Elixir
第二章 ランセスタ 3



「つまり、媚薬ということか?」
 ロイスは素っ頓狂な声をあげた。
 ガリエン・シティへと続く街道、馬車のなかで、キルリアーナから語られる内容はなかなか衝撃的だった。
「オレの血から出る気化した分泌物が、そういう役割を果たすこともあるってことだ。あとは受け取る側との相性だな」
 帽子を目深にかぶり、淡々とキルリアーナは答える。女性用の衣服は極端に嫌がったので、結局ロイスの見立てた少年らしい出で立ちだ。とはいえ、今回は上流社会の金持ち風をコンセプトとしている。愛の宿の女たちの協力もあって、小綺麗に整えられた姿は、まるで育ちの良いお坊ちゃんだ。変装という意味では成功だろうと、ロイスは自らの見立てに満足していた。
 皮の帽子に、同じ素材の膝下ズボン。デザイン性重視のネクタイが眩しい。
 年齢を訊けば十八歳とのことだったが、背が低く細いので、せいぜいが十四、五歳だ。
「あのお頭は、オレがサーラの居場所を知ってると思ったんだろ。オレんとこまでわざわざ聞きに来たよ。知らないっつったら、白状しろとかなんとか逆上して、ナイフを出してきて──で、ちょっと皮膚が切れて、と。そういう流れだ」
「なるほど」
 ロイスは唸った。血、という発想はなかったが、そういうことならば、サーラとキルリアーナが似ているというのも納得できなくはない。
 キルリアーナ・パジェンズとサーラ・パジェンズ。パジェンズの医師は謎に包まれているが、もしかすると姉妹か、そうでなくても血縁関係にあるのかもしれない。
「ならついでに訊くが、ダートが床に転がっていたのは、どういうことだ? 血に惑わされて襲ってきた大の男を、君のその貧じゃ……細い腕で、返り討ちにした仕組みは?」
「貧弱なのは自覚してる。つーか、あんたなあ、話したくないだろうから僕はなにも聞かない、とかカッコつけていってたのはどこのどいつだよ」
「それは昨日の僕だろう。一日経てば興味の方が勝ったんだ。もちろん、話したくないのなら無理にとはいわないが」
 堂々と胸を張ると、キルリアーナはあからさまに呆れた。深く深く、息をつく。
 一昨日の深夜、このままキルリアーナを一人にはしておけないと、ロイスは彼女をほとんど無理矢理愛の宿へ連れ帰り、女たちの部屋へと放り込んだ。翌日にはキルリアーナがサーラを追って出立するといいだしたので、費用すべてを持つことを条件に、一日かけてロイスが二人分の旅支度を整えたのだ。その際、確かに、なにも聞かないなどと、若干格好をつけていった覚えがある。
 しかし、気になってしまったのだからしようがない。尋ねてみればすんなり答えるので、それならそれで更に深く知りたくなるというものだ。幸い、馬車はロイスが貸し切ったもので、乗っているのはロイスとキルリアーナの二人だけだった。
 ロイスはランセスタ家を出るときに、金目のものを手当たり次第持ち出している。加えて、盗賊団からもたっぷり謝礼をいただいた。後者はもちろんキルリアーナのものだが、要するに二人は金には不自由していない。
「オレはパジェンズの医師だ。あんたも気づいてるんだろう。パジェンズの医師は、体内であらゆる薬を作り出す」
「ああ、まあ……そうだろうな、とは」
 ロイスは言葉を濁した。その話題になると、どうしても体液云々のところに思考がいってしまうのだ。
「いまのオレなら、もう毒薬ぐらい身体の中でかるく調合できる。その気になったふりして、口から直接……」
「わかった、悪かった。もういい」
 強い口調で、遮った。やめておけばいいのに、勝手に想像してしまう。
 そのまま、ロイスは黙った。それなら話すことはないとばかりに、キルリアーナも口を閉ざしてしまう。
 結局のところ、ロイスは、サーラという人物に対して感じた疑惑を、キルリアーナにいえないでいた。どういう関係なのかと聞けばやはり答えてくれそうな気もしたが、躊躇われた。タイミングを逃したというのもあったが、胸騒ぎがするのだ。
 サーラについて、キルリアーナが語ったことは少ない。何年も前から、サーラを追って旅をしているということ。サーラは西へ西へと向かっていて、キルリアーナはいつか必ず彼女の元へたどり着くと約束をしているのだということ。
 サーラはオレを待ってるんだ──キルリアーナはそういっていた。だから行かなくては、と。
 ロイスは納得がいかない。実際、サーラはキルリアーナの近くにいたはずだった。
「もしも、サーラが……」
 もしも。それは魔法の言葉のように思われた。できるだけさりげなさを装って、ロイスは続ける。
「……君をすぐ近くから見ていて、会おうと思えば会えるところにいるとしたら、どうするんだい」
「ああ?」
 キルリアーナが思い切り眉を寄せる。もしもさ、と繰り返すと、彼女は少しだけ考えて、それから挑戦的な笑みを見せた。
「それなら、まだ会う時期じゃないってことだ。サーラに会うのは、オレがちゃんと完璧になってからじゃないと、意味がない」
「完璧?」
「すいませんが、坊ちゃんたち。ちょっと止まりますよ」
 御者台から声がかけられた。
 木枠にかけられた布のカーテンから、ロイスは顔を出す。馬車はゆっくりと速度を落とし、道の端に寄って止まった。
 まだ、ジリアル・シティからガリエン・シティに抜ける森の途中だ。
「どうしたんだ。用足しか? 気にせずとも、そのあたりの草むらですませなさい」
「……あんた、よくそれでフェミニストとかいうよな」
 率直にロイスがいうと、キルリアーナが呆れ声を出す。なにをいわれていうのかわからず、ロイスは首をかしげた。
「一点の曇りもなく、僕はフェミニストだが」
「デリカシーとかそういうのも勉強しとけよ」
 デリカシー。あまり、キルリアーナの口から出てくる言葉としては似つかわしくない。しかし確かに、女性の前で尿意がどうのという話題はよろしくないような気もする。
「これは、失敬」
「いやいや、違うんですよ、坊ちゃんたち」
 まるで助け船を出すかのように、御者が顔を見せた。
 行く先を、手で示す。ロイスが首を伸ばすと、縄が張ってあるのが見えた。人が二人、こちらを向いて立っている。その脇には小屋と馬車も見えるが、小屋自体は以前から建っていたものだろう。
「道が封鎖されてます。ほんの数日前は、こんなことはなかったんですが。なにがあったのか、聞いてきますんで」
 腹を揺らしながら、小走りに駆けていく。ロイスは椅子に座り直した。
「道の封鎖とは、珍しいな」
「回り道でもなんでも、抜けられれば問題ねえよ」
 キルリアーナには焦る様子はない。何年も旅をしていれば、こういったことはあるのかもしれない。
「あんたは、ガリエンになんの用事があるんだ?」
 キルリアーナの問いに、ロイスは言葉を失った。
 用事。
 そんなものはないとうっかり答えそうになり、空気を飲み込む。
 付いてくるな、ボディーガードは必要ない、同行なんて冗談じゃない──散々断りの文句を吐かれ、つい口から出任せをいってしまったのだ。自分もガリエン・シティに用事があるのだと。
「ああ、それは……あの町で、再会を約束している女性がいてね」
 苦し紛れにそういうと、キルリアーナは興味を持ったようだった。
「へえ、奥さん?」
「おく……さんなどいない。決まった相手がいるのに、不特定多数の女性と遊びまくるわけがないじゃないか」
「偉そうにいうことかよ」
 キルリアーナが鼻を鳴らす。ロイスはなんとなく負けたような気になり、黙った。女性は大好きだが、特定の女性と添い遂げようと思ったことは、いまのところない。
「結局、男は子孫を残すのが仕事だろ。不特定多数でもなんでも、動物的本能に従ってりゃいいんじゃねえの。そっちのほうが、よっぽど潔いと思うけどね」
「君は悲しい人間だな。そんなふうにしか考えられないのか」
 憤然とロイスは反論した。そういう一面もあるかもしれないが、そのようにいわれてしまったのでは納得がいかない。
「僕は女性に癒しを求めているんだ。あの温もり、あの柔らかさ──それらに包まれていると、なんというかこう、満たされた気持ちになる」
「ああ、マザコンか」
「……!」
 言葉を失う。違うといいたかったが、いったところでまた数倍になって返ってくるのではないかと思われた。要するに、口で勝てる気がしない。
「僕にだって、だれかを癒したいと思うことはある」
 苦し紛れに、いわなくてもいいことをいってしまった。
 キルリアーナがにやりと笑う。適当なこといってんなよと、声にされなくても思われているのがわかる。
「ほ、本当だ。そんなふうに思うことがあるとは、考えたこともなかったが……──事実、あったんだからしょうがない」
「ふうん。恋ってやつか。いいんじゃねえの」
「恋! そんなことはいっていないだろう!」
 思わず声を荒らげると、キルリアーナはきょとんとした。目をまたたかせる。
「なんだよ」
 なぜ大声を出されたのか、わからないのだろう。それはロイスも同じだった。
 その大きな目を、見つめてしまう。吸い込まれそうな、黒い目だ。いったい誰を癒したいと──心から守りたいと思ったかなどと、いえるはずもない。
 ロイスは咳払いを繰り返した。恋などという素っ頓狂な言葉とは長年お目にかかったことがない。恋をしているとすれば、それは全世界の女性らしい女性すべてに対してだ。だからそこは、否定しなくてはならなかった。
「これは……そう、母性本能だ」
 キルリアーナは返事をしなかった。顔を見なくてもわかる。呆れきっているに違いない。
「坊ちゃんたち、あのう……」
 より効果的な反撃の言葉を練っていると、御者が汗を拭いながら戻ってきた。すぐ後ろには、青い法衣姿の男。ランセスタ治療院の制服だ。ロイスは反射的に顔を背けた。
「こちらで説明します」
 事務的な声でいい、男が前に出る。
「ガリエン・シティにはただいま入ることができません。もうしわけありませんが、迂回して北のターミア経由で山を越えていただくか、問題が解決するまでジリアルに戻っていただかなければなりません」
 口調こそ丁寧だが、随分と一方的なものいいだ。ロイスは横目で知り合いではないことを確認し、男に向き直って咳払いをする。
「もう少し具体的な説明をするべきじゃないのかな。問題とは? どうして入ることができないのかな」
 その向かい側で、キルリアーナが腰の鞄から地図を引っ張り出す。ジリアル・シティから西、やや南寄りにガリエン・シティ。ターミアはずいぶん北の、小さな村だ。ロイスも地図を覗き込み、ターミアへ行くという選択肢を頭の中で消去した。キルリアーナの歪んだ顔が、そう語っていたからだ。
「こっちはガリエンを抜けられればそれでいいんだよ。長く滞在する予定もねえし。それでも?」
「ええ、実は……」
 法衣の男が説明しようと口を開く。
 その目が、キルリアーナを見た。一瞬動きを止め、眉をひそめる。
「手早く説明していただきたいね」
 彼女が賞金首であることを悟られないよう、ロイスが声を挟む。男の視線がロイスに移り、さらに訝しげな顔をした。
「ええと、お二人とも、どこかで……」
「会ったことねーよ」
「こちらもだ」
 そういいきるしかない。なにも知らない御者が、慌てて間に入った。
「頼みますよ、いいとこの坊ちゃんたちなんですから。失礼のないようにしてもらわないと」
 思わぬフォローだ。彼にはただ大金を渡しただけだったが、勝手に坊ちゃんだと解釈されていた。キルリアーナは性別を偽っており、ロイスも現在進行形で坊ちゃんとはいい難かったが、上客には違いない。
 だが、そこに弱いのがランセスタの体質だ。法衣の男は、失礼、と頭を下げた。
「ガリエンで原因不明の病が流行しております。ランセスタ治療院はもちろんありますが、時を同じくして『医師団』の襲撃を受け、充分な治療ができない状況なのです」
「原因不明の病?」
 途端に、キルリアーナの目が輝き出す。獲物を見つけた野生動物のような顔だ。ロイスは彼女の前に出るようにして、馬車の出入り口側へ席を移動した。
「それで、新しく患者が出ないように、封鎖してるということか」
 それなら問題ない、先へ進ませてもらおう──そういいかけるが、うまいいいわけが思いつかない。まさか、パジェンズの医師がいるからだいじょうぶと正直にいうわけにもいかない。
「『医師団』ってのは、ときどき聞くな。ランセスタに逆らって勝手に治療して回ってる医療団体だろ」
「ランセスタを敵視してる過激派だという話も聞く。治療院を襲撃しているという噂も、耳にしたことは……あるにはあるが」
 ロイスは釈然としない。最近噂を聞くようになった『医師団』には、とにかく二面性が目立つ。無償で人々を治療し、感謝されているという話と同時に、ランセスタ治療院を潰そうと武力行使に出ているという話がある。
「要するに、あんたらは善意でここを通さないようにしてるってわけだ。こっちがどうしてもっていってるのを止める権利まではねえな。オレは、どうしても、ガリエンに行きたい。それでもしオレが病にやられても、あんたらが責任を負う必要はない。オレのわがままで、勝手だ。なにがなんでも、通させてもらうぜ」
 キルリアーナはまったく引く様子がなかった。淀みなく、強い口調でそういって、布袋から金銭を取り出す。ごくなんでもないことのように、法衣の男に手渡した。
 男は最初、なにを渡されたのかわからないようだった。手に置かれた大金を遅れて確認し、目を見開く。
「……少し、お待ちください」
 そういって、縄の張られた場所まで戻っていく。ロイスは唇を曲げた。
「力押しだな。金で解決とは」
「あるもんは使うんだよ。脳味噌と一緒だ」
 まるでロイスには脳味噌がないといわれているかのようだ。事実、そういった含みがあるのかもしれない。
「坊ちゃんたち、やめておいたほうが……」
 御者が身を縮こまらせて、いいにくそうに進言する。
「ああ、そうか。あんたはここまででいいよ。どうにかして行くから」
「いや、それは……」
 御者はなんとか説得しようとしたようだったが、キルリアーナに意見を変える気がないことは明らかだった。結局は言葉が続かず、渋々うなずく。
「ではもちろん、僕も同行しよう」
 当然のようにそういって、まずロイスが馬車を降りた。キルリアーナのいうとおり、原因不明の病が流行っているという場所まで馬車を走らせるわけにもいかないだろう。
「愛しの女が倒れてるかもしれねえもんな」
 キルリアーナはどうやら本気でそう思っているようだ。疑うことには慣れていそうなのに、妙なところで真っ直ぐだ。騙していることに若干の胸の痛みを覚えつつ、ロイスは曖昧に返事をする。本当のことを告げたらどれほどののしられるだろうかと想像して、すぐにやめた。わざわざ絶望的になることもない。
「それでは……町まではまだ少しありますので、こちらで送ります」
 やがて戻ってきた法衣の男は、そういって小屋の隣の馬車を示した。