第一章 文字信仰 2







 スノウにとってはそれがあたりまえのことであり、存在意義に等しいといっても過言ではない。
 エスメリアに付き従うということ。
 常に彼女の役に立つように動き、彼女に利益をもたらすということ。
 たとえ冷ややかにあしらわれようとも、スノウはエスメリアのために動くことこそが至上の喜びであり、存在の証であった。
 それが、この仕打ち。
「なんという……!」
 短い前足で頭を抱えるようにして──実際には届かなかったが──スノウはうちひしがれていた。カウンターに虚しく残ったミルク皿に、情けない姿が映っている。尖った耳もいまはだらりと垂れ、ともすればそのまま溶けてしまいそうだ。覇気というものがまるでない。
 エスメリアは確かに、「じゃあね」と別れの言葉を口にした。ということは、彼女にはこうなることがわかっていたということだ。犯罪者として身柄を拘束され、おそらくはこの町の外──どこか重要な場所に、連れて行かれるのだろうと。
「エスメリア、私を巻き込むまいと……」
 目頭を押さえた。エスメリアの心遣いはいつも自分の予想を上回る。どんなときでも共にいたいと思いは伝えているのに、彼女はスノウを思うあまり、こうして巧みに距離を置こうとするのだ。
 彼女は頭がいい。別れを告げられ、その後スノウが彼女の姿を見失った以上は、もうこの町にはいないだろう。そのあたりの周到さは尋常ではない。
「それでも私は、あなたを助けに行きます……!」
 スノウは右前足を握りしめた。姫を助け出すナイトになったのだと思えば、乗り越えられる試練だという気がしてきた。
 その前にミルクだけはすべていただいておこうと、顔を下げる。
「おい、だいじょうぶか。だいじょうぶじゃないよなあ」
 不意に、頭にぬくもりが降りた。マスターの大きなてのひらが、スノウの頭を撫でていた。見上げると、マスターの眉はスノウの耳と同じぐらいに垂れ下がっている。彼も彼なりに参っているのだろうということは充分に理解できたが、それでも同情のような気持ちが湧くわけもなく、スノウは毛並みを逆立てた。
 この男の邪魔がなければ、どこまでもエスメリアについていくつもりだったのだ。たとえ、じゃあね、と別れの言葉を告げられていても。少なくとも、カウンターの下で動けずに終わるような事態は避けられたはずだ。
「警戒しないでくれ。敵じゃあない。だがまあ……似たようなもんか。ずいぶん懐いているようだったもんな」
 過去形にするな、といってやりたい。今現在進行形で全力で懐いている。
「にああ」
 しかし、実際にいってやるわけにはいかないので鳴き声に怒気を込めることにした。マスターが寂しげに笑う。
「なんだそりゃあ。尖獣らしくない鳴き声だな」
「にあ……おん、むう」
 実際のところ、スノウは尖獣の鳴き声というものを知らない。いつも適当にごまかしているが、指摘されたこともない。
 マスターはもう一度スノウの頭を撫で、深くため息をついた。騒動のあと、店はすぐに閉められ、いまは客もいない。ニナは教会の人間によって連れて行かれた。三日間、教会の懲罰室に入れられるのだろう。
「悪かったな」
 ため息に乗せるように、マスターがつぶやいた。
「あんたのご主人様は、うちの娘を庇ってくれたんだろう。ニナがあんなもん持ってるなんて知らなかったが……あの嬢ちゃんじゃあない。そんなことはわかる。ありゃあきっと、以前来た町渡りのだな。ありゃ胡散臭かったんだ」
 スノウに話しかけているというよりは、独り言のようだった。スノウは毛並みを落ち着かせると、おとなしく座り込む。率直に謝罪の言葉を述べられたことで、話を聞いてやらないでもない、というぐらいの気持ちにはなっていた。
「あんたらは、もしかして外から来たのか? そうは見えなかったが……あの本のこともなんたらっていってたみたいだし、そうなのかもなあ。人は見かけによらんな。文字を操るなんてのは、人間ふぜいがやっていいことじゃあない」
「お言葉ですが」
 ほとんど条件反射で、スノウは口を開いた。
「エスメリアの機転がなければ、あなたの娘が連れて行かれていたことでしょう。いうなれば恩人です。それを、まるで犯罪者のようにいうのは、納得できません。撤回していただきたい」
 熱い気持ちを込めて、いった。胸を張り、マスターの瞳を真っ直ぐに見つめて。
 その目が、丸くなった。口がわなわなと動く。
「あ、あんた……」
「ああ……ええと、失礼」
 スノウは己のしでかした失態に気づき、慌てて咳払いをした。エスメリアには普段なんといわれているだろう──思い出すまでもない。尖獣としておとなしくしていること。そうでなければ一緒にいることはできないと、散々いわれているのだ。
 もしも第三者に知られてしまったことがエスメリアの耳に入ったらと、考えるだけでも恐ろしい。
「私はいまあなた方の言葉をしゃべりましたが、それはなんというか……冗談、そう、冗談です。どうかご理解いただきたい」
「あんた、なんなんだ!」
 マスターが震えている。驚愕と怯えとが入り交じった表情だ。スノウはたっぷり三呼吸分思案して、その末に、もう一度口を開いた。
「に、にああ」
 渾身の鳴き声を披露する。前足で目をこすり、いかにも小動物らしい仕草で寝そべって見せた。
「信じられん……じゃあお嬢ちゃんと会話しているように見えたのは、気のせいじゃあなかったのか」
「……気のせいということに、していただくというのは」
「無理だろう、そりゃあ。いや、誰にもいわんよ、もちろん」
 その言葉に、胸をなで下ろす。そうでなくとも、エスメリアが再びこの店に現れる可能性は低いように思われた。おそらく問題ないだろう。
「では」
 スノウは顎を引き、背筋を伸ばした。右前足を器用に胸にあて、一礼してみせる。
「お心遣いに感謝します。私はスノウ。スノウとはエスメリアのつけてくださった、大切な名です。従って、スーやスーちゃんなどと縮めて呼ぶのではなく、どうか正しくスノウとお呼びいただきたい」
「あ、ああ。わかった」
 マスターは形容しがたい複雑な顔をした。スノウが胸を張った体勢のままで待っていると、慌てたように「スノウ」と付け加える。そこでやっとスノウは、誇らしくうなずいた。
「なんでしょう?」
 マスターが眉根を寄せる。それから、いいにくそうに口を開いた。
「それで、あんたは……いや、スノウは、どうしてしゃべれるんだ? 尖獣ならオレも何度か見たことがあるし、町渡りをやってるときには相棒にしたもんだが、言葉を話す尖獣なんてのは聞いたことがない」
 スノウは深くうなずいた。それはそうだろう、と納得を表情に出し、鼻から息を吐き出す。
「私の本当の姿は、絶世の美青年なのです」
 得意げにそういうと、マスターはさらに唇を曲げた。
「美、青年」
「いまはある事情で、尖獣になっていますが。元の姿に戻るには、エスメリアに口づけしていただかなければなりません」
「ほお。それは、また、ロマンだなあ」
 思わずといった調子で、マスターが感嘆の声をあげる。天井をあおいだその目が、輝きを帯びた。
「小さいころにばあちゃんから聞いた、物語みたいだ。呪いを解くのは、愛のキスってやつだなあ」
「そうなのです。おわかりいただけますか。これは私とエスメリアとの約束です。彼女が望まない限りはこの姿でいると、決まっているのです。一つの絆の形だといえば、良いでしょうか」
 スノウはさらに得意げに胸を張った。尖獣の姿になって長い年月を過ごしたが、こうして自分で正体を明かし、ここまで好意的に受け入れてもらったのは初めてのことだ。
 物思いに耽っていたマスターは、不意に視線を落とした。スノウの尖った耳を今度は撫でようとはせず、距離をとってしげしげと眺める。
「それじゃあ、困るんじゃないのか。嬢ちゃんと離ればなれじゃあ、人間に戻れないんだろう? すまん、ニナを庇ってもらったばっかりに……」
 最後の言葉は、苦しげに聞こえた。下唇を噛むようにして、うつむく。
「まったく、どうしてあんなもんを隠していたんだか……三日といわず、七日は教会で反省させた方が、ニナのためだ。今年で十歳になるってのに、いつまでも子どもじゃあな。もっと分別ってもんが、わかってないといかん」
「分別ですか」
 マスターの言葉に、スノウはいささか不快な気持ちになる。しかし、それがこの国なのだとエスメリアがいっていたし、彼自身も理解していた。
 だからこそ、感想は飲み込む。その代わり、質問を口にした。
「不思議なのですが。どうしてニナは、本を持っていたのですか? 町渡りからもらったのだといっていましたが、この国ではそう簡単に手に入るものではないでしょう。海の向こうからやって来た旅人のものだとしても、港ではひどく厳重な管理が行われていると聞きます。本を所持したまま町を渡るなど、できることなのですか?」
「知らんよ、そんなこと。こっちが聞きたいぐらいだ」
 マスターはため息を吐き出した。憤っているというよりも、疲れ切っているようだ。髭を撫で、肩を落とす。
「ただ、まあ……なんていうかな。文字ってのは神聖で、憧れだ。目の前にしちまったら、手元に置いておきたくなる気持ちっていうのは、わからんでもない。町渡りをしていたころに、書物ってのを何度か見たことがある。ダメといわれれば手に入れたくなる人種ってのは、いるもんだ。赤い魔女の噂があるから、いまは特別に管理が厳しいけどな」
 つまり、手に入れるのが不可能というわけではない、ということだろう。もしそうであれば、国による管理も必要ないはずだ。
 スノウは唸った。どうしてニナが本を持っていたのか、あるいはどうしてそれが手に入るような状況であったのか。また、レッドウォーカーの行動は、赤い魔女の噂に基づくものなのか、それとも彼らには確固たる狙いや根拠があるのか──考えるべきことは山積みのように思われたが、元来彼は頭を使うことには向いていない。頭を使おうとすると、目眩がするのだ。そういうことは、エスメリアに任せることにしている。
 ならばやはり、彼のとるべき行動は、決まっていた。
「おそらくは、ご存じないと思いますが」
 前置きをしたうえで、鼻先をマスターに近づける。
「エスメリアは、どこに連れて行かれたのでしょう? 経験上、もうこの町にはいないと思うのですが」
「経験上?」
 問い返しつつ、マスターは髭を撫でた。窓の外へ視線を投げる。
 空は暗い。管理の人間がやってきたころにはまだ夕暮れだったが、いつの間にか闇が町を包んでいる。
「オレも詳しくは知らん。ただ、知ってるか、上の連中は特別な道を使うんだ。町と町の距離を飛び越える、魔法の道だ。でかいことやらかしたやつは、捕まったらすぐに町から連れ出される。で、そのまま二度と戻って来ない。あんたの……スノウのいうとおり、嬢ちゃんはもう、この町にはいないだろうなあ」
「やはり、そうですか」
 スノウも、マスターの目を追った。本来ならば、決して建物から出ない時刻だ。だが、この国においては、心配は不要だった。
 スノウは首を伸ばし、身体を揺すった。小さく深呼吸をする。
「では、助けに行かなくては」
 それこそが、使命だと思われた。彼女もきっと、それを待っているはずだ。
「行くのかい? 場所もわからない上に、そのなりじゃあ厳しいだろう。手伝ってやりたいが、オレももう町を渡る気力は……」
「だいじょうぶです」
 スノウは耳をぴんと持ち上げた。余裕を持った笑みを見せ、マスターの手の甲に小さな前足を乗せる。
「ご心配には及びません。非常事態でなければまったく頼りたくない相手ではありますが、協力を要請する先に心当たりがあります。ちょうど、ここからすぐに行ける場所です。私は必ず、エスメリアを助け出してみせます。そもそも彼女は本など持ち込んでいないのですから、捕まる理由がない」
 マスターの顔が情けなく歪んだ。放っておけばまたニナのことで謝罪を繰り返されそうだったので、スノウは慌てて尾を左右に振る。
「エスメリアにはエスメリアの考えがあるのでしょう。これはあくまで良い意味でですが、彼女は非常に計算高く、打算的です。ただの感情で、あなたの娘を庇ったわけではないという自信があります」
「そ、そうか。本当にそれなら……いや、でも、感謝しているんだ、本当に」
 マスターの真剣な瞳に自らの小さな姿が映っていて、スノウは深くうなずいた。
「伝えます、必ず。あなたの感謝の気持ちを。あ……ええと、こうして会話したという事実は伏せつつ、それとなく」
 その姿がかすかに揺れる。マスターは笑みをこぼし、スノウの右前足をとった。そっと包み込むように、上下に振る。男と男の、握手だ。
「応援してるよ、スノウ。嬢ちゃんに、よろしくな」
「お任せを」
 スノウは決意を込めて、力強くうなずく。カウンターを蹴って飛び降りると、夜の町へ飛び出した。