「なんと謝罪すればいいのかわからない……」
もう何度目になるだろうか。
はじめのうちは、キルリアーナが口に運ぶ焼き菓子の数とほとんど一致していたはずだが、皿が空になってずいぶん経つ。謝罪したいのならばただごめんなさいといえばいいのにと正論を述べたところで、彼はただ同じ言葉を繰り返すだけだった。
「君に謝る良い言葉が浮かばないんだ……」
キルリアーナは聞き流す。返事をするのはとっくにやめてしまった。
窓の向こうの空が赤らんでいる。そろそろここから出ていきたいと思うのだが、『愛の宿』の女性たちが気を利かせて絶え間なく茶を運んでくるので、なかなか思い切れないでいる。もう少し居座れば、きっと夕食が用意されるだろう。
「ああ、いったい僕は、どう償えば……」
キルリアーナの興味は、ロイスの言葉とは関係ないところをうろうろしていた。この男はどうして天蓋つきのベッドに寝転がっているのだろう。もっとも気になるのはその点だった。
二階の一番奥の部屋は、ロイスが自室のように使っているらしい。宿らしからぬタンスが置かれ、私物らしい衣類もあらゆるところに引っかけられている。全体的にかわいらしい内装なのに、いやに雑然としていた。用途のわからない置物も点在している。とはいえ、とにかく異様なのは、やはりベッドだろう。白いカーテンのついた、キングサイズのベッドだ。もともとこういう部屋だったとしても、天蓋はどうにかならなかったのだろうか。似合わないにもほどがある。
浴室から出たキルリアーナが、宿の女性に連れられてこの部屋にやってきたときには、彼はすでにベッドに伏していた。頭を抱えるようにして、似たような言葉を繰り返し続けている。キルリアーナに対して、もうしわけないという気持ちがあるのは確からしい。
「あのさあ、もういいっていってんだろ。こっちが気にしてねえのにいつまでもうだうだやられると、そっちのほうがイヤなんだよ。やめてくんねえかな、そういうの」
そろそろ頃合いかと、何度目かの声かけをしておく。どうせ意味を成さないだろうと思ったのだが、意外なことにロイスは顔を上げた。
機敏な動作で身体を起こし、椅子にすわるキルリアーナを正面から見据える。目が赤い。まさか泣いていたのだろうかと、キルリアーナはぞっとする。
「なぜなんだ」
てっきり謝罪されるかと思ったのだが、ロイスはごく真剣に、疑問を口にした。
「僕が用意したのは、男物の服だ。そのズボンもシャツも、もちろん買えばそれなりの値段のする良いものではあるが、それでも男物だ。それを、なぜ、そうも自然に、着こなしているんだ! いや、そもそも、着ることを拒否することもできるだろう! なぜあたりまえのように着ているんだ! なぜ自分のことをオレというんだ! いったい、なぜ……!」
なるほど、喧嘩を売られているらしい。キルリアーナはゆっくりと目を細める。
「要するにあんたは、オレが女らしくないことがそもそもの原因だっていいたいんだろ」
「原因とか、そういう話ではない! そもそも女性とは……もっと柔らかくていい臭いがして、こう、抱きかかえたときにしっとりと肌が馴染み、自然と気持ちが高揚し、かつどこかに安心感が広がり、しかし同時に心をかき乱され、こうして至近距離にいたらもういてもたってもいられなくなる、そういう存在ではないのか! いや、そういう存在で、あるはずだ」
ものすごい力説だ。キルリアーナは怒るどころかいっそ感心した。よほど女性というものを愛しているらしい。
自分の性別が女性であることがもうしわけないような気にすらなってくる。とはいえ、反論するつもりはなかった。
「まあ、あんたのいってることは、わかるよ。オレも女ってのはそんなもんだと思ってるし、そんな女が大好きだ」
正直に気持ちを伝える。そうだろうそうだろうとうなずいて、ロイスは動きを止めた。
「大好き? いや、ちょっと待ちたまえ。女性が……大好き?」
「大好きだね。女ってのは神秘だ。生命を体内で育み、生み出し、母乳という最高の栄養源を生成できる。もちろん女だけじゃ命はできねえけど、それでも女は偉大だ」
それは、キルリアーナが常々思っていることだった。女性は素晴らしい。自分が女性であるという事実は脇に置いて、女性という存在そのものに敬服の念を抱いているといってもよかった。
「ああ、なるほど。いや、しかし、君も女性だろう」
もっともな言葉を返される。キルリアーナは肩をすくめた。
「オレは子を生まない。オレが女でなくてはいけないのは、また別の理由だ」
「ううむ」
両手を組んで、ロイスは複雑な顔をする。キルリアーナとしてはごく明確な返答をしたつもりだったのだが、どうやらお気に召さなかったようだ。
「まあ、とにかくさ。風呂のことはもう忘れろよ。だいたい、どう謝ればいいかわからないとかいっていたその口で、女らしさを語るとかよ、みっともねえんじゃねえの。小せえ男だな」
思ったままにそういうと、ロイスは突然目を剥いた。
「小さいだと!」
両の拳を握りしめ、わなわなと震え出す。
それほどまずいことをいってしまっただろうか。キルリアーナはかすかに身を引いたが、間違ったことをいった覚えもない。
「小せえだろ、充分」
「君の胸だって、小さかったじゃないか!」
「そっちじゃねえよ」
そもそもサイズを認識するほど凝視していない。キルリアーナは大きく息を吐き出した。
「オレは気にしてねえっつってんだよ。だから、あんたも気にすんな」
この不毛な時間が続くことのほうがよほどつらい。しかしやはりロイスがうなずかないので、もう一押し付け加える。
「いつまでも気にしてたんじゃ、せっかくの男前が台無しだろ」
少々、あからさまだっただろうか。
しかし、ロイスは目に見えて表情を変えた。まんざらでもないどころか、明らかにうれしそうに、頬の血色を良くする。
「ふむ、確かに、そのとおりだな。いつまでも細かいことにこだわっていてもしようがない」
馬鹿だ。キルリアーナは悟る。
「で、結局謝んねえのな」
「なにか?」
「別に」
首を振って、茶で喉を潤した。質の良い茶葉なのだろう。いくら飲んでも苦みに嫌味がない。
「まあ、あれだ」
この話題をひきずることに利点はない。足を組んで、本題を切り出すことにした。この場をあとにしなかったのは、茶と、もう一つは一応の用件があったからだ。
「オレが客を覚えてることはめったにねえけどな。あんたのことは思い出したよ、ロイスダーン・ランセスタ」
ロイスの表情が硬くなった。その変化に、キルリアーナは確信する。
「その様子と、この暮らしじゃ……やっぱりあの家にはいられなくなったか。そこだけ多少、興味があったんだ。聞かせろよ」
「君は傲慢だな。ものを頼む態度というものがあるだろう」
渋い顔をされても、キルリアーナは肩をすくめるだけだ。興味があるのは本当だが、頼み込んでまで知りたいことではない。
「ランセスタの跡取りは旅に出たって聞いたぜ」
そういうと、ロイスは反発するように息を吸い込んで、それから首を振った。あきらめたのか、深い息をつく。
「それはたぶん、弟のことだ。僕はとっくに死んだことにでもなっているだろう」
弟という単語に、キルリアーナは思い出した。いまにも気を失いそうな顔をして、それでもキルリアーナに懇願したのは、その弟だ。
兄さんを助けて──血だらけのロイスを抱いて、震えながら、しかし一歩も引かずにそういった。もとよりそのつもりで訪れたキルリアーナではあったが、弟の存在が興味につながったのは間違いない。
本当にそれを望むのかと、キルリアーナは訊いた。おそらくこの家では生きられなくなるが、と。
「僕は、ランセスタの名は捨てたんだ。もうあの家に関わるつもりもない。君も僕のことは気軽に、ロイスと呼んで欲しいね」
「今後気軽に呼ぶ予定はねえけど。死んだってのは、妙だな。ランセスタの人間が、まさか病に負けたって?」
「うまく美談にすることぐらい、あいつらなら簡単にするだろうさ」
ふうんとキルリアーナは鼻を鳴らした。たしかに、ランセスタというのはそういう家だ。だからこそ、百年に及ぶ長い間、この地を支配し続けているのだろう。
「ところで……ええと、これはなにかの間違いかと思っていたんだが」
ばつが悪そうに、ロイスが咳払いをした。
「君はつまり、キルリアーナ・パジェンズなのか? この手配書の不備ということではなく? 僕はその……君の性別を誤って認識していたから、最初は人違いかとも思ったんだがね」
そういって彼が差し出したのは、キルリアーナの手配書だ。もちろん、女性と明記されている。殺さず捉えることを条件とし、かけられているのは破格の賞金だ。
似顔絵は、キルリアーナ本人が感心するほどに、丁寧に描かれていた。目つきのふてぶてしさなどそのままだ。以前にも一度見たことがあったが、ご丁寧に書き直されているのか、当時のものとは異なっていた。少し伸びた髪もごく最近のものになっており、このあたりの地名まで記されている。
「どこで手に入れたんだよ」
キルリアーナは手配書を奪い取り、力任せに丸めた。まったく忌々しい。この手配書が出回っているおかげで、追いかけ回される日々なのだ。
「どこにでもあるさ。少し裏へ入ればね。賞金首がこぞって君を捜している」
「ばかばかしい」
吐き捨てると、ロイスは困ったように肩をすくめた。もちろんキルリアーナも、理解している。世間的には自分は間違いなく犯罪者だ。そして、たとえその真偽がどうであろうと、賞金がかかっているのなら追われるのは当然だ。
「今日も、賞金稼ぎに追われていたんだろう。しかもグループだったな。いつもあんな感じなのかい」
いつもといわれれば、いつもだった。ごまかすことでもないので、キルリアーナはうなずく。
「オレを追う全員が賞金稼ぎってわけじゃねえだろうけど、まあいつものことだ。逃げるのには慣れてるよ」
ロイスの表情が険しくなる。しかし、なにかを思い直したのか、彼は自分自身を落ち着かせるようにゆっくりと深呼吸をした。それから、真剣な顔をする。
「そこで君に、提案があるんだ、キルリアーナ」
呼びかけられ、悪寒を覚えた。
「キルでいいよ。あんたの呼び方はなんかこう……まとわりつく」
「失礼だな。いや、まあいい。それならキルと呼ぼう」
いつの間にか、ロイスは足をベッドから出し、皮の靴を履いていた。真摯な瞳で、じっとキルリアーナを見つめてくる。
「キル」
やはり、背筋がひやりと──というよりも、ぬめりとする。
「なんだよ」
自然、ぶっきらぼうないいかたになる。見つめられて名を呼ばれるなどと、慣れていないにもほどがある。
緑色の目は、まるで少年のそれのように透き通っていた。そこにキルリアーナが映っている。その顔にははっきりと、逃げ出したいと書いてある。
しかし、手を取られ、逃げ出すことはできなくなった。両手を、まるで祈るように握りしめ、ロイスは顔を寄せる。
キルリアーナは反対側へと身体を引いて、距離を保とうとした。椅子から落ちそうになったが、ロイスが力強く握りしめているため、とどまることになる。いっそ落ちてしまいたいぐらいだ。
「僕はね、キル。君に助けられたあの日から、ずっと君を捜していたんだ。あの日までの僕は死んだ。新しい命をくれた君に、恩返しがしたい」
「却──」
下、といおうとした。冗談ではない。しかし、遮られてしまう。
「君を男だと思っていたが、女性ならばなおさら、君は守られるべきだ。こうして見つめていてもほとんど女性には見えないが、だいじょうぶ、僕はフェミニストだからね。全力で、君を守るよ」
その発言のどこがフェミニストなのか。キルリアーナにはもう、怒ればいいのか呆れればいいのかわからない。
結局黙ったままで仏頂面をしていると、ロイスは自信たっぷりにうなずいた。
「こう見えても、一通りの剣技を学んでいる。君の首を狙うやつらは皆追い払うと約束しよう。僕をそばに置いて良かったと、そう思う日が必ず来る」
「あのなあ」
押し売りにもほどがあった。どう断るのがもっとも効果的か、キルリアーナは思案する。
しかし、その間がいけなかった。タイミング悪く、部屋のドアがノックされたのだ。
「ロイス、ちょっといいかしら」
女性の声だ。宿の従業員だろう。
ロイスはすぐにキルリアーナの手を離すと、さっと髪を整えた。ベッドから立ち上がり、服の皺を伸ばす。
「もちろん、いいとも」
おそらく本人は男前だと思っているであろう低めの声で返し、一直線にドアへ向かう。ほんの半日のつきあいだが、キルリアーナはロイスという人間の本質を見たような気がしていた。そして、充分にうんざりしていた。
「その声は、ミルカかな? いったいどうし──」
鈍い音がした。
ドアを開けたその直後だった。来客の隙に窓から逃げようと腰を浮かせていたキルリアーナが、何事かと振り返る。そこにはキルリアーナの倍はあろうかという巨体の男が二人、立ちふさがっていた。ミルカという名らしき金色の髪の女性は、目を逸らして壁際に立っている。脅されたか、金をもらったか。彼女の様子から見ると、後者だろうか。
ロイスは情けなく床に転がっていた。完全に伸びている。男に殴り倒されたのだろう。
逃げなくてはいけない──察するも、すでに遅い。窓からはもう一人、男が部屋へ入ってきたところだった。全員が荒々しい、鬼気迫る目つきで、キルリアーナをにらみつけている。
「キルリアーナ・パジェンズだな」
キルリアーナは息をついた。昼間追ってきた連中とは違うようだが、だからといってこちらのほうがましというわけでもないだろう。
「人違いだろ」
とりあえず、そういっておく。男のうちのひとりが気を失っているロイスを抱え、その首元にナイフを突きつけた。
「こいつがどうなってもいいのか」
「別に」
助ける義理はない。正直にうなずくと、女性が慌てて男にすがりついた。
「ちょっと! 彼は関係ないじゃ……」
「うるさい。こっちは急いでるんだ」
力任せに、女性を突き飛ばす。
キルリアーナは眉を上げた。女性に手をあげるとは何事だろう。もし彼女が身ごもっていたとしたら、どうするというのか。憤り、男をにらみあげる。
「最低だな。金ならやろうか。オレの首がいくらだって?」
「おとなしくしろ」
話などできそうもなかった。キルリアーナは諦めて、両手を挙げる。どちらにしろ、逃げられる状況でもない。
「わかったよ。命を取る気はねえんだろ。どこにでも行くから、縛ったりすんのは勘弁しろよ」
「いいだろう。ただし、こいつは人質だ」
なにを勘違いしているのか、そういってロイスを肩に担ぐ。とはいえ、キルリアーナにとっては人質としての効力がないほうが好都合だ。道中、逃げるチャンスもあるだろう。特に異を唱えることもなく、男に従った。