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Elixir
第五章 奇跡の薬 5



 ──よし、いいぞ。
 ロイスは心の中で、拳を握りしめた。
 遠くからではあったが、リティアがうろたえたのがわかった。金色の髪を染め粉で濃い茶に変え、とけ込むことを主とした衣装に身を包んだロイスは、絢爛な人々の隙間から、そっと確認していたのだ。
 リティアが呼んだのは彼女の側近の一人だ。ロイス自身も何度も顔を合わせている、もっとも信頼されている男性。見つかれば、すぐにロイスだとわかってしまうだろう。より一層、気を引き締めなければならない。
 男は、なにかを命じられたようだった。うなずいて、すぐにパレスをあとにする。リティアの注意がそこから逸れたタイミングを見計らって、ロイスもまたあとを追った。
 パレスから出るまでは堂々と、それからは身を隠しながら、歩を進めていく。パレスから遠ざかれば遠ざかるほど、着飾った人々も、警備の人間の数も減っていった。月の光はパレスのまばゆさには遠く及ばず、ロイスはそれほど神経を尖らせずとも男を追うことができた。
 やがて男は、ランセスタの邸宅へと消えた。表ではなく、裏口から入っていったようだ。入り口が複数あることは知っているが、男が入った裏口はロイスも知らない場所にあった。男の姿が消えてから、注意深く近づく。
 扉は、巧妙に庭木に隠されていた。背の低いそれを開けようと、屈んで手をかける。
「……これは」
 ロイスは、動きを止めた。
 びくともしない。
 つま先の当たる部分に、鍵穴があった。要するに、鍵がかかっているのだ。
「それは、そうか……」
 当然といえば当然のことだった。しかし、こんなところでつまずいてはいられない。
 ここで待っていれば、そのうちに男が出てくるかもしれない。しかしもちろん、出てこない可能性もある。
 考えを巡らせた。一体なにが最良か。まるで急かすように、ただ時間だけが過ぎていく。
 背中のあたりが徐々に薄ら寒くなっていった。一体こんなところでなにをしているというのだろう──焦りが胸中を浸食する。寒気はやがて生ぬるい熱を帯び、握る拳に汗が滲む。
「キル」
 思わず、つぶやいた。
 助け出せるかもしれないのだ。きっと、ここにいる。ロイス自身何年も暮らした、勝手知ったるこの家に。セリウスが連れた少女をキルリアーナだと思わせるよう仕向ければ、リティアならば確認せずにいられないのはわかっていた。
 立ち上がり、一度邸宅から離れ、位置を確認する。屋敷の見取り図を、脳に描いた。
「よし」
 確実に入れる裏口ならば知っていた。幼少期から隠れて使っていた場所だ。調理場からもっとも近い、調理師や使用人が使う通用口。利便性を求めて鍵がかけられないことが多く、またかけられていたときのため、鍵が廃棄場所に隠されている。ランセスタの敷地自体が外壁に囲まれているため、そのあたりの管理は杜撰なものだ。
 果たして、記憶通りの場所に、鍵はあった。ロイスは周囲に誰もいないことを確認し、それから扉に耳をつけた。なにも聞こえてこない。極力音をたてないよう、そっと開ける。
 しんとしていた。灯りもついていない。身体を滑り込ませて扉を閉めると、目が慣れるまで動かずに待つ。
 調理場を通り抜け、廊下に出た。等間隔にランプが掛けられ、緩やかな灯りがいくつかの円を描いている。廊下には誰もいないようだ。
 普段使わないような部屋が怪しいだろうか。ロイスも知らないような秘密の部屋でもあるのかもしれない。
 不意に、人影が見えた。
 ロイスは思わず壁に背中を付ける。しかし、身を隠せるような場所もない。一度戻ろうかと考え、すぐに首を横に振る。
 堂々と背筋を伸ばし、歩みを進めた。人影はランセスタに仕える使用人のものだった。
「失礼、少し、いいかな」
 背後から声をかけると、女は手にした食器の類を落としそうになった。
「は、はい……え?」
 振り返り、本来ならば一度頭を下げるところを、目を見開いてロイスを見る。
 その顔に、ロイスは視線を外した。見覚えがある。昔からいる使用人だ。無論、ロイスのことも良く知っている。
 いくら髪を染めているといっても、この至近距離ではごまかせるものではない。
「ロ……ロイスダーン様……? 生きていらっしゃったんですか?」
「いや、人違いだ」
 生きていたというのはどういうことだろうか。突然姿を消せばそういう噂が流れるのか、それとも本当に死んだことにされているのか。ロイスは往生際悪く右手で横顔を隠すが、すでに遅い。
「もしかして、家をお継ぎになられるのですか? 良かった! 本当に良かったです! 奥様もお喜びに……ああ、奥様はいまパレスにいらっしゃるかと。お会いになりましたか? 大変、こうしてはいられませんね! すぐに人を集めて……」
「いや、その」
 なんという展開の早さ。ロイスはたじろいだ。すぐに止めなければ、あっという間に町中に知れ渡りそうだ。ロイスダーン帰還、ランセスタ家の新当主に。張り出されるニュースペーパーが目に浮かぶ。
 それは問題だった。さらに、うしろから使用人がもう一人現れる。
「まあ、ロイスダーン様が?」
 ロイスは目眩を覚えた。一体どうすればこの場を収められるのだろう。額に手を当て、天井を仰ぐ。
「あら、違うじゃない、ロイスダーン様ではないわ。そうね、少し似ているけれど……」
「──っ! そ、そう、時々似ているといわれるんだ!」
 思いがけない展開に、ロイスは勢い込んで乗ろうとする。なんとも素晴らしい勘違いだ。目を輝かせ、あとから現れた使用人に、感謝とさらなる期待の眼差しを向けた。
 小柄な使用人だ。まだ年若く、少女といえる年齢だろう。制服のサイズが合っていないようにも見える。
 違和感に眉をひそめ──そして、気付いた。
「な……」
 少女は、そっと片目をつむってみせる。その仕草が、いいから黙ってろといっている。
「まあ、そんな。わたし、間違えないわ。ロイスダーン様ですよね?」
「ねえ、しっかりして。あの方は……もう、いらっしゃらないはずでしょう?」
 なおも食い下がる使用人に、少女が重々しく告げる。
「お会いしたいという気持ちは、わかるけれど」
「でも」
「でももくそもございませんわよ」
 やや低いトーンでいうと、少女は使用人の首に腕を回した。つま先を伸ばし、素早く口づけをする。唇に深く吸い付くようにして、そのまま、たっぷり一呼吸分。
 膝から崩れ落ちるようにして、使用人が倒れた。
「……なにを……! なにをやっているんだ、君は!」
 ロイスは叫んだ。使用人に扮しているのは、まさにロイスが捜している人物だった。
 キルリアーナだ。
 囚われの身であるはずの彼女は、笑いを堪えるようにして、ロイスの目の前に立っていた。
「別に殺してねえよ。ちょっと眠ってもらっただけだろ」
 唇の端を上げ、にやついた顔でいう。彼女とこうして会えたことに心底安堵した分だけ、反比例するようにロイスは不機嫌になっていった。
「そういうことをいっているんじゃないだろう! 君は捕まっていたんじゃなかったのか?」
「捕まってたさ。監禁されて打つ手ナシ。でもついさっき、オレのいた部屋にのこのこ来たやつがいたから、抜け出すことができたんだよ。こうやって眠らせてな。あんたがいるってことは、あんたのおかげか。やるじゃん」
 キルリアーナはなにやら上機嫌だった。機能性とデザイン性が同居した使用人の制服は、いわゆるエプロンドレスの体を為しており、女性しか着られないものになっている。
「その、女装は?」
 ロイスは思わず、まじまじと観察してしまった。パレスにいたきらびやかな淑女たちとは比べものにならない、はずだ。
「途中で見つかったから、やっぱり眠ってもらって、ついでに拝借したんだよ。目立たねえだろ、これなら」
「女装については否定しないのか」
「はあ? めんどくせえな。女装ではございませんよ、坊ちゃま」
 わざわざ声色を変えてくる。ロイスはわけもなくいらいらした。
「絶望的に似合っていないな!」
「知ってるよ。それより早く出ようぜ。いまここにはたいして人はいねえみたいだけどな。外は?」
 似合っていないといったこともさらりと流されて、ロイスは無性に腹立たしくなる。否定しろといってやりたいが、ならばどうしていったのかと返されれば答えようがない。
 面倒臭い。キルリアーナの言葉がひどく的を射ているようだった。我ながら面倒臭い。わけのわからない焦燥感に駆られるが、ここを出なければならないのは本当だった。
「今日はムーン・バルだ。警備に見つかっても、なんとでもいえるだろう」
 説明しながら、キルリアーナを裏口へと促す。その後はだれにも鉢合わせることなく、屋敷の外へと出ることができた。カギをかけ、元の場所に戻しておくことも忘れない。
「だからこそ、君を助けにくることができたんだ。そうでなければたとえば……病人を装って入るにしても、これほど自由には動けなかっただろうな」
 すでにバルは始まっているようだった。ロイスがパレスにいたときにはまだささやかだった音楽が、華やかに高らかに、風に乗って響いてくる。
「へえ、バルか。ムーン・バルなんて大層な名前なら、外でやるべきなんじゃねえの」
 キルリアーナが、月を見上げる。丸い月。
 その姿を、ロイスは見つめた。
 間違いなく、ここにいる。守ると誓った少女。もしかしたらこうしてロイスが来なくても、彼女ならば自力で逃げ出したのかもしれない。それでも、助け出したかった。
 どうしても、自らの手で。
「よかった」
 素直に、こぼしていた。
「君が無事で、本当に、よかった」
 空を見ていたキルリアーナの視線が、ゆっくりと、ロイスに動いた。悪戯っぽく笑って、右手を差し出す。わけがわからずにロイスが眉をひそめると、催促するように右手を揺らした。
「ムーン・バルなんだろ?」
 まさか、躍ろうというのだろうか。ロイスはまばたきを繰り返す。
「躍れるのか?」
「わけねえだろ。適当だ、こんなもん」
 ロイスは笑って、キルリアーナの手を返すと、下からそっと握った。エスコートするように、引き寄せる。
 聞こえてくる音楽に合わせて、右に、左に。形のない、揺れるだけのダンス。
「踏まれないようにするので精一杯だな」
「いうなよ、これでも気をつけてんだから」
 皮肉に返された言葉がいつになく真剣で、ロイスは笑みを漏らす。
 不意に、キルリアーナは動きを止めた。
 一拍遅れてロイスも止まり、見下ろす。
「どうした?」
「ロイス」
 呼びかけられ、どきりとした。
 こうやって真っ直ぐに名を呼ばれるのは、初めてかもしれなかった。ロイスは緊張しながら、はい、と間の抜けた返事をする。
「オレさ、たぶん、どっかで期待してた。あんたが助けに来てくれるんじゃないかって」
 いい慣れない言葉を紡いでいるのだと、わかった。キルリアーナは考えるようにしながら、一言一言、重ねていく。
「なんていうかさ……ボディーガードとかそういうんじゃなくて。ええっと……すごく、恥ずかしいこというけど、聞いとけよ。最初で最後だからな! なんていうか……」
 沈黙が落ちる。まるで告白でもされそうなこの雰囲気はどうしたことだろう。ロイスは思春期のころのように鼓動が速くなっていくのを自覚していた。恥ずかしいことをいうなどと宣言するのは卑怯だ。聞いている方まで恥ずかしくなってしまう。
「……あれだ。あんたはさ、オレにとって……仲間、とか。友だち、とかさ。そういうことだっていっても、いいんだよな、たぶん」
「……なんだって?」
 思わず聞き返していた。キルリアーナにしてみれば、愛の告白と同じか、それ以上のもののようだった。耳まで赤くなっている。熱が伝染していくようで、ロイスはどんどん気恥ずかしくなっていく。
「正直、初めはさ、うっとうしいとかほんと勘弁して欲しいとかとにかく邪魔とか、そういうふうにしか思ってなかったんだけど……」
「それはだいぶひどいな」
 そこまでとは思っていなかった。ロイスはかすかに落ち込む。
「いいから、最後まで聞け」
 キルリアーナは、ロイスのそれと比べてしまえばずいぶん小さな手で、ロイスの両手を握りしめた。
 祈るように、正面から、見つめる。
 深呼吸をして、その緊張した面持ちから、すっと力が抜けた。柔らかく微笑んで、口を開く。
「ありがとう」
 ロイスは初めて、キルリアーナの本当の言葉を聞いたような気がした。
 そこには、攻撃するための刃も、身を守るための盾も、潜んでいなかった。
「あと……これからも、よろしくな」
 少女らしく、笑う。
 もちろんだ。
 これからも、君を守ろう。
 君を苦しめるすべてから、守ると誓おう。君がずっと、本当の君でいられるように。
「…………キ……」
 その思いを口にすることも、名を呼ぶことも、叶わなかった。
 代わりに生温かいものが、口からこぼれた。
 大量の血。
 遅れて、衝撃。痛み。しかしそんなものは、ひどく些細だった。みるみる形を変えたキルリアーナの表情のほうが、よほど、重大だった。
 大丈夫だ。
 ロイスはそう伝えようとする。
 大丈夫だ、こんな傷、どうってことない。
 腹を押さえた。血が止まらない。
 自らの身体を貫いているのがなんであるのかも、もう見ることが出来ない。
 どうか、どうか。
「…………ル……──」
 泣かないで。悲しまないで。
 そんな顔は、君には似合わない。
「────────っ!」
 どこか、ひどく遠くで、悲鳴が聞こえたような気がした。