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第三章 公開処刑 2







 星は、見えない。
 月明かりも届かない。深い深い、霧の中。
 夜が訪れていたが、エスメリアは進むしかなかった。昼間よりもきつく布を巻き付け、息苦しさを覚えながらも、決して緩めることはない。
 カイミーアの夜は、凶悪だ。町を囲む壁の外は、生物を寄せ付けまいとしているかのようだった。恐ろしく濃い霧が、容赦なく生物を蝕もうとする。
 エスメリアは、歩いた。
 目的地は、すでに存在しない町。
 ここまで来たのだからついでに、という思いと、見ておいた方が良いだろうというほんの少しの使命感。後ろめたい気持ちも、背中を押したかもしれない。
 とはいえ、たどり着ける保証はなかった。地図などという便利なものはもちろんなく、道しるべもない。使われなくなって何年も経つ街道は、そもそもの使用頻度の低さも手伝ってか、ほとんど獣道だ。
 そうしてたどり着いた先に見えるはずの景色を、エスメリアは知っていた。
 荒野。
 霧に蝕まれ、食らいつくされた場所。
 草木の一本も生えず、動物など寄せ付けず、ただそこにあるだけの、町であった場所。
 あるいは、そうでなければならなかったのかもしれない。
 エスメリアは、立ち尽くした。
「どういうこと……?」
 つぶやき、思わず肩に手をやる。そこにスノウはいない。己に苛立ち、唇を噛む。
 広がる荒野の先に、家屋が見えた。濃い霧の中、景色ははっきりとしないが、しかし間違えようがなかった。なにもないのと、なにかがあるのとでは、明らかに異なる。
 信じられない光景だ。町全体を覆う外壁もなく、もちろん文字の加護もない場所に、家が立ち並んでいるのだ。
 立ち並ぶといっても、三邸程度だろうか。あとはなにも見えない。
 町が、あるわけではない。
 しかし、ぼんやりとだが、灯りが漏れているのが見える。
 ひとが住んでいるのだ。
「……どうして」
 エスメリアは居ても立ってもいられなくなった。地を蹴り、走り出す。なにかの罠かもしれない。もしかしたら、幻の類かもしれない。
 しかし、そんなことを考えられるほどに、いまの彼女には余裕がない。
 灯りが、大きくなっていく。近づくにつれ、陽炎のように見えていたそれが、現実味を帯びていく。家というよりは小屋のようだ。思ったより小さく、しかし確かにそこに存在している。
 扉の前まで走り、足を止めた。勢いのままに右手を挙げて、そして急速に自覚した。
 扉を、叩くのだろうか。
 ここでなにをしているんですか──そんなことを尋ねるのだろうか。いつものように、嘘で己を塗り固めて。
「どうするつもり、エスメリア」
 低く小さく、エスメリアは自分に問うた。
 この扉は、叩くべきではない。
 ここに誰かがいるという事実を、知るべきではない。
 しかし、目を逸らしては、いけない。
「やあやあ、珍しいね」
 光が一筋、エスメリアを照らした。驚きとまぶしさで目を閉じて、細めた目を凝らす。扉が、小さく開けられている。
「道に迷った町渡りかね。それとも……夢か、幻かな」
 しゃがれた、しかし落ち着いた老人の声だ。姿は見えない。開けられた扉の向こうに厚手のカーテンがかかり、光が漏れるだけだ。
「あたしは……」
 エスメリアは口ごもった。どう説明すればいいのだろうか。いつものように町渡りだというのは、ためらわれた。
「なんでもいいさ。入りなさい。あんたみたいな娘さんは、霧にさらされるべきじゃあない」
 声はそれきり聞こえなくなり、すぐそこにあったはずの気配も遠ざかる。薄茶色のカーテンが揺らぐこともなく、それ以上扉が開くこともない。
 エスメリアは逡巡したが、なによりも、この扉をこのまま開けておくわけにはいかないという思いが勝った。いくらカーテンがかかっていても、隙間がある限り霧は進入していくはずだ。そうして、閉めるのならば、やはり自分が中に入らなければならない。
「……おじゃまします」
 決意して、扉を開ける。自分の厚みが入るぎりぎりで身を滑り込ませ、すぐに閉めた。
 カーテンの向こうは、目を疑うほどの暖かさに包まれていた。
 夢か幻か──老人の声が、耳に蘇る。本当に夢なのかもしれないと、エスメリアは脳が麻痺しそうになるのを感じた。
 それほど大きくはない、一つしかない部屋。小屋のようだと思ったが、絨毯が敷かれ、タンスやベッド、暖炉まであり、背の高い支柱にぶら下がったランプが煌々と部屋を照らしている。立派な家だ。
 窓際の白い木の椅子に、老人はすわっていた。髪も髭も真っ白で、茶の衣類を着込んでいなければ、椅子と同化して見えなくなってしまいそうだ。身体は存在を感じさせないほどに細く、笑みをたたえた表情だけが人間らしさを表しているようだった。
「こんな遅く、どこから渡ってきたのかね。さあ、すわりなさい」
 老人が用意したのか、それともいつもそこにあるのか、暖炉の前にも白い椅子があった。それほど寒いというわけではなかったが、暖炉には薪がくべられている。
 エスメリアは小さく会釈をして、椅子に腰を下ろす。
「東の、ラシーダから」
 問われたので、答える。答えながら、なんと間の抜けた問答だろうと思う。
「なるほど、ラシーダから……教会を通って、来たのかね」
 柔らかい微笑のまま、老人がいう。エスメリアはどきりとした。
 他意はないのかもしれない。少なくとも感じられない。
 しかし、なにもかも見透かされているような気がした。
 ごまかすように、エスメリアは視線をはずした。窓に目がいく。
 よく見なくても、明らかだった。この国にある一般的な家屋とは、根本的に作りが異なっていた。
 二重の窓、周囲に張り付けられた分厚いゴム。壁にも天井にも、隙間は一切ない。
 それはまるで、ブルーアスで見る家屋だった。霧の進入を防ぐことを第一とした、町そのものが霧に守られているこの国では、見ることのない家だ。
 エスメリアはやっと気づいて、顔に巻いた布を取る。老人はマスクなどしていない。この家には、霧は入ってこないのだ。
「だいじょうぶ、安全だよ。まったく害がないというわけではないがね。毒の成分は光と熱に弱い。その場所が、一番安全だ」
 薪がはぜる。エスメリアは老人を見つめた。
「ここには、あなた以外にも、人が住んでいるんですか」
 自然と敬語になる。彼は敬わなければならない相手だという気がしていた。
 老人は首を左右に振った。しわくちゃの目に、さらにしわが寄る。悲しげな笑みだ。
「いいや。数年前までは、あと三人いたがね。いまは、わたしだけだ。この国は、霧のなかで生きていけるようにできてはいない」
「どうして、この町に」
 気が急いたが、意識的にゆっくりと、問う。まるでエスメリアの思いに応えるように、老人はエスメリアの目を見つめていた。
「どうして、この滅びた町に?」
 本当はそう聞きたかったのだと、気づかれていた。言葉を濁したわけではなかったが、口にできなかったのも確かだ。
 エスメリアは、目を逸らさずに、うなずく。
「そうです。正気の沙汰ではありません」
「娘さんは、どうしてここに来たのかね」
 逆に問われる。ひどく柔らかな物腰なのに、エスメリアは詰問されているような気になった。
「ここが、滅びた町だからです」
「では、むすめさん──この滅びた町に、何の用があるのかね」
 頭の芯が熱くなり、同時にぼんやりと重くなる。老人の目と口が、浮かび上がっているかのようだ。
「この町が……」
 いけないと思ったが、しかし口は動いていた。エスメリアはまばたきすらできず、促されるままに、声を発していた。
「この町が、滅んでいることを、確認するため」
 ぼろりと、涙がこぼれる。あとからあとから、溢れ出す。エスメリアはゆっくりと右手を持ち上げた。涙が落ち、手を濡らしても、まるで感覚がない。どこか遠くの出来事のように、動いている。
 違う──エスメリアは、思い切り唇を噛んだ。痛みで脳を無理矢理覚醒させ、腰からナイフを抜き、自らの足に降り下ろす。
「やめなさい」
 しかし、阻まれた。おそるべき俊敏さで、老人がエスメリアの手を掴んでいた。反対の手でナイフを奪う。
「すまなかった。そんなことをせずとも、縛めを解こう。あんたがこの国にとってどういう存在なのか、見定めたかったのだ」 
 老人は、先ほどまでよりずっと歯切れよくそういうと、水差しを取り上げ、薪に水をかけた。火が消え、煙だけが残る。
 エスメリアの意識は、すぐに自らの管理下に戻った。老人の手を振り払うと、椅子からとびのく。いつでも出られるように背を扉につけて、老人を見据えた。
「……いまのは、ライティングね。薪に文字を刻んで燃やすなんて初歩でも、この国では充分通用するわ。でも、どういうことかしら。他国の文字技術を持ち込むなんて、重罪よ、おじいさん」
「なあに、もう燃えた。証拠はないさ」
 老人は飄々とした様子で肩をすくめ、窓際の椅子に戻る。わざとらしく、よいしょと声を出し、息を吐き出しながらすわった。
「だが、それがわかるなら、この状況はあんたに優勢だ、娘さん。もう仕掛けはないから、すわりなさい。あんたみたいな若いのが霧にさらされるのは、良くない。そう思っているのは本当だ」
 そういって、最初と同じように、目にしわを寄せて笑う。
 エスメリアは警戒しながらも、それを表に出さないよう慎重にしまい込み、椅子に戻った。老人が差し出すのでナイフを受け取り、足を組んですわる。
「飲み物が欲しいわ、おじいさん。あと、お腹も空いているの」
「たいした度胸だねえ」
 押し殺すように笑って、老人が肩を揺らす。どうやらそちらの方が本当の彼のようだ。良いものではないが、と前置きをしながら、老人は手際よくパンとスープを用意した。暖炉からは少し離れたテーブルに置く。
「ここと並んで、あと二件家があったろう。ここがいやなら、どちらでも好きな方を使いなさい。しばらく使っていないが、一晩眠るには問題ないはずだ。まあ、ここがいいというのなら、わたしが隣に移るがね」
「ありがとう、お言葉に甘えるわ」
 エスメリアは立ち上がり、パンをくわえる。食べ物に細工が施されている可能性もあったが、ここで必要以上に警戒してやるわけにはいかなかった。プライドの高さで、あっという間に──あくまで優雅に、パンを食べ尽くす。
「聞けば、答えてもらえるのかしら」
 カップに入ったスープを片手に、椅子に戻る。もう一度足を組み、温かいスープに口をつけた。味付けの薄いスープが遅い速度で喉を通り、そっと身体を暖めていく。
「お詫びの気持ちもある。なにより、話し相手がいるのは嬉しいね。答えよう、娘さん」
「ここでなにをしているの?」
 ずばり聞いても、老人は表情を変えなかった。あたりまえの質問だといわんばかりに、うなずく。
「この町のことは知ってるかね、娘さん。ここロイツノーツは、十三年前にネストキィレターの力を失い、霧に飲み込まれた」
 知っているかと問われたとこに、エスメリアは心のどこかでほっとした。しかしすぐに、彼の言葉の使い方に、違和感を覚える。
 神の加護ではなく、ネストキィレターの力と表現した。彼の発音は流暢で、地域特有の訛りもある。カイミーアの人間なのは間違いないだろうが、ライティングの使い手であることから見ても、他国と繋がりがあるのは確実だ。
「知ってるわ。滅びたその後の町も、見たことがある。当時はこんな家は、なかったはずだけど」
 十年前、エスメリアはこの町を訪れていた。なにをしたわけでもない。ただ訪れ、そして見たのだ。なにもない荒野を。
「ふむ、そうか。町が霧に飲み込まれてすぐは、一部の物好きが見に来たもんだな。まあ、わたしも、その中のひとりだったといえば、そうかもしれん。だが、この町は、わたしの故郷なんだ。十三年前、わたしは町を渡っていた。ここからずっと遠くの町で、なにも知らずに過ごしていたんだよ」
 淡々と、老人は語った。その語り口に感情はこもっていなかったが、あえて排除しているようにも思われた。
「町渡りだったのね。……なにか、見つかった?」
「見たのも、見つけたのも、愚かさだ。悲しいほどのな」
 ためらいながらも決まり文句を口にすると、老人は用意していたかのように淀みなく、吐き捨てるように答えた。
「八年ほど前だったか、わたしはこの町に戻ってきた。草木すら生えていないことに、驚いたよ。だが、見るだけ見て、この土地を捨てる気にはならなかった。わかるかい、娘さん──ここに、いくつの命があって、いくつの生活があったのか。町がなくなるという言葉は、好きじゃあない。そんな言葉を使ってしまっては、それで終わってしまう。そんな単純なことじゃあ、ないんだよ」
 エスメリアは答えない。わかるかと問われて、わかると答えてはいけない気がした。しかし、そんなものはわからないと、突っぱねることもできるはずがなかった。
 老人は髭を撫で、苦笑した。
「ここでなにをしているのか、だったね。しがみついているんだ。もしかしたら、ネストキィレターの力がなくとも、この土地に居続けられるのではないかとね。二年間は大陸に渡り、ライティングの研究や、文字の──ネストキィレターの研究にも、携わった。わたしは、この国で禁忌といわれる文字の力を使ってでも、しがみつこうとしている。ただそれだけの、いつ死ぬかわからない、惨めな老人だ」
 エスメリアは、老人の姿をじっと見た。彼の話口調と身のこなし、顔や身体のしわ、そして白髪を観察する。
 おそらくは、老人と呼ばれる年齢ではないのだろうと、予想ができた。霧は命を蝕む。町渡りとして生き、それから何年もこの土地にいるのなら、実年齢よりもずっと歳をとっているように見えてもおかしくはない。
「あと二つの、家は?」
 尋ねると、老人は悲しげに瞳を伏せた。
「わたしが大陸から連れてきた学者と、わたしのように町渡りをしていた若い夫婦がね。だが、死んでいったよ。まだ、模索中だった。やはりここに住まうのは、難しかったのだろう」
 息を吐き出す。息と一緒に重い感情が吐き出されていくようで、エスメリアはそれ以上彼を見ていられなくなる。
「それでも、前進だ。わたしはまだ、生きている。大陸のライティングの技術を取り入れれば、そりゃあ夜は家から出られんだろうが、霧の毒を防ぐこともできる。そうやって、他国のように、できる限り共存してやっていくことができるはずだ」
 老人の声は力強く、とても本人がいうような惨めな姿ではなかった。彼はまだ何も諦めておらず、ひょっとすると、この国のあり方自体を変えようとしているのかもしれなかった。
 だからこそ、エスメリアの胸に、重くのしかかるものがあった。
 聞きたくない──聞いてしまってはいけない。気づいてはいけないことに気づいてしまいそうで、胸の扉を閉ざす。
「これも、巡り合わせだ」
 老人の声音が、かすかに変わった。
 いままでも真剣ではあったが、さらに力のこもった声になる。エスメリアは身構え、しかしそれを悟られないよう、足を組み替える。
「明日、王都で赤い魔女の公開処刑が行われる。実際に見たわけではないが、おそらく処刑されるのは、わたしの知った娘だ。その名を聞いた」
「……?」
 エスメリアは眉をひそめた。
「なぜ、そんなことがわかるの?」
 公開処刑、という言葉には驚かない。ふりではあるが、そもそもエスメリアが公開処刑されるはずだったのだ。今朝の眼鏡の女がその役を担うことになったのだろうか。
 少々、納得がいかない。あの女はルーガルドか、もしくは彼に近い誰かと通じているとふんでいたのだ。今朝というタイミングであの教会にいた事実が、偶然だとは考えにくい。眼鏡の女が赤い魔女の役割をするのなら、最初からエスメリアに頼む必要などなかっただろう。
 それとも本当に偶然で、単純に彼女を罪人として──赤い魔女だということにして──処刑するのだろうか。または、まったく違う誰かを新しく用意したのだろうか。
「この場所に、伝師が来るとは思えないわ」
 一通りの可能性を考えながらも、そもそもの信憑性を突く。老人は薄く笑った。
「王都まで聞きに行った──といえば、あんたは信じるだろう、娘さん」
 挑発的な笑みだ。すべてを知っているといわんばかりの。
「教会の赤い光は、わたしにも見えた。すぐに王都へ行き、情報を集めたのだ。なあに、方法は、いくらでもある。わたしのコレクションを見るかね。レッドウォーカーの制服も伝師の制服も、城の使用人の制服もある」
「捕まるわよ」
「あいにく、まだ捕まっていない」
 さらりと答え、老人は残念そうな顔をする。どんどん老人には見えなくなってきていたが、エスメリアは実年齢を問うのは避けた。
「あなたの知り合いが、実は赤い魔女だったということね。それをあたしに話して、どうしたいの?」
「替え玉だ。はっきりとそう聞いた。なによりあの子は、まだ十歳だ。まあ、魔女は歳をとらんとかなんとかいうつもりなんだろうけどな」
「十歳……」
 エスメリアは納得した。赤い魔女だというのならば、せめて十三歳以上──十三歳だとしても当時赤ん坊だったことになってしまうため、さらに上の年齢でなくては辻褄が合わない。
「たまたま同じ名前だった、ということは?」
「あるだろうな。だが、見過ごせない。つてがないわけではないが、間に合わんだろう。明日、わたしが自ら行くつもりだった。まったくの無策でね」
 つもりだった、といういいかたが引っかかる。彼がなにをいおうとしているのかがわかったが、こちらから申し出てやる義理もない。
「応援しているわ、といえばいいのかしら」
「わたしに任せて、といって欲しいんだよ、娘さん」
 深いしわの中で、飄々と笑う。エスメリアは髪をかきあげた。
「どうして?」
 当然の質問だ。なぜそんなことをしなくてはならないのか。
「理由を聞きたいのなら、説明しないでもないがね。娘さん、あんたには無関係ではないはずだ。今日、あの教会を通って、ここに来たのだろう?」
「違うわ。王都までのルートを使わせてやるからその女の子を助けてくれ──そういえばいいのよ。ビジネスなら、のってあげる」
 あくまで下手に出ることなく、エスメリアはいい放つ。老人は目を見開き、それから心底おかしそうに笑いだした。老人らしからぬ大声で、大口を開けて全身で笑う。
「ふっふ、いいねえ、娘さん。なるほど、したたかだ。あんたのことは、嫌いじゃあないな」
 なにがおかしかったのかわからず、エスメリアは不快感を露わにする。失礼だわ、と思ったものの、声に出せばきっとさらに笑われるのだろう。おとなしく、黙って待つ。
「ルートを教えよう。鍵となる文字盤は複製を用意してある。あの子はわたしのことなんて知らんだろうから、助けてくれるだけでいい」
「知り合いなんじゃなかったの」
「いや」
 老人は目を細めた。遠くの、もう見えなくなってしまったものを懐かしむように。
「この町に、若夫婦がいたといったね。娘がいたんだ。町の消滅を聞きつけて見に来た町渡りが、そこで出会って、子を産んだ。わたしが一緒だったのは二歳のころだから、覚えてはいないだろう。この町で育てるつもりだったようだが、結局は危険だからと、当時訪れた町渡りに託していたよ。……きっとあの子は、両親が生きていないことも、知らんだろうなあ」
「……わかったわ」
 エスメリアは立ち上がった。
「できるかどうかはわからないけど」
「それでいい」
 老人は安心したように笑んで、腰を上げる。緩慢な動作で、暖炉の隣の棚に近づくと、隠してあったらしいペンを取り出した。さらさらと棚そのものに文字を書き込み、引き出しを押し込む。
 押し込んだそれが、跳ね返るように手前に傾いた。その裏に手を入れて、てのひらほどの大きさの板を取り出す。
 表面には、複雑な形のネストキィレターが描かれていた。ちらりとそれを見て、エスメリアはすぐに目を逸らす。
「これが鍵だ。ルートの起点へはこの家の地下から行ける。問題が起こりそうなら、この板は燃やしてしまいなさい」
「読めるの?」
 聞かなくても良いことだった。しかしエスメリアは、口にしていた。
 後悔するよりも早く、老人が首を横に振る。
「いいや。こんなものは読めんよ。多少、文字研究に携わったがね……意味の分かる文字が少しあるのと、文の組立が理屈で少し、理解できる程度だ」
 エスメリアは気付かれないよう、胸中でほっと胸を撫で下ろした。しかしそれは、おそらく、聞かずともわかることだった。二年間ブルーアスで学んだ程度で読めるようになるものではないし、読めたのだとしても、外で学んだのならば問題はないはずだ。
 それでも、もしかして、という思いがあった。町渡りをしていたといっても、ここはあのロイツノーツなのだから。
「赤い魔女は──」
 老人は、エスメリアを見てはいなかった。カーテンのかかった窓を見つめて、独り言のようにつぶやく。
「──この町の文字研究が、生み出したのかもしれん」
 エスメリアは手を伸ばした。老人の持つ木の板を受け取り、文字は見ず、腰のポーチにしまい込む。
「行くわ。案内はいらない」
「案内させなさい。地下には生活の蓄えもある」
 ものを盗られたのではたまらないということだろうか。エスメリアは眉を上げ、老人の言葉がそれほど的外れというわけでもなかったので、おとなしく案内されることにする。
「儲け損ねたわ」
 そういっておく。老人は苦笑した。
「だいじょうぶだよ」
 なにがだいじょうぶだというのだろう。まさか報酬をくれるというわけではないだろうが、意図がわからない。
 老人が腰をかがめ、小さな絨毯をめくると、絨毯と同じ大きさの入り口があった。引き上げた戸の先は、物置になっているようだ。梯子の向こうから食料の臭いが漂ってくる。干した野菜や肉の臭い、甘い匂いはシロップだろうか。
 老人は部屋を照らしていたランプのうち、もっとも小さなものを手に取った。ものもいわずに梯子を降り始めるので、エスメリアも続く。
 いまではとても老人のものとは思えない背中を見ながら、エスメリアはふと、尋ねてみたくなった。それは空気のような質量の二つを天秤の両側に乗せて、風が吹いたからそちらに傾いた、その程度の軽い気持ちだった。
「あたしのことを、知ってるの?」
 期待はしていなかった。期待といってしまっては語弊があるが、返ってくる答えは予想していた。
 しかし、老人は背中で笑う。
「だいじょうぶだ、娘さん」
 同じ言葉を、もう一度。エスメリアはその続きを聞きたいような聞きたくないような、複雑な思いに囚われる。
「そのまま、進みなさい。あんたのやってきたことは、正しい──少なくともわたしは、そう思っているよ」
 やってきたこと──やったこと?
 これから、やろうとしていること?
 知るはずがなかった。しかしもしかしたら、なにもかもを知っているのかもしれなかった。
 冷静に考えれば、それが予想の域を出ない発言だとわかるはずだったが、エスメリアは動揺していた。考えることができない。考えてはいけないのだと、己の一部が自らを引き留める。
「嘘つき」
 どこか遠くでつぶやいて、ポーチの紐を握りしめた。