第一章 プテリュクス、侵攻 2

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   二


 まったく取り合わずに別れたものの、フェーヴは少女のことが気になっていた。
 ショコラ=プレジール──彼女自らの言葉を信じるのならば、若干十五歳にして正式なソルシエール。あれほどしつこく追ってきたというのに、あのとき立ち止まったのを最後に、彼女の気配を感じなくなった。
 よほど差し迫った、重要な用件があるのだろうということぐらいは、予想がついた。それが真剣な気持ちによるものだということも、想像に難くない。それぐらいは、表情でわかる。
 しかし、フェーヴは慈善活動をしているわけではない。あえて職業をいうならば、翼堕ちを狩る掃除屋であって、それは世間の認識でいえば職を持たないごろつきと同義だ。
 ましてや、愛してください、などと。それはフェーヴがもっとも嫌悪する要求だ。
「戦場、ね……」
 ショコラの言葉を思い出す。それが本当だとしても、フェーヴにはそれほど重大なことだとは思えなかった。ポムダダン帝国とプテリュクス領との境界に位置するこの地では、毎日至るところで血が流されている。人間を主食とする翼堕ちが、プテリュクス領から流れ込んで来るのだ。
 なにをいまさら、という思いがあった。
 胸中に生まれた苦い思いのままに、顔を歪める。
 足を投げ出し、安宿のベッドに寝転がった。帽子をかぶったうしろで両手を組み、剥がれ落ちてきそうな天井を見上げる。
 耳を澄ますまでもなく、廊下の床がきしんだ。音は次第に大きくなり、フェーヴの部屋の前で止まる。
 フェーヴは身を起こしかけたが、その足音がショコラのものではないのは明白だった。すぐにノックが続いたので、寝そべったまま、いるよ、と声を返す。
「坊や、カリアードが焼けたよ。どうだい」
 戸を開けたのは、宿を切り盛りしている初老の女性だった。客からはマダムと呼ばれている、料理自慢の女将だ。ふくよかな腹に乗せるように、木のトレイを手にしている。
 どう見ても十二、三歳のフェーヴが部屋を貸してくれと訪れた際、勝手にフェーヴのことを事情のあるかわいそうな少年だと決めつけ、親切にしてくれている善人だった。フェーヴは表情をゆるめ、起きあがった。
「ありがとう、マダム。いい匂いがすると思った」
「いいんだよ、坊や。ついでだからね。ここに置いておくよ」
 柔らかく笑って、皿をローテーブルに置く。しかし、立ち去る気配はなく、彼女はベッドの脇に丸いイスを引き出し、腰を落ち着かせた。
 どうやら、なにか話があるようだ。そんな気分じゃないと追い返すわけにもいかず、フェーヴはベッドに座り直した。
「噂になってるよ、坊や。アディの酒場で、女の子に冷たくしたんだって? 酒を飲むなとも窃盗をするなともいわないけどね、女の子を泣かせるもんじゃないよ」
「……ああ、それ」
 どういう顔をすればいいのかわからず、フェーヴは肩をすくめる。宿代滞納の件だとばかり思っていたので、拍子抜けだ。
 母のように世話を焼いてくれるこの女性は、宿に泊まったその日から、挨拶や服装、細かいところまで口を出してくる。そのくせ、飲酒や窃盗についてはとやかくいわないというあたり、さすがはサンドリユの宿の女将だ。
「わざわざ泣かせる趣味はねえよ。あっちが勝手に来て、勝手に泣いたんだ」
 弁解する気にもならなかったが、事実をそのまま告げる。マダムは白みがかった眉を歪め、諭すように手を組んだ。
「一度ぐらい、愛してやりゃあいいじゃないか。かわいい要求だ。それで満足するだろうよ」
「うわあ」
 なんてこというんだ、とフェーヴは額を押さえる。果たしてショコラの要求はそういう意味だったろうか──そうではないはずだということを、だれよりもフェーヴが知っていた。
 そもそも、それこそいたいけな少年にいう言葉ではない。
「そういうことじゃねえんだって。向こうもわかったみたいだし、その話はこれで終わりだ。こだわることじゃねえよ。まさか、あんたがあの女の母親だとかいうんじゃないだろ?」
「アンタのことを息子みたいに思ってるんだ、フェーヴ」
 それはあまりにも直球だったので、フェーヴは思わず頬を赤らめた。そんな失態を晒すわけにもいかず、顔をそむける。一週間かそこらの付き合いで、本当に息子にまで格上げされるとは思ってもみなかった。
 ちらりと、嬉しいというような気持ちが湧いた。
 しかしすぐに首を振り、鼻を鳴らす。
「知らねえのか、マダム。息子ってのは母親をけむたく思うもんだ。あんまりうるさいと嫌われるぜ」
「そういうところがね」
 しかし、マダムは苦笑した。真っ黒に日焼けした手を伸ばし、フェーヴの頭を撫でる。
「放っとけないのさ、母親ってのはね」
 帽子の上から乱暴に撫でられ、数秒遅れながらも、フェーヴは身を引く。暴言を吐こうとしたが言葉にならず、もう一度そっぽを向いた。
 フェーヴがこの町を訪れるのは、何度目になるだろう。もう数え切れないほどだ。とはいえ、それほど頻繁に訪れているわけではない──むしろ、彼の生きてきた年月からすれば、希だといっていい。
 それでもフェーヴは、この町に愛着があった。無法地帯、といわれながらも、この町にはこの町の秩序があり、ぬくもりがあった。
 それが、プテリュクスの驚異に怯えながらの平穏だったとしても──それでもここでは、人が懸命に生き、日々を営んでいるのだ。
「マダム。最近、境界で動きがあるのか?」
 ふと思いついて、フェーヴはそう問いを口にしていた。サンドリユで宿を営むような人種は、たいがいが情報通だ。そうでなければ商売などしていられない。戦場になるという言葉を鵜呑みにするわけではなかったが、ことのついでに話題に出すぐらいなら、損はないだろうという気になった。
 質問の意図をつかみかねたのか、マダムが眉を上げる。埋もれた首をさらに肉に沈めるようにして、静かに否定した。
「なにも。いつもどおりさ。ここのところは、どっかのバカみたいに、向こう側に乗り込もうってやからもいないしね」
「そうだよな」
 含まれる小さなトゲに、フェーヴは気づかなかった。
「悪い、振り回されてたみたいだ。ちょっと寝るわ。仕事もないだろ? なんかあったら呼んでくれよ、一応稼がないとな」
「わかったよ、坊や──皿はそのまま置いときな」
 最後の言葉に、焼き菓子の存在を思い出す。しかしフェーヴはもう寝る気になってしまっていて、手を振ってベッドに寝転がった。まだ日は高い。夕食にでもすればいい。
 マダムの足音が遠くなっていくのを聞きながら、フェーヴは心地よいまどろみに意識を委ねた。

 ありがたくないことに、フェーヴの眠りは喧噪によって終わりを告げた。
 実際にはいくほどかは眠ったのだろう。しかし、眠ったという気がしない。昼間飲んだ酒の影響もあるのか、頭が痛い。のろのろとベッドから起きあがり、大きく伸びをした。
 革靴に足を突っ込み、開いた窓から道を見下ろす。狭苦しい道を縫うようにして、掃除屋たちが駆け抜けていった。
「あの女だよ、大剣のソルシエール! アディの酒場に出たやつだ!」
 そのなかの一人が、まるで幽霊の話でもするかのように叫んだ。先を行く仲間と思しき人物が、この暑いのに大仰な鎧を楽器のように鳴らしながら振り返る。
「あれか、ミッゲルがやられたっていう! バカじゃねえのか!」
 それは幼稚な言葉に聞こえたが、男たちの鬼気迫る様子を見ると、ただ幼稚なだけというわけでもなさそうだった。そうとしかいいようがないという、余裕のなさをうかがわせた。いやな予感に、フェーヴは部屋を出る。
 彼らは、本来ならば剣を振るうべき砂漠に、背を向けて走っていった。砂漠には境界があり、それ故に翼堕ちが出没する。そこから逃げるように走り去るという事態は、尋常ではない。
 階段を下りると、ちょうどマダムが登ってこようとしているところだった。彼女は上気した頬をさらに赤らめ、口早に告げた。
「あんたの知り合いの嬢ちゃんだろう、アディの酒場で暴れたっていう。大変なことになってるよ」
 予感が的中してしまったことに、目眩を覚えた。予感もなにも、情報の断片を聞いただけでそれはほとんど確定だったが、できれば信じたくなかったのだ。
 その続きも、察しがついた。
 あの暴走女が、とんでもないことをしでかしたにちがいない。それは人間が決してやってはいけない愚行だ。
「境界を越えようとしてる……とか?」
 聞きたくなかったが、聞いた。マダムはすぐにうなずく。
「そうさ、どんなバカなんだい。逃げていく連中がわめいているのを聞いただけだけどね、境界の前で、プテリュクスにケンカ売ってるらしいよ。坊や、すぐに行っておやり。よっぽど追いつめられてるんだろうよ」
 追いつめられているのだとして、それと自分となんの関係があるのか──そう反論したかったが、頼ってきたらしい彼女を追い返したのは事実だ。フェーヴは苦虫を噛み潰したような顔をして、ほんの数秒、思案する。
 とはいえ、考えている余裕はなかった。舌打ちをして、マダムの隣をすり抜ける。
「宿代、待っててくれよ」
 もちろん行きたいわけではなかったが、無関係といいきれない以上、そうもいっていられない。フェーヴは宿を飛び出した。


 その広大な砂漠の果てを、人間は知らない。正確には、それが本当に地図の通りの位置にあるのか──自らの暮らす土地が大陸としての形状をとっているのか、それすら、知るよしもない。
 人間たちにとっての世界の終わりは、砂漠の途中、唐突に現れる。
 そこには、高くそびえる壁も、柱も、ましてや門のような類のものさえ、ない。ただ、ひどく頑丈なロープ状のものがまっすぐに打ち付けられ、境を明確に示している。どれほど強い風が吹こうが、嵐が襲いかかろうが、境が砂に隠れることは決してなく、それ自身が世界の一部であるかのように、常に存在している。
 それこそが、境界だった。
「話を、聞いてください!」
 境界の前に立ち、ショコラ=プレジールは声を張り上げていた。足を開いてしっかりと地に下ろし、砂漠の向こう側を睨みつけるようにして、息を吸い込む。
「だれか、出てきてください──! 可能ならば、プテリュクスの、いちばん偉い方! どうか!」
 その声はすでに枯れていて、何度も呼びかけているであろうことがうかがえた。宿から走り続け、やっとのことで辿り着いたフェーヴは、肩で大きく息をする。
 それはひどく異様な光景だった。すぐに制止しようとして、しかしあまりのことに、フェーヴは見入ってしまう。
 高い位置で束ねた金の髪を振り乱し、ショコラは必死に叫んでいた。懇願していた、というほうが正しいかも知れない。聞くものなど、風か、砂か、ずっと頭上の太陽か。届かないと知っているのか、それでも届けようとしているのか、ショコラは声を振り絞っていた。
「話を、聞いてください!」
 やめろ、というのは簡単だった。
 しかし、フェーヴは言葉を飲み込む。
 なにが彼女をここまでさせるのか──疑問と、かすかな興味。フェーヴを追ってきた執念も尋常ではなかった。その想いと、いまのこの行動とが、繋がっているというのだろうか。
「ポムダダンはわたしが止めてみせます! だから、どうか──!」
 勢いのままに、ショコラが歩を進める。その足が境界を越えようとしたとき、フェーヴは彼女の手を取った。
「阿呆、死ぬだけだぞ」
 ショコラが目を見開く。しかし、驚きは一瞬だった。すぐに不快そうに眉根を寄せ、手をふりほどく。
「どうして来ましたか、フェーヴ=ヴィーヴィル。恐がりなボクは隅っこで丸くなってなさい」
 恐がりなボク、を否定する気はなかった。フェーヴは仏頂面で、向こう側を見る。
「境界を越えたヤツがどうなるかぐらい、知らないわけじゃねえだろ」
 見渡す限り、境界の向こうにはなにもない。ただ、どこまでも続くのではないかというほどの、砂漠。それは、こちら側とまったく同じものに見える。
 けれど、そうではないのだ。
 その事実を、人間はみな知っていた。
「まちがって向こうの怒りを買ってみろ、サンドリユの町全体──それどころか国ぜんぶが、無関係ってわけにはいかなくなる」
「なにを呑気な」
 ショコラは鼻を鳴らした。踏みしめるように足を動かし、境界のぎりぎりで止まる。
「知ってます、ここから先に侵入した人間は、殺されるってこと。こんなロープ一本で境界が機能しているのは、越えたものはその瞬間に身体を切り刻まれる……そういう事実があるから」
「バカが死ぬだけならまだしもな。大昔には、命知らずどもが一度に越えて、怒ったプテリュクスが押し寄せてきたって話もある」
 それこそが、境界の恐ろしさだった。プテリュクス領には人間はいない。人間の支配者たる羽翼人──プテリュクスが常にこちらを監視し、境界を越えるものがいれば、刹那の間に命を奪う。プテリュクスが実際に手を下しているのか、なにか驚異の力が働いているのか、それすら知ることはかなわない。少なくとも、人間がプテリュクスを目にすることなど、ほとんど奇跡に近かった。
「足一本でも出してみろ。大ケガですめば万々歳だ」
「どうせ死ぬのですから、同じです。わたしは、なにもしないで終わりたくない」
 その表情があまりにも真剣で、フェーヴは安易な制止の言葉を飲み込んだ。まっすぐに砂漠の向こうを見据える、緊張した横顔を見る。
「……戦場になるって、話か?」
 しかし、ショコラは答えなかった。風が吹き抜け、砂煙が巻き起こる。それでも微動だにせず、砂の霧の向こう側を、見つめている。
 フェーヴは黒帽子を押さえた。飛んでいってしまうような代物ではなかったが、あまりの強風に目を細める。
「そんな」
「あ?」
 ひどく絶望的な声に、フェーヴはショコラの視線を追った。視界を遮ろうとでもするかのように、砂が舞っている。その向こう側──目をこらす必要はなかった。
 目線よりも高い位置に、複数の小さな点。
 十や二十ではない。おびただしい数のなにかが、少しずつ大きくなっていく。
 皮肉なことに、西の空は鮮やかな赤に染まり、それらは赤を白く彩っているかのようだった。
 フェーヴの背中がぴりぴりと震えた。押し寄せてくるそれがなんであるかなど、考えるまでもない。この場所で、向こう側を臨んで、見える可能性のあるものなどただひとつだ。
「ぼさっとしてんな!」
 フェーヴはショコラの腕を強引につかんだ。力が抜けてしまっているのか、少女の華奢な足は崩れ落ちる。膝をつきうなだれる様子に舌打ちし、唇を噛んで抱え上げた。彼女の体重なのか、背中の大剣のせいなのか、予想以上の重さによろめく。
「とんだとばっちりだ」
 しかし、倒れている場合ではなかった。フェーヴは地を蹴って、走り出した。境界に背を向け、出せる力を振り絞り、ひたすらにまっすぐ。
 走ったところでどうなるのか、逃げ込む場所などあるのか──足は止めずに、頭をフル回転させる。答えなどわかっていたが、それでも考えなければならなかった。少なくともここよりは、市街地のほうがましなはずだ。いや、さして変わらないだろうか。
 砂に足がとられる。どうして四足獣を調達してこなかったのかといまさらながらに悔やまれるが、どうしようもない。
「走れます、おろしてください!」
 泣きそうな、しかし張りつめた声が背中で吠えた。走りながら、フェーヴは背の質量を確認する。さすがに、この状況で暴れ出すほど考えが足りないわけではないらしい。
「あれは、あんたのしわざか?」
「いったでしょう、戦場になるって。わたしはこれを止めたかった……止めたかった、のに」
 いったいこの少女がなにをすれば阻止できたというのか──聞いてみたい気もしたが、いまはそれどころではなかった。フェーヴはショコラを降ろすと、彼女が体勢を整える一瞬だけ待つ。
 近づく音に、空の向こうを確認しようと顔を上げた。
 事態は、目の前にあった。
 舌打ちし、とっさにショコラの肩に手を回すと、地面に押さえつける。自らもうつ伏せになり、息を殺す。
 腕のなかの少女が、悲鳴のようななにかを叫んだ。
 しかしそれは、爆風に近い風の音と、耳をつんざく羽音にかき消された。フェーヴもまた、言葉を返したのかもしれないが、それすら曖昧になるほどの音の渦が押し寄せた。
 ほとんど同時に、巻き起こる砂煙。視界は埋め尽くされ、腹に感じる砂の熱と、腕の下のショコラのぬくもりだけが、現実味を伝える。
 それらが頭上を通過していくのに、どれぐらいのときを要したのだろう。
 音が遠ざかっても、まだ目に映るのは薄茶色のみだ。フェーヴは、音が完全に聞こえなくなるまで息を殺し、やがてゆるゆると顔を上げた。
「……押し寄せてきやがった」
 遠ざかっていく影は、美しくもあった。
 翼を持つ、それ以外はほどんど人間と相違ない姿の、プテリュクス。遠くとも、透き通るほどの白がわかる。彼らの翼の、白だ。澄んだ水辺で見ることのできる鳥類のそれよりも、よほど美しい。それらが群を為しているさまは、ほとんど鳥のようでもあった。
「わたしたちなんて、眼中にない、ですか」
 ショコラがうなだれる。町が燃えたのは、その瞬間だった。




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