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第三章 ポムダダン 1

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   一


「青って、女神様の色よ」
 彼女はそういって笑った。
 女神の存在など、青年にとっては疎ましいものでしかなかったが、彼女がそういうのならば、それでいいという気になった。
「とても素敵」
 それがすべてたっだ。青という色すら、好きになれそうだった。
 それでも──それ以上に進んではいけないのだと、知っていた。
 心にきつく鍵をかけた。
 彼女のほほえみを、見ないようにした。彼女と距離をとった。できるだけ離れて、忘れようと努めた。
 しかし、その思いそのものが、すでに手遅れだという証だった。気持ちは確実に、育っていたのだ。自らの力では、どうにもならないほどに。
 無償の愛を注いでくれた母。青を疎みながらも、育てようとしてくれた父。世話になった大人たち。友人。──恋人、になり得た人たち。
 いったい何人の愛すべきものたちの命を、奪ってきたのだろう。
「泣かないで」
 彼女が笑う。
 まさに消えようとする命で、それでも柔らかく、笑う。
「私は本当に、幸せだったから」
 視界を覆う、赤と黒。
 黒が赤に浸食され、やがて赤一色になっていく。
 ほかにはなにも見えない。
 見えない。

「君は本当に愚かだね」
 ひどく冷たい目で、男はいった。
 彼女の体を持ち上げる。もう動かない、愛した人の肢体。
 赤すらも、消えた。
 いままでと同じように。
 これからと同じように。



「──クレア!」
 自分の声で目を覚まし、フェーヴは飛び起きた。柔らかいベッドに寝ていたことに驚く。いつも利用する安宿のような固さではない。
 脇の窓には分厚いカーテンがかかっていた。天井は高く、金持ちのそれであることは疑いようもない。
「あいつの、家か……」
 声に出してつぶいやいた。そうでもしないと、また夢のなかに引き込まれそうだった。手の甲で冷や汗を拭う。じっとりと、全身が汗ばんでいる。
 ここは、ショコラ=プレジールの家だった。大方の予想通り、ショコラの家は大変な金持ちのようだ。スピラーリによって瞬時に運ばれた場所は帝都で、夜中である上にあっという間に衣服が重くなるほどの大雨。その状況で、あまり乗り気ではないようだったが、ショコラが名乗りを上げたのだ。家が近いから来てはどうか、と。
 家人はまだ寝ておらず、あれよあれよといううちに浴場に放り込まれた。大衆浴場と見まちがうほどの規模で、どうしたものかとフェーブは途方に暮れたが──そもそも、フェーヴに限らず、ほとんどの人間が風呂に入る習慣などないのだ──それでも湯で身体を流し、浴場を出た。待ちかまえていた使用人に真っ新な服を着せられ、今度は客室にむりやり通される。
 抵抗することもできたのだろうが、結局は、そのまま眠ってしまったのだ。フェーヴは、己の呑気さに呆れた。あまりにもされるがままだ。
 客室を見回す。一家の主の部屋といわれても納得してしまう大きさで、調度品も揃えられていた。チェストの上に、昨夜ずぶ濡れになったはずの服を見つけて、やっと自分が着慣れない服を着ていることを思い出す。緩慢な動作で手を伸ばし、のそのそと着替え始めた。
 ここにいることが、偶然とは思えなかった。おそらく、すべてをわかった上で、スピラーリがわざわざあの場所に飛んだのだろう。だとしたら、彼の狙いはなんなのだろう──手を動かしながらも、フェーヴはしばしの思考に入る。
 ショコラの願いを叶えさせたいのだろうか、とひとつの結論に行き当たった。
 彼女が口にした、世界平和という願い。それが具体的にどういうものかはわからないが、スピラーリにとって利益となる願いとも思えない。
 となれば、狙いは別にあるのだろうか。それとも、ショコラの願いが本当はちがうなにかなのだろうか。
 着替え終わり、革靴を履く。最後に帽子をかぶると、チェストの脇に鏡があるのが見えた。小さな壁掛けのものだが、鏡があるという事実が、ここが庶民の家ではないことを物語っている。フェーヴは思わず、自分の姿を見つめた。
「──なにをのうのうと」
 小さく吐き捨てた。仏頂面が映っている。
 何度も死ぬはずだった命だ。おそらくは、サンドリユの砂漠で、プテリュクスが押し寄せてきたときも。けれど、生き長らえた。
 決して知ることはない、マダムの願いに思いを馳せる。腹の底から、感情が突き上げてきた。感謝、ではない。後悔に酷似した思いと、やるせなさ。瞳を閉じれば、彼女の最期がまざまざとよみがえった。すぐに振り払いたい衝動に駆られたが、フェーヴはそのまま、まぶたの裏でその光景を見続けた。
 忘れてはいけない。
 幾人もの命の上に立っているのだということを、決して忘れてはいけないのだ。
「フェーヴ=ヴィーヴィル、起きましたか?」
 ノックもなく、扉が開け放たれた。開けるのと声をかけるのとが同時だ。
 現れた姿に、げんなりする。それはショコラ=プレジールにまちがいないかったが、着ているものが明らかに異質だった。
「……今日はいったいなんのパーティだ」
「なんのはなしですか?」
 ごく不思議そうに聞き返され、言葉を失う。鏡を見ろといってやりたいが、見たところでやはり首をかしげるのだろう。
 彼女の姿は、大剣を背負って地を駆けるそれとは大きくかけ離れていた。ひどくたくさんの布で形成された淡い緑色のドレスは、非実用的なことこのうえない。髪はおろされ、脇の幾らかを銀色の髪飾りで結い留めている。
「……何者なんだ、あんたは」
 ちょうどショコラがスピラーリにしたような問いが口からこぼれる。聞かずにはいられなかった。世間知らず、かつどこか世の中からずれている部分があるとは思っていたが、これは予想以上だ。
「それについて、お話したいことがあります。朝食──もう昼食ですが──の準備もありますので、どうぞ。断る理由もないでしょう?」
 それはもちろん、そのとおりだった。昨夜から引き続き、されるがままになっているのが少々癪に障ったが、フェーヴは肩をすくめてショコラに従った。 


 ポムダダン帝国、という名を知らないものはいない。それは女神クレアトゥールと同じほどにこの世界になくてはならないものであり、その存在が明確であるぶん、人々にとって絶対的なものだ。コール大陸のほとんどすべてがポムダダンによって統べられており、大陸そのものがひとつの帝国であるといってよかった。これはあくまで人間が暮らす地域──つまり境界以前に限定されるが、それでも、帝国が崩壊すれば秩序という言葉そのものが意味を失うだろう。
 帝国の為した功績はそれほどに大きく、人民を第一とするその方針は、ごくあたりまえに人々の支持を受けていた。
 ポムダダンとは、帝国そのものの名称でもあり、中枢を担う帝都の呼び名でもある。帝都ポムダダンには朝も夜もなく、あちらこちらに常に火が焚かれ、暗闇が存在しない。金の臭いが充満していて、それでいて清潔だ。この夢のような街に惹かれるものも多いが、フェーヴはこの街が好きではなかった。
 その帝都において、この暮らしぶりだ。
 もはや、金持ちという言葉では収まらない。
「さあどうぞ、たっぷり食べてください」
 いったいどれだけの人間が使うことを想定されたのか、いくらでも皿の乗りそうな大きさの長テーブルを、ショコラがなんでもないことのように示した。
 フェーヴの見たことのないような料理の数々が並んでいる。食卓についているのはスピラーリだけで、彼はずいぶん前からひとりで始めているようだった。グラスの脇に複数のビンが並んでいる。飲んでいるらしい。
「やあ、フェーヴ君。ずいぶんよく眠ったみたいだね。危うくぜんぶ僕の胃に入ってしまうところだったよ」
 スピラーリは肉にかぶりつきながら、呑気にそんなことをいった。さすがにそれは無理だろうと思えるほどに、卓上は実に豊富な食材で埋め尽くされている。どうぞ、とショコラに勧められた椅子はスピラーリの向かい側で、これだけ広いのになぜわざわざ顔をつきあわせなければいけないのかと、フェーヴは重い椅子をずるずると移動させた。適当なところで腰を下ろす。
 大きなテーブルに、椅子は三脚だけだ。スピラーリの向かいからはずれた位置にフェーヴが座り、テーブルすべてが見渡せる位置にショコラが座っているので、ずいぶんアンバランスな光景だった。どこか落ち着かない。
「使用人にも出て行ってもらいました。ゆっくりお話できます。……あなたも色々聞きたいことがあるかと思いますが、それはわたしも同じです。聞いても、いいですか?」
 ショコラは料理に手をつける様子はないようだった。フェーヴは腰を浮かせてグラスを手に取ると、水差しの水を注ぐ。それを飲み干して、うなずいた。寝床や食事の用意までされて、断れるはずもない。
「では、単刀直入に。ここに来た理由をスピラーリさんに聞いたところ、ここがあなたの目的地だからという返答でした。なぜ、帝都が、目的地なのですか?」
 それは予想していない質問だったので、フェーヴは返答に窮した。フォークで魚のソテーらしきものをつつき、口に運ぶ。味わいながら、どう答えたものか考えた。
「明確な理由はない、ってのが正直なとこだな」
 思ったままを、口にした。ショコラは眉をひそめる。その表情に、わずかな落胆の色が滲んだ。
 なにをいいたいのか、そしてなにを押し殺したのかは明白だった。フェーヴは鼻を鳴らした。
「期待はずれだったか? あんたのいうとおり、俺はいつだって逃げてるし、本当は目的もない。ただ今回は──あれだけのプテリュクスがどこに行ったのか、なにをするつもりなのか、見ておくのもいいかと思ってな」
「それで、どうして帝都ですか」
 ショコラはそれでも納得しないようだった。不満そうに、唇をとがらせる。貴婦人然としたドレスを着ていても、そういった挙動はあまりにも幼く、フェーヴは内心で苦笑した。
「プテリュクスは東に飛んでいった。そうでなくても、この国の中心はまちがいなくこの都だ。ほかにあてもねえしな。──だいたい、あんたがいったんだろ、ポムダダンを説得してみせるって。あんたがなにを知ってるのかは知らねえが、プテリュクスの侵攻はポムダダン側が原因だってことぐらい、想像がつく」
「……いいましたか、そんなこと?」
「いいましたね」
 ショコラは黙ってしまった。よほどの失言だとでも思っているのか、うつむいてうなっている。だが、フェーヴにしてみれば、彼女の口にしたポムダダンという言葉は、それほどの判断材料ではなかった。帝国の中心がこの街であるという、その事実だけで充分だ。人間の暮らす地には、ただこの国しかないのだから。
「なんだ、君がこの地を目指したのはそれだけの理由かい?」
 不意に、スピラーリが口を挟んだ。彼の手の届く範囲の皿はことごとく空になり、酒ビンも増えている。それでも、腹が膨れた様子も、酔った様子もなく、スピラーリは薄く笑っていた。
「てっきり、ショコラ君にぜんぶ聞いたんだと思ってたよ。この国が、なにをしようとしているのか」
「……なんだって?」
「スピラーリさん!」
 過剰に反応したのはショコラのほうだった。彼女は腰を浮かせ、口を開いたが、思い直したように息をつく。ゆっくりと座り直し、グラスを手にとって水を飲んだ。
「あなたは、なんでも知っているんですね」
 重くつぶやく。スピラーリが情報に精通しているのは、ある意味ではあたりまえのことだった。その点について、フェーヴが驚くことはない。
 だが、ショコラはどうなのだろう。
 考えてみれば、出会ったときから、彼女はフェーヴのことを知っていた。どういう存在なのかを知っていて、近づいてきた。
「……あんたが知ってることと、その理由も、話してくれるんだろうな?」
 ショコラはうなずいた。スピラーリを一瞥し、息を吸い込む。
「その前に、スピラーリさんに確認しておきたいことがあります」
 凛とした、有無をいわせぬ口調だった。スピラーリは驚いたような顔をして、それから肩をすくめる。
「なんなりと」
「あなたは、アンファンの監視者──カリツォーと同じ存在だということで、まちがいないですね?」
 スピラーリは目を見開いた。フェーヴも驚きはしたが、彼のそれはフェーヴ以上のようだった。この男が一瞬でもこんな表情を見せるのは、ごく希だ。
「なるほどな」
 フェーヴはかえって納得がいった。カリツォーというのはおそらくは人名だろう。スピラーリと同じ存在と繋がっているというのならば、ショコラが事情に詳しいのもうなずける。
 彼らは特別なのだ。彼女のいうとおり、監視者として派遣された存在なのだから。
「お見通しか。まあ、考えてみれば、当然かな。君がだれなのかは僕も知っているし、やつなら君にいろいろ教えもするだろう。食事よりも睡眠よりも、女の子が好きっていうようなやつだから」
「……それってあんたのことじゃねーの」
 思わずフェーヴはつぶやいた。それだけ聞いたのでは、まるでスピラーリそのものだ。
「僕は女の子なら誰でもいいってわけじゃないよ」
 ごく心外そうな顔をされ、フェーヴは口を閉ざす。彼の知る限り、スピラーリの女好き──本人いわく紳士とはこういうものだということだが──は、とどまることを知らない。老若男女を問わず、だ。
「そうですか」
 短く、ショコラはつぶやいた。
 問いを投げたい衝動をこらえ、フェーヴは待った。彼女は明らかに、なにかを知っていた。彼女がなにものなのかを、スピラーリも最初から知っているようだった。自分だけが、なにも知らないのだ。
 沈黙が落ちる。スピラーリがグラスに酒を注ぐ音が妙に大きく響いた。
「この国すべてが、すぐに戦場になるのだと思っていました。プテリュクスが押し寄せてくるのを実際に見たとき、もうだめだろうと思いました。──少なくとも、この街はなくなっているのではないかと。あの人が、プテリュクスの怒りを買ったから。それだけの愚かなことを、しようとしているから」
 なにかを抑えるような低い声で、ショコラはいった。ひとつひとつ、言葉を選ぶようにしながら。
 ショコラは、深く深く息を吐き出した。ほんの少しの躊躇ののち、意を決したようにフェーヴを見る。
「ポムダダン帝国の頂点に立つのは、女帝オリキュレール=ポムダダン。彼女は、プテリュクスに反旗を翻しました。禁忌を承知で、プテリュクス領へ侵出しようとしています。大軍を引き連れて」
「…………は?」
 フェーヴの口から、空気の抜けるような音が飛び出した。それは、あまりにも突拍子のない話だった。
 人間は、プテリュクス領に足を踏み出した瞬間に命を失う。それは、いい伝えでもなんでもない。実際にそうして死んでしまった人間は多くいるのだ。
 それを知っていて、大軍を連れてプテリュクス領に出るという。それは、自殺行為以外のなにものでもなかった。
「なんでそんなことすんだよ。死にたがってるとしか……」
 いいかけて、口をつぐんだ。ショコラが、ひどく寂しげな笑みを浮かべていた。その表情が、物語っていた。
 知っているのだ。わかっていて、やろうとしている──おそらく、戦場になるということも、万の一つに勝ち目がないだろうということも。
「この国の女帝は、アンファンです」
 きっぱりと、ショコラは告げた。
「アンファンであるという、ただそれだけの理由で殿下に見初められ、結婚したと聞いています。そして、つきたくもない地位につき、生みたくもない子を生んだ。帝王の死後、この国は彼女の思うままに動いています。あの人のなかには、愛なんてありません」
 淡々と告げられるには、あまりにも大きな事実だった。フェーヴはこの短時間で与えれた情報を、脳内で整理する。女帝がアンファンであるということは、いったいなにを意味するのだろう。それはとても重要なことであるように思われた。
「わたしは、あの人を止めたい。だから、あなたに近づきました、フェーヴ=ヴィーヴィル」
 あの人、という言葉が引っかかった。それに、女帝のことを話すときの、ショコラの態度。
「まさか……」
 フェーヴは気づいた。なにもかもを知っているのだろう、スピラーリは平然として、ショコラの話を聞いている。
 ショコラは、薄く笑った。
「オリキュレール=ポムダダン。旧姓はプレジール。──わたしの、母親です」




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