第三章 ポムダダン 4
四
扉の向こう側は、それほど特別なものではなかった。クレアがいた部屋と大差ない。それでも、一般的な感覚からすれば充分に絢爛な室内だったが、たったの二部屋でフェーヴの感覚はすでに麻痺していた。こんなものか、と思う。
謁見を目的とした部屋ではないのだろう。かといって、プライベートルームのような生活臭もしない。まさに、こういうときのために用意されている部屋か──または、客室の類なのかもしれなかった。
「お久しぶりです、お母様」
一礼するでもなく、ショコラがそう声を投げた。部屋の奥では茶のソファがローテーブルを囲んでおり、そのなかの一番大きなソファに、女帝は腰をうずめていた。
オリキュレール=ポムダダン。ポムダダン帝国のすべてを掌握するといわれる女性だ。
どちらかというと色調を抑えた、質素なドレスに身を包み、ただそこにいるだけなのに、いいしれぬ威圧感があった。フェーヴは喉が乾いていくのを感じ、そっと唾をのむ。外見はまだ齢四十を数えていないほどだろうか、思ったよりも若い姿で、フェーヴと同じ真っ青な髪を、頭のうしろで結い上げていた。
「母と呼ぶのをやめなさい、ショコラ=プレジール」
オリキュレールは、立ち上がるわけでもなく、視界の端でショコラを捉えた。細められた目はごく冷淡で、フェーヴは自分たちが決して歓迎されていないのだと知る。
だが、ショコラは慣れたものなのだろう。ものともせずに奥へと進み、オリキュレールの正面に立った。
「わたしを生んでくださったのですから、お母様です。その事実は変わりません。──本日は、ケンカをしに来たわけではないのです、お母様」
「ほう」
オリキュレールの口元に、わずかだが笑みが浮かんだ。
「わたくしを止められないから、最後のアンファンを捜しに出たのだろう。捜すのならたぶらかせといったのに、ここまで連れてくるしか脳がない。共と、ソルシエールの剣まで携えて、それでケンカをしに来たわけではない? 相変わらず、おまえは愚かだね」
オリキュレールの声はひどく淡々としていた。口調も若干変化する。その声は男性のものかと思うほどに低くかすれ、それでいて威厳があった。
少なくとも、旅から帰ってきた「娘」に対する態度ではない。それぞれ事情があるのだろうとは思いつつも、不快感を隠しきれず、フェーヴは眉間にしわを寄せる。
「わたしが愚かなのは知っています。でも、あなたの方がもっと愚かです」
それでも、ショコラは一歩も引かなかった。フェーヴは壁際まで寄ると、背を預けて傍観することにする。聞きたいことは山ほどあるが、親子の対話を押し退けてまで前に出る気はなかった。
「わたしは、境界からプテリュクスが押し寄せてくるのを見ました。彼らによって火を落とされたサンドリユを見ました。翼堕ちが増え、生活に支障をきたしている人々を見ました。──そして帝都の人間は、いま、おびえて暮らしています。プテリュクスの監視は、あなたへの牽制でしょう。結果がわからないあなたではないはずです。どうして、プテリュクス領へなんか……!」
「繰り返された問答に興味はない」
オリキュレールはあっさりと一蹴した。娘であるはずのショコラを、他人を見るような目で映す。
「わたくしの意志は変わらないよ、ショコラ=プレジール。以前、あなたに告げたとおり。ポムダダンは、プテリュクス領に攻め入る。それがなにを意味しようとも」
引っかかりを感じ、フェーヴはオリキュレールの表情を見た。熱を発していないかのような、静かな冷たさをたたえている。だが、やはり、釈然としなかった。
仲の良い母娘、にはとても見えない。かつ、プテリュクスに攻め入るのはもう決定事項だといっている。ならばなぜ、わざわざ娘にそれを告げたのだろう。
まだここにこうしているのも、まるで彼女待っていたかのようだ。彼女と、もしかしたら自分を。
「せめて、理由を教えてください。プテリュクスは驚異かもしれませんが、境界を越えない限りなにもしてこないはずです。帝国の領土を拡張するよりも前に、すべきこともあるでしょう。わたしには、あなたの考えがまるでわかりません」
「ああ……」
オリキュレールは、失笑した。明らかな落胆と、あきらめに似た色がにじみ出る。ショコラがなにかを口にしようとしたが、女帝はかすかに手を持ち上げるという挙動だけで、それを制した。
「境界まで見に行って、それか。本当に、愚かな娘」
その言葉には、あまりにも重い響きがあった。ショコラが両手を握りしめ、小さく震える。
思わず、フェーヴは動いていた。
「せめて、わかるように説明してくれ。あんたはなにもかもわかってるみたいだけどな。俺をここに入れた以上、それぐらいしてくれたっていいんじゃねえの」
口を出すまいと思っていたのに、長くは続かなかった。オリキュレールのものいいが投げやりで要領を得ず、頭にきていたのだ。
オリキュレールは顔を上げ、初めて、フェーヴを見た。おもしろそうに目を細める。
「わたくしと同じ存在でありながら、なにも知らない愚かなアンファン──聞きたいのなら教えることもできるが、自ら理解しないことにはどうにもならないよ。あなたも思い知っているはずだ、この世界の不条理を」
フェーヴは口を閉ざした。その沈黙がそのまま、肯定となっていた。
同じアンファンである彼女の言葉だからこそ、意味があった。この世界の不条理──女神に愛された子が背負わなければならない、恐ろしいほどの歪み。
なぜ、と考えたことがないわけではない。
しかし、答えなど出なかった。
それを知ることは、世界そのものと相対せねばならないことのような気がした。それは途方もないことだ。
本当は、気づいている。
自分が──自分だけではない、人間という存在が、なにか大きな仕組みのなかで生かされているのではないということに。
「ショコラ=プレジール──おまえは、どこの境界に行ったのだと?」
視線を戻し、オリキュレールが問う。ショコラはすぐに答えようとしたようだったが、沈黙が訪れた。
フェーヴも、その意味に気づいた。どこの境界、という言葉。
「お母様、境界というのは、サンドリユの砂漠の向こう側にあります」
慎重に言葉を選ぶようにして、ショコラが答える。しかし、オリキュレールは笑んだままだ。
まさか、とフェーヴは、ある可能性に思い当たった。サンドリユの境界をそのまま辿っていくと、地図上では海に出ることになる。目前に険しい岩場が連なるため、陸地からは行くことができない。また、港からもほど遠い位置となり、そこまで船が出ることはない。それはまるで決められたことのように。
もしも──フェーヴは考えた。もしも、岩場も、海も、さらにその先もずっと、境界が途切れることなく続いているのだとしたら。
フェーヴは、息をのんだ。
「……境界は、この世界を、囲んでいる?」
「そこまでにしてもらえるかしら」
突如として、声が割り込んだ。
いつのまにか、クレアがいた。部屋の中央、まるで最初からそこにいたかのように。
フェーヴはとっさに扉を確認する。物音などしなかった。あそこから入ってきて、気づかないわけがない。
では、どうやって現れたのか──スピラーリの存在が、脳裏に浮かんだ。
なんの前触れもなく現れる。これではまるで、あの男のようではないか。
「だれですか、あなた」
ショコラが眉をひそめる。しかし、オリキュレールは顔色一つ変えなかった。
「出て行きなさい、クレア」
抑えた声で、しかし毅然と告げる。クレア、という名が出たことに、フェーヴは性懲りもなくどきりとした。では、やはりこの女性はクレアなのだ。
「あら、質問にぐらい答えさせて。初めまして、かわいらしいお嬢さん。私はクレア。あなたのお母様の友人で──フェーヴの昔の恋人よ」
クレアはドレスの裾をつまむと、場にそぐわないほど優雅に一礼してみせた。よろしくね、とほほえむ。
「昔の恋人……?」
眉をひそめ、ショコラがフェーヴを見る。確認するような、訝しむような目だ。どう反応すべきなのか決めかねて、フェーヴは微動だにできない。うなずけば良いのだろうか。
「詳しく知りたいのならいくらでも教えるわ、お嬢さん。彼がかつて、どれほど、私を愛してくれたのか」
「なるほど……フェーヴ=ヴィーヴィルにも、そうやって近づいていたか。ほかのアンファンも全員なのだろうね」
オリキュレールの口が紡いだ言葉が、フェーヴの脳を揺らした。頭の芯まで届きそうで、どうしても届かない。まるで無意識のうちに拒絶しているかのように。
なんといったのだろう。
この女帝は、いま、なんと。
「そんないいかたってないわ、オリキュレール。お友達でしょう?」
クレアが拗ねたような顔をする。しかし、オリキュレールは名を呼ばれたこと自体が汚らわしいとでもいうように、不快げに眉を動かした。
「わたくしはあなたを友人などとは思っていない。かつては友人だったかもしれないが、いまではそうは思っていないよ」
「冷たいのね。あなた、昔からそう。女帝になってから余計だわ。あの手この手で近づいても、一度も私を愛してくれない──それはそれで、ちょっと楽しかったけれど」
「愛などと、簡単に口にしないで」
初めて激しく感情を表に出し、オリキュレールはぴしゃりといった。
「愛するということを、そんな些細なことのようにいう──だから、あなたはこんな残酷なことができる」
「些細? 些細だわ、あなたたちの愛なんて。でも、アンファンに限っていうならば、それは罪よ」
フェーヴは、二人のやりとりをどこか遠い場所で見ているかのような、不可解な感覚に陥っていた。もう少しですべてが理解できそうで、しかしどうしてもわからない。知りたいと思うのに、知ってはいけないという強い拒絶。とっさに耳をふさぎたくなる。
逃げてしまえ──だれかが囁いた。
だれでもない、それは自分自身にほかならない。ずっと逃げ続けてきた、自分の声だ。聞きたくないのなら、聞かなければいい。逃げてしまえ。背を向けて、走り出せばいい。簡単なことだ。
「……話がわかりません、お母様。いったい、なにを──」
「この世界は、狂っている」
オリキュレールは、立ち上がった。
「存在そのものが、歪んでいる。ポムダダンという帝国が、どうしてこうまで巧妙に、人民のひとりからも疎まれず、それまでは確かに存在した他国に恨まれることもなく、世界を束ねているのか──それを考えたことがある? ないだろうね、考えることすらできないようになっている。わたくしは青い髪を持っているのに、そのことについて疑問を投げるものはいない。真実に気づくものなど、もちろん」
オリキュレールの青い瞳が、フェーヴを見た。その目が、ほんの一瞬、寂しそうな色を帯びる。
「あの方を愛する気などなかった」
その一言で、フェーヴは察した。
アンファンという存在が生まれ持つ能力──愛したものの命と引き替えに、その願いを叶えるという、否応ない力。
帝王の死は十六年前だ。ポムダダン帝国が大陸すべてを掌握したのも、十六年前。それ以前は、小国が乱立していたはずだ。女帝がアンファンである以上、それは偶然であるはずがなかった。
事実として知っているはずなのに、考えたこともなかった──考えることができなかったのだろう、女帝の言が正しいのならば。
それすら、できない『仕組み』になっているのだ。
「いくらそれが願いだからといって……そんなこと」
ショコラの声は細く震え、その先へ続かなかった。オリキュレールの言葉には、納得するしかない説得力があった。
実の娘でありながら、これまでそのことについて考えたこともなかったという事実が、皮肉にも真実を裏付けていたのだろう。ショコラの身体から、力が抜ける。
「わからないわ」
小首をかしげるようにして、クレアがつぶやいた。
「それを素晴らしいと思えばいいのに。なぜ、歪んでいると、恐ろしいと、思うのかしら? それなら、愛さなければよかったのよ。女神に愛された子でありながら、エートルごときを愛するなんて、ばかげてる」
「エートル……」
思わず、フェーヴはつぶやいていた。
その単語は聞いたことがあった。意味を問おうとしたことはない。けれど、たしかに知っていた。耳に残っている。
スピラーリだ。
たしかに、スピラーリがいっていた。愚かなエートルたちと、人間に向かって。
人間とエートルが同義なのだとして──スピラーリや、いま目の前にいるクレアは、いったいなんだというのだろう。
「そう、だからあなたと問答する気など、最初からない」
意志を込めた瞳でオリキュレールが告げるのと、同時だった。フェーヴは空間の揺らぎと気配を感じ、とっさに横に飛ぶ。彼がいた場所を巻き込んで、爆発が起きた。中心となったのは、クレアだ。
「──お母様っ」
ショコラが叫ぶ。その声を頼りにフェーヴは彼女の腕をつかみ、割れた窓から飛び出そうとした。しかし、ほかならぬ彼女自身がそれを許さない。ショコラはフェーヴの手をふりほどき、背から大剣を引き抜いていた。鞘ごと構え、なにごとかを早口で唱える。
彼女の大剣から、光が生まれる。それはオリキュレールのいた場所へと飛び出したが、なにかにはじかれるように霧散した。光の塵の向こう側、爆風のなかから、影が飛び出す。
「愛を受けながらそれに逆らう。なんて傲慢で、身勝手」
クレアの静かな声が、オリキュレールの姿と重なった。彼女の白い手は、オリキュレールの腹部を貫いていた。鮮血が滴る。まるでドレスを彩るように。
「……あきらめるわけにはいかない。このままのうのうと、貴様らに食われるものか」
オリキュレールが血を吐き、それでも鋭い目でクレアをにらみつける。ショコラは悲鳴をあげはしなかった。ただ息を鋭く吸い込んで、再び剣を構えた。
「食う、だなんて。人聞きが悪いわ、愛しいオリキュレール。どうせ、あなたが結末を見ることはないでしょう。いま、消えてなくなるのだから」
「それでも!」
血にまみれてなお、オリキュレールは両手をつきだした。自らの腹部に手が突き刺さっていることなどものともせず、クレアの肩をつかむ。
「それでも、死んでもらおう!」
クレアはとっさに身を引こうとしたようだった。しかし、彼女の身体は、うしろから羽交い締めにされていた。
「──なんのつもりかしら」
「こういうこともあるということですよ」
クレアの言葉に、緊張した声が応える。
突如現れたのは、痩身の男だった。初めて見る人物だが、フェーヴはすぐに理解する。男の風貌は、フェーヴのよく知る人物と酷似していた。なにより、首に巻いたループタイは、彼と同一のものだ。
「カリツォー! そのまま、その女を離さないで!」
ショコラが叫び、水平に構えた剣を振り上げる。フェーヴは、動くこともできない。この状況でどう動くのが正解なのか、判断することができなかった。
わかっているのは、オリキュレールが死に瀕してるということ。彼女の身体を貫いているのはクレアの手で、そのクレアもいま、オリキュレールと彼女の監視者によって、危険な状態にあるということ。
「許さない──!」
ショコラの剣から、光がほとばしる。瞬間、クレアの憎悪に満ちた目が、ショコラを射抜いた。
とっさに、フェーヴは動いた。ショコラの身体を抱え、飛ぶ。クレアが跳躍し、赤い手を引く。しかし標的がいるはずの場所には、彼女よりもかすかに早く飛びだした男がいた。
カリツォーだ。
クレアの繰り出した手が、彼の身体を引き裂いた。水平に、胸部がえぐれる。彼はそのまま膝をつき、血を吐き出した。
「──ああ、そう。あなたも守るのね。愚かなエートルの邪魔がなければ、私ぐらい消すことができたかもしれないのに」
クレアの表情に、もう笑みはなかった。淡々とつぶやく。
彼女は二人分の血の流れる手をだらりと垂らし、ショコラと、彼女をかばうようにして立つフェーヴを見た。
「すぐに死ぬわ、愛しいオリキュレールも、ばかなカリツォーも。あなたも、ここで死にたいのかしら」
あなた、というのが、自分に向けられたものなのだと、フェーヴにはすぐわかった。しかし、答えることができない。目の前で起こったことが、まだ整理できずにいた。
彼女のいうとおり、二人はもう死を待つだけなのだろう。出血量を見れば明らかだった。フェーヴは、奥歯をかみしめる。
「……ああ、残念。無理ね。この身体はもう限界みたい。それに、どうせもう一人、邪魔が入るのでしょう。ばかみたいに勤勉に、見ているのでしょうから」
不意に首を左右に振り、クレアがため息をついた。ダメージを受けていないはずの彼女の身体は、あちらこちらが裂け始めていた。血は流れない。まるで、どこまでも乾いていくかのように、白く白く固まっていく。
「覚えていて。こちら側は、もう、終わりよ。私たちがもらうの。そう、決まったのよ」
最後に笑って、そのままクレアは、人形のようにごとりと倒れた。