第一章 プテリュクス、侵攻 1

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 なんて幸せなんでしょう。
 あなたといられるいまが、いちばん、幸せだわ。
 後悔なんて、決して、しないわ。
 
 だから泣かないで。
 泣かないで。
 私は本当に、幸せだったから。




 愛の言葉を囁いて、彼女は倒れた。
 赤い血の海に、広がる黒い髪。
 指先は、何かを求めるように伸ばされたまま、いまはもう、動かない。
 抱きとめることもできなかった。
 言葉を返すことも、できなかった。

「……なにが、アンファンだ」
 涙さえ流せずに、青年は重くつぶやいた。









   一


 フェーヴ=ヴィーヴィルは確信していた。
 どこにいても視線を感じた。
 巧みに逃げているつもりでも、追ってきた。
 こうして、酒場の天井、梁の上で氷酒のグラスを傾けていてさえ──少女は堂々と荒くれ者の巣窟に姿を現した。
 もはや、疑いようもなかった。
 自分はどうやら、厄介ごとに巻き込まれようとしているらしい。
「フェーヴ=ヴィーヴィルは、どこにいますか」
 毅然といいはなった少女はあまりにも場と不釣り合いで、客のあしらい方など熟知しているはずのマスターも、珍妙な事態には慣れているはずの客たちも、ただ口をあんぐりと開けた。
 フリル満載の白いワンピース。短いスカートの下からショートパンツが見え隠れし、スラリと長い足は革製の丸い靴に収まっている。碧色の大きな目、高い位置でまとめられた、ブロンドの長い髪。
 美人、というよりは、可愛らしい少女。
 帝都のショッピング街ならまだしも、ここは灼熱の町サンドリユ。掃除屋を生業とする屈強の大男がごろごろしている町だ。淑女学校なら、まず近づくべからずと唱えるような、戦いの町。
 そのサンドリユの、血と汗とアルコールの匂いの充満した酒場にあって、少女はだれよりも凛としていた。
「もう一度聞きます。フェーヴ=ヴィーヴィルは、どこにいますか」
 少女は酒場の中央で、その場にいる全員に対して問いを繰り返した。まるで自分こそが正義だというかのように、高圧的に周囲を見回す。
 しかし、だれも答えない。
 梁の上で、フェーヴは腰を上げた。そのまま飛び降りようとして、思いとどまる。どうやら天井には注意を向ける様子もなく、じっとしていれば気づかれることもなさそうだ。
 息を潜めて、眼下の光景を見守る。
 出て行くのは、最後の手段だった。できることなら、このままやりすごしたい。
 少女は息を吸い込むと、苛立ちを含んだ声で続けた。
「知らないとはいわせません、黒ずくめの、掃除屋の少年です。目つきが悪くて、斜に構えた感じの、ちょっと友だち少なそうな。年齢は、私より下。この町には、少なくとも七日前から滞在しているはずです」
 ──余計なお世話だ。音を立てず、フェーヴは舌打ちする。
 なにを根拠としているのか、少女は酒場の誰もが少年のことを知っているかのような口調だった。知らないはずはない、と言葉のとおりに確信しているようだ。しかし、フェーヴは知っている。彼女の自信に根拠がないという事実を。
 客たちは、顔を見合わせた。その表情に、次第に笑みが生まれ出す。嘲笑だ。
「そこのセルブーズさん、酒を持ってきてくれないか。おっと、背中のデカい剣みたいな偽物じゃなくて、本物を頼むよ」
 赤い顔をした大男が、空のジョッキを手にそういって、どっと笑いが生まれた。
 少女が、目を細める。彼のいうとおり、背には大剣を背負っていた。鎧の類はいっさい身につけていないというのに、武具だけは剣士顔負けだ。そのアンバランスさを揶揄したのだろう。
「給仕というのは、わたしのことですか」
「ちがうのかい。じゃあ、ダンスーズかな。カウンターに乗って踊ってごらん、ご褒美をあげるから」
 盛り上がった筋肉を見せつけるようにして、男が笑う。男の腕にからみついている女が、赤い唇でくすりと笑った。
「給仕でも踊り子でもありません。帝都のイデアル・アカデミーの承認を受けた正式なソルシエールです。ケンカ、売りますか」
「ソルシエール!」
 信じるそぶりなど微塵もなく、筋肉男が吹き出した。酒場内がどっと湧く。
「よりによって、ソルシエールかよ!」
「そいつはすごいお話だ」
 信じるものなど、ひとりもいなかった。あーあ、とフェーヴは唇を曲げる。どうなっても知らないぞ、と心のなかでつぶやいた。
 この広大な帝国領内で、ソルシエールという言葉を知らないものはいない。陣士ともいわれるそれは、生まれ持った才能だけでなく、長年に渡る修行を経ないことには手にすることのできない称号だ。イデアル・アカデミーの承認を受けるとなれば、なおさらのこと。
 ソルシエールのことを、無邪気に「魔法使い」と呼ぶこどもたちいる。しかし、女神クレアトゥールの恩恵を直接に受ける業である事実を知れば、こどもであろうとも自然と彼らを仰ぐ。
「ソルシエールとは大きく出たな、お嬢さん。オレらは見てのとおりの掃除屋だ、そういうホラは身の危険を招くぜ。早いとこダンスしろよ。剣の舞か? 脱いでもいいんだぜ」
 にやついた笑みを浮かべ、筋肉男がからかうようにいう。
 少女は、怒りを吐き出すように、静かに息をついた。筋肉男と、その取り巻きが占拠するテーブルへ、真っ直ぐに歩み寄る。
「身の危険を歓迎しているのはあなたの方です、掃除屋さん。ケンカを売りますか、と聞きました」
「売ってやろうか」
「買おうじゃないですか」
 少女は、腰元の金具をはじいた。背の大剣を、鞘のまま片手で軽々と持ち上げる。
 帝国騎士の構えで、無骨な大剣を水平にぴたりと止めると、唇の端を上げた。
「後悔するがいいです」
 大剣の鞘が、青い光を帯びた。光と共に無数の小さな文字が浮かび上がり、点から無限へと解放されるかのように空間に法陣が描かれていく。
 あ、と男は口を開けた。掃除屋を生業としている以上、目にしたことがあるのだろう──ソルシエールが力の起点とする、法陣という鮮やかな紋様を。
 光り輝くそれは、その姿だけで、彼女の言葉が偽りではないということを証明していた。
「ちょ、ちょっと待っ──」
「返品しませんよ」
 微笑んで、少女は鞘ごと大剣を振り上げる。
 轟音と、続く渦のような旋風。
 目を閉じることもできず、制止を求める体勢のまま動けずにいた男は、床に尻餅をついて、悲鳴すらあげられずにいた。
 目前で繰り広げられた光景が、信じられなかった。
 彼が座っていたはずの木の椅子が、粉々に砕け散っていた。男と少女の間にあったはずのテーブルなど、跡形もない。
 振り下ろされた大剣の下に、テーブルよりも一回り大きなクレーター。床を砕き、地面をえぐり出しておきながら、少女は軽々と大剣を構え直す。
「謝罪の言葉がありませんが」
「そ、ちょ……っ」
 男は声を出すことができなかった。他の客たちは呆然と少女とクレーターを見つめている。見ることしかできないのだ。
 荒くれにつきもののケンカの類なら、彼らは喜んで騒ぎ立て、あおっているだろう。だが、これは、そういうものではなかった。
 戦闘能力など皆無にしか見えない少女が、ソルシエールだと名乗り、大剣で器物破損。やられているのは、彼女の倍以上はあろうという筋肉男──のちに話の種にしようものなら、それこそホラ吹きと一蹴されるに違いない。
「おまえ、ほんとむちゃくちゃだな」
 フェーヴはとうとう、逃げ出すのをあきらめた。
 疲れ切った声を出す。客たちは一斉に天井を見上げ、それから声をあげた。
「あんなとこに、ガキが──」
「黒ずくめだ」
 彼こそが少女の探している人物だと、理解したようだ。本当にいたのか、と声が漏れる。
 大変不本意ではあったが、否定する理由もない。フェーヴは不快そうに鼻を鳴らした。
「用があるのは俺なんだろ」
 眉をひそめていたマスターが、梁の上を指差す。
「おい、それ、うちの酒だろう。金をもらった覚えがねえぞ。つーかガキのくせに、なにうちの酒を……」
「あなた! やっぱりいましたね! 高いところから悠々と見物なんて、どういう了見ですか!」
 マスターの声を遮るようにして、少女が吠える。これ幸いと、フェーヴはマスターを無視した。
「安いケンカ買って店壊すって、おまえこそどーゆーりょーけんだ、阿呆」
「むか! あなたがちょこまかと逃げるからでしょう! わたしは断固穏便派です! 今回は……そのう、ちょっと、いらついていたんです」
 憤慨しながら、少女がさらりと八つ当たり宣言をする。ひでえ、と客たちがつぶやいた。したたかにやられた筋肉男に至っては、立つこともできない。
「まあ、おまえのゴキゲンはどうでもいいけどよ」
 フェーヴはため息を吐き出して、梁から飛び降りた。音もなく着地すると、両手をポケットに突っ込む。黒のロングコートに身を包み、頭には大きな黒帽子までかぶっているフェーヴの姿を、客たちは好奇の目でじろじろと見た。だが、そんな反応には慣れている。フェーヴは背を丸めて、ゆらりゆらりと出口に向かった。
 この騒動を、自分のせいにされたのではたまらない。あくまで暴走少女のやったことであって、自分とは無関係なのだ。ついでに、払わなくてすみそうな金を払うこともない。
「ちょ、ちょっと待ってください! わたし、どうしても、あなたにお願いしたいことがあるんです!」
「俺は聞きたくないんです」
 ぴしりと返すと、少女は黙った。唇を噛み、震え出す。
 その大きな瞳に涙が滲み出して、さすがにフェーヴは慌てた。彼女とは何度か会ってはいるが、一方的に追ってきているからであって、親しいわけでもなんでもない。少なくとも、泣かれる理由などない。
「こ、これだけ、ずっと、あなただけを追っているのに……話も聞いてくれないんですか。ことは一刻を争うというのに……やっとお会いできたのに……!」
 ぼろりと涙がこぼれる。騒然としていた酒場内は、別の意味でざわめきだした。
「坊主、話ぐらい聞いてやれよ」
「女の子泣かすもんじゃねえよ」
 いつのまにか少女の味方になっていたらしい客たちが口々にそういって、フェーヴは肩を落とした。これも彼女の作戦なのだろうかとちらりと思うが、どちらにしろ、追われ続けるのならば、話を聞いた上できっぱりと拒絶すればいいのだ。
 咳払いをして、少女を見る。
「──聞こう。聞くだけな。なんなんだよ、いったい」
「本当ですか!」
 少女は顔を輝かせた。両手を胸の前で組んで、真摯な瞳でフェーヴを見つめる。
「あの……」
 勇気が出ないといわんばかりに、言葉を濁す。一度うつむき、意を決したように顔を上げた。頬がほんのりと赤い。息を吸い込む。
「……わたしを、愛してください!」
 沈黙が、落ちた。
 少し遅れて、客たちのいやに低い歓声が上がった。
 フェーヴは黙った。
 ちょっと考えた。
 ──考えるまでもなかった。
「じゃあな」
 錆びたバーを押しのけて、酒場から出て行く。
「え、無視? 無視ですか? 待ってください! あ、剣! 剣を直さないと……コラー!」
 背後から金切り声が聞こえたが、きっちりと無視をして、フェーヴは足を速めた。 


「待ってくださいってば!」
 ソルシエールとしての訓練を受けているだけあって、少女は見た目よりもよほど軽やかな身のこなしをしていた。右へ左へ、できるだけついてこられないようルートを選んだにもかかわらず、あっさりとフェーヴに追いつく。
「待ってください、フェーヴ=ヴィーヴィル! まだ返事を聞いてません! オーケーですか、ダメなんですか!」
 厚手の黒コートをはためかせ、フェーヴは無言で歩を進めた。丸ごと嫌がらせなのか、それとも頭の作りが残念なのか──そんなことを考えるが、実のところ、放っておいてもらえれば理由などさしたる問題ではない。ろくに面識もない相手に、愛してください、などとばかげている。
 両脇にせわしなく店が建ち並ぶサンドリユの裏繁華街を、足早に歩いていく。ポケットから銅貨を出すと、道脇の商人に投げてよこした。代わりに木の器に入った水を受け取り、喉を潤しながらさっさと進む。
 少女も慌てて足を止めた。鞄からネームプレートのついた金属製のボトルを取り出し、水を購入する。その分、しっかりと差が開いた。しまった、罠ですか──そんなことを叫びながら、小走りで追いついてくる。
「あの、まだ名乗ってませんよね! わたしはショコラ、ショコラ=プレジールです。職業は聖退魔、称号はソルシエール。十五歳、趣味は剣を研ぐこと!」
 その名を聞き、フェーヴはほんの一瞬、足を止めた。しかし、すぐに歩き出す。
「聞いてねえよ」
「そんな!」
 大げさな悲鳴に、耳をふさぎたくなる。痛いほど感じる視線に、フェーヴは嘆息した。
 滅多に雨の恩恵を受けない砂漠の町では、ロングコートを着ているだけで注目を浴びるというのに、そこに大剣を背負った少女が加わればほとんど無敵だ。好奇の目が突き刺さる。
 どうやらショコラには、空気を読むという能力が欠如しているようだった。そもそもそんな芸当ができるのならば、これだけ避けているのにしつこく追っては来ないだろう──フェーヴは、ここ最近の日々に思いを馳せる。
 歩行中はあたりまえ、食事中、就寝中、さらには入浴中であっても、彼女はフェーヴを追ってきた。勢いだけはすさまじく、とはいえ勢いのみで、成果はあまり伴わなかったが。この町にやって来たことで、無事に逃げ切ったと思っていたのに、甘かった。
「とっても重要な話なんです! 事情を聞こう、という気にはなりませんか? こんな可憐な乙女が、断固交際を申し込んでいるというのに!」
「なりませんね」
 思ったままに、素直に返す。ショコラは悔しそうな顔をして、それでも小走りに、フェーヴの隣に並んだ。
「そうやって焦らす作戦ですか……! オーケーならオーケーだと、いえばいいのに」
「おうおう、なんだそのポジティブシンキング。力いっぱいお断りだ。おまえみたいなうるさいの、趣味じゃない」
「むか! 実年齢はともかく、いまはわたしのほうがお姉ちゃんでしょう! ちょっと失礼じゃないですか!」
 顔を真っ赤にして怒るショコラに、フェーヴは足を止めた。
 聞き捨てならない。
 とっさに対応できなかったのだろう、少女──ショコラが背にぶつかる。その拍子に買ったばかりの水がこぼれ、フェーヴのコートを濡らしたが、そんなことはどうでも良かった。
 フェーヴは、ショコラに向き直った。ひどく冷ややかに、自分よりもほんの少し背の高い少女を見上げた。
「……なんだって?」
 その凍りつきそうな声に、ショコラはひるんだ。気圧された、というよりも、失言を後悔しているような顔だ。一度身を引くようにして、しかし思いとどまったのか、堂々と胸を張る。
「知られてないと、思ってますか。フェーヴ=ヴィーヴィル、あなたのことはよく知っています。だからこそ、こうしてあなたを頼りに来たのです」
「なるほど。だから、愛してください?」
「そうです」
 フェーヴは鼻を鳴らした。それならば、尚更、これ以上この少女に構う必要はなかった。
 いったいどこからどうやってかぎつけたのか、気になるとしたらその一点のみだ。だが、それすら重要ではない。関わらないのが最良だ。
「調べがついてるってんなら、俺が一人でふらふらしてるロクデナシだってことも知ってんだろ。俺は他人と関わるのが嫌いなんだ。ほかをあたってくれ」
「そうやってずっと、逃げますか」
 濁りのない碧の瞳で射抜かれ、フェーヴは黙った。出会ったばかりの少女に、正面からいわれる言葉ではない。
 しかし、反論を口にする気はなかった。傷ついた気にもならない。肩をすくめて、ショコラに背を向ける。
「さっさと帝都に帰りな」
「帰れません。ほかをあたることも、できません」
 少女はもう、追ってこなかった。その代わり、ひどく硬い声でつぶやいた。
「あなたともう一人以外は、みんな、死にました。それに──ここはすぐに、戦場になります。逃げないでください、フェーヴ=ヴィーヴィル。変えられるのは、あなただけです」
 少女の願いを、フェーヴは背中で聞いた。ひらひらと手を振って、そのまま歩を進めた。




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