Elixir
第五章 奇跡の薬 3



 その町は、王都と呼ばれている。
 正式には、アルテイト・シティ。海に囲まれたこの国の西側に位置する。
 国が国であることを意識するのは、そこに他国の存在があるからだ。自分たちの暮らす土地が、海向こうからはアルテイトと呼ばれていることを知る人間は少ない。
 百年の間、この国は停滞している。
 それはつまり、平和であるといい換えることもできた。しかし、一切の進歩がないのも事実だ。
「衰退、というべきかしら」
 祈りの間に足を踏み入れ、サーラは笑った。
 ここでも、滑稽な光景を見ることができた。
 いままで幾度となく見てきた、病に打ち勝つための、祈り。
 形ばかりの儀式。
 病に苦しむ人間を治療院まで運び、やることが神頼み。笑いがこみ上げてくる。
 なんと愚かなのだろう。
 サーラは堂々と祈りの間を通り抜けていった。皆、自分のことで精一杯だ。目を留めるものはいない。
 掲げられた銀の杯を見ることもなく、祭壇のさらに奥へ進む。カーテンの向こう側の、隠された扉を開けた。
 階段を下り、無機質な通路を進む。祭壇からの道は、非常時のための抜け道だ。ほかにも入り口はあるが、サーラはここから入るのが一番気に入っていた。
 まるですべてを極めたかのような高みから、堕ちていく感覚。この落差がたまらない。意図したものではないのだろうが、あまりにも滑稽だ。
 やがて上への階段と、更に下る階段へと行き当たる。ここから先は、ランセスタ家の居住空間となっていた。治療院と屋敷とが地下通路で繋がっているのだ。屋敷へは向かわず、薄暗い階段を下っていく。
 質素なドアが見えた。
 サーラは立ち止まり、小さくノックする。
 しかし、返事は待たなかった。服の内ポケットから鍵を取り出し、ためらうことなくドアを開け、部屋へ入る。
 部屋の主は、眠っていた。幾度となくこの部屋を訪れたが、彼は眠っていることがほとんどだった。起きていても、ただぼんやりとベッドに横たわっているだけだ。ただ、そこにあるだけ。
 彼はなにも期待されていない。しかしそれでも、万に一つの望みをかけて、ここで生かされている。
 アクラス・ランセスタ。 
 生まれてからずっと、光の届かない地下室で暮らしている。
 眠る以外の活動を想定していない、ベッドとクローゼットのみの小さな部屋。ここを出入りするのは、時折訪れるサーラを除けば、専属のメイド一人だけだ。両親ですら、来たことはない。
 サーラはベッドに腰掛けた。眠るアクラスの足下から、彼を眺める。
 アクラスは目が見えない。足の筋力が弱く、自力で歩くこともままならない。
 彼の世界はおそらく、この部屋で完結している。数歩行けば突き当たる狭い部屋の、その端にすらたどり着くことはなく、眠り続けるベッドの色味を瞳に映すこともないのだ。
「……ああ、懐かしい匂いがする」
 アクラスの唇が、不意に言葉を紡いだ。
 動いたのは、それからだった。緩慢な動作で左手を持ち上げ、さしのべる。
 サーラは優しく微笑んで、その白い手を握りしめた。
「久しぶりね。元気?」
 残酷な問いだと、わかっていた。
 わかっていてあえて、そんな聞き方をする。
 元気なはずがない。彼が「元気」であったことなど、生まれてから一度もないはずだ。
 満足に動かない身体。
 見えない世界。
 サーラには、彼の存在意義がわからない。だからこそ、彼に興味を持っていた。
 なぜこうして、ここに在り続けているのだろう。一体、何のために。
 しかし、アクラスは笑うのだ。
「元気だよ。ぼくは、いつだって。知ってるだろう、サーラ」
 サーラは眉をひそめた。
 胸に広がる不快感。もしかしたらサーラは、アクラスが不幸になることを望んでいるのかもしれなかった。
 わからないのは、アクラスの存在意義だけではない。
 彼が笑っていることで、自分の存在している理由が、ひどくおぼろげになる気がしてならないのだ。
「そうね、知ってるわ。だからわたし、あなたが嫌いよ」
「ぼくは君が嫌いじゃないよ」
 はっきりと悪意を込めていったのに、アクラスはさらりと返す。サーラは数呼吸分黙り、反撃を試みた。
「あなたのお兄さんたちに会ったわ」
 ショックを受けるだろうと思った。ランセスタを継ぐ者として期待され、脚光を浴びながらも、自らの意志を貫いて家を去った、二人の兄。
 アクラスとは正反対の、日の当たる場所で生きる兄たち。
「とても自由で、とても元気そうだったわ。有り余る時間を無駄にして、まるで自由を謳歌しているみたいだった」
 アクラスがなにも答えないので、サーラは意地の悪い気持ちになる。ひどく優しげに目を細め、アクラスの手を撫でた。
「会ってみたい?」
 アクラスは、目が見えないということがわかった時点で、世俗から隔離されていた。兄弟の存在を聞かされてはいたが、同じ空間を共有したことはない。
 サーラには想像しかできない。しかし恐らくは、恨みや妬みといった感情があるのだろう。そうでなくては、おかしい。
 なぜ自分だけ、こんな扱いを受けているのかと。
「そうだね……会えるものなら、会ってみたいかな」
 アクラスは特に表情を変えなかった。それはまるで、弾いたコインで決めたかのような、気まぐれな返事だ。
 しかし、サーラは目を輝かせる。
「協力しましょうか? 彼らはきっと、ここへ来るわ」
 触れた手の甲に、唇を落とした。
「望みをいって。わたし、なんでもしてあげる。あなたの望むことを、なんだって叶えてあげたいの」
 嫌いと告げたその口が、甘い言葉を形作っていく。
 アクラスは動かなかった。その静かな表情の奥で、どんな感情が動いているのか、サーラにはうかがい知ることができない。
 サーラはここを訪れるたびに、あらゆることをアクラスに伝えていた。この国のこと。ランセスタのこと。パジェンズのこと。いまはもう無知ではないアクラスが、なにも望まないなどということは、ないはずだった。
 好機であるはずだ。
 手の届く場所に、兄たちが来るのだから。
「なんだって、叶えて?」
 確認したというよりは、ただ繰り返すような問い。サーラは笑む。
「そう。なんだって。お兄さんたちに会うことなんて、簡単だわ。いまはまだ無理だけれど、あなたの足を治すことも、目を治すことも、きっとできるようになる。それに……そうね、たとえば、お兄さんたちを消してしまうことだって」
 冗談のように小首をかしげて、いう。アクラスは目尻を下げた。見えていないはずのその瞳が、サーラを捉える。
「じゃあ、お願いしようかな」
「なにを? 治すの? それとも、消す? なにが欲しいの?」
 邪気のない笑みを作り上げてすかさず問うと、アクラスは考えるようにして黙った。
「そうだね……」
 長い沈黙。その瞳が、まだサーラを向いている。
「ぜんぶ」
 アクラスはいった。なんでもないことのように、まったく声の調子を変えないままで。
「君の出来うる限りの、ぜんぶを。ぼくに、くれるかな」