story7 虚構 4

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 まだ動き始めない翡翠の小麦亭の正面から、怜は堂々と足を踏み入れた。日が暮れていない間は見張りもいないが、そもそも怜にとって、見張りや鍵の類は意味をなさない。
 両手をポケットに突っ込んで、長い棒を小脇に抱え、軽快に階段を駆け上がっていく。正面から入ったことで数人に見咎められたが、面倒なことになる前に早々に睡眠を提供した。棒で一撃だ。
「こんにちは、ガダル=アルゲードさん」
 三階の自室らしき場所で、目的の人物を見つけた。他の部屋ほどの装飾はなく、簡易なソファセットと棚が並ぶだけの、どちらかというとこぢんまりとした部屋だ。ガダルの私物と思われる本やカップなどが、あちらこちらに置かれている。
 ガダル=アルゲードは、ひとりでソファに横になり、腕で目を押さえるようにして、じっと、動かずにいた。
「またおまえか。あの娘のことは話がついただろう」
 ガダルは、いまは茶の上下に着替えていた。寝間着を思わせる楽なものではあったが、そのぞろりとした形態は、この地方ではあまり見ないものだ。交易でどこかから仕入れた、特別な衣服なのかもしれない。
 だがもちろん、そんなことは怜の関心を引かなかった。それよりも言葉の中身に、思わず唇の端を上げた。
「ああ、そういう考え方は好きだなあ。深追いせず。ガダルさんの商売がうまくいくの、わかる気がする」
「そんな世間話をしに?」
「まさか」
 怜の笑みにつられたわけでもないだろうが、ガダルも薄く笑うようにして、身体を起こした。ソファに深く座り直し、両手を膝の上で組むと、疲れたように息を吐き出す。
「では説教か、若造が。クレシアに雇われでもしたか。ミーアというのは、どうせクレシアの狂乱の産物だろう。あの子もかわいそうに。見知らぬ人間の人形扱いか」
 怜は眉を上げ、ガダルの向かいに腰を下ろした。
「てっきり、ミーアちゃんは実の娘なのかと。違うの?」
「馬鹿な。ミーアはずっと昔に死んだ。あれ以来、クレシアは子を産んでいない」
「ガダルさんの、って意味だけど」
 ガダルは怜の瞳を見つめ、そのまましばらく、口を閉ざした。
 怜の言葉の意味がわからなかったわけではないだろうが、その内容を、時間をかけて吟味しているようでもあった。
「それこそ、くだらない」
 数秒ののち、吐き捨てた。
「俺の娘、だと。そんなものはいくらでもいるだろうし、また、ひとりもいないだろう。そういうものだ。女が俺の娘といったところで、確証などどこにもない。確証があったところで、ほんの数年を生きただけで死んでしまう命かもしれないのだ。くだらない。そんなものに、俺は縛られない」
 怜は黙って、聞いていた。彼の言葉は、怜を不快にさせることはなかった。それほどの何かを込めて聞くべき言葉だと、最初から思っていないのだ。
「ガダルさんにとって、クレシアさんは、何なの」
 少なくとも、名目上は妻であるはずの、クレシア=アルゲード。
 しかし、ガダルがアルゲード邸に寄りつく素振りはなかった。もうどれほど長い間帰っていないのか、それこそ見当もつかない。
 アルゲード家はクレシア側の家だ。若いころから地道に商いをしていたガダルは、そもそもが家名と財力を目当てに、アルゲード家に入ったと噂される。少し調べただけで、彼に関する良くない話はいくらでも出てくる。結婚よりも前から、ガダルには懇意にする女があったらしい。複数だ。
 だが、怜の予想に反して、ガダルはひどく辛そうな顔をした。しかしそれは、本当に一瞬のことだった。すぐに表情を打ち消すと、首を振る。言葉は発せられない。
「一ヶ月前に」
 怜は、質問を変えた。
「何があったのか、教えてもらえる?」
 ガダルは、怜の瞳を見た。
 不意をつかれたような表情で、そのまま沈黙した。
 一ヶ月前。
 脳裏に蘇るのは、きらめく鮮やかな刃。同じ色の、決意に燃える長い髪。
 自分の名を呼ぶ声。
 ひどく聞き慣れた、あたたかい、しかし苦痛を伴う、声。
 そして、鮮血。
 涙。

   *

 
 ──愛しているよ、愛しているよ。
 
 囁く声を、いまも覚えている。

 ──幸せにするよ。いっしょに、幸せになろう。

 約束は、いまも色あせない。

 ──ああ、ぼくらは……

 あたたかい瞳で告げた、ひどく脆い、甘い声。

 ──幸せだね。

 思い出すだけで、こんなにも胸に溢れる。
 信じて疑わなかった、愚かな自分。
 結局はひとりで生きていた、哀れな虚構の世界。
 それでも、いつだって、思い出せるのだ。


 ──とてもとても、幸せだね。

   僕らは本当に、幸せな家族だね。




「幸せだと思っていたわ」
 クレシアは膝をつき、ミーアの銀色の髪に触れた。両手で頬を撫で、青い瞳の輪郭を描くように、親指で優しくなぞっていく。
「幸せだと思っていた。朝起きて、三人で食卓を囲んで、ガダルを見送って。ミーアとお出かけして、パパはいまごろ何をしているかしらって、そんな他愛のない会話をして。その間、あの人が他の女の人を抱いて、生きた命を売り歩いて、そうして得たお金を持ち帰ってきているなんて知らないで。わたしだけ、本当に何も知らないで」
 見開かれた瞳から、涙は流れ出なかった。
 震える手で、クレシアは少女を抱きしめた。強く強く、骨がきしむほどに。
「あなたを拾ったのは、わたしの償い。自己満足よ。あなたは他人よ。似ているだけの他人。被害者よ。わたしの虚構に巻き込まれてしまったのね。なんてかわいそうなミーア」
「それでもあたしは──」
 ミーアは言葉を飲み込んだ。
 この壊れそうな人に、母と決めた人に、幾度同じ言葉を伝えただろう。いくら形にしても足りない感謝を、どれほど伝えただろう。
 それでも伝わらないのだ。
 クレシアは、虚構の中にいた。
 彼女にとって、何もかもが作り物だった。
 作り物の中に入ってしまったのでは、どれほど丁寧に形作った言葉も、何もかも、虚構を構成する一つにしかなり得なかった。
「だからあたしは……殺そうとしたんだ……一ヶ月前、ちょうど今日みたいに決意して、翡翠の小麦亭に向かった。そう、そうだ──どうして忘れていたんだろう。どうして、思い出してしまったんだろう」
 抱きしめるクレシアの腕を、少女の涙が濡らす。
 ただ、クレシアを解放したい一心で。
 幸せになってもらいたいと、それだけで。
 愚かにも、人殺しを企てた。それが何を意味するのか、深く考えもせずに。
「──そこに、居合わせてしまったの?」
 いつのまにか、クレシアとミーアとを残し、景色のすべてが消えてしまったかのようだった。
 すべてが闇の奥に落ちていってしまったみたいに、いまいる場所だけが、浮き彫りにされた。クレシアが顔を上げると、そこには見慣れた部屋も、人形のミーアもいなかった。
 悠良が、見下ろしていた。
 その向こうで、感情のない瞳で、莉啓がこちらを見ていた。
「その時に何もかもが終わってしまったのに、それでも、認められないの?」
「終わった?」
 クレシアがくり返す。
 終わった、という言葉。
 それは遠い言葉ではない。クレシアの中では、ひどく大事なものがもう幾つも──ひょっとしたら何もかもが、もうとっくに、終わってしまっていたのだ。
 クレシアには、恐れるものなど何もないはずだった。
 これ以上耳を塞ぎたいことなど、ないはずだった。
 ではなぜ、認められない?
 何が、怖い?
「一ヶ月前──ミーアが、計画を決行しようとした日。時を同じくして、あなたもその場にいたはずだ。あなたはもう、思い出さないといけない」
「わたしはぜんぶ知っているわ」
 莉啓の言葉に、クレシアは緩やかに首を振る。
 知っているのだ。
 本当は、ぜんぶ知っているのだ。
 一ヶ月前、ミーアが愚かな計画を胸に、ガダルの元へ向かったのだと知った。ミーアの世話を任せている別宅から血相を変えて使者が訪れ、そう告げた。
「わたし、気が気じゃなくて──これ以上愛する人を失うのかと思うと、いてもたってもいられなくて──すぐに行かなきゃ、止めなきゃ、止めなきゃ、止めなきゃ、止めな……」
 ぶつりと、言葉が途切れた。
 莉啓のさらに向こう側に、ガダル=アルゲードの姿があった。
 怜と共に現れたガダルは、彼女の姿に、すべてを察したようだった。愕然と目を見開き、ひどく長い時間をかけて、ひざをつく。
 そうして、つぶやいた。
「どうして、俺をかばったんだ」
 身体中の後悔を込めたような、小さな小さな、つぶやきだった。
 だがその一言で、クレシアは、もうこれ以上逃れられないことを知った。
 思い出してしまった。
 だれよりも愛した、あの人が。



 いまでも鮮明に思い出せる。
 殺してやると叫んで、地を蹴ったミーア。
 突然のことに、立ちすくむガダル。
 クレシアは、その間に飛び込んだ。
 刃が、腹を貫く。
 
 そんなことはどうでも良かった。
 死んでしまうことに、恐怖などなかった。
 愛する二人を守れたのならば、それがクレシアにとっての最良だった。
 それでも、認めるわけにはいかなかった。
 どうしても、怖かったのだ。 
 愛する人。ずっとずっと、愛している人。
 
「あなたには、愛なんて、なかったのかもしれないけど──」
 クレシアはガダルを見つめた。すべてを認めたその瞳から、やっと涙が落ちた。
「私は本当に、幸せでした。ミーアだって、生きている間は絶対に、本当に、幸せでした。全身で、あなたを愛していました。本当に、幸せでした」
 まるで何かにいい聞かせるかのように、ゆっくりと、言葉を紡いだ。銀色の髪の少女が、泣きじゃくりながらしがみついてきていたが、もうそれにも気づかなかった。
 感覚が薄れてきていた。
 認めてしまったのだ。
 魂が、認めてしまった。もうこれ以上、ここにはいられない。
「もしかしたら、騙していたのねって、愛なんてなかったのねって、あなたの頬を叩くのが、本当なのかもしれない。けれど、上手に上手に騙されて、虚構であったのだとわかっても、やっぱり私は幸せだったの。幸せだった事実は、やっぱりなくなるわけではなかったの。ミーアが死んでしまって、あなたは本当に帰ってこなくなってしまったけど、それでもそれまでの私は、確かに幸せだったの」
 クレシアは、銀色の髪を撫でた。そこに何かを、失った愛する命を重ねているわけでは、もうなかった。それでも愛おしそうに目を細め、額にキスをした。
「すべてが虚構なら、ミーアはいったい何だったんだろう、あの子は何のために生まれて、死んでしまったんだろう──そんなふうにも思うわ。嘆きもしたわ。けどあの子も馬鹿だから、わたしといっしょで愚かだから、本当に何も知らなかったの。何も知らずに、ただただ幸せでいたの」
 クレシアは、顔を上げた。
 ガダルの顔を見ることはどうしてもできなかったが、その姿を、ずっと見てきた姿を、捉えた。
 背は高いが、引き締まっているとはいえない体格。
 昔からこだわっているあごひげだって、クレシアにいわせれば、いったいどこがいいのかわからない。
 ついでにいってしまえば、センスも最悪だ。新しいものを取り入れようと、見たことのないものにばかり目を輝かせて、結局は浮いてしまう服や靴の数々。
 どうして女が絶えないのか、不思議に思うほどの。
 愛おしくて、涙が出た。
 でも、と、クレシアは続けた。
「でもあなたは、幸せではなかったのよね」
 涙が途絶えた。
 最後だとわかっていた。伝えたかったことを告げようと、クレシアは懸命に、言葉を紡いだ。
「あなたは私たちを幸せにしてくれたけど、あなたはずっと、やってはいけないことをしていたわ。それって、苦痛だったでしょう。幸せでは、なかったでしょう、どうしても」
 クレシアは立ち上がった。
 ガダルの前まで歩み寄り、顔は見ないように、両手で頬に触れた。懐かしいあごひげに触れ、笑みをこぼす。
「それが、残念でならない」
 それは、自嘲の笑みだった。
「怖かったの。私が死ぬのを見て、あなたがほっとしたらどうしようって。清々したって顔をしていたら、どうしようって。だから認められなかったの。未練なんてひとつもないのにね」
 最後に息を飲み、意を決して、瞳を上げる。
 愛する人の顔を、正面から、確かに見た。
 ふっと、クレシアの頬がゆるんだ。
「ばかねえ」
 それが、限界だった。
 彼女の輪郭は光にとけ込み、あとにはもう、何も残らなかった。
 銀色の髪の少女が、床に膝をつき、声を殺して泣いている。
 長い沈黙を挟み、ガダルは踵を返した。重い足跡が、部屋から遠ざかった。








 ***







 幻だった一ヶ月が空に立ち上り、気まぐれに吹いた風が記憶の月日を運び去る。
 日常のサリエル、日常のアルゲード邸。
 朝が始まれば、いつものように扉を開けた使用人たちが、その惨状を目にするのだろう。
 人形と横たわる、もう決して動かない館の主人。
 幸せだったと唱え続けた、クレシア=アルゲードを。
「さ、おいしいもんでも食べて、次行くかー」
 怜が両手を頭のうしろで組んで、器用に長い棒を携えて、軽快に歩いていく。
 もう入ることもないアルゲード邸を見上げていた悠良は、一度だけ瞳を閉じ、前を向いた。先頭を行くのが怜であることに不快そうに眉をひそめ、歩き出す。莉啓もすぐに、悠良の隣に並んだ。
「ガダル=アルゲードは……」
 何かを口にしようとしたのだが、うまく言葉にならなかった。莉啓は言葉を飲み込み、首を振る。
 目線はこれから行く道を捉えたままで、冷淡に悠良が答えた。
「変わらないわ」
 そこに感情はこもっていなかった。事実として知っている、そういう口調だ。
 死んでしまったという現実を受け入れられない魂、理由に縛りつけられ、地上に固執し、彷徨うことしか許されない魂──それを導くのが、彼らの役目。
 生きている人間を罰すること、正すこと、導くことは、決して、彼らの業ではない。
 おごってはいけない。
 光を見てはいけない。
 死した人間の魂が、どれほどの時を過ごそうとも、結局は変えられないのだ。
 彼女は何を期待したのだろう。
 恐れだけではなかったはずだ。確かな期待があったはずだ。
 結局はそれを、口にすることはなかったけれど。
「ばかね」
 気丈なままで、悠良がつぶやく。
 怜が立ち止まり、振り向いて、待っている。
 それが当然のことであるかのように、隣に莉啓がいる。
 ほんの少しだけ口元をゆるめたが、気を抜いてしまったら何かがこぼれ落ちてしまいそうだった。
 悠良は足を速めるようなことはしなかった。
 踏みしめるものを確かに感じて、まっすぐに前を向いて、動き出した町をあとにする。




 彼らは旅立つ。
 彷徨える魂の元へ──    
  

 

 

 

 



 

 

 

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2008年執筆。
読んでいただき、ありがとうございました。
前作で完結のつもりでしたが、読んでくださっている方からあたたかいお言葉をいただき、2年経ってから続きました。まだ続きます。

 

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