第二章 愛された子 1

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   一


 ──あんたが、似ていたんだそうだ。
 掃除屋の男は、いうべきかどうか逡巡した様子だったが、結局、そう告げた。
 いまから四十年ほど前、境界からプテリュクスが流れこみ、サンドリユの町が襲撃されるという事件があった。その発端になったのはひとりの少年であり、今回のショコラのように──ショコラは未遂で終わったが──境界を越え、結果、プテリュクスの怒りを買った。
 マダムは、そのときの少年をよく覚えていたのだという。まわりの人間が彼を疎み憎悪するなか、まだ幼かった彼女だけは、彼を嫌ってはいなかった。
 その少年に、似ているのだと、だから放っておけないのだと、マダムは話していたそうだ。
「そういうことかよ……」
 きっと、彼女は気づいていたのだ。宿のベッドに腰をおろし、フェーヴはうなだれた。
 どうしてそんなことをするの? ──そう無邪気に問いかけてきた少女のことなら、フェーヴも覚えている。なんと答えたのかも。そんな思いは、もうとっくに失ってしまったけれど。
 もちろん、当時はマダムなどと呼ばれてはいなかった。名があったはずだ。しかし、フェーヴはどうしてもその名を思い出すことができなかった。
 サンドリユのはずれにあるマダムの宿は、もともと客が多い方ではなく、だれもマダムの不在に気づかないのだろう、静かなものだった。それも時間の問題かもしれないが、フェーヴにはわざわざ知らせてやるつもりもない。第一、なんといえというのだ。口にしたくもないというのに。
 宿は、外観も中身も、皮肉なぐらいに無傷だ。フェーヴは身体を起こし、カリアードを手に取った。堅くなってしまったそれは、それでも甘くて、胸の奥がじんとした。なぜあのとき、食べなかったのだろう。彼女の目の前で。
 おいしいと、その一言を告げられなかったことが悔やまれる。しかし悔やむ権利などないのだと、フェーヴは感情を押し殺した。もう一口だけかじり、あとは無造作に皿に戻す。食べることすら、許されないことのように思われた。
 けたたましい足音が近づいてきた。昼間のそれと重なり、フェーヴの心臓が跳ねる。しかしもちろん、現れたのはマダムではなかった。
「フェーヴ=ヴィーヴィル!」
 ノックもなしに入ってきたのは、ショコラ=プレジールだった。広場での一件のあと、彼女がどこに行ったのかフェーヴは知らない。もちろん、宿を教えた覚えもない。
「こんな夜中に、男の部屋になんの用だよ。愛してくれってのは勘弁しろよ」
 冗談を含んだ言葉を舌に乗せ、同時にマダムとのやりとりを思い出す。知らず、笑みがこぼれた。一度だけでいいから愛してやれなどと、とんでもないことをいったものだ。
 しかしショコラは、目を丸くして、それから怪訝そうな顔をした。
「男の部屋といっても、あなた、子どもじゃないですか。身の危険はゼロです、ゼロ」
 真剣にそんなことをいってくる。そりゃあそうだ、とフェーヴにも否定する理由がない。
「で、用件は?」
「用件は、いろいろありますが……」
 勝手に入ってきたというのに、いまになって失礼しますとつぶやいて、ショコラは部屋のドアを閉めた。そのまま、床に膝をつく。
 両手をついて、深く頭を下げた。
「な、なんだよ」
 わけがわからず、フェーヴは思わず身を引く。彼女の奇行には慣れたつもりだったが、やはりまだついていけない。
 ショコラは、床に額が触れるのではないかというほどに頭を低くした。そうして、ひどく硬い声で、告げた。
「もうしわけありませんでした」
 今度こそ、額を床につけた。金の髪が垂れる。
 フェーヴはなんと答えればいいのかわからない。あやまっていただきたい心当たりならいくらでもあるが、こうして頭を下げられるのはあまりにも予想外だ。
「……なにがだ?」
「軽率でした。あなたの気持ちも考えず、愛してください、などと。あなたがどういった存在であるか知っているはずなのに、わたしはわかっていませんでした。……自分を、恥ずかしく思います」
 頭を垂れたままで、かみしめるように告げる。フェーヴは面食らったが、しばらくして、息をついた。苦笑が浮かぶ。笑うしかない。
「気にすんな。あんたはあんたらしく、バカみたいに暴走してろよ。終わったことだろ」
 優しくいったつもりだったが、ショコラからの返答はなかった。そのまま、微動だにしない。
「……顔、上げたら?」
 沈黙ののち、そう提案してみる。するとショコラははじかれたように顔を上げ、勢いのまま立ち上がった。
「終わったことではないです! 軽率だった、と反省してますが、これからは重く、責を持って、やはりあなたにお願いしたいです!」
「…………っ」
 フェーヴは思わず口ごもった。いうべき言葉が見つからない。暴走しろ、などとなんということをいってしまったのか──ほんの一瞬後悔がよぎるが、これは自分のせいではないと思い直す。こういう人間なのだ、この少女は。
「……落ち着け!」
 とりあえず、相反する要求を口にした。ショコラは大きく首を左右に振り、フェーヴに飛びつくようにしてその両手を握りしめた。
「落ち着いています! あなたを追って、観察して、つきまとった日々……そして、今回、あなたの長い一生に思いを馳せ、わたし、胸が熱くなりました。これは、恋、というものなんじゃないか──そんな気がするのです」
「気のせいだろ。あり得ねえ。あとつきまとうのは犯罪な」
「だから、わたしを、愛してください」
 今度は恥じらうことなく、正面から瞳を見据え、ショコラはきっぱりと告げた。
 思わず、フェーヴの口元がゆるむ。だから、愛してください、と──そうつながるのだ。
「それは、恋でも愛でもねえよ。安心しろ」
 初めて、ほんの少し、この少女のことを愛しいと思った。それは年端もいかぬ幼子に対するような、親が子に抱くような、そういった感情だった。
 あまりにも純粋で──同時に、憐憫を誘うほどに愚かだ。
「たとえば俺があんたを愛したら、あんたはなにを願うんだ?」
 それは、単純に好奇心だった。ショコラはためらわず、答える。
「世界平和を」
「──はっ」
 フェーヴは吹き出した。まさか、世界平和とくるとは思わなかった。
 なにもかもが、フェーヴの予想を超えている。この少女はいったいなんなのだろう。なにかとてつもなく重いものを背負っているかと思えば、年相応の振る舞いをしてみせる。
「ぜんぜん、好みじゃねえ。あんたが俺に愛されることはねえよ、ネエサン」
「──そ、そんなことは!」
 かっと顔を赤くして、しかしすぐに落ち着きを取り戻し、ショコラは無理矢理のように長く息をついた。フェーヴから離れ、身なりを整えると、咳払いをする。
「……いえ、大人の女性は急いたりしません。こういうことは時間が解決します。遅かれ早かれ、あなたを振り向かせてみせます。できるだけ早い方がいいですが」
「はいはい」
 大人の女性もなにも、彼女はまだ十五、六だろう。フェーヴは軽く流して、ショコラを見やる。指を噛みながら、なにやら真剣な表情でつぶやいていた。口に出している自覚はないのかもしれない。裏、というものがかけらも感じられず、頬がほころぶ。
 どん底にいるような気持ちだったのに、いつのまにか、多少なりとも浮上している自分に気づいた。もしかしたら、気を遣ったのだろうか──いやそれはないだろう、とすぐに否定する。彼女のこれは、計算ではない。
「あ、そうでした!」
 突然、ショコラがフェーヴを見た。
「忘れていました、あなたを連れて来るよう、頼まれていたのです。ここにいては気が滅入るだけでしょう。寝床と食事を用意する、といっていました」
「は? だれがだよ」
 あまりにも突拍子のない申し出に、フェーヴは眉を寄せる。ここにいたって寝ることはできるし、気が滅入るということもなかった。食事は望めそうにもないが。
「それは来ればわかります。とにかく、行きましょう」
 ショコラはさっさとドアを開けた。なにをしているんですか、とフェーヴを促す。承諾した覚えもなかったが、食事の世話をしてくれるというのなら、行ってもいいかもしれない。立ち上がり、分厚いコートを羽織った。
「あ、これ、カリアードですね。おいしそう。食べてもいいですか?」
 部屋を出る間際、ショコラが皿の上の菓子に気づく。ああ、と返そうとして、フェーヴは思い直した。
「いや、俺のだ。悪いな」
 手にとって、残りを口に入れた。


 案内されたのは、フェーヴの知っている場所だった。
 石造りの四角い家では、フェーヴに翼堕ちのことを話した少女と、その両親が待っていた。男親の方は広場でともに戦った男で、そういう偶然もあるのかとフェーヴはいっそ感心する。
 荒れていた家は一応は片づけられ、玄関には急ごしらえの板が取り付けられていた。あちらこちらに布が張られている様子は異様ではあったが、それでもじゅうぶんに家としての威厳を取り戻している。
 なによりもフェーヴが驚いたのは、温かいシチューとパンが用意されていることだった。まるで、なにごともなかった日の夕食のように。
「来たか、悪かったな。あんたらのことを娘に話したら、自分も会った兄ちゃんだっていってな。礼をいいたいんだそうだ」
 男はギルと名乗った。差し出されるままに手を握り、フェーヴは肩をすくめる。女はミキナ。やはり掃除屋である彼女は、広場とは別の場所で翼堕ちを狩っていたらしい。
「うまいもんがもらえるっていうなら、いつでも来るさ。そっちのあんたも、元気そうだな。……寝なくていいのか?」
 夜はとっくに更けている。じきに朝が来るだろう。しかし少女ははにかんだように笑って、首を振った。
「いいの、お父さんもお母さんも帰ってきて、嬉しいの。お兄ちゃんにもまた、会えた。ありがとう、お兄ちゃん」
 少女には、夕方感じたような憔悴の色はなかった。フェーヴの手を引き、テーブルへと連れて行く。よほど空腹なのか、ショコラはミキナとともにさっさと食卓についていた。
 高さも大きさも違う椅子が複数。そのなかの、どうやら一番上等なものを勧められ、フェーヴは腰かける。断るわけにもいかないが、どこか居心地が悪い。翼堕ちを一掃したのも、自分ではなくショコラだというのに。
「では、いただこう。今日も皆が健康だ。女神クレアトゥールに、感謝を」
 ギルが手を組んだ。瞳を閉じ、祈りを捧げる。ミキナと少女、それからショコラも手を組み、フェーヴも形だけそれに倣った。
 色のついたスープは、具こそほとんどないものの、温かさをまとい、フェーヴの鼻腔をくすぐる。女神クレアトゥールとやらに感謝するつもりなど到底なかったが、それでもフェーヴはこの状況に救われていた。あまりにも貴い、ひとの優しさというもの。こうしてそれに触れるのは、何度目になるだろう。
「クレアちゃんっていうんですよね」
 おいしい、とひとしきり歓声を上げ、ショコラが不意にそう口にした。フェーヴはどきりとする。
 重そうなまぶたを懸命に上げながら、少女はうなずいた。
「うん、クレア。お兄ちゃんの名前は?」
 どうやら、自分への紹介だったようだ。フェーヴはスープをすくっていたスプーンを置く。フェーヴ=ヴィーヴィルと、奇妙に落ち着かない気持ちを隠しながら、小さく名乗った。
「クレア、か。よくある名前だな」
 よけいな一言が口をつく。ミキナが笑った。
「この国で、クレアという名前の女の子はいったい何人いるんでしょうね。そんなことわかってるんですけど、でも、やっぱり……女神さまの恩恵を受ける名前だもの。女の子だったらクレアにしようって、ずっと決めていたんです」
「名に恥じない、クレアは賢くて、優しい子だ。オレたちの誇りだよ」
 ギルがそういって、夫婦二人が笑い合う。いつもこの調子なのか、当のクレアは気恥ずかしそうに頬を赤くしていた。
 クレア──女神クレアトゥールが創造したといわれるこの世界で、その名は古くから女性の名として用いられてきた。フェーヴ自身も、何人の「クレア」に会ってきたのか数え切れない。
 しかし、いまは聞きたくない名だった。
 食欲があっという間に消え失せ、かといって食べないわけにもいかず、黙々と食料を腹に流し込む。クレアという名の少女の、黒く長い髪が目に映った。急いで視界からはずす。見てはいけない。
「ここに根を張るつもりはないといっていたが、どこかへ急ぐのか? サンドリユにいる間は、家に寝泊まりするといい。あんたが翼堕ちの核に手を出すなっていったときな、尊敬したよ。小さいのに、がっつかないんだな」
 酒の入っていたらしいジョッキを空にして、ギルが上機嫌でそういった。そんなことをいっただろうか、とフェーヴは記憶を探る。彼にとっては、いちいち覚えていられないほどのあたりまえのことだった。
 突然の襲撃に、壊れた町。復興に金がいるのは当然だ。
「それ、わたしも聞いてましたが。どういう意味ですか?」
 とっくに食べ終えた皿を前に、ショコラが不思議そうな顔をする。その場にいるショコラ以外の全員が、意外そうな顔をした。クレアも例外ではない。
「……あなた、旅してるんじゃないの? 翼堕ちに出くわしたことは……」
「掃除屋の人が狩っている現場を目撃したことはありましたが……あ、でも、掃除屋は翼堕ちを狩ることで収入を得る、と習いました」
 ミキナが問い、身体を小さくしながらショコラが答える。あれほどの腕なのにな、とギルが息をついた。
「翼堕ちには、それぞれ核といわれるものがあるんだ。人間でいうところの心臓みたいなものだな。そのままじゃどうにもならないが、汚れを落として職人が加工すれば、美しい宝石になる。最近じゃほかの使い道もあるって聞くが……要するに、それを町に持っていって売れば、金になるんだ。ひとつで一生遊んで暮らせるような貴重な核だったり、売ってもたいした金にならないような核だったり……そういうギャンブル性が好きで掃除屋になったってやつもいるな」
 ギルの説明に、ショコラはうなずいた。それから数秒沈黙し、目を見開く。身体を丸ごと横に向け、フェーヴを見た。
「今日、どれだけの数やっつけましたか? もったいなかったんじゃ!」
「おまえ、空気読まねえなあ」
 フェーヴは深くため息を吐き出した。なんてわかりやすい反応だろう。しかし、ショコラは慌てたように首を左右に振った。
「わ、わたしじゃないです、あなたですよ、フェーヴ=ヴィーヴィル! あれがないと収入ゼロでしょう!」
「いいんだよ、どのみち予定外の戦闘だったしな」
「そ、それは、そうですが……」
 納得できないのか、ショコラはなにかを訴えるような目でフェーヴを見つめてきた。あっさりと無視をして、フェーヴは彼女から目を逸らす。育ちが良く、金があるというのはおそらくまちがいないだろうが、この執着心はなんなのだろう。それとも、それほど生活に貧していると思われているのだろうか。
 その様子を見てほほえんでいたギルが、ふと表情をかげらせた。
「マダムのことは……残念だった」
 それを聞いて、フェーヴはわかったような気がした。自分がこの家に呼ばれた、本当の理由。
 フェーヴにあれこれ話してくれたことから考えても、ギルとマダムは仲が良いようだった。今回の件を詳しく聞きたかったのだろう。
「ギル」
 短く、ミキナがたしなめる。ギルはもうしわけなさそうな顔をしたが、それでも引く気はないようだった。
「思い出したくないだろう。聞かれたくないことかもしれない。だが、どうしても気になるんだ。マダムが……死んだ、のは、事故だ。だが、そのあと、マダムを連れて消えてしまった男、あれはだれだ?」
 事故──その言葉を、フェーヴはかみしめた。事故ではないことを、誰よりもフェーヴがよく知っていた。事故などではない、決して。
 あれは殺人だ。
 殺したのだ。
 ショコラとミキナ、クレアまでもが、じっとフェーヴの返答を待っていた。フェーヴはできるだけ平静を装い、無表情で答える。
「さあな、俺も初めて見たよ」
 そうか、とつぶやいたきり、ギルはそれ以上マダムのことを口にすることはなかった。

 決して広くない家には布が張られ、人数分の寝床が用意された。空はいまにも白もうとしていたが、疲れもあったのだろう、だれもがすぐに眠りについた。
 静寂のなかで、フェーヴは身体を起こした。隣ではギルがいびきをかいている。布の向こう側をのぞいて、女性陣がすっかり寝入っていることを確認する。
 足を出し、靴を履いた。脱いではいなかった帽子をもう一度かぶり直し、コートを着る。
 じゃあな、と口のなかでつぶやいて、フェーヴはサンドリユの町をあとにした。




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