Elixir
第四章 魔法使い 2 ロイスは言葉を失った。 敷き詰められた毛布に、たくさんの人間が横たわっている。老若男女、合わせて数十人。病に冒された、ガリエンの住人たちだ。 苦しんでいるのは間違いないだろうが、これだけの人数がいるというのに、呻き声のようなものは聞こえなかった。彼らは一様に、まるで死んだように眠っていた。よく見ると眠ってはおらず、ぼんやりと目を開けている者もいたが、動こうという気配はまったくない。 キルリアーナの案内でたどり着いたのは、警護団の詰め所だ。今朝、彼女がもう一度治療院を訪れた際、セリウスの行方を捜していた警護団の人間と遭遇し、この場所を聞いたらしい。 セリウスの姿を見るなり、背の高い男性が駆け寄ってきた。興奮した様子で何事かを話し、手にしていた木製の鞄を手渡す。キルリアーナに微笑みかけ、ロイスにも会釈した。聞いたことのない言葉の並びに、ロイスは面食らったが、とりあえずは挨拶だけを返し、キルリアーナに耳打ちする。 「……なんだ? どういうことだ? よくわからなかったのだが」 「海向こうの文化だな。この国とは違う言語だ」 「海向こう!」 ロイスは目を見張った。海に囲まれたこの国では、外との交流がない。いま住んでいる場所が、国という名を持っているという認識も、ほとんどないといっていい。海向こうというのは完全に未知の世界で、それこそ物語でしか聞いたことがなかった。 「海向こうの人間か……」 外見は自分たちを変わらないように思えた。口を開かなければ、まさか海向こうから来たなどと、だれも思わないに違いない。 「彼は、医師団のメンバーなのか?」 彼には彼の仕事があるのだろう、遠ざかっていくうしろ姿を見送りながら、ロイスはセリウスに問う。同じように異国の言語を操り、会話を交わしていたセリウスは、誇らしげにうなずいた。 「この国では、意識的に外との交流が排除されていますからね。もちろん、ランセスタの独裁体制のために。私はこの状況を打破するために海を渡り、異国の地で医療を学んだのです。東の端まで行けば、手段がないわけでもないので」 「ダリア・シティのあたりだろ。医療技術さえ持ち込まなければ、あそこじゃある程度の交易は黙認されてるからな」 とんでもないことをさらりといった弟と、ごく当然のように知識を披露するキルリアーナとを、ロイスは驚愕の面持ちで見つめた。なんということだろう。ランセスタを飛び出して数年、ロイスのしたことといえば、ほとんどキルリアーナの捜索だけだ。 「外の世界……」 考えたことがなかった。 考えることがないように、育てられてきたのかもしれない。あるいは、親の世代も、その親の世代も、思い描くことがあってもそれは空想の世界だけで、この地で生きていく以外の選択があるということなど、思いもしなかったのではないだろうか。 「この国が、この国だけで完結できるのは、いまだけでしょうね。海の向こうでは、あらゆる技術が進んでいる。ただ停滞しているこの国とは違います。遠くない将来、外から文化が一気に流れ込んでくるでしょう。そうなれば、ランセスタは崩壊します。だからといって、それを待っているわけにもいきませんが」 「おまえは……すごいやつだなあ」 ロイスは心から弟を尊敬した。昔から賢いとは思っていたが、これほどだったとは。 「どっちかっつーと、海向こうってのは気味悪がられてるからな。あんたみたいに、すごいやつだなあとかそういう感想は、レアだ」 キルリアーナの言葉に、ロイスは首をかしげる。ロイスにしてみれば、海向こうなどという世界はあまりにも遠すぎて、感想のあれこれ以前に、まず発想が及ばない。しかし、キルリアーナはそういうわけでもないようだ。 西へ西へ旅をしているといっていた。もしかすると、彼女の出自は東の方なのかもしれない。 「外の国で感銘を受け、医師団の結成を決意した私は、こうしてこの地へと戻り、活動をしているのです。といっても、メンバーはぜんぶで九人しかいません。大きな町で活動しようとすれば、すぐにランセスタに潰されます。だから、こういった町では、その対抗勢力に協力を仰ぐんですよ」 「それで、警護団か」 セリウスの説明に、ロイスは納得する。ガリエンでのランセスタと警護団の対立を考えれば、それがもっとも合理的だろう。 「ここ以外にも、近くの比較的大きな民家も何件かお借りしています。私たちがすべての家を回っていくというのは、非効率ですからね」 「治療院を襲撃したってのは、病の流行による混乱に乗じてってことか」 「襲撃?」 キルリアーナの問いに、セリウスが眉をひそめた。ロイスもよく覚えている。ガリエンに入る際、ランセスタの人間からそう説明を受けたのだ。 病の流行。そして、医師団による治療院の襲撃。治療しようにもできない状況だという話だったはずだ。 「いや、おかしいな……どういうことだ? こんな緊急事態に、だれが治療するとかそんないざこざは、些細なことだろう」 改めて、ロイスは詰め所を見回した。 立ち歩いている人間は少ないが、少なくともランセスタの法衣姿は見当たらない。代わりに、警護団の赤い制服がちらほらと動いている。 「襲撃なんてするわけがないでしょう。むしろ、手を取り合うために行ったのです。兄さんのいうとおり、緊急事態ですからね。ですが、もぬけの殻でした。それが、昨日のことです」 「ああ、やっぱりな」 不快そうにセリウスがいい、キルリアーナはうなずいた。ロイスは、キルリアーナの表情を見る。彼女はごく平然と、壁にもたれかかっている。 ここでの役割はもう終えているということなのだろうか。それとも、打つ手がないのだろうか。医師である彼女が、この場でなにもしていないというのは、いささか不自然ではあった。 「逃げたんだろ。いまじゃもう、治療院はほとんど名前だけだからな。流行病の規模にもよるが、この事態じゃ対処できるわけがねえ。かといって治せませんっていうわけにもいかないと」 「そういうことです。それでも、治療院長と院長補佐は、残っていました。私はとにかく、彼らと話をしようとして──」 ロイスは息を飲む。それはあの祈りの間でのできごとなのだろう。 倒れていたセリウスたち。長とその補佐は、すでに命を失っていた。銀の杯が見守るあの場所で、一体なにがあったというのだろう。 「──私が見たのは、一人の女性が、二人を殺すところでした。一瞬のことで、阻止することは出来なかった。彼女は、長が持っていた瓶を投げ捨てました。おそらくそこには、最後の薬品が入っていたのに」 「まさかそれが、サーラか?」 思わず大きな声を出してしまい、ロイスは慌てて口を押さえた。キルリアーナは不機嫌そうな顔で、ロイスを睨みつける。 しかし、セリウスがいっていたことを、キルリアーナも覚えているのだろう。彼は、パジェンズの人間が薬品を捨てたといっていたのだ。目を閉じて、反論はせず、続きを待つ。 セリウスは、うなずいた。 「そう名乗っていました。サーラ・パジェンズだと。彼女は、この町に優秀なパジェンズの医師が来るといっていました。そして実際に、パジェンズであるあなたが現れた」 「……ここでも」 サーラ・パジェンズ。ロイスは乾いた唇を咬み、小さく呻く。 ジリアルでの出来事との共通点が、多すぎる。 病と、サーラ、そしてそこに現れるキルリアーナ。 ここでもキルリアーナは、当然のように治療するのだろう。自らの体内で、薬品を生成して。 「あなたを敵視するには充分でしょう、キル。パジェンズの狙いは、いったいなんなのですか」 キルリアーナは、じっと動かず、目を閉じていた。 表情は変わらない。彼女にとってすべてだというサーラが、人を殺したのだといわれても、衝撃を受けた様子はない。 「……キル?」 ロイスは不安になり、そっと呼びかける。キルリアーナは、ため息をついた。 「わかった。オレには、それが本当にサーラだったのかも、あんたが本当のことをいってるのかも、わかんねえけどな。まあ、いいたいことは理解した」 キルリアーナは身体を起こし、セリウスに向き直った。 「その上で、あんたにいわなきゃならないことがある。医師団の連中に、色々聞いたよ。オレも新しく医師団に入るっつって適当に挨拶したら、そりゃもう自慢げに教えてくれた」 キルリアーナが、セリウスに向かって手を伸ばす。セリウスは、メンバーから受け取った木製の鞄を、差し出した。 「これを、用意するようにいったそうですね?」 「ああ」 キルリアーナは鞄を開ける。そこには、ぎっしりと小瓶が並んでいた。割れてしまわないよう、組まれた木枠に収まっている。 そのうちのひとつを取り出して、目の高さまで持ち上げた。 ロイスも横から見る。無色透明の液体だ。 「朝来たときに話を聞いて、取ってきてもらうようにいったんだ。これだろう、あんたたち医師団の、活動ってのは」 「あくまで、目的は平等な医療です。それは、病の流行を未然に防ぐための……」 突然、セリウスの表情が強ばった。 そのまま、動かなくなる。彼の白い頬を、冷や汗が伝っていく。 「……どうかしたのか?」 ただごとではない。ロイスが問うと、代わりに、キルリアーナが答えた。 「話には聞いたことがある。海向こうじゃ、あたりまえにやってるってな。病の感染を防ぐための、薬の事前投与だ。あんたたちは、良かれと思って、その技術を持ち込んだ」 ロイスは意味がわからず、彼女の言葉を口のなかで繰り返した。 薬の事前投与。事前というのだから、まだ病にかかっていない人間に、薬品を与えるということなのだろう。病気を予防するため、健康な人間に投与する薬。 なぜ、それが問題なのだろうか。それによって病にかかることがないというのならば、良いことのはずだ。 セリウスの顔は真っ青になっていた。その表情が、彼がなにかに気づいているということを物語っていたが、それでも首を大きく横に振る。 「そんなはずはありません。外の国では、常識です。副作用なんて、聞いたことがない。この国ではまだ確認されていませんが、海の向こうで猛威を振るった病の波が、いつ来るかわからないのです。そのときのために、こうして……」 「土地が違えば、病気も違うんだよ、坊ちゃん。あんたが安易に広めたこの薬が、おそらく、今回の流行病の原因だ」 「まさか……!」 しかし、セリウスは黙った。 彼は拳を握りしめていた。横たわる人々から目を逸らすようにして、自分のつま先を睨みつけている。 「一致するのか」 ロイスはひとことだけ、問う。 副作用という言葉で、さすがに理解した。 町の南側よりも、中心街での患者が多いのだという。 そして、警護団の詰め所は、まさにその中心街にある。 もしも、医師団による薬の事前投与が、南側でも同じように行われていたのだとすれば、キルリアーナの指摘は間違っているということになる。 祈るような気持ちで、ロイスはセリウスの言葉を待った。 しかし、おそらくはキルリアーナのいうとおりなのだろうと、わかっていた。 セリウスは震えていた。沈痛な面持ちで、静かに、うなずく。 「……こんな、つもりでは」 言葉は続かない。 「キル。どうにかできるんだろう。治療はなんとかなりそうだと、いっていたはずだな」 「死んだ人間までは、どうしようもできねえけどな」 「キル!」 ロイスは思わず声を荒らげた。あまりにも無神経だ。それともわざと、そんないい方をしたのだろうか。 キルリアーナは肩をすくめた。 「もともと、この国にない病気だ。副作用ともちょっと違うな。海向こうでは問題のない成分が、この土地のなにかと反応を起こして、新しい病を発症している可能性がある。未知の病だ。いままでオレが調合してきた薬をどう組み合わせても、治療薬にはならない」 「いえ、あなたならなんとかできるはずです……あなたには、力がある」 セリウスが顔を上げた。声を抑えようとしているようだったが、そこには悔しさが滲み出ていた。 汚らわしいといったのは、他ならぬセリウスだ。キルリアーナはいままでといういいかたをした。つまり、これから新しく調合することは、可能なのだろう。 「結局、それにすがるのか?」 キルリアーナが薄く笑う。反論できないのか、セリウスはキルリアーナを睨むようにして、唇を噛むだけだ。 「あんたが治療院に行ったのは、それが目的だろ。サーラが捨てたっていったが、そうじゃない。もうどこにも、残ってないんだ。治療院の連中は、あると思ってたかもしれねえけどな。ついでに、パジェンズの医師なら持ってるって思ってるみたいだが、間違いだ。オレはそれを手に入れるために、こうして旅をしてる」 ロイスには、話が見えなかった。それでも、彼女の口にした言葉から、推理する。 「サーラが捨てた……わけでは、ない──つまり、治療院の薬のことか? パジェンズの医師なら、持っているというのは……」 言葉にするが、情報の整理が追いつかない。 キルリアーナの旅の目的は、サーラに追いつくことではなかったか。 しかし、それを手に入れるためと、彼女は語った。 どういう意味なのだろう。 「魔法使いの物語ですよ、兄さん」 ごく小さな声で、セリウスがいった。 「昔、魔法使いがランセスタに与えた力──力というのは、薬そのもののことだったんです。ランセスタは、百年ものあいだ、それを大切に保管し、病気や怪我の治療に役立てた。それさえあれば、どんな病気や怪我も、治すことができる」 「だがランセスタは、その量を増やすために、少しずつ薄めて薄めて、とうとう、効力そのものをなくしちまった。もともとは、傷口すら綺麗に消す力があったのに」 ロイスは眉をひそめる。 「どんな病気や怪我も」 それはまさに、彼らが幼いころ乳母から聞かされた、物語だ。 昔、魔法使いがランセスタに医術と共に与えたもの──それは、特別な力ではなく、薬そのもの。 「いまは、存在しない。だが実在していた。そしてこれから、生み出される」 歌うように、キルリアーナはいう。 「奇跡の薬、エリクシル」 キルリアーナは、手にした小瓶のふたを開け、透明の液体を一気に飲み干した。セリウスにも、もちろんロイスにも、制止する隙間などない。 惜しむように最後の一滴を味わい、恍惚とした表情で、唇を舐める。 「オレは魔法使いじゃない。だが、もうすぐだ、きっと」 キルリアーナは、ロイスとセリウスを、順に見た。まるで試すように、静かに笑んだままで、同じ問いを口にする。 「結局、それにすがるのか?」 |
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