第二章 赤い魔女 3







 薄暗い霧に、包まれていた。
 黒と灰色と、そして藍色の混ざり合った色を帯び、光に照らされながら霧がうごめく様子は、カイミーアでしか見ることができない。この国を出れば霧は夜だけのものであり、日中には発生しないからだ。
 霧は、毒素を含む。
 霧にさらされ続ければ、それだけで死に至る。カイミーアの外では、日が沈むころには誰もが建物にこもる。窓という窓を閉め切り、霧の侵入さえ防いでいれば、ほとんど害を受けることはない。
 しかし、カイミーアでは、事情が違っていた。
 カイミーアの町は、その四方が高い外壁で囲まれ、霧の侵入を拒んでいた。それは物理的な壁の存在によるものではない。壁に刻まれた、特別な文字の力によるものだ。
 ネストキィレター。世界各地に存在する、古代文字。
 古代文字という認識は、カイミーア外でのものだ。特にネストキィレターが多く見られるこの地では、それらは神の文字として古くから信仰の対象になっていた。
 多くの研究者がネストキィレターの解読を試みたが、文字の意味そのもの、ある程度の文法の解明に留まり、力との結びつきを解くには至っていない。
 神の加護だと、カイミーアに住まう者はいう。
「町渡りなんて、よくやるわ」
 首から鼻の上まできつく巻き付けた布越しに、息を吐き出す。吸い込んでも期待するほどの酸素は入って来ず、エスメリアは布の下で唇を歪めた。
 カイミーアの先々で町渡りを名乗ったのは、単純に国外から来たと知られないようにするためだ。この国では縁起がいいとされる尖獣を連れていれば信憑性は抜群で、疑われることもない。カイミーア語の発音にも絶対の自信がある。
 ただ、個人的な意見としては、町を渡るなどというのは愚の骨頂だ。カイミーアでは、昼夜問わず町が霧から守られる代わりに、町から一歩出れば霧の害は免れない。日中は日の光である程度は中和されるが、無になるわけではない。カイミーアの人間が町からほとんど出ないのは、このためだ。
 カイミーア内の管理を行うレッドウォーカーや、国の決定や方針、重要な事件等を伝える伝師は、霧の害を受けない特別なルートを使っている。しかし、それすらも公になっておらず、一般人が使用することはまずない。魔法の道があるらしい、と噂される程度だ。
「珍しくいて欲しいと思うと、いないものよね」
 歩を進めながら、エスメリアは毒づいた。なにかと面倒ではあるが便利には違いない生物に思いを馳せる。思いの内訳は、主に怒りだ。自分で置いてきたという事実は、彼女の中ではたいした意味を持たない。
 ルーガルドに示された場所までは、徒歩で行くしかなかった。目隠しをされたまま、ルートでミジェリア地方までは送られたが、そこからは自力だ。
「これで収穫がなかったら、どうしてくれようかしら」
 真摯に計画の内容を語るルーガルドを思い出し、悪態をつく。エスメリアにとってプラスがあると思うからこそ引き受けたのだ。
 内容は、単純といえば単純だ。まず、すでに廃墟となっている教会へ赴き、ルーガルドから渡された光源を用いて、赤い光を発生させる。次に、偶然その様子を目撃したレッドウォーカーにより、赤い魔女として捕らえられる。最後に、王都へ連行され、大々的に「処刑」される。
 エスメリアは息をつき、ぐるりとあたりを見回した。形ばかりの街道はあるものの、ほとんどが木で埋め尽くされているこの森で、目印となるものはほとんどない。そもそもカイミーアでは、文字に準ずるものとして、地図の存在が認められていない。口頭で教会の位置を説明されたものの、その説明とてまっすぐ行って塚を左、というだけだ。
 カイミーアから一歩外へ出れば、数少ない旅人たちの手によって完成されたカイミーアの地図が、裏ルートとはいえ出回っているなどと、ルーガルドたちは夢にも思わないだろう。
「塚ならいいっていうのも、中途半端だわ。地図はダメで、塚はあり……絵なら良くて、記号はナシ」
 町で見かけた店を思い出す。店先には、大抵その店に関するものの絵が描かれていた。食堂であればナイフやフォーク、皿やグラス。絵を簡略化していけば、いつかは記号、ひいては文字に繋がる。レッドウォーカーが逐一取り締まっているが、それでも限界があるだろう。
 エスメリアは、見えてきた塚に目を細めた。盛られた土に、大きな石が突き刺さっている。石碑と呼んでも良さそうなものだが、文字の類は一切記されていないので、やはりただの石だ。明らかに人の手によって削られたそれは、真っ直ぐ天に向かっている。
「ここが分岐点です──そういう意味を持たされた石は、果たしてただの石かしら」
 つぶやいてみる。答えは明白なようで、決してそうではない。もとより解答を導き出す気などなく、エスメリアはルーガルドの言葉を思い出しながら、左に曲がる。
 それから真っ直ぐ、どれほど歩き続けただろうか。
 道を間違えてしまったのではないかと不安に駆られるころ、やっと、教会が姿を現した。
 すでに使われていない教会だと、ルーガルドはいっていた。エスメリアはその理由を知っている。町と町の中継点として位置するはずの教会は、その先の町が消滅したことにより、役割を失ったのだ。
 文字研究の町、ロイツノーツ。
 いまでは天罰だといわれている。神の文字を研究するなどと大それた行為の結果が、赤い魔女を呼んだのだと。
 石扉を開け、内部へ入る。音をたてないように扉をそっと閉めると、布越しに注意深く息を吸い込んだ。見つめる大気の、色を見る。
「やっぱり……まだ、生きている」
 エスメリアは巻き付けた布を緩め、首を振って顔を出した。教会内に、霧はなかった。建物の外と中とでは、まるで別空間だ。
 盲点だった。町と町の中継点として教会があることは知っていたのに、長年の間、そこまで考えが及ばなかった。ルーガルドの口から教会の存在を聞いて初めて、思い当たったのだ。そこにもまだ、あるのかもしれないと。
「最初に赤い魔女が現れたのは、十三年前です」
 内部へと歩を進めながら、エスメリアはルーガルドの話を思い出していた。
 赤い魔女について、基礎知識だけでも頭に入れておいて欲しいと、彼はいった。
「ちょうど、僕が生まれた年です。なんの前触れもなく、ロイツノーツという町が、赤い光に飲み込まれました。当時その町で暮らしていた人だけでなく、木々や建物、なにもかもがほとんどすべて、一夜のうちに消えてしまったのです。それをやったのが、赤い光を身に纏った邪悪な少女だったといわれています。実在したかどうかはともかく、伝えられていくうちに、その少女が赤い魔女と呼ばれるようになったようです」
 すらすらと、まるで歴史書を読み上げるように、ルーガルドは語った。
「ロイツノーツが消失した際、同時に、神の文字も消えてしまいました。加護を失い、町を再建することができなくなったのです」
 この国の歴史として、ロイツノーツ消失の一件がどのように伝えられているのか、エスメリアは興味があった。町が飲み込まれたという話は、国外でも有名な出来事だ。ただ、国外では赤い魔女の存在はあまり信じられておらず、カイミーアの文字信仰と相まって、なにか呪術的なできごと、理解しがたい他国の凶事、といった扱いを受けている。カイミーアにあまり旅行者が訪れないのは、そのあたりの理由も大きい。
「それから十三年の間で、消えた町は五つ。十年前に、ミシリアとトリスールが、ロイツノーツと同じように光に飲み込まれました。この二つの町は距離も遠く、接点も特にないので、なぜミシリアとトリスールだったのかはわかりません。それは、ほかの町についても同じですが」
 ルーガルドは一度、言葉を切った。五つの国が消えたというのなら続きがあるはずだ。エスメリアが静かに待つと、息を吸い込んで、意識的にだろう、淡々と続ける。
「十年前、二つの町が消えてしまったのち、まるで追いかけるように、カルツが──そして七年前にチュリアル、三年前にタリアソルフが、消滅しました。ただ、その三つの町は、一夜のうちに消えてしまったわけではありません。町が赤く光り輝いて、それから少しずつ、数日かけて、霧に浸食されていきました。人や建物が消えてしまうことはありませんでしたが、昼夜問わず霧にさらされるようになり、人は住めなくなりました。どうやって、なぜそのようなことになったのかは、一切わかっていません」
 本当かしら──疑うというわけではなく、ただぼんやりと、エスメリアは思った。文字を扱うことを禁じているこの国では、歴史は語られる以外にその場に留まる術を持たない。語られる歴史は、悪意の介入がなくとも歪みやすく、また信憑性を欠く。もっともそれは、記されていても同じかもしれないが。
「赤い魔女の存在については、実は、はっきりしていないのです。赤い光が出た際、光の中心に少女がいたという証言があったのは事実のようですが……。ロイツノーツ以降は、赤い魔女の噂が先行してしまっているようです。ここ三年の間は町が消えてしまう事件は起きていませんが、最近ではまた赤い魔女が帰ってきたとか、復活したとか、そんな噂が出ています」
「復活、ね」
 エスメリアは思わずつぶやいていた。復活した赤い魔女。彼らにとって赤い魔女とはどういう存在なのだろう。文字が神の加護なのだとすれば、それを消し去る魔女は悪魔の化身なのだろうか。だとすれば、神の力に守られている──あるいは、守られてきた、カイミーアの人間は、選ばれた者たちということになるのだろうか。
 誰も、疑問を持たないのだろうか。
 最初に町が消えて、それから十三年も経っているのに、本当に誰も。
「僕は、この国を救いたいのです」
 目を輝かせて、ルーガルドはいった。
「この国の恐怖を、払拭したいのです。そのためにはまず、赤い魔女の驚異は去ったのだと伝えることが重要です。いいえ、騙すのではありません。怯える必要などないのは、本当のことなのですから」
 その自信の出所がまったくわからなかったが、尋ねても核心に迫る部分をルーガルドが口にすることはなかった。エスメリアは彼とわかり合えるなどとは微塵も思っていなかったので、深く追求する必要もない。
 それでも一応、可能性を考える。たとえば、赤い魔女を大々的に処刑することで、本物の赤い魔女をおびき出すという作戦。または、赤い魔女が現れても町が消えることがないよう、なんらかの手を打ってある──あるいは、ルーガルドはこちらの想像以上に物事を考えていない、か。
「この国を、救いたいのです」
 かつては人の出入りがあったであろう、さほど広くはない無機質な礼拝堂に入り、エスメリアはルーガルドの言葉を真似る。皮肉な気持ちで口にしたのに、去来したのは虚しさだった。
 救いたい、その気持ちに、嘘はないのだろう。
 それでも、エスメリアはどうしても、思い出してしまうのだ。
 ──なんて素晴らしいのかしら!
 そういったのは誰だっただろう。
 ──わくわくするわ。あたしたち、特別なんだもの!
 あのときの高揚も、覚えている。
 ひどく純粋に、知識欲と好奇心とに輝いていた。間違っているなどと、思いもしなかった。あのころの──
「────ったのね」
 ぎくりとして、エスメリアは足を止めた。
 記憶の波を漂っていた意識を、引き締める。いま確かに、何者かの声がした。
 エスメリアはそっと壁に寄り、身を屈ませると、息を殺した。足音をさせていなかったのは習慣のようなものだ。この先に誰かがいたとしても、おそらくこちらの存在は気づかれていない。
 高い位置を覆う天井は、朽ちる様子もなく、誰もすわることのなくなった椅子を見下ろしている。カイミーアの教会というからには、正面には何らかの形で神の文字が祀られているはずだが、いまはない。どうやら取り去られているようだ。
 もしかしたら、声の主は自分を捕まえる手はずになっているレッドウォーカーかもしれない。だとすれば隠れる理由などないが、しかしエスメリアの経験が、警戒しろと告げていた。
 聞こえてきたのは、ブルーアス語だ。
 エスメリアは気配を殺し、前進する。声はどこから聞こえてきただろうか。耳ではなく、腹の底に響くような感覚だった。
 地下──胸中でつぶやく。
 地下が、あるはずだった。もはやそれは、確信だ。
「──してちょうだい」
 今度は、はっきりと聞こえた。女の声。
 エスメリアは立ち止まった。どうやら、声の主に近づきつつあるらしい。周囲に誰も居ないことを確認し、床に耳を寄せる。
「わかってるだろうけど、確認を怠らずにね」
 高圧的な、女の声だ。何者かに指示を与えているようだが、それに対する返事は聞こえず、全部で何人いるのかまではわからない。物音がするわけでもない。
 それ以上、声は聞こえなかった。「確認」が必要になるような、なにかをしているのだろう。なにが行われているのか、想像がつく。
 すぐに、入り口が見つかった。まったく警戒せず、それは開け放たれていた。礼拝堂の奥、一段高くなった台の下だ。
 エスメリアは少し考えて、腰に結んだポーチを開ける。ルーガルドから渡された、光の源となる石を取り出すと、指先を噛んだ。流れた血で石に文字を書き記し、台の陰に置く。
 そうして、入り口に身を滑り込ませた。
 階段を下りた先は、目を細めるほどの光で照らされていた。形のそろった石で作られた地下道は、地上と同じく、まるで朽ちた様子がない。
 目に飛び込んできた光景は、異様ではあったが、ほとんどエスメリアの想像したとおりのものだった。
 六つのランタンで照らされた赤い壁と、そのすぐそばでうずくまる三人の男。少し離れた位置で壁にもたれて、けだるそうに両手を組んでいるのは、丸い眼鏡をかけた若い女性だ。といっても、エスメリアより一回りほど年上だろうか。
 男たちがなにをしているのかは、目をこらさなくてもわかった。壁に刻まれた赤い文字を、書き写しているのだ。この国では持っているだけで罪になるはずの、紙とペンを用いて。
「無駄よ、そんなことしても」
 エスメリアは思わず、声を投げていた。
 考えるよりも先に、いってしまっていた。女と、三人の男が一斉にこちらを見る。
「あらやだ、お嬢ちゃん。ブルーアス語ということは、同類かしら?」
 女はひどく短く切りそろえた茶の髪をかき上げた。もたれていた背を起こすと、眼鏡に手をかけ、エスメリアを無遠慮に観察する。
「見た顔のような気もするけど……でも、うちの子じゃなさそうね。無駄っていうのは、どういうこと? ──ああ、ほら、手を止めないで」
 男たちに短く指示をする。彼らは返事をして、作業を再開した。
「それを書き写したところで、力は得られないわ。それはただの文字よ」
「あら」
 女は赤い唇を笑みの形にした。
「詳しいのね。でも、無駄じゃないのよ。研究はこれから飛躍的な進化をとげるの。私たちはきっと、ネストキィレターの力を手に入れる」
 エスメリアは口を閉ざす。もう一度無駄だと告げても良かったが、それこそが無駄な行為だということはわかっていた。はるばる海を越えて文字を写しに来たような人種が、見知らぬ誰かになにをいわれたところで、聞きはしないだろう。
「無駄だというなら、お嬢ちゃんはなにをしにこんなところへ? まさか観光じゃないわよねえ」
 女がくつくつと笑う。エスメリアは肩をすくめた。
「探しているの、人を」
 頭を働かせる。この女はなぜ今日、ここにいるのだろうか。偶然なのだろうか。ほかの場所でも、こうして作業が行われているのかもしれないが、だとしても──
「人探し? こんなところへ? いったい誰を?」
 頭の動きを追い越すように、女が話しかけてくる。エスメリアはたっぷりと間をとって、女を見上げた。少しの表情の変化も見逃さない自信があった。
「赤い魔女を」
 しかし、女の反応は、予想していたものとは異なっていた。
 彼女はゆっくりと目を見開いて、それから笑った。押し殺そうとして、それでも声が漏れてしまったというように、肩を震わせる。
「赤い魔女! 赤い魔女をお探しなのね。あらそう──大陸でもずいぶんその噂を流したけど、それではるばる来たってことかしら。なあに? 町の消滅でも止めたい?」
 女の言葉を、エスメリアは頭の中で繰り返す。噂を「流した」といういい方。ではあの噂は、故意に流されたものだったのだ。
「そうねえ、じゃあ、教えてあげようかしら」
 女は踵の高い靴を鳴らしながら、ゆっくりとエスメリアに近づいてきた。エスメリアを見下ろして、妖艶に笑う。
「赤い魔女なんて、いないの。放っておくだけで、この国は簡単に滅びるわ」
「…………」
 エスメリアは、指先を噛んだ。きつくきつく。滲んだ血を舐め、女を睨み上げる。
「……もうそこまで、知られているのね」
「え?」
 身をかがめ、赤い指先を宙に躍らせた。素早く文字を記し、中心を突く。
「あなたが女で良かったっていったのよ、眼鏡のおばさん」
 エスメリアの描いた文字が、光を発する。それは帯のようにしなやかに伸び、階段を上がって本堂ではじけた。ほとんど同時に、赤い光が教会を包む。仕掛けておいた光源が、役割を果たしたのだ。
「ちょっと、借りるわよ」
 目を丸くする女の横をすり抜けると、事態を飲み込めずにいる男を蹴り倒す。ランタン五つを指にひっかけ、大きく振りかぶって床に投げつけた。したたかな音を立て、ガラスが割れ、火が消える。音は上階にも充分に届いたはずだ。
 エスメリアはさらに奥へと進み、暗闇に身を潜めた。
 ほどなくして、上階で飛び交う声。乱暴な足音が複数響き、地下に数人の男たちが降りてくる。
「レッドウォーカー……!」
 女は事態を察したようだった。レッドウォーカーの手にした灯りに照らされ、忌々しげにエスメリアのいる方向を睨む。
「貴様!」
「怪しい奴め!」
 レッドウォーカーは通り一遍のセリフを口々に吠え、どうやら抵抗する気のないらしい女の腕をあっという間に縛り上げた。男三人も女の様子を見てか、おとなしく捕まる。
 エスメリアは息を殺していた。隠れきるのが最善ではあるが、そういうわけにもいかないだろうと次の手を画策する。ただの町渡りだといえば、おそらくは問題ないだろう。女たちはいわば現行犯だ。この場においての犯罪者は、彼女たちに他ならない。
「乱暴にしないでちょうだい」
 女は流暢なカイミーア語を口にした。それから声を小さくして、ブルーアス語でつぶやく。
「やってくれたわね、お嬢ちゃん」
 エスメリアの存在をさらすつもりはないようだった。それ以上はエスメリアの方を見ることもなく、レッドウォーカーの促すままに歩き出す。連行されているとは思えないような堂々とした足取りで、踵を鳴らしながら。対照的に、ひどく情けない様子で、ブルーアス語でエスメリアに対する悪態や毒を吐きながら、男たちが続く。どうやら彼らはカイミーア語を操れないようだ。また、レッドウォーカーがブルーアス語を理解している様子もない。
 彼らの気配が完全になくなるまで、エスメリアはじっと待った。これほどうまくいくとは思っていなかったが、やり過ごすことができたようだ。安堵の息を吐く。
 予定通り自分が捉えられることになっていたとしても、さして問題はなかった。ただ、こうして自由を与えられたほうが都合が良いのは間違いない。
 事情が変わったのだ。それは、予想通りではあったが。
 エスメリアは立ち上がった。残った一つのランタンが、力なくではあるが、壁を照らしていた。
 そこに描かれた、流麗な文字を見る。「神の文字」、ネストキィレター。
 エスメリアは手を伸ばし、そっと文字に触れた。形を確かめるように、一文字一文字を、撫でていく。それは文字というよりも芸術だった。一つの文字が一つの形を成し、そして一つの意味しか持たない。それを理解したとしても、ただ上から順に読めば良いというような単純なものではない。まず指標となる文字を探し、それを始まりとして次の指標へ、また次の指標へと、一つ一つ文字を追っていかなければならない。
 その膨大な情報量が、エスメリアの脳内にたたき込まれていた。
「遅くなってしまって、ごめんなさい」
 数歩、うしろに下がる。
 息を吸い込んで、赤い文字を見据える。
 歌うように、ネストキィレターを読み上げた。