story7 虚構 3
「──君は、だれだね?」
夜になれば光り輝く、翡翠の小麦亭。
いまは暗いその一室で、ベッドに横たわる人物がいた。
あごひげを蓄えたその男は、一糸まとわぬ上半身を起こし、唐突に開いた扉を見やる。そこにいたのはミーアだ。銀の髪と、青い瞳を持つ少女。暗闇と暗闇とを繋ぐ扉の前に、堂々と立っていた。
「ガダル=アルゲード、さん。話があるわ」
「話。いま、この状況で?」
呆れたように男──ガダルが笑う。傍らのシーツが、小刻みに震えた。
「いいじゃない、カワイイお客様。アタシはかまわないわよ、ガダル」
「オレは少しかまうんだが」
ガダルは眉を上げ、ベッド脇のローボードに放ってあった黒いコートをまとう。ベッドの女にキスを落とすと、革靴に足を通した。
「部屋を変えようか」
ミーアは逆らわなかった。そのまま、暗い部屋の戸が閉められた。
通されたのは、応接間だった。
一階が酒場、二階が宿を兼ねた客室となっているようだ。三階は特別な客を招くためだろうか、廊下には茶の絨毯が敷き詰められ、扉の装飾も明らかにそうとわかる上等なものに変わっていた。
そのうちの一室、応接と札の掲げられた部屋のソファに、ミーアは勧められるままに座った。四つの赤いソファ。涼しくなる季節を意識しているのか、ホーグル毛のソファカバーがかけられている。
向かい側に、ガダル=アルゲードが腰を下ろした。ちゃんとした衣類を着る気もないらしく、黒のコート姿のままだ。
「わざわざ裏口から潜り込んできたのかね。用件は?」
ガダルはそっと足を組んだ。あごひげを撫でるようにして身を屈め、ミーアの瞳を見つめる。
喉はからからだったが、ミーアはありもしない生唾をむりやり飲み込んだ。喉が焼けそうだ。吹きだそうとする汗を押さえ込んでいるつもりもないが、まるで直立不動を命ぜられているかのように、細胞のすべてが固まってしまったかのようだ。
それでも、ここまで来たのだ。
逃げ帰る気もなかった。
「お金が欲しいの」
息継ぎをしてしまってはくじけそうだった。ミーアは一息で告げた。
「金」
一言、ガダルは返した。たっぷりと数秒をかけて、足を組み替える。
「……君のその無邪気な願いが、何を意味しているのか、知っているかね」
「わかってる。だから来た──ん、です。あたしは、どうしてもお金が欲しいの。そのためなら、どうなってもいい」
ガダルは眉を上げた。その表情から感情は読みとれなかったが、少なくとも、ミーアに興味を持ったようだった。商品を見るような目で、その銀色の髪、青い瞳、白い肌を、一つ一つ物色する。
ごくりと、もう一度、ミーアの喉が動いた。
ガダルが立ち上がったのだ。
「上等な衣類を着ている。良い家柄のお嬢さんだろう。お金に困っているとも思えないが……ここへ来たこと、その度胸を考えれば、まったくのもの知らずというわけでもなさそうだ。──名は?」
「ミーア」
名を聞いた瞬間、わずかに、ガダルの頬が動いた。
だが、それだけだった。
ガダルの大きな、無骨な手が、ミーアの頬に触れた。もう一方の手は、その銀色の髪を撫ぜた。
「いいだろう」
瞬間、ミーアは息を吸い込んだ。いままで動けなかったことが信じられないほどの機敏な動きで、右手を外套の中に差し入れる。そこにある固い柄を握りしめ、一気に引き抜く。
しかし、刃がきらめくよりも早く、小さな手は抑えられた。ガダルは難なくダガーを奪い取り、見せびらかしでもするかのように、高く高く掲げてみせた。
「幼稚な」
つぶやいて、嘲笑する。
それでもミーアは引き下がらなかった。立ち上がり、懸命につまさきをのばす。両手をあげ、ただ一つの武器にすがろうとする。
「返せ!」
その手は届かない。どうしても、届かない。
「いい覚悟だ。その覚悟で来たのなら、こちらとしても商品として利用しがいがある。ミーアといったね。君にとって最良の、買い手を探そう」
「じゃあ、俺が買おうかな」
ガダルとミーアの間の僅かな隙間に、鋭い衝撃が突き抜けた。
ミーアの目では、何が起こったのか、すべての事象を捉えるのは不可能だった。ただ、驚愕の一瞬ののちには、すぐ目の前にいたはずのガダルの身体がソファに叩きつけられ、ミーアの身体は頼もしい腕に抱えられていた。
ミーアは、腕の主を見上げた。見知った顔だ。レン、と名乗っただろうか。左腕にミーアを、右手には長い棒を携えている。その表情は、怒っているように見えた。
「──だれだ、どこから」
腹部を押さえて咳をくり返し、苦痛に顔を歪めてガダルが目線を上げる。ミーアを抱えたままですっと腰を落とし、怜は目を細めた。
「名前はどうでもいいだろ。どこからってのは、そこの扉から。もっと知りたいなら、もちろん裏口からってことになるかな。ここの店に入るルートが、三件隣の廃墟の地下ってのはやりすぎだね、おじさん。どこの秘密組織だよって話」
「オレを殺す気か」
じりじりと、ガダルは後方へ下がった。ソファの後ろの、奥の扉の前まで動く。
怜は鼻先で笑った。
「なるほどね。おじさんが、殺される心当たりが満載だってことがよくわかった。──でも俺にその権限はないんでね。さっきの一撃でこの子を買いたいんだけど、足りない?」
ガダルは眉を寄せた。ほとんどすぐに、結論が口から滑り出る。
「充分だ」
「おりこう」
微笑んでみせて、怜はもう一撃を繰り出す。額の中央に棒を突きつけると、当たっていないにも関わらず、風圧でガダルの髪が舞い上がった。そのままずるずると、尻をつく。腰がくだけたのだろう。
怜はミーアを抱えたまま、部屋を出た。扉を閉め、そのままずんずんと歩いていく。
「離せ! あたしはあいつを殺すんだ! まだ殺してない! あたしは死んだっていいんだ、かまわないんだから、離して──!」
やっと我に返ったミーアが、腕のなかでじたばたともがく。怜はそちらを見ずに、冷ややかにいい捨てた。
「悪いけど、お兄さんはちょっと怒ってるよ」
おどけた台詞ではあったが、本気の怒りが感じられた。ミーアは口を開いたが、空気だけを吸い込んで、結局はそのまま黙るしかなかった。
アルゲード邸の正門を開け放ち、嫌がるミーアを抱える力は微塵も弱めず、怜はずかずかと邸内に上がり込んだ。ベルを鳴らすべきかを考えたのはほんの一瞬のことだ。
「何ごとだ」
突然の来客に駆けつけてきたのが見慣れた相棒であったことに、思わず破顔する。しかも、エプロンと帽子のコックスタイル。あまりに似合いすぎていて、突っ込むことすら忘れそうだった。
「啓ちゃん、すっかり板についちゃって。もう料理人として職探したら。高給取りになるんじゃないの」
「貴様は誘拐魔に転職でもしたか。どういうつもりだ。同意の上で連れてきているようにも見えないが」
莉啓の目が冷ややかに光る。そこでやっと気づいたかのように、怜はミーアを床に下ろした。それほど強い力で抱えていたつもりもなかったが、解放されたとたん、ミーアは平衡感覚を失ったようによろめいて、尻餅をついてしまう。莉啓の一層冷たさを増した視線が突き刺さり、怜は苦笑するしかなかった。
「や、これはどちらかというと人助けなんだけどな。ね、ミーアちゃん」
笑って、ミーアの顔をのぞき込もうとする。しかし、無言で小さな手のひらが突き出された。これ以上寄るな、とでもいいたげだ。
「……人助けか」
「うわ、信じてないな。人助けだよ。余計なお世話だったんだろうけどさ。啓ちゃん、悪いけど、気分が落ち着く飲み物か何か。悠良ちゃんに作るぐらいのつもりで、どうぞよろしく」
「いいだろう」
莉啓はさっと踵を返す。状況ぐらいは察してくれる相棒だ。おそらく、自分の分の飲み物はないだろうが──そんなことを思いながら、怜はミーアの手を引く。まさか、廊下で話し込むわけにもいかない。
「とりあえず事情を聞かせてよ。クレシアさんにばらすような真似はしないからさ」
心にもないことをいった。クレシア、という名に反応したのか、ミーアはおとなしくうなずく。どの部屋に行くべきか逡巡し、怜は結局莉啓のあとを追った。調理場脇の小テーブルあたりが無難だろう。
クレシアのことをママと呼ぶわりには、ミーアは屋敷の内部に精通している様子もなかった。不安そうに──観念した様子ではあったが──怜に連れられるままに歩を進めていく。たどりついた場所が調理場で、勧められたのが客用ではない木の椅子であると知ったとき、ミーアはやっと安心したように息を吐き出した。翡翠の小麦亭と同じ展開を危惧していたのだろう。
まかない用か、それとも小休憩用なのか。落ち着いた長い時を過ごすにはあまりにも小さい丸テーブルに、莉啓はホットミルクを置いた。自分は調理台にもたれかかり、腕を組む。
椅子が二脚あったので、怜はミーアの隣に腰をおろした。
目の前に甘い香りを漂わせるホットミルクを差し出され、ミーアは警戒も遠慮もなく、かみつくようにカップに口をつけた。ここの料理人が火傷するほどの温度に設定するはずもなく、ミーアは一気にそれを飲み干す。音をたててテーブルに置き、乱暴に口元を拭った。
「ミーアちゃん、落ち着いた?」
テーブルに両肘をつき、怜が問う。同時に、ごく自然に、背後の相棒に情報を伝えた。この少女が「ミーア」であったのかと、莉啓はかすかに眉を上げる。そういうことなら、誘拐まがいの行為もわからなくはない。
ミーアは一瞬だけ怜を見て、それから目を逸らした。
「あたしは最初から落ち着いてんだ。最初から、そのつもりで行った。覚悟があったんだ」
「ガダル=アルゲードを殺す覚悟が?」
「そうだよ!」
叫んだ拍子につばが飛ぶ。怜は器用にそれを避けた。
「なら、浅はかさを知ることだね。あれじゃ、身売りに行った世間知らずだよ。本当に殺したいなら、もっと周到になった方がいい」
「そんなこと!」
テーブルを叩きつけ、ミーアが吠える。勢いのまま続けようとして、怜と莉啓との、真剣な眼差しに気づいた。一瞬気圧されたように眉を下げたが、それでも腹に力を入れて、続けた。
「そんなことは、どうだっていいんだ。売られるのならそれでもよかった。そんなことをしたら、アイツは実の娘を売り物にした最低な男だ。それならそれでよかった。それにあたしは、どうしても、どうしても──」
声に涙が混じった。血が滲むほどに唇を噛みしめ、それでも足りないとばかりに、ミーアは両の拳を握りしめた。
「──アイツが許せないんだ。アイツがだめにした、なにもかもをだめにした。過去だけじゃない、いまだって、ぜんぶ、何もかもだ! だからあたしは、アイツを殺すんだ。何度だって殺すんだ。何度失敗したって、それでママが救われるなら、あたしは──!」
ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
怜はその背中をさすってやりながら、重要な問いを口にした。
「以前にも、ガダル=アルゲードを?」
「殺した! 殺したんだ! けどそれがだめで、うまくいかなくて、だからあたしは──!」
「悠良は」
怜の問いに、莉啓は迅速に答えた。
「二階だ。急ごう」
「──じゃあ俺は、役者を揃えるかな」
怜は立ち上がり、床を蹴った。
*
「さあミーア、新しいお洋服よ」
買ったばかりの衣装の数々を、ベッドに広げた。手入れする人間がいないので、皺一つないとはいいがたかったが、それでも丁寧に伸ばされたシーツの上に、そっと人形を横たえる。のぞき込むようにして、クレシアは人形の髪に触れた。
「どれがいいかしら。白が似合うわね。でも、こっちのリボンもかわいいわ」
愛おしそうに目を細め、一つ一つあてがっていく。人形はぴくりとも動かないが、クレシアは会話さえしているかのようだった。
「あら、でもママは、赤だって好きよ。そんなこといわないで。ミーアはかわいいから、なんだって似合うわ。あなたの銀の髪は、どの色にも映えるのよ」
最終的には、最初に手にしていた白の総レースに落ち着いたようだった。丁寧に丁寧に、強く触れてしまっては壊れてしまう宝物を扱うかのように、衣服を着せ替えていく。花嫁のそれを彷彿とさせる白いドレスを着せ終えると、小さな手袋に手を通した。髪飾りを結わえる。
「よく似合うわ、ミーア」
クレシアは人形を抱き上げ、白く固い頬に、口づけた。
その様子を、部屋の片隅で、悠良はずっと見ていた。本当は、部屋の前を通り過ぎて、与えられている客室に引っ込むつもりだった。しかし、部屋の扉も閉めずに、ひとり話し始めてしまったクレシアから、目が離せなくなってしまったのだ。
彼女は悠良の存在など、気にも留めていないようだった。
ただ人形を見つめ、愛でていた。
「失礼な質問だとは思うのですが」
その様子に、悠良はもう、聞かずにはいられなくなっていた。ミーアという名は、この町のものなら知っていてもおかしくない。有名な名だ。アルゲード家そのものがサリエルを代表する商家で、生まれた子がその跡取りとなるかもしれない以上、クレシアの出産には少なからず町の関心が寄せられていたのだ。
「あら、ユラさん。どうしたの」
クレシアはふり返り、微笑んだ。その目は悠良を見ているようで、どこか遠くを見ているようでもあった。
いざ聞き返されてしまっては、どう質問を投げたものか、悠良は逡巡してしまった。娘さんは亡くなられたのですよね──まさかそんなストレートな問いかけをするわけにもいかない。
「……その、お人形は。ミーアちゃんと、いうのですか?」
結局、そんな問いに落ち着く。クレシアは目を瞬かせた。
「名前? そうね、そういうことになるのかしら。でも、この子はミーアじゃないのよ。ミーアはね、もっとかわいいの」
澄んだ瞳で、小首をかしげるようにして、クレシアはくすぐったそうに笑う。
その瞳に捉えられたように、悠良は動けなくなってしまった。
この瞳を知っている。「仕事」をする上で、幾度となく、対峙してきた瞳。そこに映るものを何一つ疑わず、しかし本当の意味では何もかもを信じない、まっすぐな瞳。
悠良は首を振った。
このままでいいはずがなかった。
このままでは、あまりにも、悲しい。
「あなたは、どうして」
言葉が続かない。
なんと尋ねればいいのだろう。
あなたはどうして──
見つめようとしないの。認めようとしないの。逃げているの。
ここに、いるの。
「ミーアは死んだのよ」
笑顔はそのままで、歌うように、クレシアは告げた。
「死んでしまったの。だからもう、ここにはいないの。これは偽物よ。ただのお人形。ミーアは生まれてきたけれど、幸せだったけれど、でもここにはいなかったの。本当は、いなかったの」
クレシアは人形の頭部を握りしめた。
細い腕を少しよじるだけで、その小さな頭は、ひどく容易に首から抜け落ちた。
使い終わってしまった紙くずを放るように、ごく小さな挙動で、頭をベッドに投げる。銀の髪が遅れて降りて、青い瞳を隠したが、クレシアの目にはすでにその姿は映っていなかった。
「かわいそうなミーア」
クレシアは、小さく小さくつぶやいた。
その声は場にそぐわないほど落ち着いていて、涙がこぼれ落ちる様子はなかった。
「わたしはぜんぶ知っているの」
もう一度、悠良を射抜く。意志のはっきりと宿った目で、固い声で、つぶやいた。
「知っているのよ、悠良さん。でも、怖いの。怖いのよ」
「では、この子は」
第三者の声が割り込んだ。
莉啓が、ミーアを支えるようにして、扉の前にいた。
背中を押され、ミーアが一歩、前に出る。震える瞳で、クレシアを見上げている。
その姿に、悠良は息を飲んだ。
クレシアの愛でている人形の「ミーア」と、恐ろしく酷似していた。銀の髪、青い瞳。白く透き通る肌。
ただ、そのすがるような瞳は、人形にはなかったものだ。
空気を沈めるような落ち着いた声で、莉啓は続けた。
「この子は、あなたの娘ではないのですか」
「あら、ミーア」
クレシアは、そっと膝を屈めた。ミーアを迎え入れようと、満面の笑みで、両手を広げる。
「ミーアじゃないの。久しぶりね、どうしていたの。ママ、とっても寂しかったのよ。かわいいミーア。かわいそうなミーア」
ミーアの足先が、かすかに身じろぎする。それから助けを求めるような目を、一瞬だったが、莉啓に向けた。
「ママ」
声が強ばる。
一歩一歩と、クレシアが歩を進める。
抱きしめられる瞬間に、ミーアは覚悟するように瞳を閉じた。ほぼ同時に、クレシアは小さな少女の身体を突き飛ばした。
「かわいそうなミーア! ここにも、なんてかわいそうなミーア。ばかな人。かわいそうなミーア。ああ、なんてかわいそうなの。あなたはなぜ、ここにいるの。なんのために、ここにいるの。幸せになるためじゃなかったの。幸せになるために、生まれてきたんじゃなかったの」
「あたしは、ミーアだよ、ママ」
ミーアは訴えた。必死の言葉は涙に混じったが、それでも伝えたいことを形にして、ミーアは声を絞り出した。
「あたしだって、ミーアに生まれたかった。あたしを生んだのが誰かは知らないけど、どうせ捨てられたいらない子だけど──でもクレシアさんが、ママが、あたしを見つけてくれて、本当に嬉しかったんだ。住む場所をくれたとか、綺麗なお洋服をくれたとか、そういうことじゃなくて。生きてていいんだっていわれたみたいで、本当に、本当に嬉しかった。だからあたしは、ミーアになりたくて。ぜんぶを変えてしまいたくて。だからアイツを殺したのに、だからアイツを殺そうと──」
殺そうと。
ミーアは、目を見開いた。
思い出してはいけない何かが、記憶の片隅で、重い頭をもたげていた。
ああ、顔を上げないで。
こっちを向かないで。
あたしを見ないで。
どうか、思い出させないで──
「ママはぜんぶ知ってるのよ」
ひどく柔らかい言葉を、呪文のような甘い声で投げかけて、クレシアはふわりと微笑んだ。
ミーアの涙を親指で拭い、頬を撫でる。笑みの形の瞳からは、涙が流れることなどないように思われたが、ミーアは知っていた。
彼女は泣いているのだ。
ずっとずっと、泣いているのだ。
「けれど、怖いの」