ……」 「間に合いますよ」 唐突に、ドアが開いた。 両手いっぱいに鍋と皿、パンの入ったバスケットにカップとスプーンを抱えて、スノウが入ってきた。両手がふさがっている状態で、器用にカーテンをくぐる。一瞬見えた外は薄暗かったが、まだ夜ではないらしい。 「おはようございます、エスメリア。いえ、いまは夕方ですが、ぜひおはようといわせてください。ぐっすり眠れましたか? お腹は空いていませんか? トリナン氏から食料をいただいてきました。さあ、食べましょう!」 誇らしげにいって、いそいそとテーブルに並べ始める。エスメリアから一番遠い位置にいたニナは、壁づたいにそろそろと移動すると、ベッドの脇まで来た。エスメリアに隠れるようにして、スノウを見ている。警戒しているようだ。 トリナンというのは、この町に住むあの老人の名だろう。ずいぶん親しくなったものだと、エスメリアは呆れる。 「ニナさん、先ほどの話ですが、トリナン氏のはからいでルートを使わせていただけるそうです。問題なく、今日中に家に帰れるでしょう」 本人は上機嫌だが、ニナの機嫌は反比例しているようだった。見ると、ぎゅっと眉根を寄せ、敵でも見るような目をスノウに向けている。 「スノウ、あなた、この子になにをしたの?」 聞いてみるが、スノウはきょとんとしている。二人の様子を交互に見て、エスメリアは思い出した。 処刑場を抜け出した後、エスメリアとスノウは、地下の一角に隠れるよういっておいたニナを迎えにいった。スノウはニナが身代わりにされそうになっていた旨を聞くと、「なんという運命の導き」と妙な感動にうち震え、エスメリアに先立って彼女を救いに行ったのだ。エスメリアの制止も聞かず、青年の姿になったばかりの、そのままで。 すなわち、心細い思いをして待っていたであろうニナの元に現れたのは、全裸の見知らぬ青年だった。 心に傷もつこうというものだ。 「だいじょうぶよ、ニナ。害はないわ。いまはほら、服も着ているでしょう?」 「……そう、だけど……またいつ脱ぐかわかんないし」 信用がない。まるで露出狂のようにいわれながらも、スノウは明るく両手を挙げた。 「安心してください! あれはアクシデントです。自分からわざわざ服を脱ぐようなことはありません。私だって恥ずかしかったんですよ、裸を見られるなんて……いえ、エスメリアになら、まったく問題はないのですが。ねえ、エスメリア」 ねえ、といわれても。エスメリアは心底返答に困ったが、それ以上にどうでも良かった。さらりと話題を変える。 「あのおじいさん……ええと、トリナンさん? ニナをルートで送るって、どういうつもりかしら。王都じゃない町と町を繋げるルートなんて、あるの?」 あってもおかしくはないが、それを自由に使えるとなると、ますます老人が何者なのかわからない。滅びた町はガードが甘いということなのだろうか。 「それなんですが」 話題を変えられても、スノウは特に気にした様子はなかった。三人分の食事の用意を終えると、自分がまず木の椅子にすわる。 「詳しいことは聞いていませんが、案内人が来るそうです。この家に行くようにするから待っていろ、とのことでした。ここの食事もすべて、わざわざ私たちのために、トリナン氏が用意してくださったんですよ。親切なご老人です」 後半については、トリナンにしてみれば懐かしいニナに会えるのだから、張り切るのもわかった。しかし、前半はよくわからない。エスメリアは眉をひそめ、案内人とやらについて思いを巡らせた。普通に考えれば、トリナンがレッドウォーカーか伝師、そうでなくとも城に関係する人間と通じているというところだろう。だが、そうなのだとすれば、ニナを助けるのに自分のような見ず知らずの人間に頼む必要はなかったはずだ。いや、それとこれとは問題が違うだろうか……──頭の中で、ぐるぐると考える。 どうも、考えがまとまらなかった。昨日の騒動と、今日の脱出劇とが響いているのだろうと、エスメリアは自覚していた。 気持ちを切り替えようとのびをして、ブーツを履く。せっかく用意されているのだ。食事をいただかないい理由はない。 「さあ、エスメリア! どれでも好きなのをどうぞ」 律儀に食べるのを待っていたらしいスノウが、テーブルの上を示す。数種類のパンと、シチューが並べられていた。この町で食料を確保するのは不可能なはずなので、トリナンは時折ルートを使用して買い出しにも行っているのかもしれない。 「食べましょう、ニナ」 ニナの手を引き、テーブルに連れていく。 ニナはためらっていたようだったが、パンとシチューを前にして、腹を押さえた。空腹なのだろう。結局は椅子にすわり、エスメリアとスノウの様子をうかがいながら、食べ始める。 「エスメリア。ニナを父親の元に送り届けたら、その後はどうしますか」 食事中の雑談程度のつもりだったのだろう。スノウがそう話しかけ、そして気づいたのか、自ら咳払いをする。 「いえ、ええと……支障がなければというか……それはまた、あとでゆっくり、でも良いのですが」 ちらりとニナを見る。彼女は食べることに夢中になっていたが、エスメリアは笑ってしまった。 知られてはいけない、という意識が働いているのだろう。スノウもずいぶん気を回すようになったものだと、昔の彼を思う。成長したじゃないかと褒めてやりたいぐらいだ。 「エスメリア……! 私との再会が、そんなに……?」 口元を押さえ、なにやらよろめいている。エスメリアはすぐに表情を整えた。 「赤い魔女が現れたっていうのは、そもそもデマみたいね。わたしたちよそものを、国から遠ざけるためのウソ。いつどこの町が消えるかわからないとなれば、普通わざわざ来ないものね。誰が魔女の名をかたってるのか、ぜひお会いしたかったけど……残念だわ」 「デマ? やはり、そうでしたか」 スノウが深くうなずく。そういえば彼は、最初から故意に流された噂なのではないかと疑っていたことを思い出した。珍しいこともあるものだ。 「それでなんで、あたしが身代わりになんなきゃいけなかったんだろう……」 シチューの皿にスプーンをつっこみ、野菜をいじりながら、ニナがつぶやいた。エスメリアは肩をすくめる。 「まあ、誰でも良かったんでしょうね」 「あの王子さまはさ、ワルモノなのかな」 その問いかけには、思わず口ごもってしまった。 悪者かどうか。それは単純そうで、複雑な問題だ。そもそも悪とはなにか、といったところまで踏み込まなければならなくなる。 エスメリアは髪をいじりながら、王子の姿を脳裏に描いた。個人的には、悪者ではないにしろ、どうしようもない馬鹿者だ、という評価なのだが。 「カイミーアにはもう、魔女の驚異は存在しないっていいたかったみたいね」 あえて、彼の目的へと話を逸らす。しかしそれも、シェリアンという女にそそのかされてのことだ。手を組んでいるというよりも、利用されているという表現の方が適当だろう。 「あの王子さまがやろうとしていることが通るようなら、放っておけないけど……女王がそれを許さなさそうだし。まあ、これといって急ぎの用件はないわね」 あとは、見落としていた教会をまわりたいけれど──エスメリアは言葉を飲み込んだ。それは、ニナが帰ってからいえば良いことだ。 「あ──!」 突然、スノウが声をあげた。ニナが飛び上がり、エスメリアは眉を寄せる。ニナが怯えるので彼女の背をさすってやりながら、髪の色と同じぐらいに白くなったスノウを睨みつけた。 「なに」 うるさい、という思いを込める。それは伝わっただろうが、スノウはさらに青白くなっていった。エスメリア、と消え入りそうな声で呼びかけてくる。 「じ、実は……あなたを助けるために、ある人物に協力を要請しました」 「協力を? どういうこと?」 それほど震えながらいうことだろうかと、エスメリアは可能性のある人物を何人か思い浮かべる。 「まさか、オングルの誰かとかいわないでしょうね」 「プース・オングルとは二度と関わり合いになりたくありません! ですが……ああ、ええと……当たらずとも遠からず、というか……」 「ジキリね。元気だった?」 あっさりといい当てると、スノウは不満そうな顔をした。当てて欲しくはなかったようだ。 ジキリ・ナスタと知り合ったのは、以前エスメリアがプース・オングルに所属していたときのことだ。エスメリアはネストキィレターがどう研究されているのか探るのが目的だったし、ジキリはトレジャーハンティングを有利に進めるため、ネストキィレターを多少なりとも学ぶことが目的だった。二人の目的は、学問に対して真摯ではないという方向で一致し、ジキリの持つカイミーアの情報──特に、当時はいまよりも手に入りにくかった地図──はエスメリアにとって喉から手が出るほど欲しいものであったため、多少近しい存在になったのだった。 スノウは、重々しいため息を吐き出すと、沈痛な面もちで首を左右に振った。 「過剰なほどに元気でした……が、残念ながら、いまは元気かどうかは」 エスメリアは察する。ジキリに協力を依頼し、二人でエスメリアの元へ来ようとする道中、彼だけがどこかで脱落したのだろう。スノウの様子を見る限りでは、ヘマをして捕らえられたに違いない。 しかし、詳しい事情を聞くのはやめておこうと、エスメリアは己に誓った。聞いてしまえば、助けに行かなければならなくなる。 「気のせいじゃないかしら」 できるだけ朗らかに、いった。 「あなたはきっと、たった一人で、わたしを助けに来てくれたのよ。ありがとう、スノウ。嬉しかったわ」 あえて、助けに来たといういいかたを選択する。効を奏したようで、スノウの瞳が感動で潤んだ。 「エスメリア……!」 これで、浮上しかけた問題は再び沈んだ。ジキリならばきっとなにがあってもだいじょうぶだろうという、よくわからない信頼めいたものも確かにある。その点、スノウとジキリは良く似ていた。踏んでも踏んでも潰れないのだ。 「──失礼しても、良いだろうか」 不意に、女性の声が、響いた。 それは建物の外からのものだったが、部屋の中にまで、よく通った。エスメリアは思わず、腰を浮かせる。 そんな馬鹿なと、疑いが真っ先に浮かぶ。その声は、ごく最近聞いたものだったからだ。 「例の案内人でしょうか」 気づかないのだろう、スノウが立ち上がる。ニナは椅子の上から手を伸ばし、エスメリアの腕を掴んだ。エスメリアはすわり直すと、スノウに目で合図をし、ニナにはだいじょうぶと囁く。 スノウはうなずいて、ドアを開けた。 「では、失礼する」 カーテンを開け、入ってきたのは背の高い女性だった。三人の男が続く。そのうちの二人は甲冑に身を包んでいたが、一人は伝師の姿だ。しかし、エスメリアはすぐにわかった。身のこなしが、伝師のそれではない。彼も護衛なのだろうが、ニナを送り届けるため、変装しているのだ。 「良かったですね、ニナ。これで帰れます」 四人を部屋に招き入れ、カーテンとドアを閉めると、笑顔でスノウがいう。見てもわからないのかと、エスメリアは嘆息した。 マントを羽織り、布を鼻の上まで巻いているが、間違えようがなかった。声だけでも、充分な威圧感なのだ。 カイミーア・ユイファミーア。 カイミーアの王が、確かに、目の前に立っていた。 「彼女は、間違いなく、確実に送り届ける。安心して欲しい」 ユイファミーアは淡々というと、伝師の姿をした男に一瞬だけ目をやった。男は頭を下げ、ニナに手をさしのべる。ニナは戸惑い、エスメリアを見上げたが、うなずいてみせると覚悟を決めたようだった。 一度怖い目にあっているのだ。見知らぬ男についていくのは勇気がいるだろうが、それでも果敢に立ち上がる。 「お願いします」 はっきりとした声で、そういった。エスメリアとスノウと、まさか王だとは思っていないだろうが、ユイファミーアに頭を下げる。 伝師が、手早くニナにマントをかけた。霧を防ぐための布を厳重に巻きつけると、ニナを連れて部屋を出ていく。 「良かった、これで安心ですね」 スノウだけが、ぴりぴりとした空気と無縁だ。ユイファミーアは、残り二人の護衛にここから出るよう指示を出すと、自らは部屋に残った。ここでやっと、スノウが不思議そうな顔をする。それでも、食べますか、と的外れなことをいって椅子を勧めた。 エスメリアは、髪をかきあげた。 「あなたといい、あなたの弟といい……本当、この国の王族って、自由ね」 皮肉をいうつもりもなかったが、それぐらいはいってやりたかった。 まさか、王とその弟、それぞれと別々に、こうして対峙することになるとは思わなかった。 しかし、ユイファミーアはなにもいわない。口に巻いていた布を取り去り、マントを脱ぐ。 「王族? どういうことですか、エスメリア?」 「あなた、見てなかったの? 処刑場にいたじゃない」 仕方ないのでいってやると、スノウは目を見開いた。頭の中で、繋がったようだ。今更ながら、なぜ女王がここに、と騒ぎ始める。 しかし、エスメリアとスノウのやりとりなどまるでお構いなしに、ユイファミーアは突然膝をついた。 深く深く、頭を下げる。 「謝罪したい、赤い魔女よ」 頭を垂れ、低い声で、いった。 弟にも頭を下げられたものだと思い出しながら、エスメリアは彼女の金色の髪を見下ろす。 「ふりよ。赤い魔女のふりをしただけ。あなたの弟に頼まれたの。謝罪は……まあ、してもらってもかまわないけど」 「いや」 ユイファミーアは頭を上げなかった。ルーガルドには、簡単に頭を下げてはいけないといったものだったが、今度は同じことをいうことができなかった。 簡単な気持ちではないのだということが、わかった。 彼女の声は、深い後悔に満ちていた。 「貴女は、赤い魔女だ。私は、知っている」 ゆっくりと、頭を起こす。 その緑色の目が、真摯にエスメリアを捉えた。 「私は、 スノウが戦慄するのがわかった。エスメリアは彼の腕を掴むと、ユイファミーアと距離を取らせる。 ユイファミーアは、エスメリアから目を逸らさなかった。 「貴女は、私たちが生み出してしまった。この町で研究が始まった当時、父は病に伏せ、母は事情を把握できなかった。それどころか、正式な王位継承者でない母は、研究の後押しをし、資料まで提供していたのだ。私こそが止めなければならなかったのに、当時の私は、なにが起こっているのかさえわかっていなかった。この国の業を貴女一人に背負わせてしまったこと、心から悔い、恥じている」 ゆっくりと一呼吸、ユイファミーアは間をとった。ごく真剣に、硬い声で、続ける。 「私は、ネストキィレターを、解放したい」 「……解放?」 エスメリアは、唇を噛んだ。 すぐ目の前で、カイミーアの女王が膝をついている。 それはどこか、別の世界のできごとのようだった。 なにを勝手な、と思った。謝って欲しいわけではない。自分以外の誰かのせいなどと、思ったことはない。 なにもかもが、自分の身勝手だ。それはいまも、変わらないのだ。 「好きにすればいいじゃない。わざわざわたしに、いわなくても」 突っぱねるが、ユイファミーアは動かなかった。彼女は、一度のまばたきすらしなかった。 「私では、できないのだ。カイミーアでは、王位継承者は生誕とともに隔離され、他言語の中で二年間を過ごす。この意味が、わかるだろう」 エスメリアは目を見開いた。 そして、理解した。ルーガルドに王位継承権が与えられていない理由を。 では、王族は──王位を継いできた者たちは、知っていたのだ。おそらくは、なにもかもを。 「勝手な申し出だということは、わかっている。しかし、弟が暴挙に出ようとしている以上、悠長なことはしていられない。他国も……プース・オングルも、いつまでも盲目ではないだろう。そうであれば、なおさらだ。──赤い魔女よ」 ユイファミーアはもう一度、頭を下げた。 「力を、貸して欲しい」 スノウが、エスメリアを見ている。彼はおそらく、エスメリアの決定に従うのだろう。しかし、彼が本当はどうしたいのか──エスメリアにどうして欲しいのか、その目的を、エスメリアはよく知っていた。もともと、そのためだけに、彼はエスメリアと共にいるのだ。 エスメリアは、拳を握りしめた。 |