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Elixir
第六章 禁忌 3




 小さな国があった。
 遠い、昔。だれの記憶にも残らない、異なる文化の栄えた、古い時代。
 いまではパジェンズと発音される国。
 海に囲まれたその国は、孤立していた。
 生まれる命は遺伝子に欠陥を持ち、極端に虚弱、短命であった。
 鳥や風が、どこからか病を運び入れる。
 それは彼らの命を削る。
 繰り返し蔓延する、あらゆる病。
 生き残るため、特別な医術が研究された。
 医師たちは、生命を体内で育む原理を、薬の生成に応用した。
 体内で薬を作り上げる、「生きた医術」。
 いつしか、医術は一つの極みに達した。
 ありとあらゆる病と向き合い、膨大な犠牲と歳月を超えた先で、限りなく万能薬に近いものを生み出すことに成功した。
 奇跡の秘薬は、命そのものであった。
 それは、医師たちの体内で作り上げられた。長寿を手にし、どんな病にも打ち勝ったが、しかし、完全には老いから逃れることができなかった。年月を経ることで、体内の秘薬は徐々に効力を失っていった。
 そこで医師たちは、体内の秘薬を元に生命を生み出した。それを新たな秘薬の母胎とし、様々な病、ひいては命を学習させ、再び秘薬を作り上げた。
 生み出された個体で完成された秘薬を、元の個体に還元する。それを繰り返すことで、医師たちはとうとう、老いからさえも遠ざかることが可能となった。

 完成された秘薬は、体内から取り出しても、効力を発揮した。
 他国の医療状況を知った医師たちは、やがて、使命感を抱くようになる。
 この国だけではない、世界を、救えるのではないだろうか。
 救世主になり得るのではないだろうか。
 それは純粋な正義感か、それとも虚栄心か。
 パジェンズの人々に秘薬を託し、旅に出た医師たちは、結果として多くの国を滅ぼすことになる。


   *


 アクラス・ランセスタは、目眩を覚えた。
 これが、月光。
 これが、風。
 自らを取り巻くすべてが容赦なく、なにもかもが初めてだった。正確には初めてではないのだろうが、物心ついたときには部屋を与えられ、そこから出ることはなかった。外というものの存在を知ってはいても、それは自分とは関係ない、別世界のことだったのだ。
 慣れない空気に目を細めながら、壁伝いに少しずつ歩を進めていく。踏みしめる草はひやりとしていて、冷たさや痛さよりも、心地よさを感じた。靴は履いていない。いままで、必要がなかったのだ。
 どうすればいいものかと途方に暮れたところで、人影を見つけた。月明かりではわかりにくいが、草の上で、倒れている。アクラスはゆっくりと近づいて、時間をかけて膝をついた。
「ちょっといいかな。ええと……君?」
 声をかける。その音量すらどの程度が適切なのかわからない。毎日世話をしに来るメイドとの会話も、挨拶と今日の天気ぐらいのものだ。小さなあの部屋では、囁くほどの声で事足りた。
「聞きたいことがあるんだ。返事はできる?」
 先程よりも声を大きくして、倒れる人物の肩をゆする。男だ。よく見れば血まみれだった。
「……できないのかな」
 生きているのだろうか、生きていないのだろうか。ランセスタ家の目の前で倒れているというのは、どういう状況なのだろうか。
「う……」
 しかし、男は目を開けた。
 小さく開けられたそれは、すぐに見開かれた。勢いよく起き上がり、動きを止める。
 自らの腹を、見ていた。服は破れている。血で汚れているものの、そこに一切の傷跡はないようだ。
「これは……」
「ちょっといいかな。人を捜しているんだ」
 彼の置かれている状況はわからないが、知る必要もなかった。アクラスは淡々と問い直す。
 男と目が合った。奇妙な既視感があった。面識などあるはずもないのだが、しかしどこかで知っているような気がした。
「……君は?」
 注意深く、男が訊いてくる。答えても良いかどうかと考えたのは一瞬だった。
「アクラス・ランセスタ。そういう名だよ。君は、サーラを知ってる?」
「アクラス……ランセスタ? まさか、……待ってくれ、本当に?」
 実在していたのか。男はつぶやいた。実在とはどういうことだろう。それよりも質問に答えて欲しいのだが、男はなにやら考えて込んでいる様子だ。
「本当かどうかは、知らないよ。でも、そう呼ばれてる」
「僕はロイス。ロイスダーン・ランセスタだ。恐らく、君の兄にあたる」
「兄?」
 アクラスは思い出した。
 自分には兄がいたはずだ。サーラが教えてくれた。ロイスダーン・ランセスタと、セリウス・ランセスタ。どちらもこの家を出て、自由を謳歌していると聞く。
「そう。でも、それはどうでもいいかな」
 感想はそれだけだった。会ってみたい気はしていたが、それほど重要なことではない。いままでまったく関わりのなかった兄たち。自分とは違う世界の生き物。恐らく今後も接点はない。
「ぼくは、サーラを捜してるんだ。君は、知ってる?」
 もう一度繰り返すと、ロイスはまばたきをした。なにかに驚いたような、思い出したような顔だった。すぐに真剣な表情になり、唇を噛む。
「そうだ、サーラ……キル」
「キル? キル、リ、アーナ?」
 キルという響きは知っていた。キルリアーナ。サーラの口から何度か出てきた名だ。
「知っているのか?」
「名前だけ。サーラの大事なひとだろうね。そういうふうだった。キルリアーナ。パジェンズの国の、エリクシルの母胎」
 ロイスが息を飲む。言葉を失っているようだった。なにかおかしなことをいっただろうかと、アクラスはロイスを観察する。
「それで、サーラに、会いたいんだけど」
 ロイスはそのまま、しばらく動かずにいた。やがて小さく、しかしはっきりとうなずく。立ち上がり、裾を払った。
「一緒に捜そう。パレスにいるかもしれない。その代わり、君の知っていることを、教えてくれ」
「知っていること」
 うまく立てずによろめくと、ロイスが手を差し出した。支えられるようにして、アクラスも立ち上がる。
 知っていること。一体なにを知っているといえるだろう。天気ならば数十日さかのぼって覚えている。
 あとは、サーラから聞いたことばかり。
 遠い遠い、昔話。
 それからいまに至る、歴史の数々。
 パジェンズという国のこと。
 この国の医術のこと。
 奇跡の薬、エリクシルのこと。
 そして、気づいたことがあった。いまこうして自らの目でものを見て、自らの足で歩いているという事実──それはつまり、秘薬が完成し、サーラがあの部屋を訪れたということだ。
 唇に、感触が残っているような気がした。
 ひどく優しいなにかが身体中を巡っていったのは、きっと気のせいではない。
「サーラの話してくれたことなら、全部いえるよ。一言も、間違えない自信がある」
 彼女はアクラスの世界に現れた、唯一だった。
 サーラのことならば、なんでもわかる。 

 ──でも今更よ。今更、やめる気なんてないの。

 そういったときの彼女は、どんな表情をしていたのだろう。

 ──わたしはずっと、そうやって生きてきた。きっとこれからも、答えが出るまで。

 だからと、彼女はいっていた。
 だから何度でも、と。

 ──わたしは、問うわ。