第一章 プテリュクス、侵攻 3

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   三


 思わず目を背けようとして、フェーヴは下腹部に力を込めた。
 変わり果てたサンドリユの町──今朝までは確かに活気のあったはずの町の残骸が、静かに横たわっていた。
 彼にはためらいがあった。遠ざかっていくプテリュクスの群は、彼にとってはそのまま絶望の塊に見えた。砂煙のなかの二人なら見逃すことがあっても、境界に最も近い町を通り過ぎる理由はない。
 どうなるかなど、明白だ。
 事実、これが初めてのことではないのだ。それを、単なる知識としてではなく、フェーヴは知っていた。
 だが、その手を引いたのはショコラだった。彼女には迷いなど一片もなかった。どこにそんな力があるのかと驚くほどに、ひたすらに、ひたむきに、走った。
 たどり着くころには、終わっていた。プテリュクスの姿もなく、火もほとんどが消えていた。フェーヴにとってそれは救いだったが、ショコラにとってはそうではないようだった。怒りか、それとも悔しさか、ショコラが赤い顔で唇を噛む。
「……プテリュクス……!」
 血が滲んだ。繋いだ手が震えている。フェーヴは彼女の横顔を、どこか他人事のように見上げた。
 彼女の気持ちがわからないわけではない。だが、彼には、そこまでの熱は伝わらない。
 プテリュクスは、敵ではない。
 少なくとも、立ち向かえる相手ではないのだ。
「想像よりはずっとマシだろ。ヤツらは通り過ぎただけだ。町だって全壊じゃない。この分なら、死人や怪我人もたいしたことない」
 淡々と、思ったままを、フェーヴはつぶやいた。彼らが火を落としていったのだろうという推測しかできなかったが、そもそも砂漠の町に火種になるようなものは多くない。土地柄、町の人間もある程度はアクシデントに慣れている。家屋は石造りで、いざというときに身を隠せるようにと地下に穴蔵もある。
 事実、見渡す限り、横たわる人間はいなかった。
 しかし、フェーヴの言葉は、ショコラの怒りをより一層強くしたようだった。彼女は厳しい目でフェーヴを睨みつけた。
「ずっとマシ、全壊じゃない、たいしたこと、ない……?」
 彼の言葉を繰り返す。しかしそれのどこが彼女の逆鱗に触れたのか、フェーヴにはわからない。あるいはわかるのかも知れなかったが、それでもわからないふりをした。
「事実だ。それとも、帝都でお勉強していたネエサンには、状況を判断する力なんかないですかね?」
「あなたとは話をしていたくありません! 不愉快! 断固不愉快です! もうわたしの前に姿を見せないでください!」
 ずっと繋いでいた手を、汚らわしいなにかのように振り払う。フェーヴを一瞥し、口を開き──しかし言葉が形になることはなく、そのまま肩を上げて歩き去っていった。どこへ行こうというのか、フェーヴには見当もつかない。人助け、でもするつもりだろうか。
 フェーヴは息をついた。もう一度改めて、町の様子を確認する。
 人の気配はない。かといって、うめき声が聞こえることもなければ、血の臭いも、ましてや人体の焦げる独特な臭いもしない。恐らく、ほとんどがうまく逃げたのだろう。
 もしも立ち向かおうとした愚か者がいたとしたらどうなっていたかわからないが──それほどのバカは、おそらくいないだろう。ショコラのような感覚が異例なのだ。
 熱を持った家屋の隣を通り過ぎる。家具の残骸が転がり、まるでできの悪い模型のようだ。ふと思いついて、真っ黒にすすけた扉に目をやった。ぶら下がり、もはや目的を果たしていないそれを軽く蹴ると、それだけで崩れ落ちた。顔をのぞかせ、人の有無を確認する。やはり、もぬけの殻だ。
「おい、もう終わってるぞ!」
 声を張り上げた。さすがにそんな言葉を鵜呑みにするものなどいないのか、もうここにはだれもいないのか、反応はない。
 肩をすくめ、通り過ぎる。この町で彼がすべきことは特にないように思われた。マダムの安否が脳をよぎるが、すぐに首を振る。気にかけるべきではない。
 しかし、あそこには荷物を置いたままだった。カリアードだって食べていない。宿街も被害を受けているのだろうか。
「……プテリュクスは、行ったの?」
 か細い声とともに、少女が姿を現した。傷はないが、恐怖のためか、灼けた肌はいまは青白くさえある。少女の向こう側、扉のない家屋の床が開いていた。地下に逃げていたのだろう。
「ああ、プテリュクスは通り過ぎただけだ。出てきていいぞ。ほかにも人がいたらそういってやれ」
「でも、翼堕ちは?」
「……町に出たのか?」
 問い返しながらも、確信に近い予感がよぎる。少女はうなずいた。
「お父さんとお母さんは掃除屋だから、やっつけにいったの。プテリュクスといっしょに、いっぱい来たって。こんな離れじゃなくて、もっと町の真ん中、だと思うけど」
 フェーヴは眉根を寄せた。わざわざこの町を襲撃するほどではないが、見逃すほど甘くはないということだろうか。
 少女が不安そうに震えているのに気づき、笑んでみせる。頭に手を乗せ、撫で回した。
「だいじょうぶ、この町は掃除屋だらけだ。すぐ終わるさ。そういうことなら、あんたはもう一度、下に隠れてな」
「うん」
 少女はおとなしく、地下に戻っていった。その扉が閉まるのを見届けて、フェーヴは歩き出す。どれほどの数の翼堕ちが出たのかはわからないが、放っておくわけにはいかない。
 町の真ん中というと広場の方か、もしくは繁華街か──激しく戦っているというのなら、音も聞こえるだろうか。耳をすまそうとして、けたたましい足音に唇を曲げた。聞き覚えのある、落ち着きのない音。
「フェーヴ=ヴィーヴィル!」
 尾のように髪を揺らして駆けてきたのは、たったいま別れたばかりのショコラだった。肩で息をして、フェーヴの腕をつかむ。
「すぐに来てください、少しでも助けが必要です。たくさんの翼堕ちが──!」
 異論はない。異論はないが、どうしてもいいたいことがあった。
「もうわたしの前に姿見せないでください、じゃなかったのか?」
「時と場合です! 断固、臨機応変に!」
 まったく悪びれず、ショコラは胸を張って答えた。 


 連なる民家を通り過ぎ、小さな店から次第に大きな店へ、石畳が姿を現すあたりからが、サンドリユの中心街だ。どの方向から来ても、素直に道なりに進めば広場に行き当たるように作られている。噴水のある広場をぐるりと囲む店や娯楽施設、それら一帯が、中心街と呼ばれる。
 砂漠の茶に対抗するかのように敷き詰められた石の白が、いまは赤黒い染みで汚されていた。掃除屋なら嗅ぎ慣れた独特の腐臭に、フェーヴは鼻を鳴らす。そろそろだ。
「あなた、それなりに強いですよね? ちゃちゃっとやっつけちゃってください! 対翼堕ちでは、やはりプロのノウハウが必要になります」
 イデアル・アカデミーの承認を受けたというわりには、まるでシロウトのような発言を堂々とする。あっさりとフェーヴを連れにきたところを見ても、実力の有無はどうあれ、箱入りであることは間違いないらしい。専門書を百冊読むことと、十回の実戦を経験することとどちらが身になるのだろうかと、フェーヴはどうでもいいことをちらりと考えた。
「それで、ネエサンのその剣は結局飾りなのかよ、ソルシエールさん。あんたがドカンとやっちゃえばいいんじゃねえの」
 黙っていてもよかったのだが、やはりいいように使われるのは癪に障る。あえてそんないい方をすると、ショコラは唇をとがらせた。
「さっきもいいましたね、ネエサンって。やめていただきたいです。嫌味ですか、皮肉ですか」
「そこかよ──まあ頭は悪くねえな」
 フェーヴは、道の向こうの広場に目をやった。いつもならば商人と客でにぎわっているはずのそこは、暮れなずむ空の下、いまではまるで違うどこかのようだ。そのまま走り込みかねないショコラの服をつかみ、無人の民家に入り込む。 
 火の手が上がらなかったであろうことがうかがえたが、一度は翼堕ちが侵入したのだろうか、家具は好き放題に倒れ、まるでたちの悪い盗賊の襲撃にあったかのようだ。嫌な臭いも染みついている。フェーヴは音をたてないよう、細心の注意を払って窓際に寄った。といっても、すでに窓といわれるようなものの姿はない。四角く切り抜かれた石の壁だ。
 そうして、息を殺した。厚手のコートの内側に手を入れる。
「なんで隠れますか、正義の味方らしく正面からいくべきでしょう」
 隣で鼻息荒く──それでも多少は声をひそめて、ショコラが吠える。説明してやる気にもならず、フェーヴは空いた手を彼女に向けることで制した。静かにしろ、と無言の抑制。
 視線の先に、複数の異形の生物。否、生物かどうかも怪しい、腐敗した土色の塊──それこそが、翼堕ちだ。
 ひとと同じ大きさのそれらは、二本の足のようなもので歩行する。歩くたびに体中から液体がしたたり、それがいいようのない異臭を発する。液体に触れると、皮膚がただれ、腐っていく。しかし、翼堕ちにはその特性を利用するだけの知性はない。あるのは、人間に対する闘争本能のみだ。
 ポムダダン全域に出現するが、境界から流れ込んできたというのが定説だ。だからこそ、翼を持つもののなれの果て──翼堕ち、と呼ばれる。
「多いな」
 口のなかでつぶやいた。見える範囲だけでも、数は十以上。
 フェーヴの位置から、それほど近いところにはいない。近くても肘上、遠くて掌ほどに見える。これぐらいの距離が最適だ。
「ほら、みなさん必死に戦っていますよ。逃げてしまった方も少なくないようですが、残っているのは町を守ろうという勇者です。あなた、こんなところで隠れて、恥ずかしくないですか」
 ショコラのいうとおり、数人の掃除屋が各々の武器を振るっているのが見える。恥ずかしい、という発想がわからず、フェーヴは呆れた。
「つっこんでいって華々しく散るのが理想、とかいうなよ。あんた、どうしたいんだ。翼堕ちをやっつけろってことなんだろ?」
「もちろんです。でも、隠れていたのでは……」
「いいんだよ、これで」
 目線は窓の外に向けたままで、フェーヴは帽子のつばを上げた。視界が開ける。深く、ゆっくりと息を吸い込み、止めた。
 コートの内側から、素早くそれを取り出した。出したと同時に、窓から放る。突き刺すように、鋭く。
 音もなく、翼堕ちが崩れ落ちた。視界の端から順に、一、二、三体。間を置かず、第二撃。続いてやはり三体が、石畳に沈んだ。応戦していた掃除屋が、なにごとが起こったのかわからず目を白黒させる。その姿がひどく滑稽で、フェーヴは喉の奥を鳴らした。勘の鋭いひとりがこちらに目を向けるのを見て、膝を折る。無言でショコラを促した。
「投げナイフ、ですか?」
 フェーヴと同様に身を小さくし、ショコラがつぶやく。問いではなく、確信だ。その声には、驚きと、それ以上に侮蔑のニュアンスが込められていた。
「あなた、恥ずかしいとは……!」
「思わねえよ。俺は騎士じゃねえんだ。逃げるし隠れるし──毒を塗ったナイフだって使うさ」
 あまりにも模範的な反応に、フェーヴはいっそおかしくなった。
 姿を隠して投げナイフで攻撃するというのは、掃除屋の間でもあまり好まれる行為ではない。卑怯者、と正面からさげすまれることもある。箱入りで育ったらしい彼女からずればなおさらだろう。
「おかげで、だいぶ減ったろ。不意打ちでこんだけしとめられれば、上等だ」
 コートのなかのナイフを確認する。毒の塗ってある特製のものだ。恐る恐る頭をのぞかせたショコラが、慌てて身をひそめた。
「き、来ましたよ。いいんですか?」
「あ?」
 フェーヴも体を伸ばす。思いの外近くに翼堕ちの姿を確認し、舌打ちすると同時にナイフを投げた。しかし、倒れ伏したのは二体だ。向かってくるのはそれ以上。
 視界の奥で、掃除屋が剣を振り上げるのがわかる。倒されるものもいるが、残り数体は一心不乱にこちらに向かってきていた。まったく、役に立たない。多勢に無勢ということだろうか。
「お怒りに触れたか。かたまってくるってことは好都合だろ。あんたも働けよ、ソルシエール」
「……いわれなくても!」
 ショコラが腰元の金具をはずし、大剣を携える。フェーヴはそれを確認すると、片方の手をコートにつっこみ、空いた手を軸にして、切り抜かれた窓から身を翻した。着地すると同時に手を引き抜いたときには、金属性のグローブが装着されている。目の前には、虚空のような瞳を赤く光らせた翼堕ち。異形のそれが両手を振り上げるタイミングを見計らって、低い位置から飛び出した。拳を繰り出す。
「人間食ってもうまくねえだろ、翼堕ちさんよ」
 小柄な体からの衝撃は、それだけで致命傷を与えた。フェーヴは知り尽くしているのだ、どこへの打撃がもっとも効果的で、どのように力を込めればいいのかも。それは、ナイフを投げるときも同様だった。飛び散る液体をぎりぎりで避ける。
 足下が揺らぎ、翼堕ちが倒れる。もうそれだけで十分だったが、追いついてきた掃除屋の男が背後から剣を突き立てた。
「やるな、ガキ。……見ない顔だが」
「ここじゃあ新参だ。根を張るつもりもねえけどな」
 交わす言葉もそこそこに、ちらりとうしろを確認する。前方に視線を戻すと、まるで糸を一斉に引かれたかのように、残りの翼堕ちがこちらに向かってきていた。なんという単純さ。
「五つだ!」
 その場で、フェーヴは吠えた。
「五つでここから散れ。とばっちり食らいたくないならな」
 背後から光があふれ出すのがわかる。青い光。掃除屋たちが顔色を変えた。フェーヴの言葉の意味を察したのだろう、四方に分散する。
 しかし、翼堕ちには関係のないことだった。ただフェーヴに──獲物に向かって、真っ直ぐに突進してくる。
「一、二、三……四……」
 呼吸を整え、ぎりぎりまで、フェーヴは粘った。神経は前方と後方と、どちらにも平等に研ぎ澄ます。タイミングをはずしたのでは意味がない。
 しかし、杞憂だった。
 ショコラはきっちりと合わせてきた。力が爆発する直前の、旋風。
「──五!」
 叫び、横に飛んだ。ショコラが吠える。
「いきます──!」
 閃光がほとばしり、法陣がはじけ散る。その中心を縫うように、真紅の衝撃が突き抜けた。
 フェーヴは目を細め、しかし閉じずに、見た。翼堕ちの輪郭が浮き上がり、彼らの姿に視界が埋め尽くされるような錯覚を覚える。次の瞬間には、おびただしい光の渦。
 大地を揺らすような衝撃に、身構える。しかし、吹き飛んだすべては真上へと飛び上がり、フェーヴに降りかかることはなかった。
 息をする翼堕ちは、もういない。液体は渇き、地面に張り付いている。思い出したように赤い血だまりが広がり、広場を染めた。
「血が、出るんですね……翼堕ちからも」
 大剣を携えたままのショコラが、フェーヴに手を差し伸べてくる。断る理由もなく、フェーヴはグローブをつけていない方の手でそれをつかんだ。立ち上がり、塵を払う。
「あんた、本当になにも知らねえんだな」
 そう返すと、ショコラは傷ついたような顔をした。まさかそんな顔をするとは思わず、フェーヴは戸惑う。手を離し、彼女の金色の頭をはたいた。
「つーか、考えろ、なんだあの規模。やりすぎだろ。俺やほかのヤツらがとばっちりくらってたらどうしたよ」
「そ、そこはちゃんと考えました! 多少の危険はつきものでしょう、事実、うまくいきました!」
 どーだか、とフェーヴは息をつく。言葉を返そうとするよりも早く、広場の中央から噴水が上がり、その間の抜けた音に脱力した。これだけの惨状だというのに、噴水はまるで何事もなかったかのようだ。一気に緊張感が失せた。
「助かった、礼をいう。たいしたお嬢さんだな、その若さでソルシエールとは」
 掃除屋のひとりが歩み寄り、そう礼を告げた。こちらに注目していた他の掃除屋──フェーヴたちを除いて、たったの四人だ──が、目を丸くする。
「あ、あんた、アディの酒場に出たやつか」
 相変わらず、出た、という扱いのようだ。なにやら怒りを露わにするショコラを制して、フェーヴは苦笑する。
「あんたらも生活があるだろうが、翼堕ちの心臓には手を出すなよ。町の復興には金がいるだろ。──ここ以外には、出ていないのか?」
 フェーヴの提案に意外そうな顔をしたが、それでも男は質問に答えた。
「ここ以外にも、もちろん出てるさ。だが、オレたち以外にも掃除屋はいる。なんとかなっているだろう。応援に行った方が、いいかもな」
「わかった。行くぞ」
 最後の一言はショコラに告げる。きびすを返そうとして、目を見張った。
 初老の女性が、いままさに広場に駆け込んできたところだった。髪を振り乱し、全身で息をしている。その表情には焦燥の色が濃く、昼間会ったばかりだというのにやつれてしまったようにも見える。
「マダム──!」
 思わず呼ぶと、マダムは安堵を顔いっぱいに広げた。
「坊や、良かった──! こんなときに境界なんかに行かせちまって、気が気じゃなくて……あんたたちの姿を見たって聞いて、捜したんだ。坊やが無事で、本当に良かった」
 気が抜けてしまったのか、その場にヒザを付く。わけのわからない焦りに、フェーヴは胸を押さえた。
「捜す必要ねえだろ! バカじゃねえの! いいから、早く地下に──」
 いけない──フェーヴはつぶれそうなほどに、自身の胸元をつかむ。このままではいけない。大変なことになる。どうにかしなくてはならない。
「とにかく、ここから消えろ! 早く!」
「そんないいかたないです、あの人、あなたを心配して捜してくれたんでしょう? ここならもう危険もありませんし……」
 ショコラが諫めてくるが、その言葉の半分も、フェーヴには届いていなかった。そうではない、そういう問題ではないのだ。
「頼むから……!」
 喉の奥から、声を絞り出す。しかし、もう遅かった。
 マダムの横の家屋が、不穏な音をたてる。ごそりと、崩れるはずのなかったそれが、崩れた。
 あ、とだれかが声をあげた。マダムの声か、もしかしたらフェーヴ自身の声だったかもしれない。しかし、意識が追いつかない。その光景は、ひどくゆっくりと、フェーヴの瞳に映った。
 石の塊が、落ちた。
 寸分の狂いもなく、マダムの頭上に。それはそのままの質量を持って、非力な初老の女性を押しつぶした。
「────!」
 ショコラが甲高い悲鳴を上げる。しかし、聞こえない。なにも聞こえない。聞こえないのだ。
 マダムがどうなったかなど、一目瞭然だ。しかし、見るまでもなかった。フェーヴは知っていた。こうなることを、恐れていた。
「──あーあ、これで、何人目かな。君が、人を愛するのは」
 不意に、涼やかな声が舞い降りた。
 フェーヴは耳をふさぐこともできない。その男は、なにもない空間を切り裂くようにして、空から現れた。
 音もなく着地する。濃い緑色の衣服に、赤茶けた髪。どこにでもいそうな風貌ながら、明らかにそうとわかる異質な空気をまとわせ、男は動くことのないマダムを一瞥した。それから、フェーヴを見る。哀れみと、さげすみの目。
「僕は忠告したつもりだったけどね。──けどもう、どうでもいいか」
 長身の腰を折り、フェーヴの顔をのぞき込む。耳元で囁くようにして、告げた。
「決定が下されたよ。こちら側は、僕らがもらうことになった。始まったのさ、プテリュクスによる侵攻がね」
 男は薄く笑った。彼が手を挙げると、マダムを押しつぶしていた岩が砂と化す。彼はマダムを抱き上げ、静かに跳躍した。行く先に、光が生まれる。
 そうして、消えた。すっかり日が暮れた広場に光の粒がまたたき、それすらすぐに見えなくなった。
 



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