第三章 公開処刑 5
金属の檻は、まるで獣を閉じこめているかのようだ。檻の周囲には厚手の布が幾重にも重ねられ、気持ちばかりの空気穴があるものの、光は入ってこない。手足が縛られ、檻につながれ、動くことのできない状況だというのに、この厳重さ。「魔女」と呼ばれる存在は、すでに人間ではなくて珍獣扱いなのだろうと、エスメリアは思う。 檻は荷台に乗せられ、それを引くのは身体の大きな三頭の馬だ。選抜された力自慢であろうことがうかがえたが、それほどの速さは出ていない。 不意に、光が差し込んだ。布がめくられたのだ。光といっても、布で覆われた骨組みの中に檻が置かれているので、太陽光ではない。少年が手にした、ランタンの光だった。 「大変よね、馬も。ネストキィレターの力で、もっと軽くするとか、軽い木の箱を頑丈にするとか、いくらでも方法がありそうなものだと思わない?」 馬車は出発の直前、客を迎え入れていた。見張りに乗っていたレッドウォーカーが慌てて、なんとか思いとどまらせようとしていたのを、エスメリアは聞いていた。結局は説き伏せられ、三人のレッドウォーカーの代わりに、少年が一人で乗ることになったのだ。 荷台に乗るのは、エスメリアを入れた檻と、少年だけ。 しかしエスメリアは、この状況をある程度予想していた。そうでなければ、ならなかった。 「ねえ、王子さま?」 できる限りの親しみを込めて、呼びかける。正装なのだろう、きらびやかな装飾が施された重そうなマントを肩に乗せて、ルーガルドはゆっくりと目を閉じた。深呼吸をするように深く息を吸い込み、目を開ける。 「……思います、エスメリアさん。僕たちは文字の力をもっと使うべきです。ただ、ありがたがり、恩恵の中に身を置くのではなく、学び、理解し、使用していくべきなのです。あなたのいうことは、本当に、もっともだと思います」 その返答は、エスメリアにとっていささか意外ではあったが、心のどこかで、納得する気持ちもあった。 エスメリアは、ニナを前にしたルーガルドとシェリアンとのやりとりを、聞いていたのだ。ルーガルドが、ネストキィレターを写し取ろうとしていたシェリアンと手を組んでいる──あるいは利用されているということもあるだろうが──ということは、文字そのものを崇拝しているわけではないのだろう。少なくとも、この国に住まう人間として、思想が他と異なっているのは間違いない。 エスメリアは唯一自由に動く頭をゆっくりと上下させ、ルーガルドを物色した。彼が王子然とした装いをしているところを見るのは初めてだったが、まるで生まれたそのときから絢爛な装飾が彼の一部であったかのように、良く似合っていた。 この国の、王子なのだ。改めて認識する。 「ずいぶん軽く見られているのね」 そして、だからこそ、思うことがあった。ルーガルドの表情が、かすかに強ばる。 「『赤い魔女』を連行する馬車に、二人っきりで乗せるなんて。王子になにかあってもいいのかしら。あたしは、君とお話ができて、嬉しいけど」 「僕もです。どうしてもあなたと、話したかった。それに……僕は王子というより、王の弟というほうがふさわしい。たとえ王の身になにかがあったとしても、僕が次の王になることはありません。僕に、王位継承権はないのですから」 自嘲するような声だったが、ルーガルドは笑んではいなかった。なにかを堪えるような硬い表情で、ただ淡々と声を出している。 「エスメリアさん。どういうことなのか、説明してください。レッドウォーカーが教会で捕らえたのは、あなたではない別の女性でした。あなたは逃げてしまったのかと思えば、いま、こうしてここにいる」 「女性?」 エスメリアはわざとらしく、聞き返した。 「あたしが戻ったときには、赤い魔女として捕まってたのは十歳ぐらいの女の子だったけど」 「……それは、やむを得なかったのです。おかげでレッドウォーカーが混乱していました。赤い魔女が二度姿を変えたと。そもそも、あの少女だって、人目につかないよう隠していたのに。あなたはいつの間にか地下に入り込み、少女を牢獄へと移し、かと思えば数刻であなた自身と入れ替わった。そんなことをされては、僕があなたのもとへ会いに行けないでしょう。いったい、なにがしたいのですか」 ルーガルドが次第に早口になっていく。よほど怒っているのだろうということがわかったが、エスメリアはかえって、じらしてやろうという気になった。冷静であろうとしながらも取り乱していく様子は、なかなか見物だ。 「眼鏡のおばさんから小さな女の子に変わるだけで、充分に変よ。何らかの手を打つつもりだったんでしょうけど……少なくとも、最初におばさんを捕まえたレッドウォーカーをごまかすのは、容易じゃないでしょうね。だったら、どんな姿にでもなれるっていうほうが、らしいじゃない? あたしなりに気を遣ったのよ。手違いを起こしたお詫び、ってところかしら」 「手違い?」 ルーガルドが聞き返す。純粋に疑問に思っているのが伝わってきて、エスメリアは心の中で笑った。おそらくこの少年は、根本的に、人を疑うということを知らないのだ。 「そう。教会に行ってみたら、変な一団がいたのよ。なにやってるのって問いつめたんだけど、そうこうしているうちに、君にもらった赤い光が作動しちゃって。レッドウォーカーには、赤い魔女があのあたりにいるかもしれない、とでもいっていたのかしら? 間違えて、眼鏡のおばさんを連れて行っちゃったわ」 「…………」 ごめんなさいね、とエスメリアは謝罪した。ルーガルドはじっとエスメリアを見ている。頭の中ではおそらく、シェリアンからの報告といまの話とを照らし合わせているのだろう。 「そうだったのだとして……」 そんな前提を、口にする。エスメリアはできるだけ優しく微笑んだ。 「なにか?」 「あなたは、どうやってまた城に戻り、あの少女を連れ出して牢獄へ行ったんです? どう考えても不可能です。あの少女のことは、あの段階では僕ら以外には誰も知らなかったのに」 疑問をぶつけているようで、情報を口にしていることに、ルーガルドは気づいていないようだった。そんなにぺらぺらしゃべるものではないと思いながらも、もちろん忠告するようなことはせず、エスメリアは驚いてみせる。 「へえ。やっぱり、最初に君と会ったのは、王城だったのね」 「……そういう話では、ありません!」 「そういう話よ」 エスメリアは語調を強めた。 「君はなにをしようとしているの? 赤い魔女を処刑して、その先にあるのはなに? あたしは、いまこの状態で、ここから逃げ出すこともできる。全部話さないなら、実行するわ」 ルーガルドが気圧されたように、肩を小さくする。そうならないよう気を張っているようだったが、それでも彼の心情が手に取るように伝わってきて、エスメリアは不快な気持ちになった。 彼はまだ、子どもだった。歳不相応な振る舞いをしていても、内面は見た目のまま、ただの少年なのだ。なにか大きなことを成そうとしているのに、彼自身はひどく繊細で、風が吹くままにどこにでも行ってしまいそうだ。 彼はおそらく、自分にしかできないなにかがあると信じていて、そこに疑問を持つことはないのだろう。 「あなたは……何者なんですか」 やっとルーガルドが絞り出したのは、そんな言葉だった。エスメリアは眉を上げる。 「そんな話だったかしら」 とぼけたようにそうやり返すと、ルーガルドは首を振った。 「いえ……話しましょう。まだ正式に発表されてはいないことですが、この国はいま、大きく変わろうとしています。現国王が、シグヌムの導入に踏み切ろうとしているのです」 「……シグヌム?」 エスメリアは、眉をひそめた。 シグヌムとは、主に大陸で用いられる文字だ。国家の枠だけでなく、言語の枠も越え、広い範囲で使用されている。 世界文字という名目で、言語研究期間であるプース・オングルが、数十年前に開発した。完全なる表音文字だというのが最大の特徴で、便利ではあるのだろうが、エスメリアは好まない。言語というものはそれほど単純ではないのだ。 「あなたのお姉さん、プース・オングルにそそのかされたのかしら」 文字を徹底的に排除してきたこの国が、新しく遠い地の文字を使おうとしている。それはどう聞いても、不自然な話だった。 プース・オングルは、国家の枠組みに囚われない言語統一をうたっている。彼らの作り出した世界言語ジャスティを、世界共通語にしようとしているのだ。 まずはシグヌムを広めて、それからジャスティを──そんな思惑があるのだろう。シグヌムで書き表しやすい言葉をと、利便性を優先していけば、結局のところジャスティに繋がっていくのだ。 そして、どの国にも属さないといいながら、ジャスティがブルーアス語を基幹としているのは明白だった。 「最初は文字だけ、少しずつ言葉そのものも……そうやって、徐々にブルーアスに染まっていった国がいくつもあるわ。言葉の統一は思想の統一に繋がる。長い年月をかけてじわじわと結束が生まれ、一つの大きな塊になる」 それは武力による侵略では決してない。しかし巧みに、国々は肩を寄せ合うようになり、ひとつのまとまりになっていく。 プース・オングルのやり方に、エスメリアは嫌悪感を覚えていた。まさかこの国まで、シグヌムを使うなどといいだすとは、思いもしなかった。 「シェリアンも、同じことをいっていました。そんなものを使っていては、この国は滅んでしまう。神の文字を持ちながら、人の作った文字を受け入れるなんて、あっていいはずがありません。そんなことはすべきではないと何度も姉に訴えましたが、無駄でした」 客観的にではあるが、ルーガルドの気持ちはわかるような気がした。これまでずっと、文字を神そのもののように崇め、生活の中での文字使用を一切禁じてきたのだ。それが、てのひらを返したように、文字──それも遠い地で作られた見たこともない文字──を用いるといわれても、そうそう納得できるものでもないだろう。 「僕は、カイミーアの誇りにかけて、そのような得体の知れない文字を使うわけにはいかない。多くの国民も、そう思うはずです。とはいえ、このまま文字を一切使わず、この先何十年、何百年と過ごしていっては、他国から置いて行かれるばかりだという姉の理屈も、わかります」 何を今更、とエスメリアは思ったが、口にはしない。そうやっていままでずっと文字を禁じてきたのだ。いまこのときに、文字を封じたままではいられないという発想が生まれただけでも前進なのだろうかと考えるが、答えは出ない。 「それなら、ネストキィレターを使えばいい」 きっぱりと、ルーガルドはいった。 エスメリアはまばたきをした。一瞬、なにをいったのか、わからなかったのだ。 「……なんですって?」 「ネストキィレターを使えばいいんです、カイミーア語を表記するのならば、それが一番です。僕はそう、全国民に呼びかけたいのです。そうして、この国を守り、救いたいのです」 目眩がした。まさか、そう繋がるとは思わなかった。 教会の地下で相対した、シェリアンの言葉が蘇る。ネストキィレターの研究はこれから飛躍的な進化をとげる──彼女は確かに、そういっていた。 そういうことだったのだ。シェリアンもおそらく、プース・オングルの人間だろう。一方ではシグヌムを広めようと王をそそのかし、もう一方ではネストキィレターを広めようと王子を誘惑する。国を愛するこの王子は、きっと簡単にうなずいたことだろう。自分こそが立ち上がらなくてはならない──使命感すら覚えたはずだ。 「その発言力を得るにはどうすればいいか……そして、国民に納得させるためには、どうすればいいか。シェリアンとともに考え、たどり着いたのです。赤い魔女を捕らえることで、この国の不安を取り除き、僕の力を国に示す。そうすれば、僕は英雄になります。そうしてさらなる発展を目指し、文字の使用に踏み切ります」 「ちょっと待って」 いいたいことは色々あった。しかし、馬車が出てずいぶん経つ。おそらく、それほど時間が残されていない。 エスメリアは思案して、一つ、どうしても聞かなければならないことを口にした。 「赤い魔女の偽物を捕らえても、問題は解決しないでしょう。また突然町が消えたら、どうするの?」 「赤い魔女は、存在しません」 ルーガルドは己の言葉を微塵も疑っていないようだったが、エスメリアにはすぐにわかった。シェリアンにそう吹き込まれたのだろう。 「町の消滅は、文字を放置したことによる、神の怒りです。文字は使われて初めて、意味を持つ。国民が皆、がネストキィレターを自由に操るようになることで、消滅を防げるのです」 「はん」 エスメリアは鼻で笑った。なんということだろうか。このなにも知らない王子は、まったくいいように利用されているのだ。 「おめでたいのね、王子さま」 皮肉をいわずにはいられなかった。目の前にいるのがシェリアンだったら、迷わず殴りかかっていただろう。 しかし、ルーガルドにそうしたところで、無駄だ。きっと彼の代わりはいくらでもいるだろう。それに、彼に手をあげたいとも思わなかった。 拳を振り上げる価値もない。 なんと愚かな王子だろう。 音もなくゆっくりと、馬車が止まった。ルーガルドは無言で、檻の布を元に戻す。 やがて、複数の足音がして、勢い良く布が取り去られる。檻の鍵を開け、四人のレッドウォーカーがエスメリアを取り囲んだ。すぐに目隠しをされ、一人が縛られた手を引く。他にも何人かの気配。十人ほどが、エスメリアの周囲に群がっているようだ。 目的地までは数歩しかなかった。檻の中でそうだったように、すぐに両手両足を開いた状態で縛り付けられる。両手は高い位置に、両足は地面より上に。無防備な姿で、さらされる。 やっと目隠しが取り去られ、エスメリアは眩しさに目を細めた。炎天下、広大な土の上。二本の柱の真ん中で、エスメリアは吊されていた。 「結構、立派ね」 彼女を連れてきたレッドウォーカーは、すぐに離れていった。誰も聞いていないことはわかっていたが、そうつぶやく。見に来る物好きなどそうそういないのだろうと思っていたが、ずいぶん遠い位置で取り囲む柵の向こう側には、数え切れないほどの人々がいた。ほとんどが王都に暮らすものたちなのだろう。歓声をあげるでもなく、罵るでもなく、いやに静かに、見守っている。怯えているのかもしれない。 柵をぐるりと見ていくと、ちょうど正面には、背の高い女性が立っていた。こちらを見据えている。その出で立ちや、周りの護衛らしき姿から、彼女こそがルーガルドの姉であり、この国の王なのだろうとわかる。 馬車から降りたルーガルドは、王の隣に並び、まっすぐエスメリアに向き直った。 「さあ、どうしてやろうかしら」 実際のところ、エスメリアはこれからどうするかを決めかねていた。ルーガルドから情報を聞き出した後に決断しようと思っていたのだ。 逃げ出すことは、できる。 しかし、ただ逃げ出すだけでは、足りないように思えた。 皆さん、あそこにいる女性こそが、赤い魔女なのです──ルーガルドが演説している。過去に消滅した町の名をあげ、赤い魔女を捕まえるに至った経緯、自らの功績を、知らしめようとしている。 彼の声がどれほどの人に届いているのか甚だ疑問ではあったが、王子故の特別な訓練でもしているのか、または処刑場が特殊な構造になっているのか、声はよく響いていた。なかなか頑張るじゃないかと、他人事のようにエスメリアは思う。 瞳を閉じて、息を吐き出した。気持ちを、集中させた。 やはり、ルーガルドの思惑通りに物事を進めるわけにはいかない。できるだけ派手に、ぶち壊してやる必要があるだろう。 覚悟を決めて目を開けると、風のように漂いながら、こちらに近づいてくる人影があった。 それはほとんどが透き通った、存在そのものが希薄な、しかしひどく美しい女性だった。真っ白の髪は波打ち、まるで風そのもののようだ。 彼女は眉を下げ、悲しそうな顔をしていた。エスメリアの顔に己の顔を寄せる。声までは、聞こえない。 「心配してくれているの? ……ありがとう」 エスメリアはそっと笑った。できることなら手を伸ばして、彼女の頬に触れたかった。 「あなたはまだ、もう少し、待っていてね。必ず、行くから」 女も微笑む。消えそうな、寂しそうな笑みだったが、エスメリアはあるはずのない温もりを感じた。胸が痛くなる。 いつの間にか、ルーガルドの演説は終わったようだった。物々しい甲冑を着込んだ二人の男が、鎌のような曲刀を持って近づいてくる。首を落とすための刃は、過敏なほどに研ぎ済まされ、光を浴びて輝いていた。本当にそのために生まれた武器なのだろうか──あまりに美しく光るので、ふとエスメリアは思った。どうでも良いことではあったが。 右と左で、甲冑の男が立ち止まる。 ルーガルドが合図をし、曲刀が振り上げられる。 大きく、エスメリアは息を吸い込んだ。 「文字は神の加護であり、人の禁忌である」 腹の底から、声を出す。 声は思ったよりもずっと響いて、なにもない土の上と、それから人の群とを駆け抜けていくのがわかった。突然の大声に驚いたのか、甲冑の男たちが動きを止める。 それは、この国が存在する上で、もっとも重く扱われていることだった。国の大前提だといってもいい。 しかし、そんなものは大嘘だと、エスメリアは知っていた。それでも、いまこの場で口にすることには、意味があった。 「禁忌に触れるのなら、この国の誰もが、赤い魔女になりうるわ──覚えておきなさい」 エスメリアは、己の内面に力を込めた。黒い衣類で巧妙に隠している内側が、彼女の皮膚が、熱を帯びる。赤く赤く、輝き出す。エスメリアを捕らえていたはずの縄も柱も、溶けけ出すように液状化し、土の上に落ちた。赤い塊となって、やがてそれすらも消えていく。 赤は、血の色だ。 それ以外の、なにものでもないのだ。 「スノウ!」 エスメリアは、鋭くその名を呼んだ。それは期待ではなく、確信だった。彼ならこの場にいるはずだと、彼とともに過ごした十三年間が、エスメリアに教えていた。 小さな生物が駆け寄ってくる。地面を力強く蹴ると、エスメリアに向かって飛び上がる。 エスメリアは片手を伸ばし、柔らかい首根っこをつかんだ。もう片方の手で小さな頬を包むようにして、唇を寄せる。 尖獣の身体が、青年のそれへと変化する。スノウはエスメリアを抱き上げ、恐ろしいほどの剣幕で周囲を睨み抜いた。 「よくも……!」 いつもは穏やかな目が、怒りに見開かれている。エスメリアはスノウの長い髪を撫でるようにして、囁いた。 「派手に逃げるわよ」 「──わかりました、エスメリア」 スノウは怒りを静めてはいないようだったが、それでも声を抑え、承諾する。エスメリアを地に下ろし、支えるように抱き止めたままで、片方の手を空に向けた。スノウが指で宙をなぞると、なにもない空間に文字が生まれた。それは絵画のように描かれていき、やがて完成する。 光そのものへの、命令文。文字が具現化し、光の帯となって、スノウとエスメリアを包み込む。二人の姿を完全に覆うと、その場にいる誰もが目を閉じずにはいられないほどに、それは輝きを増していった。大きく大きく、膨らんでいく。 唐突に、音もなく、光がはじけた。 しかし、そこにはもう、二人の姿はなかった。 処刑場は、静まりかえっていた。 悲鳴もあがらない。いったいなにが起こったのか、把握できないでいるのだろう。 「そんな……」 ルーガルドが呆然とつぶやく。エスメリアとスノウは、その様子を見ていた。 消えたわけではなかった。スノウの衣類を変えるときと理屈は同じだ。二人の姿を一時的に見えなくしているだけで、触ろうとすれば依然としてそこにいることがわかっただろう。しかし、周囲にほとんど誰もいない状況、とりわけこの観衆の前では、有効だった。 「エスメリア、いまのうちに」 スノウが囁くが、エスメリアは動かない。ルーガルドを見つめる。 すっかり血の気が引き、震えているのが遠目にもわかった。シェリアンは助言に現れないのだろうかと周りを見るが、その様子はない。彼女は一度赤い魔女として捕らえられているので、出てこられないのかもしれない。 「だめだ、このままでは……これではこの国は……」 ルーガルドがぶつぶつとつぶやく。いまにも消えてなくなりそうなほどに、青白い顔をしている。 「消えた……」 観衆の中から、声があがった。 「赤い魔女が、消えた……!」 それは、叫びというほどの声ではなかった。しかし、声も出せないでいた人々に、まるで合図のように響きわたった。 「赤い魔女は、逃げたんだ!」 「この町もきっと、消えてしまうわ!」 「神よ、どうかご加護を──!」 口々に、悲痛な声をあげる。混乱が、広がっていく。誰もが叫び、抱き合い、頭を抱え、国の未来に絶望する。 「静まれ」 しかし、凛とした一声が、彼らの声の何倍もの質量を持って、処刑場にうち響いた。 びりびりと空気が震えるのを、エスメリアは感じた。声を発したのは、この国の王、カイミーア・ユイファミーアだ。 「いま騒ぎ立てるのは、何の益もないことだ。私は弟に、ことの収束を求めたい。──ルーガルド、今回の件、どうするつもりだ」 それは、一切攻めるニュアンスのない、静かで公平な、問いだった。しかしそれを、とうのルーガルドがどう捉えたかはわからない。 ルーガルドは、姉を見上げた。それから奇妙に見開かれた目で、周囲を見た。 「ぼ、僕は……」 ユイファミーアも、警護にあたるレッドウォーカーも、柵を取り囲む人々も、ただルーガルドの言葉を待つ。 とうとう、ルーガルドは、いった。 「ネストキィレターを、人々の手に広めるべきです! 赤い魔女の驚異は、去っていません。ならば、僕たちは、自分たちの力で自らを守るべきだ! そのために、神の文字の力を、おのおのの手にするべきです!」 エスメリアは多少、ルーガルドを見直した。彼ならば、赤い魔女は偽物だったとでもいうのではないかと思ったのだ。とっさに頭を働かせたのだろう、当初の目的をどうにか達成させようと、彼なりの最善の策だったに違いない。 やり方が違えば、説得力もあるはずだった。しかし、この局面で、震えた声で叫んだのでは、王子が錯乱したように見えるだけだった。 「そうか」 ユイファミーアが、低く、いう。彼女が手を振ると、うしろに控えていた数人のレッドウォーカーが動いた。彼らは瞬く間に、ルーガルドの両手に金具をはめ、彼を拘束した。 「え……」 ルーガルドの目が、これ以上は開かないというほどに、大きくなる。 「ネストキィレターは、人の禁忌だ。人が手にすることを思い描くだけでも、大罪に値する」 淡々と、しかしよく通る声で、ユイファミーアがいう。それは弟にというよりも、この場に集まった国民に告げているようだった。 「私、カイミーア・ユイファミーアは、カイミーアの王として、カイミーア・ルーガルドを拘束する。危険な思想は持つことさえもままならぬ。心しておけ」 誰も、声を発しなかった。その場にいる全員が息をのみ、ことの成り行きを見守っていた。 「そして、ひとつ、決定事項を伝える」 張りつめた空気はそのままに、しかし少しだけ声音を変えて、ユイファミーアは続けた。柵の向こうの人々を、ゆっくりと見渡す。 「神の文字、ネストキィレターを守り抜くためにも、私たちは新しい時代へと進まなければならない。カイミーアは、今後、シグヌムを導入する。人の作った、新しい文字だ。人が自由に使い、自由に思いを伝える文字だ。そうしてこの国を、新たに発展させていくことを、ここに誓う」 声は処刑場の隅々まで響きわたり、そして他のすべての声がそうであるように、すぐに消えた。 消えてしまえば、それは幻のようだった。 人々は、なにもいわなかった。おそらく、なにもいえないでいた。そもそもシグヌムというものがなんなのか、文字を使うということがどういうことなのか、彼らには想像もできないに違いない。 「行きましょう」 光の膜の中で、エスメリアはスノウとともに、処刑場をあとにした。 |