Elixir
第一章 パジェンズの医師 1 それは、突然降ってきた。 布張りの屋根を柱ごと倒し、木箱に入れられた果物を一つ残らず巻き込んで、店と一緒に転がり落ちた。 店主が不在だったことが幸いといえば幸いだろう。しかし、ちょうどその露店の陰に隠れようとしていたキルリアーナにとっては、あまりにも最悪のタイミングだった。 あらがうことなどできるはずもなく、下敷きになる。 脳が揺れた。全身に衝撃を感じたが、果物がクッションになったのか、それほど痛くはない。その代わり、粘着性のある液体がまとわりつく。果実がつぶれたのだろう。 視界は闇だ。布が上から被さっているのがわかる。鼻をつく甘い匂いにまみれながら、抜け出そうともがいた。なにがどれだけ自分の上に乗っているのか、想像できるだけに動ける気がしない。そもそも降ってきたのは、おそらくは人間だ。まずはそれが自力で動いてくれないことには、どうしようもない。 その人物に声をかけようと息を吸って、しかしキルリアーナは、それをそのまま飲み込んだ。 息を殺す。 路地にさしかかる、複数の足音。石畳を打ち鳴らすようにしてやってきたのは、二人や三人ではない。どっちに行った、こっちに違いない──男たちの怒声が飛び交う。 キルリアーナは舌打ちしたいのを堪えて、長い時間をかけて息を吐き出した。なんてしつこいのだろう。飛び出していって全員を返り討ちにしてやりたい衝動に駆られる。そんなことは、できるはずもないのだが。 心臓は静かだ。まだだいじょうぶ、冷静に、平静に──胸中で唱える。まさか崩壊した露店の下敷きになっているとは思われないだろう。自分なら思わない。 「おい、こっちにガキが来なかったか」 心臓が跳ねる。しかし無論、それはキルリアーナに向けられたものではなかった。話しかけられたのは、上から落ちてきた人物のようだった。気を失っているわけではないのだろう、振動が伝わってくる。なにをいわれるかわからない。いつでも逃げられるよう、キルリアーナは心の準備だけは怠らない。 「ああ……もうしわけない。まさか、落ちるとは。まったく、危ないなあ」 最悪の状況を想定したというのに、聞こえてきたのは、ずいぶんとのんきな男の声だった。もしかしたら、キルリアーナが下敷きになっていることを知らないのだろうか。 落ちてきた人物を思い出そうとするが、わからない。あまりにも急なことだったのだ。アパートメントの二階から落ちたのだろうということだけ、かろうじてわかる。 「ガキを見たのか見てないのか! さっさと答えろ!」 しびれを切らしたらしい男の怒声。しかしそれに答える声は、すぐには聞こえない。 「がき? ガキ……ええと」 キルリアーナが聞いていても若干の苛つきを覚えるのだから、男たちにとってはなおさらだろう。 「見た、かなあ。見てないかもなあ。ちょっと酔ってしまっていてね。待ってくれ、いま思い出すから。ええと、ガキ、ガキ……」 周囲にひとが集まってきているのがわかった。ざわめきがキルリアーナたちを囲み始める。 「……早くしろ」 「いや、急いでる、急いでるとも。だいじょうぶ、僕を信じて。ガキというと──そう、小さな子どものことだね、要するに?」 埒が開かないとはこのことだった。キルリアーナは笑い出しそうになる。もちろん我慢したが、男たちにとってはそうはいかなかったようだ。 「もういい、行くぞ」 吐き捨てるようにして、男がいった。諦めたのだろう、逃げるように、複数の足音が遠ざかっていく。 キルリアーナは力を抜いた。ひとまずは安心だ。あとは、上に乗っている人物──どうやら昼間から酒を飲んでいるらしい──が、どこかへ行ってくれるのを待つだけだ。 野次馬が集まっているなかで這い出していくのは、得策ではないだろう。辛抱強く、待つことにする。 「おっと、なんだろうね、みなさんお集まりで。今日はなにか、催し物でも? ちょうどいい、僕とお酒でも飲みますか。あれ、奥さん、やだなあ、なんで逃げるのかな」 酔っていると自分でいっていたが、どうやら充分にできあがっているらしい。依然として崩れた露天を下敷きにしたままで、男の陽気な声が続く。 「いやあ、なに、もちろん僕の奢りですよ。女性に払わせるなんてとんでもない。お金なら……ああ、店に置いてきたのか。これはまいったなあ」 なにがおもしろいのか、とうとう笑い出す。集まってきていた人々も、相手をするだけ無駄と判断したのだろう、ひそひそ声を残しながら、波が引くように遠ざかっていく。 音が消えてから、たっぷり三十、キルリアーナは数えた。 頃合いだろうというところで、今度こそどいていただこうと、肺に空気を入れる。 「だいじょうぶかい?」 しかし、言葉が舌に乗るよりも早く、身体が軽くなった。布が取り去られる。突然の眩しさに、キルリアーナは目を細める。 身をかがめてこちらをのぞき込んでいるのは、ブロンドの男性だった。緑色の瞳は凛々しく、すらりとした体躯を包むのは一目でそうとわかる上等な衣類だ。腰には、身なりに不釣り合いな──飾りだとすれば納得の、細剣を携えている。 予想していなかった展開に、キルリアーナの反応は遅れた。 「だい……じょうぶ、だけど」 馬鹿みたいに正直に、答えてしまう。先程までの酔っ払いとはまるで別人だ。まさか演技だったのだろうか。 男はほほえんだ。右手をズボンでぬぐい、ごく自然な所作で差し出す。 「うまくいってよかった。追われていたんだろう? また会ったね、パジェンズの名医。僕は、君を助けたかったんだ」 その手を握る気にはなれなかった。パジェンズという名を知っているというだけで、まずろくなことはない。 キルリアーナは自力で起きあがると、膝を払って立ち上がる。 「オレはあんたに、会った覚えはねえよ」 そう返して、すぐに顔をしかめた。 酒臭い。 酔っているというのが嘘だったとしても、相当な量の酒を飲んでいるのは間違いない。 「おっと、忘れてしまったのかな? 自己紹介をしたいが、いつまでもここにいるのは良い案とはいえないね。この店の親父はがめつくて有名なんだ。このままじゃあ、果物代を払うだけではすまされない」 「あんたがやったんだろ」 思ったままを告げると、男は肩をすくめた。 「そういうことも、あったかもしれない」 過去にはこだわらないタイプなんだ──そう続ける男に、キルリアーナは閉口した。これはだめだ。話の通じない類の人種だ。早々にあきらめ、深くは追求しないことにする。 こういう人種にはできるだけ関わらないのが一番だ。関わってしまった場合は、あまり逆らわないのが得策だ。キルリアーナはとりあえず、感謝の意を示しておく。 「まあ一応、助かったよ、あんたのおかげだ。また会うことがあったら、ぜひ礼をさせてくれ」 もちろん、そんなつもりは毛頭ない。もうこれ以上用はないですさようならの婉曲表現だ。 だが、男には通じないようだった。それどころか、満足げにうなずいたかと思うと、突然キルリアーナを抱えあげた。 「子どもがそんな気をつかうものではないよ。第一、僕は君に恩返しをするチャンスを、虎視眈々と狙っていたんだ。なあに、任せなさい。僕の行きつけの店で君を匿おう。そこで風呂にも入らなくてはね、あまりにも不衛生だ」 「おい、おろせ!」 細い腕に見えるのに、存外に力強い。どうにか逃れようとキルリアーナはもがくが、まったく離す気がないのだろう、男はあくまでにこやかに、さらに力を込める。 「ついでに服も新調しなくては。果実の汁はなかなか頑固だからね。このままでは、レディにもてないぞ」 「あんたなあ……!」 キルリアーナは、男の勘違いに気づいた。気づいたが、指摘するのもばからしくなる。そもそも、そう思われるのには慣れている。 どちらにしろ、なにをいっても男の態度は変わらないようだった。男はもうキルリアーナには注意を払わずに、颯爽と歩いていく。町の構造を熟知しているのだろう、裏路地を通り抜け、どんどん奥へ奥へ、進んでいく。 キルリアーナには、もう抵抗する気はなかった。こうなったら、風呂と食事を世話してもらって、ついでに清潔な服をいただいたほうがいいだろう。そのための我慢だ、これは未来への投資だ──自分にいいきかせる。 町の裏の、さらに奥へと進んでいくことも、好都合だった。キルリアーナが寝泊まりをしている宿もこのあたりだ。キルリアーナのそれとは異なるが、金さえ払えばだれにでも部屋を提供してくれる宿が、いくつも並んでいる。表のルールの通用しない、いわゆる無法地帯だ。 しかし、男は歩幅もそのままに、さらに進んだ。この先にはもう宿もなく、人通りも極端になくなる。日が暮れたその後にだけ賑やかさを振りまく、夜の町がたたずんでいる。 そのなかでも、一際いかがわしい界隈に足を踏み入れたあたりで、さすがに、キルリアーナは気づいた。というよりも、風呂屋ではなく、風呂のある店と男が表現した時点で、可能性に気づくべきだった。 行きつけの店というのは、おそらく。 「やあ、いま帰ったよ、レディたち」 まるで屋敷に帰りついた家主のように堂々と、男は店の看板をくぐった。 「あら、お帰りなさーい」 「ロイスちゃんったら、また外で浮気してきたんでしょお」 わらわらと迎え入れるのは、香水の香りをまき散らした美女たちだ。とはいえ、顔面に化粧が塗りたくられているので、素顔のほどはわからない。キルリアーナは思わず、まじまじと観察してしまう。 「なあに、今日は人助けさ。風呂を貸してくれるかな。このいたいけな少年を洗ってやりたいんだが」 「あら、かわいこちゃん。もちろん、すぐに用意するわ」 女のうちのひとりがウィンクをする。そこから目に見えないなにかが出たような気がして、思わずキルリアーナは避ける。 表の看板に『愛の宿』とあったとおり、一応は宿ということらしい。外装は目のくらみそうな桃色だったが、内装は比較的落ち着いていて、白く塗られた木の壁が続いていた。時折飾られているいやに抽象的な絵画さえなければ、普通の宿といえないこともない。 風呂まである宿となると、よほどの高級宿か、または寝食以外を目的とした宿の二択だ。ここはどう見ても後者だった。 下ろしてくれと頼むのも忘れて、キルリアーナはロイスと呼ばれた男を見上げた。 なぜか自信たっぷりの風格で、立っている。 突然降ってきて、まるでそれが使命であるかのようにキルリアーナを助け、ヒーローのように──おそらく本人はヒーローのつもりなのだろう──抱きかかえてやってきたのが、この店。 いったいどういう脳をしているのだろう。覗いてみたいものだと真剣に思う。 「じゃ、お姉さんが一緒に入って、きれいに洗ってあげようかしら。いいわよね、ロイスちゃん? ちょっとお高くなるけど、サービスするわよお」 「おっと、じゃあ僕も入ろうかな」 茶色の髪の女性とロイスが笑い合っている。どうやら正真正銘、そういう店のようだ。 キルリアーナはやっと、このままではいけないと悟った。ロイスの腕からおりて、丁重にお断りする。 「風呂は借りるよ。でも自分で洗える。あんた……ロイス? 服くれるんならくれよ。着替えたら、さっさと帰るからさ」 「いやん、残念」 答えたのは女性のほうだ。ロイスは少し考えるような素振りを見せて、君がそれでいいのならとあっさり承諾した。まったく話の通じない相手というわけではないらしいと、キルリアーナは彼に対する評価を少し改める。 女性の案内するままに、キルリアーナはついて行った。わざとなのか、そういう仕草が身についているのか、茶色の長い髪とついでに尻を左右に揺らしながら、女性が先導していく。女性は踵の高い靴を履いていて、ただでさえ背の低いキルリアーナの視界には、どうしても尻が入ってくる。見るのが礼儀だという気さえして、遠慮なく凝視した。なんという洗練されたフォルムだろう。抽象画ではなく、いっそ尻を飾ればいいのにとキルリアーナは思う。 「服は、捨てちゃったほうがいいかしらね? 洗ってもいいけど、この臭いとシミ、たぶんとれないわよお」 気を取られていると、尻が心配そうにそういった。否、いったのは女性だ。 「捨てるよ。あいつが新しいのくれるらしいし」 「そう? そうね、それがいいわ。じゃ、脱いだのはそのままにしといてくれたら、こっちで処分するわね」 一つだけ色の違う、大きな扉の前で立ち止まる。女性がそこを開けると、想像よりも大きな、とはいえこの町の大浴場と比べるにはあまりにも小さな湯船が、部屋の奥に構えていた。キルリアーナは内心でほっとする。普通の風呂のようだ。 「いまはあなただけの貸し切りよ。あるものは自由に使って。なにかあったら大きな声で呼んでもらえれば、だれかには聞こえるから」 女性は優しく微笑んだ。わざわざキルリアーナの目線に合わせてかがみ、頭を撫でる仕草をする。顔よりも、大きく開いた胸元が強調され、キルリアーナはやはりそこを見てしまう。 「ありがとう、お姉さん」 素直に礼をいうと、女性はひらひらと手を振って、尻を振りながら廊下を戻っていった。キルリアーナはその尻を見送って、浴場に足を踏み入れる。 のんびりと湯浴みをするつもりも、もちろん浴場の雰囲気を堪能するつもりもない。扉を閉めると、躊躇なく衣類を脱ぎ捨てていく。 ふと、鏡があるのが目に入った。ずいぶんと大きな鏡だ。ロイスでさえ、頭の先から足の先まで映し出せるだろう。くすんではいるが、これほどの鏡があるとは、この宿は実は高級宿の範疇に入るのかもしれない。 そこにいる自分を見て、妙に納得した。 肩より上、適当に短く切られた茶の髪。痩せた身体の上にのった顔には、ぎらぎらと大きな目。 この店の女性たちとは、比べものにならない。 「まあ、少年だな」 それが妥当だ。文句をいう気にもなれない。 もう、それ以上は見なかった。迷いなく湯船に突進していく。脇に避けてあるついたてを、一応は扉と平行に置いた。目隠しをする必要も感じないが、マナーというやつだ。 手桶があったので、まず身体を流した。頭から湯をかぶる。あたたかい。 この湯のなかに入ってもいいものだろうかと、一瞬考える。おそらく問題ないのだろうが、ためらわれた。キルリアーナとしては、果物のべたつきと臭い、それから垢がある程度落ちれば、それで充分なのだ。 このまま出ようかと考える。しかしそこで、思い当たった。そういえば、新しい服とやらは、どうなっているのだろう。 ちょうどそのとき、浴場の戸がノックされた。 「やあ、ちょっと開けるよ」 ロイスの声だ。返事を待つ様子もなく、なかへと入ってくる。 「湯加減はどうだい? せっかくだから、僕も一緒にいいかな」 扉を閉める音、それからすぐに、服を脱いでいるらしい音まで続く。キルリアーナの反応など気にするつもりはないようだ。衣類は持って来たのだろうかと、キルリアーナにとってはその点が重要だ。 「いいけど」 答えてから、思う。一緒に風呂に入ることは、キルリアーナの感覚では、問題がない。恥じらいの心を持ち合わせていないからだ。しかし、一般的にはどうか。 彼は、勘違いしたままではないだろうか。 「もう出るから、そのあと入れば?」 その提案は、善意のようなものだった。しかし、ついたてはあっさりと動かされる。 「男同士で、なにを遠慮しているんだい! せっかくなのだから、もっとゆっくりあたたまって、裸のつきあいを……」 目が合った。 ロイスはまったくの全裸だった。もちろん、キルリアーナもだ。 お互いの動きが、止まる。 キルリアーナは、ロイスの胸元を凝視していた。服の上から見るよりも、よほど頼もしい胸板。そしてそこには、縦に真っ直ぐ、大きな傷跡があった。 「あれ、あんた、もしかして」 見覚えがある。しかし、ロイスはそれどころではなかったようだ。 ゆっくりと、目を見開いたままで、彼の顔が上下する。 濡れたキルリアーナの、多少ではあるが盛り上がった胸と、細い腰と、その下とを、緑色の目が映し出す。 ロイスはそのまま、たっぷり三呼吸分、停止した。 「ああ、そっか」 いおうとしたまま、忘れていた。キルリアーナはとりあえず隠すべきところを隠そうかとも思ったが、それをする手段もないので、結局そのまま告げる。 「オレ一応、女なんだけど。裸のつきあい、すんの?」 ロイスは、ひどくゆっくりと、首を左右に振った。 静かに、ついたてが戻される。 その向こう側で、形容しがたい悲鳴のような声が、細く長く響いた。 |
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