Elixir
第六章 禁忌 1



 キルリアーナの握る手が、落ちていく。
 いま自分は、叫んだのだろうか。だれの声だったのだろう。あまりにも近く、遠く、現実味に欠けていた。これは本当のことだろうか。なにが起こったというのか。
 ロイスが、助けに来て。
 屋敷を、出て。
 月明かりの下、手を取り合った。
 感謝を、伝えた。生まれて初めての、あたたかい感覚だった。
 そして、その直後──
 直後だ。
 いま、でもある。
 目の前で、倒れている。
 たくさんの血を流して。
「……だめだろ、その、傷じゃあ」
 怒濤のように流動する彼女の内部で、奇妙に冷静な一部分が、結論を導き出している。
 助からない。
 たくさんの傷を治してきた。
 見ただけで、わかる。
 もう、どうにもならない。
「なにやってんだよ」
 なにをいっているのだろう。
 だれにいっているのだろう。なにをどうしたいというのだろう。
 混乱していた。
 流れが、収まらなかった。彼女の中で、けたたましく騒ぎ、暴れていた。
 どうやって立っているのか。どうやって息をしているのか。
「どうして」
 ずっと会いたいと願っていた。ずっとあとを追っていた。
 褒められたくて、認められたくて、ただひとつの目的のために、歩き続けてきた。
 そのひとに、やっと、会えたというのに。
「サーラ」
「あら」
 サーラは笑う。昔と変わらない、柔らかい笑顔。
 その手は血で染まっていた。ロイスの腹部に背後から突き刺された細く短い剣は、サーラが握っていたものだ。
「必要なことだったのよ、キルリアーナ」
「……必要?」
 聞き返しながらも、キルリアーナは理解しようとしていた。
 身体が、血が、ざわついている。
 流れが、止まらない。キルリアーナの中で、血が、肉が、すべてが、暴れ狂っている。
「あなたは、大切な母胎。完全な薬を生成するためには、あなたの精神状態がとても重要なの。幸せな気持ちと、それ以上に──そう、いまの、その気持ち。すべてを経験しなければ、完成には至らない」
 サーラの言葉が、頭の中へと入ってくる。
 キルリアーナは答えなかった。必死に脳を揺さぶっていた。考えろ。考えろ。しかし抗おうとする自分はごく小さな存在に過ぎなかった。もっと大きな自分が、あまりにも綺麗に簡潔に、納得しようとしている。これが目的だったのだ。こうするべきだった。長い長い、旅だったけれど。
「これが……」
 両手を持ち上げる。
 その向こう側、自らの内部を、感じる。
 エリクシル。
「素晴らしいわ、キルリアーナ」
 サーラは微笑んでいた。血溜まりで転がるロイスをこともなげに避け、キルリアーナを抱きしめる。
「本当に、よく頑張ったわね。いままで、つらいこともたくさんあったでしょう。犯罪者として追われ、ひどい仕打ちを受けたでしょう。でもあなたは、やり遂げた。ずっと見ていたのよ。あなたの前に現れることはなかったけど、ずっと、応援していたの。愛しているわ。わたしのかわいいキルリアーナ」
 呪文のように紡がれる言葉が、キルリアーナの胸の内に染み渡っていく。抱かれていることが幸せで仕方がなかった。言葉にならない安心感。身体から力が抜けていく。
「ひとつに、なりましょう。なにもかも元通りに。わたしのなかへ、いらっしゃい」
 サーラの瞳に、キルリアーナが映っている。まるで他人事のように、キルリアーナはそれを見た。これはだれだろう。おれ、わたし、じぶん。
 ああ、やっと──
 キルリアーナは、瞳を閉じた。
 やっと、追いついた。
 やっと、帰ってくることができた。
「おかえりなさい、わたし」
 サーラの唇が、キルリアーナの唇に重なる。待ち望んでいたかのように、内部が動き出すのがわかる。キルリアーナからサーラへと。
 なにもかもが、許された気分だった。キルリアーナの意識が、静かに優しく、遠のいていく。
「……キル……!」
「──!」
 かすれた叫び声に、キルリアーナは目を見開いた。とっさにサーラを突き飛ばす。地面を蹴って、うしろへ跳んだ。
 首を大きく、左右に振る。
 息を極限まで吸い込み、その半分を吐き出した。足元を見る。ロイスの声だ。まだ、息がある。
 急いで可能性を並べた。出血は致死量のはずだ。以前の治療の影響だろうか。あるいは、サーラの意志か。しかし、理由などどうでもいい。
 キルリアーナは素早く屈むと、ロイスの腰元に隠されていた短剣を引き抜いた。いつも携えている細剣を所持していなくとも、何らかの武器を持っているだろうと踏んだのだ。助けに来たということならば、丸腰ということはない。
 腕を前に突き出し、自らの手首を切りつける。流れ出る血液を、ロイスの傷口に落とした。
 手遅れかもしれなかった。それでも、可能性があるのならば。
「悪いけど」
 短剣を手にしたまま、サーラと対峙する。サーラは表情を変えずに、キルリアーナを見つめていた。 
「オレはいま、ただいまって気分じゃないんだ、サーラ」
「……その男はダメよ、キルリアーナ。弟の方は見込みがあるかと思ったけれど、やっぱりダメね。もう一人も、同じ。結局皆同じだわ」
 諭すような言葉には、怒りと同じぐらいの落胆も潜んでいるかのようで、キルリアーナは眉をひそめる。ダメというのは、どういうことだろう。
「ここへ来て、百余年。結局同じよ。この国も、もう長くない。見切りをつけて、次の国へ行くことにしたわ」
「……長くない、だって?」
 サーラはうなずいた。そこにはなんの感慨もないようだった。
「向上を忘れ、依存に堕ちる国の末路は、いつも同じ。滅びていくわ。パジェンズと、同じように」
 脳に痛みが走り、キルリアーナは頭を押さえた。
 いままで何度も聞いてきたパジェンズという言葉が、違う響きを持ってキルリアーナを揺さぶる。知識ではなく、記憶だ。
 サーラの言葉は遠くを泳ぐようで、それでいて確実に、キルリアーナの思いに触れていた。
 彼女の苛立ちの片鱗を、キルリアーナは知っていた。
 ガリエンで、キルリアーナはなんといっただろう。医師団を立ち上げた彼に、どんな言葉を投げただろう。
 ずっと感じていたことだ。
 それは、キルリアーナ自身の憤りだったはずだ。
「無理強いをしようというのではないわ。あなたも、その目で見ていらっしゃい」
 サーラは月を見上げた。それからゆっくりと視線を降ろし、キルリアーナに道を空けるように、身体を横に向ける。
 その先には、パレスがあった。ムーン・バルが開かれているはずのパレスだ。音楽が鳴り止んでから、ずいぶん経つ。
「いまごろ、大変なことになってるんじゃないかしら」
 他人事のようにつぶやくサーラに、察する。キルリアーナは駆けだした。