いったい自分はどれほど疲れているというのだろう。あってはならないデジャブに、幸太はめまいを覚えた。
メガネを外し、こめかみを押さえ、息をつく。明日は高校受験日なのだ。幻を見ている場合じゃない。
「えっと、ムシしないでいただきたいのですが」
いやいやいや。幸太は首を振った。見てはいけない。気のせいだ、気のせいにちがいないのだ。
「ご主人様?」
しかし、とうとう吐息が首筋にかかる距離でささやかれ、幸太の手にしたシャーペンの芯がぼきりと折れる。ついでに心も折れた気がした。
振り返ってしまった。
そこにいる人物──にしか見えないもの──を、見る。
メイドさんだった。
会うのは、夏以来だ。そのときに教えたとおりの格好をしている。フリフリのスカートからは長い足がのび、胸は大きすぎず小さすぎず。ストレートの髪がさらりと顔にかかり、メガネは赤いフレームだ。
間違いない。
「お久しぶりです。夏には大変お世話になりました。蚊です」
わかっていたが名乗って欲しくはなかった。深々と頭を下げられ、幸太は返すべき言葉を見失う。なんと答えればいいのかわからない。
ふと、疑問がわいた。
「いまは冬だと思うんだが。どうしてまだ蚊が生息してるんだ? 血をくれということならお断りだ。明日は人生を左右する大切な日だからな」
「蚊は、夏に活発になるというだけで、いつでもいるのですよ。蚊協会の政策が成功いたしまして、わたくしたちはとても元気です」
いわれてみれば、寒くなっても蚊を目撃し、驚くことがあるような気がする。そしてそういうときの蚊は存外にたくましいのだ。
ふぅん、と返事をし、慌てて幸太は咳払いをした。
「い、いや、それはどうでもいいんだ。とにかく出ていってくれ。忙しいんだ」
毅然とした声で断った。ぷくりとした唇が目に留まるが、雑念を追い払う。ノーという勇気。
「あの、でも……」
彼女は瞳を伏せた。それから、狙いすましたような上目遣いを披露する。
「今日は、お礼にうかがったのです。一万に達した、記念に」
「……一万?」
なんの話かわからない。聞いてみたいような気もしたが、聞いてしまっては負けだという気もした。
「記念だかなんだか知らないが、とにかく……」
「お礼だけでも、させていただけませんカ?」
ぐ、と意志が揺らぐ。自分の好みを凝縮した姿なのだから、あたりまえだ。たとえ正体がアレであろうとも。
「お願いします」
断りきれずにいるのを見抜いたのか、天然なのか、肩をつかんで身を寄せてくる。
「どうか、お礼をさせてください」
「…………ちょ……」
己の中の固い意志が、白旗をあげるのが見えた気がした。ノーという勇気……勇気……──もはやはるか遠くで響く幻聴だった。
「ちょっと、だけなら」
「本当ですカ!」
彼女は顔を輝かせた。あっさりと幸太から離れると、いそいそと窓を開けにいく。
「みんな、入っておいでー」
「え」
制止する余裕などなかった。
声に応え、ぞろぞろと窓から入ってきたのは──部屋を埋め尽くすほどの、少女たち。
「いや、その……え……?」
一人や二人ではなかった。数え切れない。壁をよじ登っているのかなんのか、どんどん押し寄せてくる。
幸太は、驚くことしかできなかった。挙動不審になってしまう。なかには、目のやり場に困るような衣装の少女もいるのだ。
ミニスカートはあたりまえ、激しく肌を露出している娘もいる。かと思えば、袴姿だったり、セーラー服だったり。
そして、だれもが、かわいかった。
幸太のツボをこれでもかと押さえた、美少女の数々。
「こ、これは、どういう……」
「お礼です。わたくし、ご主人様と出会ってから、たくさん勉強しました。おかげでいまや、蚊協会会長補佐の地位に就いております。これで、蚊の未来も安泰です」
「お礼、って」
幸太の脳裏に、いやーんなお礼の図が浮かぶ。いやそんな、まだ中三なのに、そんなお礼は……でもどうしてもっていうなら断ることもないような……いやいやいや。
「幸太さま」
「幸太さま」
「幸太」
「幸太くん」
少女たちが、わらわらと群がってくる。イスに座ったままの幸太にすがるように肌をすり寄せ、それぞれが礼を述べた。
「ありがとうございます、幸太さま」
「ベ、別に、嬉しくなんかないんだからねっ」
「えへへ、幸太さまに会えるなんて、ボク嬉しいな」
バリエーションも実に豊富だ。
なんだかもう、気絶しそうだった。
やばい。
これは、想像していなかった。
しかも、どんどん数が増えている。一万、という数字が脳裏に浮かんだ。まさか一万人いるとでもいうのだろうか。
「ねえ、幸太」
妙に色気むんむんのお姉さまが、幸太の首に手を回した。馬乗りにまたがり、ぎりぎりまで唇を寄せる。
「キス、してもいいか?」
「────っっ」
胸が近い。半分ほど丸見えの胸が。唇も近い。むちむちの足が持ち上げられ、ハイヒールの先が幸太の机に乗る。
心臓が恐ろしい速さで動いているのがわかった。幸太はもう限界だ。
「やだっ、ずるぅい! 幸太さまにはあたしがキスするの!」
「私が!」
「わ、わたし、だって……!」
それぞれキャラを主張しつつ、少女たちが押し寄せてくる。
ああ、と幸太は瞳を閉じた。
オチなどわかっていた。
わかっていたが、そんなもんどうでもいいわ、と自らの頬を殴りつけたい気分だった。
いま、この幸せがすべて。
ビバ、ナウ。
「いくらでも、するがいい──!」
そうして、美少女の海に、身を投げ出した。
翌日、高校受験当日──。
全身を真っ赤に腫らした幸太は、それでも果敢に受験会場へと足を運び、見事合格。本人確認に少々手間取ったことをのぞけば、ごくスムーズに高校への切符を手にした。
そうして、高校に入学してからの幸太の行動は、実に意欲的で、かつ素早かった。
『蚊同好会 ──蚊を愛する同志求む!』
蚊萌え──新しい性癖に目覚めた幸太の明日は、きっと明るい。
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ブログ限定、といいながらこちらに転載。
オチ丸見えかつくだらない感じですが、こういうの書くの大好物だったりします。