Elixir
第四章 魔法使い 1



 ロイスの弟は、妹になったわけではないらしい。
 問い詰めると、セリウスはごく真剣な表情で、まるでそれがあたりまえであるかのように、説明した。
「兄さんが家を出てから、大変だったんです。私は次期ランセスタ頭首となるべく期待され、様々な教育を受けました。ですが、ランセスタのあり方に疑問を持ち、ランセスタから離れたいと思うようになりました。そこで、考えたんです。私が女性でありたいと主張すれば、家の人間も諦めるのではと。良い思いつきだと思いませんか」
 輝きすら見える瞳で問われ、ロイスは返答に窮した。
 良いか悪いかといわれれば、良いといわざるを得ない。あまりにも突拍子もないことではあったが。
 たしかに、ただ家から逃げ出しただけでは、すぐに連れ戻されてしまうだろう。しかし、女性として生きる道に目覚めたとなれば、話は変わってくる。公の場に出ることの多い次期頭首がこれでは危険だという展開になりそうだ。体面を気にするあの両親なら、特に。
「よく、実際にやり遂げたな」
 ロイスは心から感心していた。
 三年ぶりに会った弟は、ずいぶんと様変わりしていたが、根の素直さはそのままのようだった。パジェンズの宿の二階、並んだベッドに横たわり、灯りを消すまではまだぎこちなかったが、朝を迎えてみればそれもすっかりなくなっていた。たった一晩で、同じ部屋で寝起きしていた幼いころに戻ったかのようだ。
「実は、一度逃げ出して、すぐに捕まったんです。そのときに、男なら役割をまっとうしろとか、おまえは昔から女々しいとか、そんなことをいわれてかっとなって……それならいっそ、女性になってやろうと。女性になりたいと宣言し、服も振る舞いもなにもかも、女性らしくあることを貫き通しました。その甲斐あって、次に逃げ出したときには、特に追われませんでしたよ。私という人間を諦めてくれたのでしょう」
 いいながらも、セリウスは長い髪を丁寧に梳き、慣れた手つきで結い上げていく。もともと華奢な体つきで、中性的な顔ではあったが、その姿はどこからどう見ても女性そのものだ。
「それならもう、男に戻ってもいいんじゃないのか」
「そうなんですが」
 脱いでおいた外套の皺を伸ばし、袖を通す。ロイスの身支度といえばこれで終わるのだが、セリウスはまだ時間がかかりそうだ。
「女性のふりもなかなか奥が深いんですよ、兄さん」
「……そうか」
 それ以上の言葉は浮かばなかったので、ロイスは深くうなずくにとどめておいた。結局のところ心は男性なのかすでに女性なのか、気になるのはその一点だったが、なかなか聞きづらい。そう単純な問題でもないのかもしれない。
 ロイスは、窓の外を眺めた。
 朝が訪れても、町は昨夜とほとんど同じ状況のようだ。見下ろす道に、人の往来はない。
 パジェンズの宿は二階建てで、医師が訪れない限り部屋が使われることはないのだろうが、地下の部屋だけでなく、二階も掃除が行き届いていた。事情を知る人間が利用することもあるのかもしれない。二階の部屋は完全に一般の宿と同じような作りで、窓際にベッドが三つ並び、簡素ではあったがクローゼットやデスクも用意されている。
「昨日の、ことだが」
 目線はそのままに、ロイスはそう話を切りだした。
 なぜ、セリウスが治療院に倒れていたのか。なぜ、近くで長たちが死んでいたのか。
 聞きたいことは山ほどある。
 昨日はセリウスが回復しきっていないこともあり、キルリアーナにこの部屋へと押し込まれ、そのまま寝てしまったのだ。
「隠すつもりはありませんよ。ですが、順を追って話したほうがいいでしょう。まずはここを出て、見てもらったほうが早いかもしれません」
 髪を結い終え、セリウスが立ち上がる。ベッドの脇に立てかけてあった剣を、布の多い衣服に隠すように、腰元にくくりつけた。治療院に落ちていたのを、ロイスが拾ってきていたのだ。ロイスの持つものよりも、一回り小さい。
 ランセスタの家にいたころは、剣の稽古を欠かす日はなかった。どのような状況であろうと傷を作ってはならない──それはランセスタに生まれた彼らにとって、守らなければならない大切なことだった。
 傷が残っては、矛盾するからだ。
 ランセスタに伝わる力さえあれば、どんな怪我も病も、たちどころに治ってしまう──そういうことに、なっているのだから。
「いえ、その前に、一つだけ」
 ドアを開けようとして、思い直したように、セリウスは振り返った。
「兄さんがあのパジェンズの医師と行動を共にしている理由は、なんですか」
「……ふむ」
 ロイスは唸る。それは、聞かれるだろうと思っていた問いだ。
 昨夜、ベッドの中で目を閉じて、自問していた。
 答えは、出ている。
 しかし、明確ではないように思う。
 ロイスは、服の上から自らの胸元に触れた。セリウスの目がそれを追う。
 そこには、傷跡がある。
 ランセスタとして、あってはならないはずの、傷跡。
「知っているだろう、セリウス。僕はあのとき、死ぬつもりだった」
 セリウスはほんの少しのためらいを見せ、うなずいた。
 ロイスが病に冒されたのは、三年前だ。当時、治せない病などないとうたわれていたはずのランセスタの医師たちは、そろってさじを投げた。あのときの両親の顔は、よく覚えている。心配などしていなかった。ひどく恐れ、焦っていた。
 ランセスタ家の人間を、病で死なせるわけにはいかない。
「あのとき、悟ったんだよ。ランセスタは、特別でもなんでもない。ただ、特別であるような顔をしているだけだ。もしも本当に特別ならば、こんなことにはならないはずだ」
「……そうですね。私が疑問を持ったのも、あのときからです」
 セリウスが瞳を伏せる。ふと、ロイスは、自分が姿を消してからの三年間を想像した。両親や、ランセスタの体制が、セリウスだけは逃がすまいとしたはずだ。ロイスがいなくなったことで、彼への重圧は増したことだろう。
 ランセスタの跡取り候補は、本来ならば三人だ。
 しかし、ランセスタの人間のいい方を用いるならば、三人目は、「使い物にならない」。
「死ぬのなら、それでいいと思った。だが、救われた。魔法使いの話を、覚えているか」
 幼いころ、彼らの乳母が聞かせてくれた物語だ。
 ランセスタは、大昔、魔法使いから『力』を得た。魔法使いのおかげで、病や怪我に立ち向かうことができるようになった。
 そんな、途方もない物語。
「やっと、納得したよ。どうしてあのタイミングで、キルが……パジェンズの医師が現れたのか。つまり、ランセスタが助けを求めたんだな。偶然じゃない。キルはランセスタに呼ばれ、僕を治すために、来たんだ」
「……もちろんそれは、感謝していますが。ランセスタとパジェンズは繋がっていたんです。あたりまえの流れでしょう」
 セリウスの表情が曇っていく。ロイスは慌てて、話を戻した。
「僕が、なぜキルと共にいるか、だったな。僕はあのとき、目の前に現れたのが、魔法使いだとは思わなかった。ひとだと思ったよ。僕の知る、ほかのだれよりもね。僕は死にかけていたから、記憶は曖昧だが──それだけに、印象だけは強く、残っているんだ。パジェンズの医師は懸命に、命と向き合っていた。だから、もし生き残ることができたなら……いままでの自分を捨て、ひとりの人間として、ひとと関わっていきたいと思ったんだ。もちろん、恩返しがしたいというのが、大前提だがね」
 だからこそ、ロイスはまず、キルリアーナを捜した。
 きっかけは、そこにある。嘘ではない。ただ、実際にキルリアーナを見つけ出し、こうして彼女から離れまいとしているのには、また別の理由があるような気がしていた。
 しかし、そこのところは、ロイス自身にもうまく説明できる自信がなかった。そんな曖昧な状態で語られても、セリウスも困るだけだろう。
「ひとだと、思った……ですか」
 セリウスがごく小さな声で、つぶやく。そこに潜んでいる感情がなんなのか、ロイスにはわからない。
「いまのでは、足りないか?」
「いえ」
 セリウスはほんの一瞬、笑顔を見せる。しかしすぐに険しい顔つきを作ると、背筋を伸ばした。
「ある意味で大変兄さんらしい回答だと思います。この町でパジェンズの医師がどう振る舞うのかを見せてもらうと約束したのですから、本来なら、気にしても仕方のないことですしね」
「じゃあ最初から聞くなと、いうべきところだろうか」
「もうしわけありません」
 冗談めかしていったのだが、セリウスは真顔で謝ってくる。ロイスは肩をすくめた。
「まあ、いいさ。僕の知りたいことの答えは、見たほうが早いということだったね。では、行こうか。キルも一緒でいいんだろう?」
「ええ、もちろん。ですが」
 セリウスがドアを開ける。その向こう側を見て、ロイスは思わず一歩下がった。
 ドアの開いた先には、キルリアーナが立っていた。セリウスは知っていたのだろう。知っていて、わざと、あんな質問をしたのだ。
「彼女はすでに、ここに」
「いて悪かったな」
 キルリアーナは、呆れたような顔で腕を組み、壁に寄りかかっている。そこでじっくり、話を聞いていたに違いない。
「た、立ち聞きか! 品のない!」
「実は狙いがあって近づいたとか、利用しようとしているとか、そんな展開を期待したんだよ。そっちの弟くんもそうだろ」
「セリウスと呼んでいただいて、結構です」
 セリウスは取り澄ました顔でそういった。ロイスは頬が紅潮していくのを自覚する。
「セリウス……!」
「怒らないでください、兄さん。私はただ、お二人の間になにか行き違いがあってはいけないと思っただけです。あなたもほっとしたのではないですか、パジェンズの医師。純朴な兄はどこまでも純朴です」
「キルで結構だ」
「ぬう……!」
 どういう反応をすればいいのかわからず、ロイスは拳を握りしめる。怒りなのか恥じらいなのか、どちらにしても複雑なこの感情をぶつける先が見当たらない。
「いつのまにか、ずいぶん、仲良くなったものだな!」
 結局、ひどく幼稚なところで落ち着いた。キルリアーナとセリウスが黙って顔を見合わせる。それもまた、気に入らない。
「そもそも、体内で薬を生成するというのはわかったが、口移しで飲ませる必要性を感じない。そこのところはどうにかするべきだ。改善の余地がありすぎる」
 いわなくていいことまでいってしまう。昨日はこれでも、我慢していたというのに。
 キルリアーナが目を見開いて、それから意地の悪い笑みを見せた。
「昨日から、なにふて腐れてんのかと思ったら。ひょっとしてあんた、大事な弟を取られるとでも思ってんのかよ。ずれてんなー」
 ロイスは、衝撃を受けた。
 ただ純粋に、方法が間違っていると主張しているだけだ。どうしてそんな話になってしまうのか。
 セリウスが怪訝そうな顔をする。
「……昨日から? まさか、パジェンズの──いえ、では、キルと呼びましょうか──キルが、私に口づけをし、体内の毒素を中和した件で、ですか?」
 じろじろとロイスを見る。ロイスは明後日の方向を向いた。是とも否ともいい難い。是なのだが、そういってしまってはニュアンスが違ってくる危険性がある。
「衛生面のことをいっている」
 不衛生かつ非効率、不道徳で不健全──様々な言葉がロイスの脳に浮かんだ。
 もっとほかにやりようがあるはずだ。
「なるほど」
 深々と、セリウスがうなずく。
「先程の説明よりも、よほど、納得しました。ずれているのは、キルのほうということですね、兄さん?」
「……待ってくれ、どういう意味だ?」
 真剣にわからない。問い返すと、セリウスは首を左右に振った。なんでもありません、と返す。
「一応答えるが、空気に触れると成分が変化するから、口から口へ直接ってのが、一番確実で手っ取り早い」
 まったくの正論を返され、ロイスは言葉に詰まった。キルリアーナにとってはどうでもいいことなのだろう。ロイスとセリウスの複雑な表情などお構いなしに、続ける。
「あんたらがのんびりしてる間に、こっちはそれなりに仕事してきたぜ。医師団のメンバーってのにも、会った。治療のほうはなんとかなりそうだが……セリウス、あんたにはちょっと、酷かもな」
 彼女にしては珍しく、少々いいづらそうだ。
「酷、というと?」
「とりあえず、一緒に来い」
 さっさと歩き出したキルリアーナを、二人は慌てて追った。