第一章 文字信仰 3
これはどういう茶番なのだろう──エスメリアは腕を組み、考えた。 考えたところでわかるはずもなかったが、しかしだからといって思考を怠る理由もない。 目に映るのは、淡い乳白色のカーペットと、白木のベッド。窓がないことが不自然といえば不自然だが、それ以外は高級宿の一室に引けをとらない。サイドテーブルには水差しとグラスまで置かれ、まるでどこかの豪邸にでも招かれているかのようだ。 「……罠?」 だとしても、不可解だ。自分は、犯罪者として連行されてきたのではなかったか。 ここに至るまでの扱いは散々なものだった。手を縛られ、耳に綿を入れられ、目隠しをされ、むりやり縄を引かれた。どうやら目的地らしい場所に押し込まれたときには、牢に入れられたのだろうと思ったものだ。 ところが、縛めを解かれてみれば、この待遇。レッドウォーカーはなにもいわずさっさと部屋を出て行ってしまった。 どうせ開かないだろうと思いつつ、ドアノブに手をかける。やはり、びくともしない。 ということは、部屋の程度はどうあれ、捕らえられたという事実は変わらないらしい。 「当たりくじだったかしら」 足掻くのは諦めて、ベッドに身を投げ出す。こんな良い環境で夜を過ごせるというのなら、あの少女を庇ったのはかえってもうしわけなかったかもしれない。 真っ白なシーツに身をうずめ、枕を抱えた。 うっかり眠ってしまいそうだ。なんという心地よさ。この心休まる空気はどういうことだろうと考えて、すぐに気づいた。いつもならいる生き物が、いない。 「静寂って、素晴らしいわ」 うまい具合に撒けたらしい。 ここから逃げ出すことは、不可能ではないだろう。だが、それではわざわざ犯罪者として名乗り出た意味がなくなってしまう。なにか情報が得られるのならば、その機会は逃すべきではない。 とはいえ、いま眠ることについては問題ないだろう。むしろそうするべきだといえる。身体を包んでいるのは極上のベッドだ。ここで睡眠をとらないのはベッド職人に失礼というものだ。 となれば、本格的に寝ようと、エスメリアは身体を起こした。黒いジャケットを脱ぎ、ブーツを脱ぐ。 「よし」 完璧だ。横向きに毛布とマットの間に入り込み、膝を折る。 まさに意識を手放そうとした、そのときだった。 ドアが、ノックされた。急ぐことのない、落ち着いたリズムで、二回。 エスメリアは眉間にしわを寄せる。なんというタイミング。そもそも強引に人を部屋に押し込んでおきながら、ノックをするという神経がわからない。 「寝るところよ。明日にして」 居留守を決め込むのも意味がないので、そう声を投げる。ドアの向こうで、来客は逡巡したようだった。 「それほど時間はかかりません。ただ少し、お話しがしたいのですが」 やがて、丁寧な言葉が返ってくる。 よく通る、中性的な声──というよりも、幼い声だ。音そのものには甘えた色さえあるのに、ゆったりとした口調には気品が感じられる。 「いいわ」 仕方がないので身体を起こし、脱いだばかりのブーツに足を入れる。扉の向こうから明らかにほっとした空気が伝わってきて、エスメリアは呆れた。ここに連れてこられるまでに、賓客と入れ替わりでもしたのだろうか。自分もおよそ犯罪者らしくないが、相手の対応もまったく似つかわしくない。 「では、失礼します」 ドアが開き、少年が姿を現した。廊下は薄暗く、小さな身体が彼の手にしたランタンに浮かび上がって見える。 彼はドアを閉めると、マントの端をつまみ、優雅に一礼した。 「はじめまして、お嬢さん」 エスメリアは、かすかに眉を上げた。 少年の顔はひどく端正で、それは単に美しいというよりも、手入れが行き届いていると感じさせるものだった。丁寧に梳かれた金の髪に、みずみずしい白い肌。マントの下に見える衣類も上等なもので、立ち姿には気品が漂っている。年齢はまだ十ほどに思われたが、エスメリアをお嬢さん呼ばわりしても、まるで違和感がない。 しかし、エスメリアが驚いたのは、そこではなかった。 「はじめまして、ぼく」 少年に倣って、そう返す。ここカイミーアでの言語ではなく、海を渡った先の大陸で広く使われている、ブルーアス語だ。 「良かった、通じましたか。でもあまり、得意ではないのです。カイミーア語に戻しても?」 「問題ないわ」 はにかむようにして、少年が笑う。ブルーアス語が通じたことを、純粋に喜んでいるようだ。 エスメリアは、少年の姿を眺めた。仮にも犯罪者としてここいるはずだが、少年はまるで無防備だ。こちらを見つめる瞳にも警戒の色はない。緊張はしているようだが、それだけだ。 「この国で外の言葉を学ぶ機会があるとも思えないけれど。君、なんなの?」 どうしても疑問が前に出て、エスメリアはずばり聞いた。少年は複雑な顔をして、首を振る。 「そうなんです……この国にいては、なにも学べない」 「なんなの、って聞いてるんだけど」 「僕ですか? ええ、もちろん、不都合がなければ、自己紹介させていただきたいです」 不都合。エスメリアは眉間にしわを寄せた。どんな不都合が付随してくるというのだろう。 「わたしをこんな素敵なお部屋に通してくれたのは、君なんでしょう? なら、不都合どころか、ぜひ聞きたいわね」 少年はうなずくと、微笑んだ。ランタンをサイドボードに置き、マントを脱ぐ。 出てきた姿に、エスメリアは思わず頭の中で計算した。総額いくらになるだろう。シャツには上品さを損なわない程度に、かつふんだんにレースがあしらわれ、ブルーのズボンには宝石のようなボタンが散りばめられている。金の髪一本一本の値段まで考え出したら丸一日かかりそうだ。 こうして対峙していると、知らず頭を垂れてしまいそうなほどに、高級感にあふれていた。加えて、人を疑うことを知らなそうな、純真そのものの目。 不都合、という言葉が、脳裏をよぎった。もしかしたら本当に、聞いてはいけないのかもしれない。 「僕は、カイミーア・ルーガルド。カイミーア王国第一王子です」 しかし、遅かった。 少年は堂々とそう名乗り、おそらくはこの国の正式な形で、礼をしてみせた。 エスメリアは黙る。 色々な可能性を考える。 カイミーアの王子の名前ぐらいなら、エスメリアも知っていた。ちょうど目の前の少年ぐらいの年齢だということも。 本物なのかもしれない。 もちろん、偽物である可能性も高い。 「……反応に困るわ」 正直な気持ちを告げる。 本物であるにしろ偽物であるにしろ、そう名乗られてどうしろというのか。跪けばいいのだろうか。 「困らせてしまい、もうしわけありません。もちろん、困らせたいわけではないのです。ルーガルドが呼びにくければ、ルーと呼んでいただければ」 「そうね、そうさせてもらおうかしら」 かすかに頭痛を覚える。この悪気のなさは、ずっとつきまとっているあの生物を彷彿とさせる。まるで呪いだ。 「わたしはエスメリア。あなたはあまり問題にしていないみたいだけど、本を持ち込んだっていうのは手違いよ。ただの旅行者」 「旅行、ですか」 ルーガルドがつぶやく。深い意味はなく、ただ口にしてしまった、といった様子だ。不思議ではあったのかもしれないが、エスメリアとしてもあれこれ語るつもりはない。 カイミーアはあまり良くない意味で他国に名を馳せている。文字信仰、それに伴う文字狩り。入国には厳しい審査があり、基本的には物を持ち込むことは不可能だ。場合によっては着替えすら強要されることがある。無事に国に入っても、他国の人間だと知られれば露骨にいやな顔をされ、食事に困ることも少なくない。故に、旅行に訪れるものなど非常に希だ。 「あなたが本当に本を持ち込んだかどうか、それはあまり関係ありません。ただ……人の文字を操るというのは、間違いないですね?」 エスメリアは思わず笑んだ。 「文字は文字よ。人の、なんてわざわざつけなくても」 ルーガルドは答えなかったが、かすかに目が揺らぐ。エスメリアの胸に、意地の悪い思いが顔を出した。 「ねえ王子さま。この国にある文字はすべて神の与えたもうたものだって、本当?」 「本当です」 一切の迷いがなかった。ルーガルドは、あえてそうしているかのように、力強くエスメリアを見つめた。 「だからこそ、この国は、守られているのです」 「……ああそう。悪かったわ」 肩をすくめる。つまらない返答だった。少しからかってやろうと思ったのだが、これではあまりにもばかばかしい。 「それで、そんなお偉いさまがわたしになんの用?」 「お願いがあります」 ルーガルドは、膝をついた。 考える間のない、あまりにも潔い行動に、エスメリアは虚をつかれる。頼みたいことがあるのだとしても、いきなり膝をつくなどと。 「ちょ……ちょっと」 「この国の未来に関わる、重要なことです。どうしてもあなたに、願いを聞いてもらいたいのです」 深く、頭を下げる。その額が床につきそうになって、エスメリアは慌てて腰を浮かした。右手を突き出し、ルーガルドの頭をキャッチする。 「ストップ。君が王子ならなおさら……まあそうじゃなくても、そんな簡単に頭を下げるもんじゃないわ。駆け引きぐらい覚えなさい」 「あなたは……」 ルーガルドは目をまたたかせた。 「お優しいのですね。外見だけでなく、心まで美しい」 「──!」 エスメリアは声にならない悲鳴を上げた。頭を抱え、身をのけぞらせる。 「鳥肌! お見せできないのが残念なぐらいの鳥肌よ! この国の子ども、どうなってるの?」 黒い衣類に包まれた腕を突きつける。当然、その下がどうなっているかなど伝わるはずもなかったが、ルーガルドはひどく痛そうな顔をすると、眉を下げた。 「そ、そんなつもりは……どうすれば、治すことが?」 「そうね。黙って」 ルーガルトはいわれるままに、口を閉ざす。おそらくは、エスメリアが許可を出すまで声を出さないのだろう。膝をついたままで、待っている。 エスメリアは腕を組んだ。本当は考えるまでもなかったが、それでも考える。どうするべきなのか。もしルーガルドの願いを叶える気がないのならば、おそらくはその内容も聞かないほうが良い。 ここから逃げ出すのは、簡単だろう。この少年に策があるとは思えない。彼を利用して逃げる方法など、きっと幾通りもある。 だが、やはり、そんなことはできそうになかった。エスメリアは髪をかき上げると、ため息をつく。 「わたし、悪人なの。この国の未来とかどうでもいいし、あなたのお願いを叶える義理もない」 ルーガルドはやはり口を開かない。ただその真っ直ぐな瞳は、まだ諦めてはいなかった。エスメリアを見つめている。 エスメリアの嫌いな目だ。きっと彼は、なにも知らない。興味や探求心、国を守りたいと思う心、そして純粋であるということが、綺麗で美しいものだと、心から信じている。 「どんな形であれ、この国のルールを犯した。それが一つ。素敵なベッドを提供してくれた。これが二つ。おいしい食事を用意してくれるっていうなら、それで三つ。それぐらいかしら」 ルーガルドの眉がかすかに動く。理解はしていないらしく、表情に動揺の色が広がった。 「ビジネスよ」 エスメリアは、いまだ床につかれたままのルーガルドの手をつかんだ。引き上げて立たせると、向かい合い、握りしめる。 「聞くわ、あなたの願いごと」 「……エスメリアさん! あっ」 瞳を輝かせてすぐに、ルーガルドは口を押さえた。エスメリアは不機嫌そのものの顔を隠さず、彼の頭に手を乗せる。 「いいわよ、しゃべって。わたしの気が変わらないように、努力してね」 「はい、もちろん! ああ、あなたで、本当に良かった」 その結論はまだ早すぎるだろうとエスメリアは思ったが、口にはしない。口にしたところで、こういった手合いは、そんなことはないと逆に説得にかかるに違いない。 「では」 ルーガルドは、服の裾を伸ばした。咳払いをして、深呼吸をする。 その手がかすかに震えていることに、エスメリアは気づいた。緊張が空気を伝って肌を撫で、思わず僅かに身を引く。まるで愛の告白でもされるようだと場違いなことが頭をよぎる。 「お願いです」 この期に及んで、ルーガルドは息を切る。続きは一度に、しかし勢いをあえて殺すような声で、告げた。 「あなたに、赤い魔女になっていただきたいのです」 エスメリアはほんの一瞬、息を止めた。 驚きととまどいが、すいぶん遅れてやってくる。 混乱する頭の片隅で、しかし冷静に、彼の願いを聞いたのは正解だったと、確信していた。 |