第四章 二つの世界 1

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   一


 クレアの言葉どおり、オリキュレールとカリツォーは、すぐに事切れた。それを見届けるのがやっとで、フェーヴたちは、城に長く居続けることはできなかった。ずっと見ていたのだろう、なにもない空間から現れたスピラーリは、いつになく真剣な顔で、ショコラに告げた。ここにいては犯人にされる、動けなくなる──と。
 ショコラは逃げ帰ることを頑なに拒否したが、犯人にされるどころか、すでにことはショコラを首謀者として城内に広まっていた。旅から帰った「姫」の乱心──ショコラ=プレジールとその共の男とが、女帝と、側近のカリツォーと、友人のクレアを無惨にも殺したのだと、そう決めつけられていた。ショコラは起こったことを正直に話すべきだと主張したが、これにはフェーヴも難色を示さずにはいられなかった。ありのままを話してどうにかなるとは、到底思えなかったのだ。
「──お客様、こちらでよろしいでしょうか?」
 遠慮がちにかけられた声で、フェーヴは我に返った。うなずいて、包みを受け取る。プテリュクスに怯えているのか、どこか硬い表情のまま、店員は頭を下げた。
 すぐに店を出て、フェーヴはさっさと戻ろうかと歩き出す。空は暗くなっており、どこも店じまいをするころだろう。
 戻る、という発想に自嘲した。一度は戻らなければならない──このまま放っておくわけにも、無関係を貫くわけにもいかない。
 だが、その先、どうするというのだろうか。
 別人のように表情を失い、うなだれるショコラの姿が思い出された。フェーヴは表現しがたい思い──それは後悔のようななにかだったかもしれないが、整理しきれる感情ではない──を胸に、道を急いだ。


 城よりも南西、街の華々しさとは少し距離をとった場所に、その建物はあった。規模だけを見れば物怖じするほどのものだったが、外観には飾り気がなく、質量だけが異様な存在感を放っている。手入れがされているのかされていないのか、さまざまな植物がほうぼうに伸び、外壁に絡みついていた。その様子はいっそ威厳すら感じさせ、それら全体の均衡がこの建物そのものを象徴しているかのようだった。
 これこそが、イデアル・アカデミー──あらゆる学術を修めようというものたちの憧れの場所だ。専門の知識と修練を要するソルシエールもまた例外ではなく、ショコラの母校ともいえる場所であった。
 イデアル・アカデミーの敷地内に入り、さらに奥まで進むと、今度はより装飾とは縁のない建物に出くわす。ここは希望者が修学期間を過ごす寮になっていた。
 フェーヴは、建物の脇を通り抜けて裏に回ると、自分に注意を払っている人物がいないことを確認し、通用口からするりとなかに入った。足音をたてずに廊下を進み、薄暗い階段を下りる。地下に並ぶ扉の、一番端を開けた。
「やあフェーヴ君、お帰り。堂々とお買い物、どうだった?」
 部屋では、スピラーリとショコラが待っていた。ただいまという気にもなれなかったが、町の状況ぐらいは伝えるべきかとショコラを見る。彼女はなにも乗っていないテーブルに向かっていた。扉に背を向けていて、表情までは見えない。
「事件がどーのって話にはなってねえよ、静かなもんだ。騒ぎもなければ、俺がだれかに見咎められるってこともない」
 そういって、手にした紙袋を開けた。買ってきたばかりのロングコートを広げる。少年の姿のときに着ていたものと、よく似たデザインの黒いコートだ。やはり黒を基調としたズボンとシャツは、すでに店で買ったものを着用している。
 スピラーリは呆れたように肩をすくめた。
「どうしても買いたいものがあるって、それのことかい? まさか帽子も?」
「いや」
 フェーヴは首を振った。
「帽子はいいのが見つからなかった」
 スピラーリがさらに複雑そうな顔をする。それにはかまわず、フェーヴはショコラの目の前に、小さな紙袋を放り投げた。
「食っとけ」
 しかし、ショコラは振り返らなかった。ただ、目の前に投げ出された紙袋を、緩慢な動作で手にする。なかから複数のパンがでてきて、それを持った状態で動きを止めてしまった。
 予期せぬ沈黙に、居心地の悪い思いでフェーヴはちらりとスピラーリを見る。彼はおもしろそうに眉を上げただけで、言葉を返す気配はない。
 まさか泣いているのだろうか──それは充分に考えられる事態だった。あのままプレジール邸に戻るわけにもいかず、ショコラの提案でイデアル・アカデミーまで来て、やっと落ち着いたところなのだ。状況を整理して、城での出来事が現実としてのしかかってきているのかもしれない。彼女の胸中にどんな思いが渦巻いているかなど、フェーヴには知る由もない。
 恐る恐る、フェーヴはショコラの顔が見える位置まで移動した。やはり、うつむいたままだ。
「ありがとう、ございます」
 やがてぽつりと、ショコラはつぶやいた。パンをほんの一口かじり、飲み込む。それからやっと、小さく笑った。
「おいしいです。あなたからこんな贈り物をもらう日が来るとは思いませんでした」
「……ついでだけどな。つーか感謝するなら感謝だけにしろよ」
 思わず悪態が口をつく。ショコラはもう一度笑って、顔を上げた。
「これからのことを、考えましょう」
 その表情には沈んだ様子はなく、完璧なほどに凛としていた。立ち上がり、決意を込めた眼差しで、ショコラは二人を見た。
「無駄だといわれようとなんだろうと、引き下がるつもりはありません。こうなったら、プテリュクスに直談判です」
 意を決した、はっきりとした口調だった。しかし、反比例するように柔らかく、どこか馬鹿にしたような色さえ含んで、スピラーリが口を挟んだ。
「どうやって? 見たでしょう、君のお母さんだけじゃなく、カリツォーだってやられた。こちら側の支配者がああもあっさり死んだのに、君になにができると?」
 フェーヴはスピラーリをにらみつけた。だが、声をあげることはしなかった。問題は多々あるが、彼のいっていることは正論だ。
 しかし、ショコラはひるまなかった。
「だから、直談判です。プテリュクスなら、この町にいくらでもいます。話にならないようなら、何人だって人質にとって、プテリュクスの偉いひとに出てきてもらって、それで──」
「ああ、『プテリュクス』ね……あの羽の生えた、いかにもなデザインの。なるほど」
 スピラーリが薄く笑う。相変わらず、引っかかる物言いだ。
「それでもだめなら、境界を越えて──!」
「あんたは、なんなんだ」
 フェーヴはショコラの言葉を遮っていた。それは、彼女に会ってからずっと、漠然と感じていたことだ。
「……質問の意図がわかりません」
 ショコラが眉をひそめる。フェーヴは腕を組んで、彼女を見つめた。
「あんたは正義の味方なのか? 無敵なのか? そうやってひとりで突っ走ってなにかが変わると、本気で思ってんのか?」
 ショコラは目を見開いた。握りしめた両手が、小刻みに震え出す。
「……変わるかも、しれません。やってみなければわかりません。フェーヴ=ヴィーヴィル、あなたを巻き込んでしまったこと、もうしわけなく思っています。心配しなくても、ここからはわたしがひとりでやります。わたしにはもう、これしか」
「──だからっ」
 たたみかけようとして、フェーヴは言葉を飲み込んだ。なにをいっても無駄だ。できる、できない、という問題ではない。彼女はやるといっているのだ。
 不意に、扉が静かに叩かれた。ショコラが瞬時に背筋を伸ばす。フェーヴは振り返り、扉から距離をとった。
「入りますよ、ショコラ=プレジール」
 抑えたような、しかし威厳のある声が響く。はい、とショコラが答え、それから慌てて開けようとしたが、それよりも早く、向こう側から扉は引き開けられた。
 現れたのは、黒いローブに身を包んだ白髪の女性だった。足音をたてずに、ゆっくりと部屋に入る。顔や手に刻まれた皺はひどく深く、そのまま彼女の威厳を示しているかのようだった。
 メトルと呼ばれる、イデアル・アカデミーの最高責任者だ。メトルというのは名ではなく、役職を表すものであるようだったが、ショコラがそう呼ぶので、フェーヴにも名前はわからない。城を出てまっすぐにここに来た彼らに、事情も聞かずに部屋を与えてくれたのが彼女だった。
「遅くなってしまってもうしわけなかったわ、プレジール。それに、お二方も。ここは寒くないかしら?」
「とんでもないです、メトル。本当にありがとうございます。わたし、突然来てしまったのに……」
 恐縮しきった様子のショコラには、いつもの勢いはなかった。腕を組んだままのフェーヴと、椅子に横向きに座っているスピラーリに、鋭く目配せをする。敬意を払え、ということなのだろうが、それも今更だという気がして、フェーヴは肩をすくめた。
 しかし、珍しく空気を読んだらしいスピラーリが、颯爽と立ち上がった。メトルに一礼すると、恭しくその手をとる。
「このような好待遇、感謝いたします、マダム。大変良い居心地です。ついでになにか食料があると──」
「や、やめてください、ちょっと!」
 心底慌てた様子でショコラがスピラーリをはがす。メトルは気分を害した様子もなく、柔らかくほほえんだ。
「食事はすぐに用意します。それよりも……」
 メトルは、言葉を切った。口を開こうとして、また閉じる。どこか重い沈黙を挟んで、首を左右に振ると、ショコラを見た。
「……大変でしたね、プレジール」
 そう、短く告げた。ショコラがびくりと身を硬くする。フェーヴは素早くメトルの表情をうかがった。事情はなにひとつ説明していないはずだ。
「なにが、でしょうか、メトル?」
 旅のことと解釈して答えるのが正解だったのかもしれない。ショコラの挙動には動揺がにじみ出ていた。
「知っています──知っていました、といえばいいでしょか。なにかが、起こるということを。あなたがここへ来てから、城を見てきてもらいました。あなたの、お母様は……」
 いい淀み、メトルは一度うつむいた。すぐに顔を上げ、迷いを振り払うかのようなはっきりとした声で告げられたのは、その続きではなかった。
「ここは、あなたのもうひとつの家です」
 ショコラの瞳が揺らいだ。
「ずっとここにいていいのですよ、プレジール。新しく部屋を用意することもできます」
「メトル……」
 ショコラの頬はかすかに紅潮していた。嬉しいです、とつぶやく。その言葉は本心にほかならなかっただろう。それでも、彼女は首を振った。
「でも、わたしには……やることが、あります」
 メトルは笑みの形に目を細めた。寂しさと優しさとが同居した笑みだ。
「あなたは、彼女によく似ています。オリキュレールも、一時ここで学んでいました。母から受け継いだものを、誇りに思いなさい」
 ショコラが目を見開く。しかし、言葉が声になることはない。オリキュレールがここにいたという事実など知らなかったのだろう。似ているといわれたことに、驚いたのかもしれない。
 メトルはフェーヴに向き直り、じっと見つめると、白い封筒を差し出した。
「数日前、オリキュレールはここへ来ました。もし、プレジールがここへ来たらと、これを。ともに青い髪のだれかが来るだろうと」
「……俺?」
 封筒を持った手はまちがいなくフェーヴに向かって伸ばされていたが、フェーヴはためらう。女帝がここへ来たということは、自らの身に起こる事態──想定していたものとはちがっていたかもしれないが──をある程度予想していたということだ。そして、追いつめられたショコラがここへすがるだろうということも。
 しかし、それならそれで、どうしてショコラではなく、自分なのか。
「あなた宛てです。受け取ってください」
 そういわれてしまえば、受け取らないわけにもいかなかった。じっとショコラがこちらを見ている。ため息を吐き出して、フェーヴは手をのばした。
「……ああ、わかった」
 手紙のようだった。紙の感触が伝わってくる。この場ですぐ開けるのもためらわれ、ただ握るだけだ。
「日も暮れます。のちほど、毛布をここへ。また食事の準備ができ次第、呼びに来ましょう」
 そういって、メトルはショコラを見た。複雑な表情を浮かべ、しかし言葉はかけず、そのままきびすを返す。
 乾いた音をたてて、扉が閉められた。
 残ったのは、居心地の悪い沈黙だけだ。
「君宛てか。ショコラ君がフェーヴ君を連れてくるのは、予想してたみたいだね。さんざんけなしてたけど、信頼されてたってことかな?」
 もう一度椅子にすわり、スピラーリが軽い調子でいう。やはり城での一部始終を聞いていたのだろう。フェーヴは彼を一瞥し、自らも椅子についた。
 ショコラの視線を感じながら、封を開ける。なかには二枚の白い便せんが入っていて、几帳面な文字がびっしりと並んでいた。
 フェーヴは無言で、それを読んだ。注意深く、二度。
 それは確かに、フェーヴ宛ての手紙だった。しかし、それだけではないはずだった。フェーヴは封筒に一枚だけ便箋を戻し、立ち上がる。
「読むか?」
 問いの形にしておきながらも、ショコラの前に、封筒を置いた。ショコラは、手を伸ばすことはない。
「わたしは……」
 小さく途切れる。彼女の表情からは困惑と、悔しさのようなものが読みとれた。いらだちに眉をひそめ、フェーヴはさらに封筒を押し出した。
「読め」
「読みません」
 ショコラははっきりと、首を左右に振った。
「わたしには、読む資格がありません。それは、お母様があなたに書いたものです」
「そんなもん関係あるか。あんた娘なんだろ。読んどけ」
「でも」
 ショコラは声を荒らげた。険しい目で、フェーヴをにらみつける。けれどその瞳は揺らいでいて、迷い、後悔しているようでもあった。
「娘、であったかもしれません。でも、愛されてはいませんでした。たぶんわたしも、愛してなどいませんでした。一緒に暮らしたこともありません。言葉を交わしたことも、数えるほどしか。わたしとお母様の間には、血以外に、絆と呼べるようなものなどなにひとつないのです。お母様が亡くなっても、ショックを受けはしましたが……」
 唇をかみしめて、ショコラは握った拳でテーブルを叩いた。叩く、というにはあまりにも弱々しかったが、押し殺すような力が込められている。
「……悲しくはないです。わからない。なにが起こっていて、わたしはなにがしたくて、どうすればいいのか……」
「あんたはさ」
 フェーヴは息をついた。彼女の心情は、痛いほどわかるような気がした。それは、オリキュレールの手紙を読んだからだ。
 泣きそうな顔をしながらも泣くことはないショコラの頭を、乱暴に撫でる。
「母親がしたかったことを、したいんだろ。いまだってそう思ってんなら、そうすりゃいい。それがあんたにとって唯一だったんなら、そうしろ。最後まで、つきあってやるよ」
 驚いたように、ショコラが顔を上げた。頬を赤らめて、静かにうなずく。それから、便せんを取り出した。
 そこには、オリキュレールがアンファンであるということと、ポムダダン帝国がなぜ現在の形でここに在るのかということ──それは実際に女帝の口から聞いたことだったが──が、事細かに記されていた。そうして最後には、ショコラへのメッセージともとれる文句が、短い言葉でつづられていた。


 同じ過ちを決して繰り返すまいと、わたくしは誓った。
 結果、わたくしはあの子を愛さなかった。
 そのことが悔しくてたまらない。


 ショコラは、便せんを握りしめた。
 音もなく、涙が落ちた。  




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