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第一章 文字信仰 1







「赤い魔女が来ているらしい」
 その囁きは、第三者に聞かれないようにしてるのか、それともあえて聞かせようとしているのか、判断しがたいものだった。
 赤い魔女──カイミーア大陸に住まうものならば、誰もが聞いたことのある名だ。カイミーアを震撼させた大犯罪者であり、いまなお逃亡を続けている女。
 噂が噂を呼び、いまとなってはなにが本当なのかわからない。実は闇の組織の構成員だとか、姿を見たものは命を吸い取られるとか──亡霊の類だという噂もある。
「怖いわ。冗談でも、そんなこというのはやめてちょうだい」
 囁きに答えたのは、若い女だった。丸いテーブルには椅子が四つ並んでいるのに、わざわざ男の隣にすわっている。
 女が恐れを露わにしたことに気をよくしたのだろう、男はさらに声をひそめるように──あるいはよく通るように、低い声で続けた。
「冗談なんかじゃないさ。ここのところ、上の連中がうろついてるだろう。伝師に知り合いがいてね、ちょっと聞いたんだよ。確証はないが、その可能性が高いらしい」
「どうして、そんなことが」
「さあな。でも、伝師がいってんだからそうなんだろう。このあたりにいるらしいって話だけど……もしかしたら、この町にいるかもな」
 女性が息を飲む。恐怖に震えるようにして、男の腕にすがりついた。
「怖い」
 とたんに、男が誇らしげな顔になる。女の肩に腕を回し、だいじょうぶ俺が守るよと、歯を浮かせることなくいいきった。
 その続きを見るほどに暇を持て余しているわけでもなく、エスメリア・グリーニは視線を戻す。なんという茶番。
「あの女の人、本当に知らなかったのかしら。これだけ魔女の噂で持ちきりなのに」
 長い黒髪の毛先をいじりながら、つぶやいた。男に倣って聞こえよがしにいってやってもよかったのだが、別段喧嘩を売る理由もない。
「あの女性はおそらく、つまるところ、異性との恋の駆け引きに恐怖心を利用したのでしょう」
 エスメリアの足もとから一蹴りで肩に登り、白い生き物が鼻息荒く進言する。白、というよりも透明に近い毛並みのそれは、エスメリアの拳よりも大きく、頭よりは小さい。尖獣と呼ばれる生物だが、甘えるような鳴き声が聞こえるはずの場所から飛び出したのは、男性の声だ。
「やはり、この町も例の噂にあふれているようですね。何者かが故意に噂を流しているのでは。なにか狙いがあるに違いありません」
「狙いってなによ。もっともらしく適当なこといわないで、スノウ」
 エスメリアが呆れ、白い額を指で突く。しかしスノウは、かえって勢いづいた。
「可能性の話をしているのです、エスメリア。油断をしていて、あなたにもしものことがあったら、私はどうすればいいのですか」
「どうもしないでいいわ」
 あっさりといいきると、スノウは身を引いた。前足で器用に目頭を押さえ、頬を赤く染めて打ち震える。
「て、照れていらっしゃる……!」
「なにそのポジティブ。本当にイヤ」
 できるだけ感情を排除して、淡々と告げる。しかしスノウは、そうですね、となにがそうなのかまったくわからない返事をし、さらに小さく笑ってみせた。こちらの意図が伝わらないのはいつものことなので、エスメリアはそれ以上いわないことにする。
「そのなりは町渡りだね、珍しい。ミジェリア地方特産の、虹芋はいかがかな?」
 不意に、カウンターに皿が差し出された。虹芋が湯気を出し、隣にバターが添えられている。エスメリアが顔を上げると、カウンター越しに豊かな髭の男性が微笑んでいた。店のマスターなのだろう、看板と同じデザインのエプロンを身につけている。ナイフとフォークが仲良く寄り添っている絵柄だ。
「注文していないわ。お金もないし。サービスなら、いただくけど」
「お代はいらないよ。うちみたいな食事処は、町渡りが増えないと商売あがったりだからね。町を渡ったら、ぜひ宣伝しといてくれ」
「ビジネスね」
 エスメリアは素直に虹芋に手を伸ばす。甘みの強い、素朴だが深い味だ。
「一人で渡っているのかい? その……知ってるだろう、例の噂」
 髭をさすりながら、マスターはいいにくそうにそう切り出した。結局のところ情報が欲しかったのかとエスメリアは納得する。
「アウラードを通ってきたけど、話題の赤い魔女には会わなかったわね。ただ、あそこも同じような噂が流れてたわ。本当なの、赤い魔女って?」
「本当かどうかなんて、こっちが知りたいよ」
 マスターが肩をすくめる。エスメリアは応えるように苦笑して、グラスからミルクを皿に移した。肩から降り、カウンターでおとなしくすわっているスノウに差し出す。
 スノウは喉をならして、ミルクに口をつけた。
「綺麗な尖獣だ。よく懐いてる。さっき、まるで会話でもしているようにだったが……よほど仲がいいんだね」
「尖獣と? まさか。非常食用に連れ歩いてるの。お金がなくなったら売るのもいいわね」
 すかさず、スノウが首を上げた。大きな目が揺らいでいる。いまにも泣きそうだ。
「いや、相棒は必要だ。わかるよ。オレも昔、町渡りをしていたことがある」
「へえ。なにか、見つかった?」
 カイミーア大陸に生まれた人間は、ほとんどが生まれた町でその一生を終える。神の加護を受けている町を一歩でも出るのは危険だというのがその理由だ。
 それでも町を出るのは、町を行き来しなければ成り立たない行商人であったり、国の治安を維持することに尽力する人間であったり──とはいえ、それもほんの少数でしかない。町渡りと呼ばれるのは、そういった仕事とは関わりなく、ただ漠然とした「なにか」を探すために町を出る、いわゆる放浪者のことだ。 
 したがって、かつて町渡りだったという人間に出会うと、なにかを見つけたかと尋ねるのは、ひとつの挨拶になっていた。
「結局、ここの虹芋がなによりもうまいってね、最高の真理を見つけたよ」
 得意げにマスターがいい、エスメリアは小さく笑った。それは素敵な発見だと、口にしなくても伝わっているだろう。彼女の皿はとっくに空になっている。
「──さん、父さん!」
 不意に、苛立ちを含んだ甲高い声が割り込んできた。マスターがばつが悪そうに首をすくめる。エスメリアが振り返ると、白いエプロンをした少女が、両手に皿を抱えてこちらをにらみつけていた。
「注文! 聞こえないの? お客さんと話し込むのもいいけどさ、仕事はきっちりやってよね」
 憤然と歩を進め、カウンターの上に皿を積み上げる。すまない、とマスターは笑いながら謝った。少女が早口でまくし立てたメニューにうなずき、厨房へと姿を消す。
「どうやら、親子のようですね。顔の造形はあまり似ていませんが」
 スノウが肩の上に乗り、得意げに囁く。造形の情報はともかく、親子であるということはわざわざいわれるまでもない。父さんと呼ぶ少女とそう呼ばれた男の関係を、どうやって親子以外に推理しろというのか。とはいえ、うるさいと一言告げるのも億劫で、エスメリアは無視を決め込んだ。
「繁盛してるわね。虹芋がとてもおいしかったから、もう一品なにかいただきたいんだけど。オススメはなにかしら?」
 カウンターにもたれかかるようにして足を組み、少女に話しかける。少女は柔らかそうな赤毛をあわただしく揺らしながらテーブルを拭いてまわり、最後にエスメリアの前に現れた。
「町渡りに出すもんなんてあるもんかよ。さっさと教会に行きな。あんたが赤い魔女だったら、この町はおしまいだね」
「あら。わたしよりあなたのほうがらしいじゃない? 綺麗な赤い髪ね」
 わざと、からかいを含んだいいかたをする。少女は頬を紅潮させた。
 エスメリアの髪は漆黒で、腰のあたりまでまっすぐに伸びている。衣類も黒を基調としたもので、彼女を一目見た印象を色で表すのなら、間違いなく黒になるだろう。
 自らの赤毛を気にしているのか、少女は熱を持った顔を隠すように横を向き、鋭く舌打ちした。
「町渡りってのは、自分のセキニンを全部投げ出したやつらのことだろう。そんなやつになにいわれたってどうってことないね。うそつきゴロツキ町渡り」
「き、貴様──!」
 スノウが毛を逆立てる。エスメリアは白い毛並みをてのひらで押さえ込み、肩を震わせた。堪えようとしたのだが、笑いがこぼれてしまう。
「ば、ばかにすんのか!」
「かわいいなと思っただけよ」
 素直に答えると、ますます顔を赤くする。肩を怒らせて息を吸い込み、しかしいい切り返しが浮かばなかったのか、少女は唇を噛んできびすを返した。水差しを乱暴につかみ、カウンターの奥に姿を消す。
「いったいなにがおもしろいのですか、エスメリア」
 スノウがそっと問いかけてくる。エスメリアは笑みを返し、スノウの耳元に少しだけ口を寄せた。
「かわいいじゃない? あなた、なにも思わなかった?」
「私は憤りを感じました。まったく、しつけがなっていません。──は、まさかエスメリア、あの少女に、性別と年齢を超えた想いを?」
「あー、そうよ、そう」
 ばかばかしくなり、エスメリアは適当に返す。それでも真に受けるのがスノウだ。彼は白い毛を青く変色させかねないほどに、血の気を失った。
「なんという……!」
 彼のなかで、どのような想像が繰り広げられているのか、考えたくもない。エスメリアはため息をついた。
 カウンターから出て再び接客を始めた少女は、せわしなく動きながらも、ちらちらとこちらを気にしているのがわかる。彼女自身は気づかれていないつもりなのだろうか。また笑ってしまいそうだったので、エスメリアは口元に手をあてた。わざわざ喧嘩を売るつもりはない。
「お嬢さん、教会には、もう?」
 結局注文しなかったにも関わらず、エスメリアの前に虹芋のスープが差し出された。マスターが他の料理も配り終え、カウンターに戻ってくる。
「行ってないわ。あんまり好きじゃないの、教会って。ここ、部屋は貸していないの?」
 町と町を行き来する人間は少なく、町の規模にもよるが、宿貸しは商売として成り立たないことが多い。宿のない町では、教会が旅人の寝泊まりする場所となる。
 エスメリアが尋ねると、マスターは顔をほころばせた。ちらりと娘を見て、声をひそめる。
「それなら話が早い。よかったら、うちに泊まっていってくれないかな。宿はやっていないんだが、部屋は余ってるんだ」
 エスメリアも、少女を見た。先ほどよりもいっそうこちらを気にかけているようだが、聞き耳をたてる余裕はないらしい。
「あの子が、それでもいいなら」
 直に聞けば否と答えられるだろう。見上げると、マスターはもうしわけなさそうに苦笑していた。
「ニナが──うちの娘が、失礼なことをいったがね。あれは本当は、町渡りに憧れてるんだ。難しい年頃だよ。以前は、町渡りが来れば片時も離れないほどだったんだが。まあ、意地を張っているが、あんたが泊まってくれたら喜ぶだろう。ほかの町の話でもしてやってくれないか。もちろん、金を取ろうってんじゃない」
 エスメリアは笑った。テーブルの上で、スノウが驚いたように目を剥いている。悪態は、憧れの裏返しだということぐらいわかっていた。わかりやすいぐらいだ。
「ビジネス、ってことね」
 果たして自分がなにかを語ったところで彼女は聞く耳をもってくれるのだろうか──漠然とそんなことを考えたが、寝床を教会に借りに行くよりはよほど話が早い。エスメリアはほとんど即決で、承諾する。
 ニナを見ると、ちょうど目が合ってしまった。彼女はあからさまに顔を赤くし、そっぽを向いてしまう。
「エスメリア、私は反対です」
 耳元に口を寄せ、スノウが小声で吠える。エスメリアはまったく取り合わず、周囲を見渡した。そういうことなら、ここでもっとゆっくりと食事をとりたい。というよりも、酒を飲みたい。幸い、酒の運ばれているテーブルもあるようだ。正しく酒を扱う、健全な店らしい。
 だが、酒を頼む余裕はなかった。激しい音をたてて店の戸が開けられ、その直後、心地よい喧噪に満ちていた店内は、水を打ったように静まりかえった。
「失礼。続けてもらってかまわない」
 店に入ってきたのは、赤色の衣類に身を包んだ三人の男性だった。先頭の一人だけ、白い帽子をかぶっている。スノウが息を飲むのがわかり、エスメリアはそっと彼の頭に手を置いた。
「レッドウォーカーね。文字狩りだわ」
「お嬢さん」
 マスターが鋭く叱咤する。エスメリアは肩をすくめた。
「違ったかしら。ええと? カイミーアの平和を守る会?」
 今度はわざと間違える。スノウが頭を抱える挙動をし、マスターは口を大きく開けた。声を出そうにも出せない、といった様子だ。幸いというべきか、連中はこちらには気づかなかったようで、三人で何事かを囁き合い、白い帽子の一人が真っ直ぐに歩いてくる。
 帽子の男は、エスメリアには一瞥もくれず、一目でそうとわかるマスターには一瞬だけ視線を合わせた。それから両手を胸の前で組み、仁王立ちする。
「では、管理を行う。おかしなまねをしないように」
 低く通る声で、告げる。二人の男が同時に動いた。
 テーブルにつく客一人一人を、問答無用で立たせる。入念にボディチェックをし、鞄の中身も物色した。続けてもらってかまわない、といったわりには、呑気に食事を続けられるような状況ではない。客たちはテーブルに並んだ料理に手を伸ばすこともできず、かといってもちろん店を出るわけにもいかずに、固唾を呑んで順番を待った。
「もう少し、時間をずらしてもらうわけにはいかないんですか。こんな夕メシ時に……」
 マスターがいいにくそうに、帽子の男に告げる。男は鋭い目でマスターを見て、そのまま黙殺した。くだらない質問に答える必要はない、といわんばかりだ。
「エスメリア、だいじょうぶですか? 運がないですね、店にいるときに遭遇するとは」
 スノウがごくごく小さな声で囁く。エスメリアは彼の頭を撫でるふりをしながら、そっと答えた。
「わたしはだいじょうぶよ、もちろん。でも、顔色の悪いのがいるわね」
「わ、私はなにも」
「なに慌ててんのよ。あっちよ、あっち」
 頭を押さえ、ぐるりと奥へ向けさせる。いつの間に移動したのか、店の端で、ニナが顔を青くしていた。トレイを持つ手が震えている。
 エスメリアは少しだけ顔を上げ、帽子の男を見た。飾りでそこに立っているわけではないらしく、ニナの様子には気づいているようだ。じっと観察し、それから男を一人呼び寄せる。
 はじかれたように、ニナが動いた。床を蹴り、カウンターをくぐって奥へと走っていく。指示を受けたらしい赤服の男が一人、あとを追おうと走り出す。
 エスメリアはスノウの首根っこをつかんだ。そっとカウンターに置く。
「じゃあね」
 短く告げた。聞こえるか聞こえないかぐらいの、小さな声で。
「エスメリ──」
 ア、という呼びかけは、かき消された。
 エスメリアが黒いタイツに覆われた足をすっと伸ばし、走り出したばかりの男がみごとに足を引っかけたからだ。虚を突かれたのだろう、男は思いきり前につんのめり、なにかをつかもうと伸ばした手は空を切る。
 それだけなら踏みとどまれようというものだが、エスメリアはさらにもう片方の足を出すと、男の尻を蹴飛ばした。それほど大きな力を入れたわけではなかったが、バランスを失った男は、前のめりに倒れる。手を伸ばしていたことがあだとなり、結局、顔面から床に激突した。
 息を飲むような沈黙。
 帽子の男も、客の持ち物を調べていた男も、走り去った娘を気にかけるマスターも、ほかの客も例外なく、全員がエスメリアを見た。
「な、なにをする!」
 倒れた男がすぐに立ち上がる。しかし、帽子の男がそれを制した。エスメリアの肩をつかむ。それから、もう一人に目で合図した。荷物を物色していた男はすぐにうなずき、ニナが消えた店の奥へと早足で向かう。エスメリアも、今度は止めなかった。ただ目で追って、あーあ、とつぶやく。
「国の管理を妨害することは、重大な犯罪だ。わかっているな」
 帽子の男は高圧的な態度でそういい放った。エスメリアは男を見上げ、挑発するように笑顔を作る。
「存じております、もちろん。前時代的な文字狩りがまかり通っている腐ったお国ですから、いまのわたしの行為は死に値するとか、そういうことですよね?」
 ひぃ、とスノウが悲鳴を飲み込む。エスメリアは決してそちらを見なかった。察したのか、とっさにマスターがスノウをひっつかみ、カウンターのなかへ押し込んだ。
「貴様、ただの町渡りじゃないな。国外者ヨソモノか。このまま帰れると思うな。しかるべき場所で、罰を受けてもらう」
「わたしのもの返してくれるなら、ついていってもいいわ」
 エスメリアは、カウンターの向こう側、ニナが消えた方へと目をやった。ちょうど、ニナを片手で抱え上げた男が出てきたところだった。男はじたばたと暴れるニナを右肩に背負い、左手には厚手の本を一冊つかんでいる。
「あっさりバレちゃって。使えないガキ。金返しなさいよね」
 冷ややかにそう告げる。ニナはなんとか逃れようともがくばかりで、こちらに注意を向ける余裕はないようだ。
 帽子の男は、黙ってエスメリアを見据えた。体の中まで見ようとしているかのように、凝視する。エスメリアは眉根を寄せ、男をにらみ返した。なに見てるの、と口にはしないが目でいってやる。
 帽子の男は、視線をニナに移した。本を受け取り、表紙を掲げる。
「これをどこで手に入れた?」
 しかし、ニナは答えない。ニナを抱えている男が、空いた手で彼女の髪をつかむと、むりやり顔を上げさせた。帽子の男を見るように、顎を向けさせる。
 ニナが、唇を噛んだ。
「もらったんだよ、町渡りに。そんなもん読めるかよ。あたしは持ってただけだ」
「もうしわけありません!」
 ニナの前に出て、マスターが深く頭を下げた。
「娘は町渡りに憧れていて……本人のいっているとおり、もちろん文字など読めません。ま、まだ子どもです。ことの重大さがわかっていないんです」
「文字の記しているものを所持すること自体が重罪だ。おまえは、自分の娘がこれを持っていることを知っていたのか?」
「い、いえ……」
 マスターがエスメリアを見る。エスメリアの言動を鵜呑みにしているのか、またはそこになにか感じるものがあったのか。動揺を隠し切れていないところをみると、本人も判断しかねているのだろう。
 どちらにしろ、好都合だ。心の中で彼に拍手を送りつつ、エスメリアはしかめっ面を作って髪をうしろに払った。
「待って、違うでしょ。あげてないわよ。文字狩りが来るから隠しとけって、いっただけ。金まで受け取っといて、なに勝手に自分のものにしてんのよ」
 ニナが目を見開く。頼むから余計なことをいうなと心中で願いつつ、エスメリアはため息を吐き出した。
「その本ね、けっこう高かったの。国外にでもなんでも消えるから、返してくれないかしら」
 ごく何気ない挙動を装いながら、ちらりと本を盗み見る。この角度では、表紙は見ることができない。茶色の装丁、手から手へと渡る際、一瞬だけ見えた文字。厚みや年季の入り具合を考慮し、頭を素早く回転させる。
 この国の人間が、本の種別を理解できるとは思わなかった。とはいえ、レッドウォーカーは、書物と関わる機会も少なくないはずだ。文字が読めずとも、それが図柄の多いものであれば、ある程度の予想がつくだろう。
「貴様のものだと? その娘を庇っているということも、考えられるが」
 帽子の男が目を細める。エスメリアは笑ってみせた。
「そのトレジャーブック、よそじゃあけっこうな値で取引きされてるの。悪いけど、そんなガキどうでもいいわ」
 トレジャーブック。おそらく、間違いないだろう。トレジャーハンターが好んで持ち歩く書物だ。「お宝」の在処を記した書物で、その価値はそれぞれ異なる。
 帽子の男は黙って本を開き、すぐに閉じた。
「よく、わかった」
 そういって目配せをすると、男二人が素早く動いた。ひとりがエスメリアの腕を捻りあげ、もう一人が縄で縛り付ける。エスメリアは特に抵抗せず、されるがままに両手を挙げる。
 床に投げ出されたニナが、どうにか起き上がろうと体を捻ったが、帽子の男はそれを許さなかった。身をかがめると、てのひらで乱暴に頭を押さえ込む。
「教会で三日、反省しろ。だが、二度目はない」
 ニナは呻いた。返事とも反論ともつかない。声は床に吸収され、そのまま消えてしまう。
 帽子の男は、今度はエスメリアを睨んだ。冷ややかな声で宣告する。
「貴様は連行だ。三日程度ですむと思うな」
「まさか、本当に死罪とかいうんじゃないでしょうね」
「決めるのは我々ではない」
 エスメリアは肩をすくめる。しんと静まりかえった店内を見回し、ため息をついた。
「これが国のやることかしら。せっかくのディナータイムが、台無しね」
「これ以上無駄口を叩くな」
 男の一人が、縄を引く。帽子の男ともう一人は残って、引き続き「管理」を行うのだろう。
 エスメリアはいわれたとおり、それ以上口を開かなかった。おとなしく、男に従って店をあとにした。